十月十日、月曜日。
 一ヶ月振りの本社出勤だというのにあいにくの雨。
 何だか幸先悪いな。
 だけどまた、純平さんが迎えに来てくれる。
 彼の顔を見たらこのどんよりとした気持ちも晴れるはず。

 会社に持っていくお土産も準備した。
 作業服も綺麗に洗ってカバンに詰めた。
 
 母が作る朝ごはんを食べ、もうそろそろかなと靴を履く。

「それじゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい。今日の夜も純平くんの所?」
「今日は真っ直ぐ帰って来るよ」
「それじゃ、夕飯用意して待ってるわ」
「ありがとう」

 玄関の扉を開ける。
 門の向こうに、見慣れた車が停まっていた。
 純平さんだ。
 やっぱり迎えに来てくれた。

 短い距離なので傘をささずに車まで駆け抜けた。
 そこまでひどくは降ってはいない。

「おはよう」
「おはよう。何で傘ささずに来たんだよ。ほら、髪の毛濡れてるじゃないか」
「このくらいすぐ乾くわよ」
「ほら、これで拭いて」
「ありがと」

 彼がくれたタオルで頭を押さえる。
 そんなに濡れてないと思うけどな。

「疲れ取れた?」
「うん。まだ若いですからね」
「俺もまだあと三ヶ月は二十代だからな」

 むきになってそう言う純平さん。
 そうか。
 あと三ヶ月したら三十歳になるんだね。
 落ち着いているけど、顔だけ見たらまだ二十代の真ん中くらいには見える。
 そんな彼が三十路を迎えるなんて信じられない。

 駐車場に着いた。
 丁度安田さんの赤い車も入って来たところだった。

 わたし達より少し遅れて車から降りて来た安田さんは、相変わらず女性らしい衣装を身にまとい、化粧にも抜かりは無かった。
 安田さん、綺麗だな。
 怖いと思っていた頃が嘘のように、親しくなると見る目も変わるものである。

「あら、小田さん、久しぶり~」
「安田さん、お元気そうですね。それから相変わらずお綺麗です」
「ありがとう」
「そうか~?」
「ちょっと純平、それどういう意味よ」
「いや、そう言えば前より優しい顔になったかもな」
「失礼ね。わたしは白黒はっきりしてるだけよ。誰かれ構わず攻撃してるわけじゃないわ。でもね、小田さんと出会って、確かに前より人に優しく出来るようになった気がする」
「それは何よりだ」
「安田さん、あとでお土産持って行きますね」
「本当? 嬉しい」

 経理部の人達用とは別に、前にご馳走になったお礼もしたくて、安田さん用のお土産も買っている。
 三人でエレベーターの前まで行くと、後ろから聞き慣れた元気な声が聞こえて来た。

「清美。お帰り!」
「ただいま~。また今日から宜しくね」
「もちろんよ。あなたがいなくて、倉庫大変だったんだから。今日からその埋め合わせに人一倍働いてもらうからね」
「わかってるって」

 更衣室で、安田さんとめぐみ、それそれにお土産を渡す。
 そして安田さんには経理部の分を預けた。
 総務部へのお土産は、既に純平さんにお願いしてある。
 奈々美にも買って来た。
 純平さんとの一件があって、渡すかどうか迷ったけど、せっかく用意したので後で渡すつもり。
 奈々美にっていうよりも、まどかちゃんにって言った方がいいね。
 包みの中には、くまのぬいぐるみが入っているから。

 朝礼で、みんなに挨拶をする。
 今日からまた皆さん、宜しくお願いします。

「小田さん、さっそくだけどちょっといいかな?」

 石原部長に呼ばれ、奥の部屋に入る。
 ちょっとまさかまたどこかに出向なんて事、無いでしょうね?

「失礼します」
「そこに座ってくれ」
「はい」

 向かいの席に腰を下ろす部長。
 何だか緊張した。

「鹿児島出向、ご苦労さん。どうだった? 上手くいったか?」
「はい。鶴田さん、とても覚えが良くて助かりました」
「林田の様子はどうだった?」
「部長がおっしゃったように、最初は本当に別人のようでした。でも、すぐに元の林田くんに戻ってくれました」
「そうか。小田さんと仲が良かったからな。君が行ってくれるといい具合に風向きが変わるんじゃないかと思っていたんだ。良かったよ」
「はい。鶴田さんもいるし、彼女にだったら彼を任せられます」
「そうか。ところで」

 止めて!
 やっぱりまたどこかに出向?
 いやいや今度は絶対断りますよ。
 これ以上純平さんと離れたら、わたしの方が鬱になりそうです。

「何でしょうか」
「来春新人が入って来る予定だが、その子達の研修を君に任せたいと思っている」
「えっ?」
「何人入るかまだ決まってはいないのだが、とりあえず部署決めの前に全員倉庫で研修してもらおうと思うんだ」
「はい」
「そこで、君に倉庫の仕事を教えてもらいたい」
「わかりました」
「そうか。引き受けてくれるか。いや、良かった。鹿児島に行く前はわたしには出来ませんみたいなオーラが出てた気がするんだが」
「はい。確かにそうでした。でも、向こうで仕事を教えるうちに、楽しいって思えてきたんです。自分でも驚きです」
「一ヶ月の間に、成長したな、小田さん」
「はい」
「よし、それじゃ、それまでにまた細かい打ち合わせがあると思うから宜しく頼むよ」
「はい。それじゃ、仕事に戻ります」
「ああ」

 良かった。
 出向じゃなくて。
 それから、やってみたいなと思っていた仕事が出来るなんて、すごく嬉しい。
 お昼に、純平さんに報告しなきゃ。
 
 と言う事で、お昼のチャイムが鳴るとすぐに、めぐみを誘って食堂に向かう。
 廊下から純平さんの事務所を覗いたら、奈々美と何やら楽しげに話している彼の姿があった。

「清美、大丈夫?」
「何が?」
「あなたがいない間、あの二人わりと一緒にいる事が多くてさ。もう椎名さんが教える事は終わったんでしょ?」
「でもまあ、わからない事が出て来るんじゃないの? 総務の仕事って大変そうだし」
「けっこう平気なんだ」
「えっ?」
「ああいうの見たら、嫉妬するかと思ってた。だから、あなたが鹿児島に行ってる間は黙ってたのよ」
「ありがとう。気を遣ってくれて。まあ、確かに嫉妬したよ。だって、土曜日の迎え遅れて来たんだよ、純平さん。その理由がまどかちゃんを病院に連れて行ってたからって言うじゃない。おまけに、彼の家にいる時、奈々美から電話が来たんだ。お礼の電話だったんだけど、それでもいい気持ちはしなかった」
「そんな事があったの?」
「でもね、朝になったら気持ちもすっきりしてた。だから、もういいの。奈々美の事でもう嫉妬したり心配したりしない」
「わかった」

 食堂で待っていると、少し遅れて純平さんと奈々美がやって来た。

「清美、お帰りなさい。ごめんね、土曜日あなたの迎えがあったのに、椎名さんの好意に甘えてしまって」
「ううん。まどかちゃん、もう大丈夫?」
「うん。もう痛みも引いたみたい。いつもと変わらず元気に保育園に行ったわ」
「そう。良かった。そうそう。はいこれ」
「えっ?」
「鹿児島のお土産。まどかちゃんに渡して」
「いいの?」
「気に入ってもらえるといいんだけど」
「ありがとう!」

 良かった。
 彼女の顔を見て普通に話せるか不安だった。
 でも大丈夫だったよ。
 
「純平さん、さっき部長から呼ばれたんだけどね」
「えっ! まさかまたどこかに出向なんて事は無いよな?」
「わたしも同じ心配しちゃった。でも大丈夫。あのね、来春入って来る新入社員の倉庫業務の指導を頼まれたの」
「それで、引き受けるの?」
「うん」
「清美、変わったな。出会った頃の不安そうな感じが今は全然無くなってる。それどころか、自信を持って働いているよ」
「そうね。わたしが知ってる清美も大人しくて影に隠れている子だった。そんな清美の事、守るどころかいじめて辛い目に遭わせるなんて、本当にどうしようもない女だったわ。めぐみさんみたいに、あなたを守ってあげられる存在だったらどんなに良かったか。今更こんな事言っても遅いけどね」
「奈々美だって辛い目に遭ったでしょ。だから、もう昔の事は忘れましょ」

 四人で食事をしながら鹿児島での出来事を話す。
 純平さんには蒸し返して欲しくない話題だろうけど、林田くんの一件についても話した。

「椎名さんがねぇ」

 純平さんが林田くんを殴った事を話したところで、めぐみは信じられないと言ったような顔で彼をマジマジと見つめていた。
 そうでしょう。
 わたしも未だにあれは夢だったんじゃないかと思うくらいだもん。
 温厚な彼の激しい一面は、ちっとも現実味を帯びていない。

「まああれは何ていうか、軽い嫉妬? 誰でも好きな女が関係ない男の部屋で寝ているところを見ちゃったらカッとくるだろ?」
「軽い? あれ、林田くんが訴えてたら大変な事になってたと思うよ?」

 でもね、気持ちはわかる。
 わたしだって、純平さんと奈々美が仲良くしてたら嫌な気持ちになったから。
 だけど、相手を信じていたら、きっと何とも思わないんじゃないのかな?
 うん?
 という事は、わたしも純平さんも本当には信じ合っていないって事?

「清美、どうかしたの?」

 わたしの態度に気づいたのか、めぐみが顔を覗き込んでいた。

「ううん、何でもないよ」
「もしかして、わたし、椎名さんから信じてもらってないのかな? 何て考えてる?」

 めぐみ、鋭い。
 何でわかるの?

「その顔は図星だね」

 観念して頷く。

「別にそれ、普通だと思うよ。信じ合っていても、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、嫉妬しても仕方ないと思うよ」
「めぐみちゃん、本当に清美と同じ年かい? 何か、既に悟りの境地だね」
「恋多き女性と言ってください。清美とは経験値が違いますから」
「マジ?」
 
 そう言えば、わたしこの会社に入ってめぐみと親友になって、彼女の事なら何でも知っている気でいたけど、過去の恋愛話は聞いた事が無かった。
 今は彼氏がいないって事はわかってるけど、こっちに林田くんがいた頃は、本当に二人は仲が良かったから、どうしてこの二人、付き合わないんだろうって思ってた。
 付き合ったらってけしかけた時も、二人揃って話題を逸らしたし、過去に何かあったのかなとは思ってたけど、それ以上は聞けなかった。

「清美、ごめんな。林田の事では俺が嫉妬してしまったけど、逆に奈々美ちゃんの事では君を傷つけたよね? でもさ、まどかちゃんを見るとダメなんだよね。どうしても放っておけなくてさ」
「いいよ。わかってるから」

 もういいの。
 それがあなたの良さなんだよね。
 困っている人を見ると、つい助けたくなる。
 それが純平さんの魅力なんだ。
 だからと言って、わたしを裏切るような事は絶対にしない。
 信じてる。
 わたしもあなたを裏切るような事はしないよ。

「清美、本当にごめん。椎名さんを頼るのはやっぱりダメだった。これからは一人で頑張るから」
「奈々美、いいよ。純平さんが助けたいと思ってるんなら、それに甘えて。奈々美の大変さはわたしもわかってる。だから、男の人の助けがいる時には、純平さんを頼って」
「いいの?」
「うん」