彼と結婚してもうすぐ一年が経とうとしていた。
 家事の要領も良くなり、平日はほとんどわたしが食事の支度をするようになった。
 週末の二日間は、純平が作ってくれたり、外食に行ったり。

 彼は、いつ子どもが出来てもいいと思っている。
 だから、避妊なども一切していない。
 それなのにどうしてだろう。
 クリスマスを目前に控えた頃になっても、一向に子どもが出来る気配は無かった。
 結婚して半年くらい経った頃、一度産婦人科で検査してみたいと純平に申し出た。
 だけど彼は、焦る事はないから、自然に任せようと言った。
 わたしも病院に行って悪い結果が出て落ち込みたくなかったから、そのままにしていた。

「安田さん、もうすぐ産休ですね」
「うん。でも、心配だわ。このわたしがお母さんになるなんて信じられない。大丈夫かしら」
「大丈夫ですよ」

 かなり大きくなったお腹に手を当てて、愛おしそうに撫でている安田さんは、すっかりお母さんの顔をしている。
 年始の立食パーティの席でプロポーズされ、その場で返事をしなかった安田さん。
 ところがその後妊娠している事がわかった彼女は、授かり婚で籍を入れた。
 彼女は、わたし達より少し結婚するのが遅かったのに、先に子どもが出来た事が、わたしを傷つけているんじゃないかと心配していた。
 わたしの過去を知っているから。
 確かに、街で小さな子どもを見かけるたびに何も思わずにいられるかといえば嘘になる。
 過去に命を粗末にしようとしたわたしの所になんか、来てくれる赤ちゃんはいないのかもしれないと思ってしまう事もある。
 それでも、純平との子どもが欲しい。
 体に支障があって、産めないのなら仕方ない。
 その時は諦める。 
 よし。
 やっぱり検査に行ってみよう。

 それから数日が経った。

「お疲れ。2人とも今日は終わるの早いじゃない」

 わたしとめぐみが更衣室で着替えていると、少し遅れて奈々美がやって来た。
 年末が近づき、仕事の方も落ち着いた。
 今日は定時で上がる事が出来た。
 奈々美が着替え終わるのを待ち、わたし達は会社を後にした。
 今日は三人で忘年会。
 純平はおとといから出張に行っていて、明日しか戻らない。
 なので、女三人ゆっくり話せる。

「ところで奈々美、まどかちゃんは?」
「うん? 大丈夫。預けて来たから」
「ご実家に?」

 今年の夏、奈々美のお父さんが倒れた。
 胃癌だった。
 それでも初期だった為、患部を切除して経過は良好。
 病気になって気が弱くなったのか、それとも勘当した娘に会いたいと思ったのか、お母さんを通じて呼ばれたらしい。
 お父さん-----もちろんお母さんも-----は孫の顔を見た途端、その可愛らしさに胸を撃ち抜かれたらしい。
 奈々美は、前もって「じーじ、ばーば」を教えていたそうで、またしても絶妙なタイミングでそう呼ばれたご両親が、疎遠になっていたのも忘れて、奈々美を温かく迎えてくれたそうだ。
 やっぱり孫の力って凄い。

「ううん、ちょっとね。後で話すわ」

 と言う事で、めぐみと奈々美、そしてわたしの3人は駅の近くの居酒屋に入った。
 まだ早い時間だったので、予約無しで個室を使わせてもらえた。

「とりあえずビール」
 
 そう言って、早速その場を仕切り出すめぐみ。
 彼女に任せておけば、何も考えず美味しい料理とお酒が味わえる。
 と言っても、彼女が素面の間だけだけど。

「それじゃ、今日もお疲れ様でしたー」

 グラスが音を立てた。
 琥珀色のビールが喉に流れ込んでいく爽快感は、いつ飲んでもたまらない。

「あー美味しい!」
「うん。やっぱり最初の一杯はたならないね」
「美味しい!!」

 めぐみが頼んでくれた料理をつまみながら、誰にも気兼ねなく女子トークに花を咲かせる。

「で、めぐみ、彼氏とは上手くいってるの?」

 実は3ヶ月前。
 めぐみに彼氏が出来た。
 彼女が仕事帰りに立ち寄るコンビニで、いつも顔を合わせていた店長さん。
 その日も、おにぎりと次の朝のパンを抱えてレジに行った。
 すると、そこに立っていた店長さんが、レジ袋にサラダを入れようとした。
 そこでめぐみが「それ買ってませんけど」と言うと、店長さんは「あなたはいつもおにぎりとパンを買ってますよね。一緒に野菜も摂った方がいいですよ。これ、僕からのプレゼントです」ってくれたそうだ。
 それから親しく話すようになり、3カ月前に付き合う事になった。
 今でも、毎日コンビニに寄って帰るそうだ。

「うん。仲良くやってるよ。彼、夕方からの仕事でしょ。だから時間帯が合わないんだけど、コンビニに行けば毎晩会えるし、休みの日はちゃんとデートしてくれるんだ。彼さぁ、ずっと前からわたしの事が好きだったんだって」
「へぇ~」
「告白されるまで、レジで対面する時は何も考えて無くて素のわたしだったでしょ? だから、飾らないわたしを見て好きになってくれたんだったらそっちの方が気が楽よ。最初に猫かぶってたら、化けの皮がはがれた途端、捨てられるかもしれないでしょ?」
「めぐみは大丈夫よ。普段からきちんとしてるし、面倒見はいいし」
「そうかな~」

 めぐみは嬉しそうに笑いながら頭を掻いた。

「で、奈々美、まどかちゃんは誰に預けたの?」
「えっ? う、うん。それがね……」

 ちょっと迷った表情を見せた奈々美だったけど、意を決したように口を開いた。

「実はね。彼に預かってもらってるの」
「彼? 奈々美、彼氏出来たの?」

 びっくりだった。
 そんな報告は受けていなかったから。

「彼氏というか、まどかの父親」
「それって……」
「黙っててごめんね。言おうかどうしようか迷ってたの。毎月のお金は貰ってた。清美が言ったように、まどかが大きくなったらお金かかるから、貯金するためにね。でも、やり直す気にはなれなかった」
「あの時の女は?」
「ちゃんとけじめつけてくれたよ。そして、きちんとした会社に就職した。彼ね、まどかの父親として恥ずかしくないように生きるから、結婚して欲しいって言って来たの」
「結婚?」
「で、オッケーしたの?」
「まだ返事はしていない」
「どうするの?」
「迷ってる。一人で育てるって決めたでしょ。なのに彼に頼るのはいけない気がしてる」
「そんな事はないと思う」
「清美?」
「そりゃ、最初の出会いを考えたら、その人と結婚して上手くいくんだろうかって心配にはなるよ。でも、彼変わろうと努力してくれてるんでしょ? まどかちゃんの事も可愛がってくれてるんでしょ?」
「うん。まどかの事は、本当に可愛がってくれている」
「だったら、信じてもいいんじゃないかな?」
「わたしも同じ。前に話を聞いた時は絶対反対だと思っていたけど、変わろうとしている彼の気持ちは否定出来ない。もう一度信じてみてもいいと思う。それでまた何か奈々美を傷つけるような事をしたら、わたし達二人で半殺しにしてやるよ」
「めぐみったら」
「奈々美一人でも育てられるとは思うよ。世の中、頑張ってるシングルマザーはたくさんいるんだから。でも、彼が一緒になる事を望んでくれているんだったら、もう一度やり直してもいいんじゃないかな?」
「そうね。ありがとう。清美、めぐみ」
 奈々美は、胸に迷いが吹っ切れたように、テーブルにあった大きなからあげを口に放り込んだ。

「すみません。ビールお代わりお願いします!」

 めぐみが飲みモードに入った。
 これはまた送って行かなきゃいけないパターン?
 めぐみが酔う前に、わたしの事も聞いてもらおう。

「あのね。わたしなかなか子どもが出来ないじゃない。だから、病院で調べてもらおうと思ってるの」
「病院?」
「何か原因があるのかなって。それとも、やっぱり昔の罰が下ってるのかなって」
「そんな事無いよ。過去の事なんか関係ない。絶対に無い」
「奈々美?」
「もしそうなら、わたしだってまどかを授からなかったよ。過去がどうであれ、その後一生懸命に生きたのなら、絶対幸せになれるよ。清美、頑張ってるもん。こんなわたしを許してくれたし、毎日頑張って生きてるじゃない」
「そうね。今がどうかが大事だよね」
「そうだよ。時は止まってくれない。そのまま過去に留まってたら、今を生きられないよ。清美はちゃんとここにいる。わたし達と、今を生きているんだよ」

 今を生きている。
 その言葉が胸に響いた。
 過去に何があろうと、今、この瞬間を一生懸命生きたらいいんだ。
 子どもが出来なくても悲しむ必要は無い。
 生きている事が素晴らしい事なんだって気づかされた。

「ありがとう。もうくよくよしない。わたし達、今を生きてるんだもんね」
「そうそう。さあ、清美ももっと飲んじゃえ!」

 店を出たのは午前0時を回ってからだった。
 めぐみの肩を両方から抱え、彼女の彼氏が働いているコンビニの前に差し掛かる。
 するとレジにいた彼が慌てて外に出てきた。

「めぐみ?」
「今晩は。わたし達三人で飲んでまして、めぐみはこの有様です」
「すみません。ご迷惑を掛けて。あ、ご挨拶がまだでした。僕はここで働いております、横沢和明と言います」
「めぐみから聞いてます。彼氏さんですよね?」
「はい。あの、本来なら僕が送って行かないといけないところですが、あいにく店を空ける事が出来なくて」
「ああ、いいですよ。わたし達が連れて帰りますから」
「すみません」
「では」
 
 その間、めぐみの重たい瞼は開く事は無かった。
 それでも何とか足は動かしているんだから不思議だ。
 完全に無意識だと思うんだけど。

 彼女の家に着いた。
 バッグから鍵の在り処を探すのに少し手間取った。
 その間奈々美一人に支えてもらっていたけど、後ろへ前へと旗が揺れるようにゆらゆらしているめぐみにハラハラした。

 部屋に上がり、服を脱がせてベッドに寝かせる。
 鍵を閉め、ドアポケットに落としてその場を離れた。

「明日、休みで良かったね」
「本当。きっとめぐみ、二日酔いになるね」
「でも、今日は本当に楽しかった。いろんな話が出来たから」
「わたしもよ。奈々美、ありがとね。わたし元気が出たよ」
「お互い、これからも頑張ろう」
「そうだね」

 それから奈々美は、彼氏のアパートに向かった。
 わたしも、自分の家へと帰る。
 純平がいない部屋は静かで寂しかったけれど、今日はとても心が穏やかだ。
 奈々美達に、子どもの事で悩んでいた気持ちを聞いてもらって、励ましてもらったせいかもしれない。
 それまでの不安がわたしの中から姿を消した。
 前向きな力もわいてきている。
 二人がいてくれて良かった。
 本当に良かった。