土曜日。
いつものように純平さんのマンションに泊まって、天気が良いから公園に散歩に出た。
車で二十分ほどの、市内で一番大きな公園。
遊具があり、小さな子ども達を遊ばせるのに最適な子ども広場、野球などが出来る運動広場、ウォーキングする人の為に作られた歩きやすい小道、アスレチックゾーンまである。
その中の小道を、純平さんと手を繋いでゆっくり散策。
木漏れ日が、夏の暑さを和らげさせてくれていた。
「奈々美の子ども、熱下がったかな?」
「大丈夫みたいだよ。土日が入るので、月曜日からは出社出来るんじゃないかな」
「そう」
「彼女の事、気になる?」
「そんなんじゃないけど、子どもが病気をする度に休まないといけないのは大変だなと思ってね」
「そうだね。総務の牧下さん知ってるだろ?」
「うん」
「彼女も今では支障無く働いてるけど、清美が入社する前、そうだな三、四年前かな、子どもがまだ保育園に行ってた頃は同じようによく休んでたんだ。一時は迷惑掛けるから辞めたいって言ってたんだけどね、みんながフォローしてくれて、何とか乗り切ったんだよ。小学校に上がったら、子どもって強くなるから、今では呼び出しが掛かる事も無いみたいだ」
「そっか。それじゃ、奈々美も後何年かの辛抱だね」
「そうだね」
子ども広場に出て来た。
そこには大勢の家族連れの姿がある。
いつかわたしも仲間入り出来るのかな。
「あれっ? 奈々美ちゃんだ」
「どこ?」
砂場の淵に腰掛けている彼女を見つけた。
その中で小さな女の子がバケツとスコップを持って遊んでいる。
「奈々美ちゃん」
純平さんが駆け寄る。
わたしはその後をゆっくりと歩いて近づいた。
振り向いた彼女がパッと笑顔になる。
その目は純平さんに向けられていて、後ろにいるわたしに気づいた途端翳りを見せた。
「その子が奈々美ちゃんの?」
「はい。娘のまどかです」
「まどかちゃんか、可愛い名前だね。まどかちゃ~ん」
そう言うと、純平さんは奈々美の子どもを抱っこした。
「初めまして。純平お兄ちゃんだよ」
お兄ちゃんだって。
この子から見たら、もうおじさんなんじゃないかな。
あ、て事は、わたしもおばさん?
いやいや、わたしはまだお姉ちゃんでいける!
「もう具合は良いの?」
わたしの問いに、やや引きつった笑顔を見せる奈々美。
「おかげ様で、昨日熱も下がった。その途端これよ。外で遊びたいみたいだったから連れて来たら、全然帰ろうとしなくて」
「そうなんだ。だけど、人見知りしないんだね。純平さんに抱かれても泣かないなんて」
「普段は泣くのよ。でも、子どもながらに椎名さんの優しさがわかるんじゃないかしら?」
そんな事ってあるのかな?
そう言えば、犬も犬好きな人とそうでない人がわかるっていうから、有り得るかも。
純平さんは、まどかちゃんを抱っこしたまま、少し離れた滑り台の所に行った。
「清美、椎名さんと付き合ってもう長いの?」
「ううんまだ二ヶ月も経ってない」
「そうなの? 何だ。もっと長いのかと思ってた」
「そんな風に見える?」
「こうして会社の外で会うのは初めてだからよくわかんないけど、お似合いのカップルだと思う」
「ありがとう」
「ねえ清美、こないだ聞いて欲しい事があるって言ったでしょ。やっぱり無理かな?」
そう言えばそんな事言ってたっけ。
一体何を話したいのだろう。
謝罪ならもう必要無い。
もう一度友達になって欲しいと言われても受け入れられない。
でも、話を聞くくらいなら、いいのかな。
「いいよ」
「ありがとう」
そう言うわけで、わたしは定時で上がれた日に、彼女の話を聞く事にした。
場所は彼女の家。
保育園のお迎えの時間が決まっているので、それが終わってからしか会えない。
しかも、人前では話しにくい内容みたいなので、家までついて行く事になった。
まあその方が、子どもも安心だしね。
お迎えが終わって、そのまま彼女がいつも立ち寄ると言うスーパーで買い物。
そこで夕方になって割引のシールが付いた惣菜などを買い込む。
純平さんに、彼女に会うと言ったら心配された。
昔、いじめた張本人と会うのだから。
わたしの精神状態を心配しての事だ。
でもね。
何故だかもう、彼女を見ても動揺しなくなったし、普通に話せるようになったんだ。
シングルマザーとして、仕事と育児に奮闘している姿を見ちゃったからかな。
わたしには真似出来ないと、一目置いちゃったからかな。
めぐみにも心配された。
自分もついて行って、何かあったらぶっ飛ばしてあげようか? って。
「どうぞ」
そこは、一軒の古びたアパートだった。
一階の一番手前の部屋。
扉の横にある窓の、防犯の為の鉄格子の塗料が剥げて錆びていた。
中は、綺麗に片ついていた。
と言うより、あまり物が無かった。
「お邪魔します」
「ごめんね。びっくりでしょ。物が無くて」
「ううん。その分掃除がしやすそうでいいんじゃない?」
「テレビも買う余裕が無くてさ」
元旦那さんの所からは、何も持って来なかったのが伺われる。
本当に、彼女の私物だけと言ったようなイメージだ。
何だか可哀想だな。
離婚するにしても、可愛い子どももいるんだし、少しは用意してくれたっていいじゃない。
「お腹すいたね。先に食べようか?」
「そうだね」
「ちょっと待ってて。ご飯を解凍して来るから」
そう言うと彼女は、冷凍室からラップに包んだご飯の塊を二つレンジに入れた。
「わたしね、ご飯って一度にたくさん炊いて冷凍しておくんだ。そっちの方が電気代が安くつくかなと思って。レンジ使うからそんなに得じゃないかもしれないけどね」
「そうなんだ」
うちはお母さんが毎回炊いてくれる。
朝もほかほかだし、夜もほかほか。
お昼は朝の残りを温めて食べているみたいだけど――お母さん一人だし――家族の為には出来立てを用意してくれる。
それが当たり前だと思っていたけど、そうじゃない人もいるんだね。
「ごめん。買って来たおかず、出しといてくれる?」
「うん、わかった」
袋を扱っていると、まどかちゃんが近寄って来た。
どうやら袋の中身が気になるようだ。
小さな手が伸びて来て、予想以上の力で袋を引っ張る。
「わっ」
「まどか、ダメよー」
お皿とお箸を抱えた奈々美が近づいて来る。
まどかちゃんは、ダメよと言われたからか、袋から手を引っ込めた。
まだ一歳なのに、よくわかるなー。
「惣菜も温めて来るね」
「ああいいよ、わたしがするわ。奈々美はまどかちゃんについていてあげて」
「ごめんね」
ご飯が温まると、それと入れ替えに惣菜のパックを入れた。
一分くらいでいいかな?
「あちちちっ」
ラップのご飯をテーブルに運んだ。
そのテーブルもまた、折りたたみ式の小さなテーブル。
二人分の食事をのせたら余裕が無い。
「ちょっとまどかのオムツ替えて来てもいい?」
「どうぞ。その間にこっちは準備しとくよ」
「ありがとう」
奈々美は、隣の部屋に行って、床に敷いたマットの上でオムツを替え始めた。
わたしは、彼女が戻ったらすぐに食べられるように準備をする。
もしわたしも結婚して赤ちゃんが出来たら、奈々美みたいにお世話しないといけないんだね。
まだ全然そんな準備出来てないな。
わたし自身がまだ子どもだし。
奈々美、偉いな。
どうして奈々美、わたしをいじめたんだろう。
あの頃の事が嘘に思える。
ここにいる奈々美は、優しいお母さんだ。
「お待たせ」
まどかちゃんを抱っこした彼女が戻って来る。
「それじゃ、食べようか」
「先に食べてて。まどかに食べさせるから」
「わかった。それじゃ、頂きます」
先に食べさせてもらう。
お腹が減っていたから美味しい。
「奈々美、うちの会社に入る前は、どこで働いてたの?」
「小さな印刷工場よ。そこ、託児所もあって働きやすかったんだけど、倒産しちゃって。その後は失業保険を貰いながらいくつか面接受けたんだけど、やっぱり小さな子どもがいるとなかなか決まらなくて」
「そう。その点、うちは働きやすいと思うよ。倉庫にもママさん社員たくさんいるけど、子どもの病気とかで休むとなったら、その人の分まで頑張るってモードになるからサポート体制もばっちりだしね。人が少ないとキツイけど、その人が戻ったら、休んでた分まで働いてくれるの」
「誰かに親切にしてもらったら、自分もお返しするって感じなのね。いい職場に入れて良かった」
まどかちゃんの食事が終わると、今度は奈々美が食べ始める。
まどかちゃんは、おもちゃで遊び出した。
「早速だけど清美、話を聞いてくれる?」
「うん」
「実はね、離婚したって言ったけど、あれ、嘘なの」
「えっ? どう言う事?」
意味がわからなかった。
まだ結婚してるって事?
それとも……
「わたしね、清美が学校を辞めてからすぐ、彩香の標的に変わったの。今度はわたしがいじめられる側」
「嘘でしょ?」
「わたしもそう思ってたわ。だって、彩香に気に入られてると思ってたから。グループの中でも、自分が一番彩香の傍にいるって思ってたから」
結局彩香は、わたしというはけ口がいなくなり、それでいじめを止めるという人では無かったんだ。
常に誰かをいじめておかないといけない人だったんだ。
怒りがこみ上げてきた。
どうしてそんな事をするんだろう。
「ある日、彩香がわたしに会わせたい人がいるって言ったの。その人に会ってくれたら、もういじめないって。だからわたしは素直に従ったわ。そして、彩香から教えてもらった場所に行くと、若くて不良っぽい男がいた」
彼女は、その時の事を思い出したのか、少し青ざめた顔色になり、箸を下ろした。
「わたしね、そいつから乱暴されたの」
「えっ……」
「一度じゃない。彩香に言われるたびに、そいつの所に行った。約束通り、彩香からのいじめは無くなったわ。だから、断ってまたいじめられるのが怖かったのよ」
「だからと言って、好きでも無い男と関係を持つなんて」
「そうね。今考えたらバカだった。でも、そいつも、二回目からは優しくなってね。彼女がいるって知ってたけど、わたしを抱く時は愛してるって言ってくれた。その言葉がわたしに魔法を掛けたの」
そんな事ってあるんだろうか。
乱暴された男を好きになるって。
「そして、三年生になってしばらくして、妊娠してる事に気が付いた」
「それじゃ、まどかちゃんのパパって……」
「その男よ。わたし、その人に言ったの。妊娠したって。そしたら彼、困った顔してしばらく悩んでた。そして、産むつもりかって聞いて来たので、産みたいって言ったの」
「そしたら何て?」
「わかった。それじゃ、彼女と別れるからしばらく時間をくれって。嬉しかったわ。彼女よりわたしを選んでくれた事が」
「で、彼と一緒に?」
「家出して、しばらくその人の家から学校に通った。彩香にも、彼から妊娠した事伝わったみたいで、これからどうするのかって聞かれたわ。このまま学校に通うわけにはいかないんじゃないかってね。それでわたし、退学したの」
「学校、辞めたのね」
知らなかった。
元気に高校に通っているとばかり思っていた。
そして、卒業したら大学に行き、十九歳の今は、キャンパスライフを楽しんでいるんだろうなと思っていた。
それが彼女の夢だったから。
「わたし、中学の時に話したよね。高校卒業したら大学に行って、高学歴のいい男を見つけて結婚するんだって」
「言ってたね」
「有言実行。それがわたしのポリシーだったのに、あの男に見事に崩されちゃったよ」
「どうして結婚しなかったの? その人、奈々美を選んでくれたんでしょ?」
「それがさ、学校を辞めて彼と暮らし始めて、彼の収入に頼る事になったわけじゃない。わたし、産むまで働けなかったし」
「うん」
「そしたら彼、自分の遊ぶお金が足りなくなったわけよ。わたしを食べさせないといけなくなったから」
「それは仕方ない事でしょ? 誰でもそうじゃん」
「だけど、彼はそれが嫌だったみたいで、ある日出て行ったっきり戻って来なかった」
「そんな……」
「家の家賃も払えない、公共料金も払えない。ご飯も食べられない。もうどうしようも無くなって、実家に戻ったの」
「それで?」
「父に、すぐに堕ろっせって言われた。でも、もう堕ろせない時期に入ってたの。そしたら今度は父がわたしのお腹を蹴ろうとした」
「何て事を……」
「この子を守らなきゃ。その一心でわたしはまた家を飛び出した。でもね、その時こっそりお母さんがお金を持たせてくれた。今はこれしか無いけど、お父さんが仕事に行ってる昼間に戻って来なさい。用意しておくからって」
「お母さんは味方になってくれたんだ」
「うん。それからお母さんは、親戚の人に頼んでくれてね。わたしはそこで暮らし始めたの。お金は、時々お母さんが持って来てくれた」
「そうなんだ。そして、まどかちゃんが生まれたのね」
「うん。でもね、その事がお父さんにバレて、お母さんが暴力を受けてね。もう援助もしてもらえなくなったの。親戚の家にもいられなくなった」
「そんな……」
わたしだったら産めない。
ひとりで育てていかなくちゃいけないってわかっているのに、産む勇気は無いよ。
だけど、堕ろす事も出来ない。
折角授かった命の炎を消す事は出来ない。
彩香が悪いんだ。
わたしの時もそう。
そして奈々美の時もそう。
彩香さえいなければ、わたし達の人生は違っていた。
そう思うと、彼女への憎しみで胸が一杯になった。
「彩香だけは許せない」
「わたしもよ。だけど、わたしがいけないの。自業自得なのよ」
「これは、自業自得の域を超えてるわ。確かに、あなたの事も恨んでた。あなた達からいじめられなければ、死のうとも思わなかっただろうし、もっと楽しく過ごせたはず。だけど、こんな罰は望んでいない。ひど過ぎるよ」
「清美……」
「奈々美、今でも彩香と付き合ってるの? どこにいるか知ってるなら教えて。わたし、あの女をめちゃくちゃにしてやりたい」
「清美?」
「教えて」
こんなに怒りを感じた事は無い。
高校を辞めた時は、あの人達さえいなければって怒りがこみ上げてきた事もあったけど、それと同時に恐怖から開放される安堵感も混在していた。
だけど今は、怒りしか存在しない。
彩香への怒り。
ただそれだけ。
「彩香ね……死んだの」
「えっ?」
予想外の答えだった。
彩香が死んだ?
あの彩香が?
「どうして?」
「わたしも後で聞いたんだけどね、彼氏とバイクで山道を走っている時に、カーブを曲がりきれずに崖から転落したらしいよ」
何と言う最後だろう。
これこそ、天罰だ。
人をいじめた罰が下ったんだ。
「だからね、怒りのやり場が無いならわたしにぶつけて。わたしはあなたをいじめたんだから。それで気持ちが少し軽くなるんだったら、殴ってもいいし、蹴ってもいい。罵ってもいいよ」
「奈々美には、もう怒りは無いわ」
「えっ?」
「わたし、命を粗末にしようとしたけど、これからは精一杯生きる。だから奈々美も、まどかちゃんに愛情を注いで育ててあげて」
「清美、ありがとう」
わたし達は、しばらくその場で抱き合って泣いた。
もう過去は振り返らない。
明日に向かって生きよう。
いつものように純平さんのマンションに泊まって、天気が良いから公園に散歩に出た。
車で二十分ほどの、市内で一番大きな公園。
遊具があり、小さな子ども達を遊ばせるのに最適な子ども広場、野球などが出来る運動広場、ウォーキングする人の為に作られた歩きやすい小道、アスレチックゾーンまである。
その中の小道を、純平さんと手を繋いでゆっくり散策。
木漏れ日が、夏の暑さを和らげさせてくれていた。
「奈々美の子ども、熱下がったかな?」
「大丈夫みたいだよ。土日が入るので、月曜日からは出社出来るんじゃないかな」
「そう」
「彼女の事、気になる?」
「そんなんじゃないけど、子どもが病気をする度に休まないといけないのは大変だなと思ってね」
「そうだね。総務の牧下さん知ってるだろ?」
「うん」
「彼女も今では支障無く働いてるけど、清美が入社する前、そうだな三、四年前かな、子どもがまだ保育園に行ってた頃は同じようによく休んでたんだ。一時は迷惑掛けるから辞めたいって言ってたんだけどね、みんながフォローしてくれて、何とか乗り切ったんだよ。小学校に上がったら、子どもって強くなるから、今では呼び出しが掛かる事も無いみたいだ」
「そっか。それじゃ、奈々美も後何年かの辛抱だね」
「そうだね」
子ども広場に出て来た。
そこには大勢の家族連れの姿がある。
いつかわたしも仲間入り出来るのかな。
「あれっ? 奈々美ちゃんだ」
「どこ?」
砂場の淵に腰掛けている彼女を見つけた。
その中で小さな女の子がバケツとスコップを持って遊んでいる。
「奈々美ちゃん」
純平さんが駆け寄る。
わたしはその後をゆっくりと歩いて近づいた。
振り向いた彼女がパッと笑顔になる。
その目は純平さんに向けられていて、後ろにいるわたしに気づいた途端翳りを見せた。
「その子が奈々美ちゃんの?」
「はい。娘のまどかです」
「まどかちゃんか、可愛い名前だね。まどかちゃ~ん」
そう言うと、純平さんは奈々美の子どもを抱っこした。
「初めまして。純平お兄ちゃんだよ」
お兄ちゃんだって。
この子から見たら、もうおじさんなんじゃないかな。
あ、て事は、わたしもおばさん?
いやいや、わたしはまだお姉ちゃんでいける!
「もう具合は良いの?」
わたしの問いに、やや引きつった笑顔を見せる奈々美。
「おかげ様で、昨日熱も下がった。その途端これよ。外で遊びたいみたいだったから連れて来たら、全然帰ろうとしなくて」
「そうなんだ。だけど、人見知りしないんだね。純平さんに抱かれても泣かないなんて」
「普段は泣くのよ。でも、子どもながらに椎名さんの優しさがわかるんじゃないかしら?」
そんな事ってあるのかな?
そう言えば、犬も犬好きな人とそうでない人がわかるっていうから、有り得るかも。
純平さんは、まどかちゃんを抱っこしたまま、少し離れた滑り台の所に行った。
「清美、椎名さんと付き合ってもう長いの?」
「ううんまだ二ヶ月も経ってない」
「そうなの? 何だ。もっと長いのかと思ってた」
「そんな風に見える?」
「こうして会社の外で会うのは初めてだからよくわかんないけど、お似合いのカップルだと思う」
「ありがとう」
「ねえ清美、こないだ聞いて欲しい事があるって言ったでしょ。やっぱり無理かな?」
そう言えばそんな事言ってたっけ。
一体何を話したいのだろう。
謝罪ならもう必要無い。
もう一度友達になって欲しいと言われても受け入れられない。
でも、話を聞くくらいなら、いいのかな。
「いいよ」
「ありがとう」
そう言うわけで、わたしは定時で上がれた日に、彼女の話を聞く事にした。
場所は彼女の家。
保育園のお迎えの時間が決まっているので、それが終わってからしか会えない。
しかも、人前では話しにくい内容みたいなので、家までついて行く事になった。
まあその方が、子どもも安心だしね。
お迎えが終わって、そのまま彼女がいつも立ち寄ると言うスーパーで買い物。
そこで夕方になって割引のシールが付いた惣菜などを買い込む。
純平さんに、彼女に会うと言ったら心配された。
昔、いじめた張本人と会うのだから。
わたしの精神状態を心配しての事だ。
でもね。
何故だかもう、彼女を見ても動揺しなくなったし、普通に話せるようになったんだ。
シングルマザーとして、仕事と育児に奮闘している姿を見ちゃったからかな。
わたしには真似出来ないと、一目置いちゃったからかな。
めぐみにも心配された。
自分もついて行って、何かあったらぶっ飛ばしてあげようか? って。
「どうぞ」
そこは、一軒の古びたアパートだった。
一階の一番手前の部屋。
扉の横にある窓の、防犯の為の鉄格子の塗料が剥げて錆びていた。
中は、綺麗に片ついていた。
と言うより、あまり物が無かった。
「お邪魔します」
「ごめんね。びっくりでしょ。物が無くて」
「ううん。その分掃除がしやすそうでいいんじゃない?」
「テレビも買う余裕が無くてさ」
元旦那さんの所からは、何も持って来なかったのが伺われる。
本当に、彼女の私物だけと言ったようなイメージだ。
何だか可哀想だな。
離婚するにしても、可愛い子どももいるんだし、少しは用意してくれたっていいじゃない。
「お腹すいたね。先に食べようか?」
「そうだね」
「ちょっと待ってて。ご飯を解凍して来るから」
そう言うと彼女は、冷凍室からラップに包んだご飯の塊を二つレンジに入れた。
「わたしね、ご飯って一度にたくさん炊いて冷凍しておくんだ。そっちの方が電気代が安くつくかなと思って。レンジ使うからそんなに得じゃないかもしれないけどね」
「そうなんだ」
うちはお母さんが毎回炊いてくれる。
朝もほかほかだし、夜もほかほか。
お昼は朝の残りを温めて食べているみたいだけど――お母さん一人だし――家族の為には出来立てを用意してくれる。
それが当たり前だと思っていたけど、そうじゃない人もいるんだね。
「ごめん。買って来たおかず、出しといてくれる?」
「うん、わかった」
袋を扱っていると、まどかちゃんが近寄って来た。
どうやら袋の中身が気になるようだ。
小さな手が伸びて来て、予想以上の力で袋を引っ張る。
「わっ」
「まどか、ダメよー」
お皿とお箸を抱えた奈々美が近づいて来る。
まどかちゃんは、ダメよと言われたからか、袋から手を引っ込めた。
まだ一歳なのに、よくわかるなー。
「惣菜も温めて来るね」
「ああいいよ、わたしがするわ。奈々美はまどかちゃんについていてあげて」
「ごめんね」
ご飯が温まると、それと入れ替えに惣菜のパックを入れた。
一分くらいでいいかな?
「あちちちっ」
ラップのご飯をテーブルに運んだ。
そのテーブルもまた、折りたたみ式の小さなテーブル。
二人分の食事をのせたら余裕が無い。
「ちょっとまどかのオムツ替えて来てもいい?」
「どうぞ。その間にこっちは準備しとくよ」
「ありがとう」
奈々美は、隣の部屋に行って、床に敷いたマットの上でオムツを替え始めた。
わたしは、彼女が戻ったらすぐに食べられるように準備をする。
もしわたしも結婚して赤ちゃんが出来たら、奈々美みたいにお世話しないといけないんだね。
まだ全然そんな準備出来てないな。
わたし自身がまだ子どもだし。
奈々美、偉いな。
どうして奈々美、わたしをいじめたんだろう。
あの頃の事が嘘に思える。
ここにいる奈々美は、優しいお母さんだ。
「お待たせ」
まどかちゃんを抱っこした彼女が戻って来る。
「それじゃ、食べようか」
「先に食べてて。まどかに食べさせるから」
「わかった。それじゃ、頂きます」
先に食べさせてもらう。
お腹が減っていたから美味しい。
「奈々美、うちの会社に入る前は、どこで働いてたの?」
「小さな印刷工場よ。そこ、託児所もあって働きやすかったんだけど、倒産しちゃって。その後は失業保険を貰いながらいくつか面接受けたんだけど、やっぱり小さな子どもがいるとなかなか決まらなくて」
「そう。その点、うちは働きやすいと思うよ。倉庫にもママさん社員たくさんいるけど、子どもの病気とかで休むとなったら、その人の分まで頑張るってモードになるからサポート体制もばっちりだしね。人が少ないとキツイけど、その人が戻ったら、休んでた分まで働いてくれるの」
「誰かに親切にしてもらったら、自分もお返しするって感じなのね。いい職場に入れて良かった」
まどかちゃんの食事が終わると、今度は奈々美が食べ始める。
まどかちゃんは、おもちゃで遊び出した。
「早速だけど清美、話を聞いてくれる?」
「うん」
「実はね、離婚したって言ったけど、あれ、嘘なの」
「えっ? どう言う事?」
意味がわからなかった。
まだ結婚してるって事?
それとも……
「わたしね、清美が学校を辞めてからすぐ、彩香の標的に変わったの。今度はわたしがいじめられる側」
「嘘でしょ?」
「わたしもそう思ってたわ。だって、彩香に気に入られてると思ってたから。グループの中でも、自分が一番彩香の傍にいるって思ってたから」
結局彩香は、わたしというはけ口がいなくなり、それでいじめを止めるという人では無かったんだ。
常に誰かをいじめておかないといけない人だったんだ。
怒りがこみ上げてきた。
どうしてそんな事をするんだろう。
「ある日、彩香がわたしに会わせたい人がいるって言ったの。その人に会ってくれたら、もういじめないって。だからわたしは素直に従ったわ。そして、彩香から教えてもらった場所に行くと、若くて不良っぽい男がいた」
彼女は、その時の事を思い出したのか、少し青ざめた顔色になり、箸を下ろした。
「わたしね、そいつから乱暴されたの」
「えっ……」
「一度じゃない。彩香に言われるたびに、そいつの所に行った。約束通り、彩香からのいじめは無くなったわ。だから、断ってまたいじめられるのが怖かったのよ」
「だからと言って、好きでも無い男と関係を持つなんて」
「そうね。今考えたらバカだった。でも、そいつも、二回目からは優しくなってね。彼女がいるって知ってたけど、わたしを抱く時は愛してるって言ってくれた。その言葉がわたしに魔法を掛けたの」
そんな事ってあるんだろうか。
乱暴された男を好きになるって。
「そして、三年生になってしばらくして、妊娠してる事に気が付いた」
「それじゃ、まどかちゃんのパパって……」
「その男よ。わたし、その人に言ったの。妊娠したって。そしたら彼、困った顔してしばらく悩んでた。そして、産むつもりかって聞いて来たので、産みたいって言ったの」
「そしたら何て?」
「わかった。それじゃ、彼女と別れるからしばらく時間をくれって。嬉しかったわ。彼女よりわたしを選んでくれた事が」
「で、彼と一緒に?」
「家出して、しばらくその人の家から学校に通った。彩香にも、彼から妊娠した事伝わったみたいで、これからどうするのかって聞かれたわ。このまま学校に通うわけにはいかないんじゃないかってね。それでわたし、退学したの」
「学校、辞めたのね」
知らなかった。
元気に高校に通っているとばかり思っていた。
そして、卒業したら大学に行き、十九歳の今は、キャンパスライフを楽しんでいるんだろうなと思っていた。
それが彼女の夢だったから。
「わたし、中学の時に話したよね。高校卒業したら大学に行って、高学歴のいい男を見つけて結婚するんだって」
「言ってたね」
「有言実行。それがわたしのポリシーだったのに、あの男に見事に崩されちゃったよ」
「どうして結婚しなかったの? その人、奈々美を選んでくれたんでしょ?」
「それがさ、学校を辞めて彼と暮らし始めて、彼の収入に頼る事になったわけじゃない。わたし、産むまで働けなかったし」
「うん」
「そしたら彼、自分の遊ぶお金が足りなくなったわけよ。わたしを食べさせないといけなくなったから」
「それは仕方ない事でしょ? 誰でもそうじゃん」
「だけど、彼はそれが嫌だったみたいで、ある日出て行ったっきり戻って来なかった」
「そんな……」
「家の家賃も払えない、公共料金も払えない。ご飯も食べられない。もうどうしようも無くなって、実家に戻ったの」
「それで?」
「父に、すぐに堕ろっせって言われた。でも、もう堕ろせない時期に入ってたの。そしたら今度は父がわたしのお腹を蹴ろうとした」
「何て事を……」
「この子を守らなきゃ。その一心でわたしはまた家を飛び出した。でもね、その時こっそりお母さんがお金を持たせてくれた。今はこれしか無いけど、お父さんが仕事に行ってる昼間に戻って来なさい。用意しておくからって」
「お母さんは味方になってくれたんだ」
「うん。それからお母さんは、親戚の人に頼んでくれてね。わたしはそこで暮らし始めたの。お金は、時々お母さんが持って来てくれた」
「そうなんだ。そして、まどかちゃんが生まれたのね」
「うん。でもね、その事がお父さんにバレて、お母さんが暴力を受けてね。もう援助もしてもらえなくなったの。親戚の家にもいられなくなった」
「そんな……」
わたしだったら産めない。
ひとりで育てていかなくちゃいけないってわかっているのに、産む勇気は無いよ。
だけど、堕ろす事も出来ない。
折角授かった命の炎を消す事は出来ない。
彩香が悪いんだ。
わたしの時もそう。
そして奈々美の時もそう。
彩香さえいなければ、わたし達の人生は違っていた。
そう思うと、彼女への憎しみで胸が一杯になった。
「彩香だけは許せない」
「わたしもよ。だけど、わたしがいけないの。自業自得なのよ」
「これは、自業自得の域を超えてるわ。確かに、あなたの事も恨んでた。あなた達からいじめられなければ、死のうとも思わなかっただろうし、もっと楽しく過ごせたはず。だけど、こんな罰は望んでいない。ひど過ぎるよ」
「清美……」
「奈々美、今でも彩香と付き合ってるの? どこにいるか知ってるなら教えて。わたし、あの女をめちゃくちゃにしてやりたい」
「清美?」
「教えて」
こんなに怒りを感じた事は無い。
高校を辞めた時は、あの人達さえいなければって怒りがこみ上げてきた事もあったけど、それと同時に恐怖から開放される安堵感も混在していた。
だけど今は、怒りしか存在しない。
彩香への怒り。
ただそれだけ。
「彩香ね……死んだの」
「えっ?」
予想外の答えだった。
彩香が死んだ?
あの彩香が?
「どうして?」
「わたしも後で聞いたんだけどね、彼氏とバイクで山道を走っている時に、カーブを曲がりきれずに崖から転落したらしいよ」
何と言う最後だろう。
これこそ、天罰だ。
人をいじめた罰が下ったんだ。
「だからね、怒りのやり場が無いならわたしにぶつけて。わたしはあなたをいじめたんだから。それで気持ちが少し軽くなるんだったら、殴ってもいいし、蹴ってもいい。罵ってもいいよ」
「奈々美には、もう怒りは無いわ」
「えっ?」
「わたし、命を粗末にしようとしたけど、これからは精一杯生きる。だから奈々美も、まどかちゃんに愛情を注いで育ててあげて」
「清美、ありがとう」
わたし達は、しばらくその場で抱き合って泣いた。
もう過去は振り返らない。
明日に向かって生きよう。