翌朝。
久しぶりの雨。
純平さんを思い悩ませちゃったからかな?
「おはよう」
「おはよう純平さん。雨の日のお迎え、本当に助かるわ」
「それじゃ、行こうか」
ゆっくりと車が動き出す。
雨の日は車も多く、いくつもの信号に引っかかった。
「純平さん。わたしも気持ちを切り替える。だから、あなたもそうして」
「本当にいいのか?」
「仕方ないでしょ、会社に来たのは故意では無かったんだし。それにほら、一年我慢したら、あの子辞めちゃうんだし」
「何かさ、強くなったよな」
「え?」
「あの子に会ったら、壊れちゃうんじゃないかと思ってた。その時は俺が絶対受け止めてみせるって思ってたんだ。だけど、動揺してるのは俺の方だった」
「強くなんか無いよ。でも仕方ないんだって自分に言い聞かせてる。奈々美が来たからって、別に仲良くするつもりは無いよ。あの子を許す事は出来ない。だけど仕方ないじゃん。来ちゃったものは」
「そうだな」
これは神様の意地悪。
わたしがあんまり純平さんと仲良しだから、嫉妬しちゃったのかも。
だから平気だよ。
地下の駐車場に着いた。
屋根があるから濡れずに行けるのは嬉しい。
それでも社員全員の駐車スペースがあるというわけでは無くて、三分の一程度の社員はここから五分程度離れた外の駐車場を利用していた。
公平にという事で、年に一回くじ引きがあるらしい。
ここでも運の良い純平さんは、三年連続地下駐車場を引き当てていた。
「おはようございます」
更衣室には、着替えを終えたばかりの安田さんの姿があった。
彼女は、ビューラーでまつ毛を整えている最中。
「おはよう」
「安田さん、いつもお綺麗ですね」
お世辞を言ったわけでは無い。
キツい顔立ちだけど、スタイルはモデル級。
二十九歳だとは思えない美貌なのだ。
「ねえ、今晩空いてる?」
「えっ?」
「あなたと話がしたいの」
「……かまいませんけど」
わたしに話?
一体何なんだろ。
ちょっと怖い。
だけど、純平さんも一緒にいいですかって雰囲気じゃないな。
「今夜はわたしが送るから」
「えっ?」
「毎日純平に送ってもらってるんでしょ? でも、今夜は彼抜きで話したいの」
「わかりました」
そっか、安田さんも車で来てるんだ。
はっきり見た事は無いけど、確か赤い車だったような……。
昼休み。
食堂に現れたのは純平さんだけだった。
奈々美を誘わなかったのか、彼女から辞退したのか。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
彼が来る前に、夕べの経緯はめぐみに話していた。
彼女もわたしに合わせて、平気な振りをしてくれている。
そして、純平さんも何事も無かったかのように振舞っている。
今日も午前中は会議室にこもっているようだった。
午後からは事務所で仕事を教えるらしい。
わたしとめぐみは、奈々美の事は口に出さなかった。
「めぐみちゃん、良い店見つけたんだ。たくさん食べるめぐみちゃんにぴったりの店」
「本当ですか?」
「ああ。今度また三人で行こうか?」
「嬉しいです!」
「とにかくボリュームがあってさ、男の俺でも腹一杯になる」
「大丈夫。きっとわたしなら食べ切れます」
「いつにする?」
食事の計画に夢中になる二人。
互いに携帯画面を見て、予定を確認し合っている。
「ちょっと、二人とも、わたしの予定は聞かないの?」
「お前、無いだろ、予定」
「失礼ね。そうだ。今日は予定あるから送ってくれなくていいから」
「えっ? どこ行くんだよ」
「内緒」
「俺達に内緒は無しって言っただろ?」
「デートよ」
「誰と?」
「だから内緒だってば」
「お前の事だからきっと……いや、思いつかない。めぐみちゃんと?」
純平さんがめぐみの方を見ている。
「わたしとじゃ、無いです」
「だったら誰だよ」
「さ~、誰とでしょうね~」
「清美。これ以上白状しないんだったら、明日から迎えに行かないからな」
「あ~、それはヤダ」
「だったら言えよ」
段々彼の顔が真顔になっていく。
これ以上黙ってたら、ヤバいかな?
「安田さんよ」
「安田?! 何でまたあいつなんかと」
「わたしもよくわかんないのよ。でも、何か話したい事があるみたい」
「大丈夫かな……」
安田さんの性格を知っている彼は、不安を隠し切れないと言ったように眉間に皺を寄せていた。
「大丈夫よ。帰りも送ってくれるんですって」
「あいつ、車だしな。だけど、何の話なんだ?」
「帰ったら電話するから」
「絶対だぞ。それから、何かあったら警察に電話しろ」
「警察? 何それ。別に安田さん、わたしに危害を加えたりしないってば」
「いやわからん。あいつは時々豹変するからな」
そんな事言われたら、不安になって来たじゃない。
大丈夫だと思うんだけどな……
午後からは銀行関係の大口の出荷が入った。
倉庫のメンバー総動員で流れ作業に取り掛かる。
一年のうちで、何度かこういう仕事が入る。
通常業務もこなしながらだから、結構ハードだ。
定時までに終わるかな……
安田さんがいる経理部は、毎日だいたい一時間は残業する部署。
人よりさばけた安田さんでさえ、定時に帰る事はまず無かった。
だから、わたしが残業になったとしても、安田さんを待たせる事は無いと思うんだけど。
「ごめんなさい!」
急いで更衣室に駆け込むと、安田さんはすっかり身支度を整えて、ベンチに腰掛けて待っていた。
甘かった。
まさか一時間半も残業するハメになろうとは。
「すぐ準備しますから」
「いいのよ別に。仕事だから仕方ないわ」
ちょっと前まであんなに怖かった安田さんとは別人のよう。
逆にちょっと怖いんですけど?
彼女は携帯の画面とにらめっこしながら、指を上下に動かしていた。
「ここにしようかな」
「えっ?」
「今から行くお店」
ああ。
お店を探してくれてたんだ。
「あの、お給料前なので、あんまり高い所にしないで下さいね」
「わかってるわよ」
給料前で懐が寂しいのはみんな同じようだ。
「お待たせしました」
ロッカーから出したバッグを抱え、わたしは安田さんの元に駆け寄った。
「着替えるの速いのね。よし、それじゃ行きましょうか」
「はい」
二人で階段を下りていると、後ろから純平さんが追いかけて来た。
「安田、清美と出掛けるんだって?」
「そうよ」
「何の話があるんだ?」
「あなたには関係の無い話よ。その顔、わたしが小田さんに何かするんじゃないかと思ってるでしょ?」
「当たり」
「何もしないわよ。あなたが心配するような事は」
「信じてもいいんだな?」
「ええ。神に誓って」
「わかった。それじゃ、帰り、送るの頼んだからな」
「はいはい」
面倒くさそうに答える安田さん。
純平さん、ちょっと過保護過ぎます。
保護者のようで何だか恥ずかしいです。
彼女に連れられ入った店は、薄暗く人もまばらな店だった。
平日とは言え、これでやっていけるのかなと心配になる。
「個室、空いてるかしら?」
「ご用意出来ます」
「それじゃお願いします」
個室?
何だか不安になって来た。
人も少ない上に個室とは。
「こちらでございます」
「ありがとう」
掘りごたつ式のテーブルに、木で出来た背もたれ付きの座椅子。
窓側の障子は開けられていて、眼下に川が流れているのが見えた。
いわゆる割烹料理店。
安田さん、安い所にして下さいって言ったのに。
財布の中身を思い出す。
確かまだ五千円札は入っていたと思うけど……。
安田さんは、わたしに何がいいか聞くことも無くAセットやらを注文した。
どんな料理が出て来るんだろう……
「ここ、前に一度来た事があるけど、なかなか美味しいのよ」
「そうですか」
「何? 気もそぞろって感じね」
「だって、高そうな店なんですもん」
「心配しないで。今日はわたしがご馳走するわ」
「そんなのダメです。自分の分は払わせて下さい」
「十も年の離れた後輩に払わせられると思う? いいからここは黙って奢られなさい」
「すみません……」
申し訳無くて、すみませんの言葉も尻すぼみになってしまった。
しばらくして運ばれて来た料理は、綺麗な器に上品に盛り付けられた前菜だった。
丸いお皿の上に形の違う小鉢が載っていて、手前には一口サイズの刺身がこれまた上品に盛り付けられている。
「綺麗……」
「ちょっとごめんなさい。写真撮らなくっちゃ」
「?」
「素敵な料理が出てきたら、SNSにアップしてるの。小田さん、何かやってないの? フェイスブックとか、インスタとか」
「いえ、やってません」
「ふ~ん。やって御覧なさいよ。世界が広がるわよ」
「難しそうで」
「大丈夫。わたしがレクチャーしてあげましょうか?」
「その時はお願いします」
安田さんは、料理が運ばれて来ると、まずは写真撮影に力を注いでいた。
わたしも、純平さんに見せようかな?
それにしても、もう三つ目のお皿が運ばれて来たというのに、安田さんは特に変わった話はして来ない。
話があるっていったのは、こういう雑談をするって事だったのかな?
「ふぅ。美味しかった」
「わたし、こんなに上品なお料理食べた事が無かったので、凄く幸せです」
「そう? 喜んで貰えて光栄だわ。あと、デザートとコーヒーが来るからね」
嬉しい。
だけど、これで本当に話は終わりなの?
若干拍子抜けした。
こんな個室まで用意してくれたから、どんだけ重要な話かと構えていたのに。
そして、デザートとコーヒーが運ばれて来た。
やっぱり安田さんは写真を撮っている。
「食べて」
「はい。頂きます」
お皿にプチケーキが三種類載っている。
コーヒーの器も、一人ずつ違うデザインで趣きがあった。
ケーキを食べ終え、コーヒーに口を付けた時だった。
「さっ、もういいかな?」
「?」
「お料理を美味しく食べたかったから黙ってたけど、本題はここから」
「えっ?」
緊張が走る。
ここに来て話が始まるの?
「小田さん」
「はい……」
何?
怖いんですけど。
「わたしね、聞いちゃったんだ」
「えっ?」
「あなた、トイレで春川さんと話してたでしょう」
「……もしかして、あの時トイレの中にいたのって」
「わたしよ。ごめんね。どうしても途中で出て行けなかったのよ」
あれは安田さんだったんだ……
よりによって安田さんだったなんて。
これを脅しに、純平さんと別れてなんて言い出したらどうしよう。
「実はね。わたしもやった事があるのよ。自殺未遂」
「えっ?」
「と言ってもわたしは睡眠薬を大量に飲んだんだけどね」
「どうして……」
「結婚しようと思っていた男がいたの。結納も交わして、結婚式の招待状も出してたわ。そして後一週間で式って時に、くも膜下出血で死んじゃった」
「……」
何て事?
衝撃過ぎて言葉が出なかった。
「その彼の後を追おうとしたの。一人になるのが怖かったのよ」
「それで睡眠薬を……」
「あなたのようにこの世に生かされてね。その時優しくしてくれたのが純平だった。あの頃は本当に彼が心の支えだった。毎日わたしに寄り添って励ましてくれた。それでもね、その時はもう自分一人になっちゃったって絶望してしまって、わたしを思ってくれるたくさんの人がいる事に気づけなかった。純平にも散々悪態を付いちゃったけど、見放さずにいてくれたの」
「それじゃ、純平さんはその事を知っているんですね?」
「そうよ。結婚相手は、純平の親友でもあったの」
「そうだったんですか」
「それからわたし、純平の事が好きになっていた。あんなに優しくされたら誤解しちゃったのよ。彼もわたしの事が好きなんだってね」
「わかる気がします」
「わたしって気が強そうに見えるでしょ? 最初にあなたに突っかかって行った時も、泣かせてしまったしね」
「正直に言いますと、あの頃は本当に怖かったです」
「わざと気が強いように見せてたの。本当は弱いのよ、わたし。強く見せておかないと、崩れてしまいそうだったから。でもね、もう平気みたい。あなたと親しくなって、そう思えるようになった」
「……わたしは、そんなに強くはなれません」
「そんな事は無いと思うわ。げんにあの時、春川さんから逃げなかったじゃない。堂々としてたじゃない」
「そうですね。でもあれは、わたし達が昔からの知り合いだとバレたら、どこでひょっこり昔の話が出るかわからないっていう恐怖と、彼女とはもう友達には戻れないという意志を伝える意味もあったんです」
「昔の事、思い出したくないものね」
「安田さんが死のうとした事、純平さん意外の人は知らないんですか?」
「知ってるわよ。上司の誰かが言ったんでしょうね、親が会社に連絡したから」
「それで、この会社を辞めようとは思わなかったんですか?」
「それは無かったわね。だって、純平や瀬高、総務の和田リーダーが付いていてくれたから。その人達と別れるのが嫌だったのよ。でもね、やっぱり最初はみんな腫れ物に触るような扱いだったわ。それでも、自分らしく生きてたら、みんな段々忘れてくれるものよ。それにね、あなたにも思ってくれてる人がいるでしょ」
「はい」
「だから、あなたも心配しなくて大丈夫。もしどこかからその事が漏れたとして、誰かが何か言って来たらわたしに言いなさい。張り倒してあげるから」
純平さんと言い、めぐみと言い、そして安田さんと言い、みんな揃って心強い人ばかりです。
わたしももっと強くなろうと思います。
安田さん、あなたを怖がっていた自分が情けない。
わたしを支えてくれる人がたくさんいて、本当に幸せです。
「安田さん、話してくれてありがとうございました。わたし、もっと前向きに生きていきます」
「あら、十分前向きに見えるわよ。だって毎日純平といちゃついてるし」
「あの、安田さん純平さんの事はもういいんですか?」
「良いも悪いも、相思相愛のあなた達の、どこに付け入る隙間があるって言うの? 一ミリも無いわ」
そう言うと、安田さんは残りのコーヒーを飲み干した。
「あらもうこんな時間。そろそろ出ましょうか」
「はい。今日はご馳走様でした」
「何かあったら、わたしの事も頼ってね」
「ありがとうございます」
車で家まで送って貰った。
意外にも、安田さんの家は近くて、純平さんが出張でいない時は、自分が迎えに来るとまで言ってくれた。
ありがとうございます。
奈々美の事は許す事は出来ないけど、同じ会社の一員としては普通に接する事が出来そうです。
家に戻ったわたしは、早速純平さんに報告した。
黙って聞いていた彼は、最後に
「安田って、良い奴だな」
って、言っていた。
純平さんが関わった人は、きっとみんな良い人なんだよ。
安田さんを見て、あらためてそう思った。
久しぶりの雨。
純平さんを思い悩ませちゃったからかな?
「おはよう」
「おはよう純平さん。雨の日のお迎え、本当に助かるわ」
「それじゃ、行こうか」
ゆっくりと車が動き出す。
雨の日は車も多く、いくつもの信号に引っかかった。
「純平さん。わたしも気持ちを切り替える。だから、あなたもそうして」
「本当にいいのか?」
「仕方ないでしょ、会社に来たのは故意では無かったんだし。それにほら、一年我慢したら、あの子辞めちゃうんだし」
「何かさ、強くなったよな」
「え?」
「あの子に会ったら、壊れちゃうんじゃないかと思ってた。その時は俺が絶対受け止めてみせるって思ってたんだ。だけど、動揺してるのは俺の方だった」
「強くなんか無いよ。でも仕方ないんだって自分に言い聞かせてる。奈々美が来たからって、別に仲良くするつもりは無いよ。あの子を許す事は出来ない。だけど仕方ないじゃん。来ちゃったものは」
「そうだな」
これは神様の意地悪。
わたしがあんまり純平さんと仲良しだから、嫉妬しちゃったのかも。
だから平気だよ。
地下の駐車場に着いた。
屋根があるから濡れずに行けるのは嬉しい。
それでも社員全員の駐車スペースがあるというわけでは無くて、三分の一程度の社員はここから五分程度離れた外の駐車場を利用していた。
公平にという事で、年に一回くじ引きがあるらしい。
ここでも運の良い純平さんは、三年連続地下駐車場を引き当てていた。
「おはようございます」
更衣室には、着替えを終えたばかりの安田さんの姿があった。
彼女は、ビューラーでまつ毛を整えている最中。
「おはよう」
「安田さん、いつもお綺麗ですね」
お世辞を言ったわけでは無い。
キツい顔立ちだけど、スタイルはモデル級。
二十九歳だとは思えない美貌なのだ。
「ねえ、今晩空いてる?」
「えっ?」
「あなたと話がしたいの」
「……かまいませんけど」
わたしに話?
一体何なんだろ。
ちょっと怖い。
だけど、純平さんも一緒にいいですかって雰囲気じゃないな。
「今夜はわたしが送るから」
「えっ?」
「毎日純平に送ってもらってるんでしょ? でも、今夜は彼抜きで話したいの」
「わかりました」
そっか、安田さんも車で来てるんだ。
はっきり見た事は無いけど、確か赤い車だったような……。
昼休み。
食堂に現れたのは純平さんだけだった。
奈々美を誘わなかったのか、彼女から辞退したのか。
「お疲れ」
「お疲れ様です」
彼が来る前に、夕べの経緯はめぐみに話していた。
彼女もわたしに合わせて、平気な振りをしてくれている。
そして、純平さんも何事も無かったかのように振舞っている。
今日も午前中は会議室にこもっているようだった。
午後からは事務所で仕事を教えるらしい。
わたしとめぐみは、奈々美の事は口に出さなかった。
「めぐみちゃん、良い店見つけたんだ。たくさん食べるめぐみちゃんにぴったりの店」
「本当ですか?」
「ああ。今度また三人で行こうか?」
「嬉しいです!」
「とにかくボリュームがあってさ、男の俺でも腹一杯になる」
「大丈夫。きっとわたしなら食べ切れます」
「いつにする?」
食事の計画に夢中になる二人。
互いに携帯画面を見て、予定を確認し合っている。
「ちょっと、二人とも、わたしの予定は聞かないの?」
「お前、無いだろ、予定」
「失礼ね。そうだ。今日は予定あるから送ってくれなくていいから」
「えっ? どこ行くんだよ」
「内緒」
「俺達に内緒は無しって言っただろ?」
「デートよ」
「誰と?」
「だから内緒だってば」
「お前の事だからきっと……いや、思いつかない。めぐみちゃんと?」
純平さんがめぐみの方を見ている。
「わたしとじゃ、無いです」
「だったら誰だよ」
「さ~、誰とでしょうね~」
「清美。これ以上白状しないんだったら、明日から迎えに行かないからな」
「あ~、それはヤダ」
「だったら言えよ」
段々彼の顔が真顔になっていく。
これ以上黙ってたら、ヤバいかな?
「安田さんよ」
「安田?! 何でまたあいつなんかと」
「わたしもよくわかんないのよ。でも、何か話したい事があるみたい」
「大丈夫かな……」
安田さんの性格を知っている彼は、不安を隠し切れないと言ったように眉間に皺を寄せていた。
「大丈夫よ。帰りも送ってくれるんですって」
「あいつ、車だしな。だけど、何の話なんだ?」
「帰ったら電話するから」
「絶対だぞ。それから、何かあったら警察に電話しろ」
「警察? 何それ。別に安田さん、わたしに危害を加えたりしないってば」
「いやわからん。あいつは時々豹変するからな」
そんな事言われたら、不安になって来たじゃない。
大丈夫だと思うんだけどな……
午後からは銀行関係の大口の出荷が入った。
倉庫のメンバー総動員で流れ作業に取り掛かる。
一年のうちで、何度かこういう仕事が入る。
通常業務もこなしながらだから、結構ハードだ。
定時までに終わるかな……
安田さんがいる経理部は、毎日だいたい一時間は残業する部署。
人よりさばけた安田さんでさえ、定時に帰る事はまず無かった。
だから、わたしが残業になったとしても、安田さんを待たせる事は無いと思うんだけど。
「ごめんなさい!」
急いで更衣室に駆け込むと、安田さんはすっかり身支度を整えて、ベンチに腰掛けて待っていた。
甘かった。
まさか一時間半も残業するハメになろうとは。
「すぐ準備しますから」
「いいのよ別に。仕事だから仕方ないわ」
ちょっと前まであんなに怖かった安田さんとは別人のよう。
逆にちょっと怖いんですけど?
彼女は携帯の画面とにらめっこしながら、指を上下に動かしていた。
「ここにしようかな」
「えっ?」
「今から行くお店」
ああ。
お店を探してくれてたんだ。
「あの、お給料前なので、あんまり高い所にしないで下さいね」
「わかってるわよ」
給料前で懐が寂しいのはみんな同じようだ。
「お待たせしました」
ロッカーから出したバッグを抱え、わたしは安田さんの元に駆け寄った。
「着替えるの速いのね。よし、それじゃ行きましょうか」
「はい」
二人で階段を下りていると、後ろから純平さんが追いかけて来た。
「安田、清美と出掛けるんだって?」
「そうよ」
「何の話があるんだ?」
「あなたには関係の無い話よ。その顔、わたしが小田さんに何かするんじゃないかと思ってるでしょ?」
「当たり」
「何もしないわよ。あなたが心配するような事は」
「信じてもいいんだな?」
「ええ。神に誓って」
「わかった。それじゃ、帰り、送るの頼んだからな」
「はいはい」
面倒くさそうに答える安田さん。
純平さん、ちょっと過保護過ぎます。
保護者のようで何だか恥ずかしいです。
彼女に連れられ入った店は、薄暗く人もまばらな店だった。
平日とは言え、これでやっていけるのかなと心配になる。
「個室、空いてるかしら?」
「ご用意出来ます」
「それじゃお願いします」
個室?
何だか不安になって来た。
人も少ない上に個室とは。
「こちらでございます」
「ありがとう」
掘りごたつ式のテーブルに、木で出来た背もたれ付きの座椅子。
窓側の障子は開けられていて、眼下に川が流れているのが見えた。
いわゆる割烹料理店。
安田さん、安い所にして下さいって言ったのに。
財布の中身を思い出す。
確かまだ五千円札は入っていたと思うけど……。
安田さんは、わたしに何がいいか聞くことも無くAセットやらを注文した。
どんな料理が出て来るんだろう……
「ここ、前に一度来た事があるけど、なかなか美味しいのよ」
「そうですか」
「何? 気もそぞろって感じね」
「だって、高そうな店なんですもん」
「心配しないで。今日はわたしがご馳走するわ」
「そんなのダメです。自分の分は払わせて下さい」
「十も年の離れた後輩に払わせられると思う? いいからここは黙って奢られなさい」
「すみません……」
申し訳無くて、すみませんの言葉も尻すぼみになってしまった。
しばらくして運ばれて来た料理は、綺麗な器に上品に盛り付けられた前菜だった。
丸いお皿の上に形の違う小鉢が載っていて、手前には一口サイズの刺身がこれまた上品に盛り付けられている。
「綺麗……」
「ちょっとごめんなさい。写真撮らなくっちゃ」
「?」
「素敵な料理が出てきたら、SNSにアップしてるの。小田さん、何かやってないの? フェイスブックとか、インスタとか」
「いえ、やってません」
「ふ~ん。やって御覧なさいよ。世界が広がるわよ」
「難しそうで」
「大丈夫。わたしがレクチャーしてあげましょうか?」
「その時はお願いします」
安田さんは、料理が運ばれて来ると、まずは写真撮影に力を注いでいた。
わたしも、純平さんに見せようかな?
それにしても、もう三つ目のお皿が運ばれて来たというのに、安田さんは特に変わった話はして来ない。
話があるっていったのは、こういう雑談をするって事だったのかな?
「ふぅ。美味しかった」
「わたし、こんなに上品なお料理食べた事が無かったので、凄く幸せです」
「そう? 喜んで貰えて光栄だわ。あと、デザートとコーヒーが来るからね」
嬉しい。
だけど、これで本当に話は終わりなの?
若干拍子抜けした。
こんな個室まで用意してくれたから、どんだけ重要な話かと構えていたのに。
そして、デザートとコーヒーが運ばれて来た。
やっぱり安田さんは写真を撮っている。
「食べて」
「はい。頂きます」
お皿にプチケーキが三種類載っている。
コーヒーの器も、一人ずつ違うデザインで趣きがあった。
ケーキを食べ終え、コーヒーに口を付けた時だった。
「さっ、もういいかな?」
「?」
「お料理を美味しく食べたかったから黙ってたけど、本題はここから」
「えっ?」
緊張が走る。
ここに来て話が始まるの?
「小田さん」
「はい……」
何?
怖いんですけど。
「わたしね、聞いちゃったんだ」
「えっ?」
「あなた、トイレで春川さんと話してたでしょう」
「……もしかして、あの時トイレの中にいたのって」
「わたしよ。ごめんね。どうしても途中で出て行けなかったのよ」
あれは安田さんだったんだ……
よりによって安田さんだったなんて。
これを脅しに、純平さんと別れてなんて言い出したらどうしよう。
「実はね。わたしもやった事があるのよ。自殺未遂」
「えっ?」
「と言ってもわたしは睡眠薬を大量に飲んだんだけどね」
「どうして……」
「結婚しようと思っていた男がいたの。結納も交わして、結婚式の招待状も出してたわ。そして後一週間で式って時に、くも膜下出血で死んじゃった」
「……」
何て事?
衝撃過ぎて言葉が出なかった。
「その彼の後を追おうとしたの。一人になるのが怖かったのよ」
「それで睡眠薬を……」
「あなたのようにこの世に生かされてね。その時優しくしてくれたのが純平だった。あの頃は本当に彼が心の支えだった。毎日わたしに寄り添って励ましてくれた。それでもね、その時はもう自分一人になっちゃったって絶望してしまって、わたしを思ってくれるたくさんの人がいる事に気づけなかった。純平にも散々悪態を付いちゃったけど、見放さずにいてくれたの」
「それじゃ、純平さんはその事を知っているんですね?」
「そうよ。結婚相手は、純平の親友でもあったの」
「そうだったんですか」
「それからわたし、純平の事が好きになっていた。あんなに優しくされたら誤解しちゃったのよ。彼もわたしの事が好きなんだってね」
「わかる気がします」
「わたしって気が強そうに見えるでしょ? 最初にあなたに突っかかって行った時も、泣かせてしまったしね」
「正直に言いますと、あの頃は本当に怖かったです」
「わざと気が強いように見せてたの。本当は弱いのよ、わたし。強く見せておかないと、崩れてしまいそうだったから。でもね、もう平気みたい。あなたと親しくなって、そう思えるようになった」
「……わたしは、そんなに強くはなれません」
「そんな事は無いと思うわ。げんにあの時、春川さんから逃げなかったじゃない。堂々としてたじゃない」
「そうですね。でもあれは、わたし達が昔からの知り合いだとバレたら、どこでひょっこり昔の話が出るかわからないっていう恐怖と、彼女とはもう友達には戻れないという意志を伝える意味もあったんです」
「昔の事、思い出したくないものね」
「安田さんが死のうとした事、純平さん意外の人は知らないんですか?」
「知ってるわよ。上司の誰かが言ったんでしょうね、親が会社に連絡したから」
「それで、この会社を辞めようとは思わなかったんですか?」
「それは無かったわね。だって、純平や瀬高、総務の和田リーダーが付いていてくれたから。その人達と別れるのが嫌だったのよ。でもね、やっぱり最初はみんな腫れ物に触るような扱いだったわ。それでも、自分らしく生きてたら、みんな段々忘れてくれるものよ。それにね、あなたにも思ってくれてる人がいるでしょ」
「はい」
「だから、あなたも心配しなくて大丈夫。もしどこかからその事が漏れたとして、誰かが何か言って来たらわたしに言いなさい。張り倒してあげるから」
純平さんと言い、めぐみと言い、そして安田さんと言い、みんな揃って心強い人ばかりです。
わたしももっと強くなろうと思います。
安田さん、あなたを怖がっていた自分が情けない。
わたしを支えてくれる人がたくさんいて、本当に幸せです。
「安田さん、話してくれてありがとうございました。わたし、もっと前向きに生きていきます」
「あら、十分前向きに見えるわよ。だって毎日純平といちゃついてるし」
「あの、安田さん純平さんの事はもういいんですか?」
「良いも悪いも、相思相愛のあなた達の、どこに付け入る隙間があるって言うの? 一ミリも無いわ」
そう言うと、安田さんは残りのコーヒーを飲み干した。
「あらもうこんな時間。そろそろ出ましょうか」
「はい。今日はご馳走様でした」
「何かあったら、わたしの事も頼ってね」
「ありがとうございます」
車で家まで送って貰った。
意外にも、安田さんの家は近くて、純平さんが出張でいない時は、自分が迎えに来るとまで言ってくれた。
ありがとうございます。
奈々美の事は許す事は出来ないけど、同じ会社の一員としては普通に接する事が出来そうです。
家に戻ったわたしは、早速純平さんに報告した。
黙って聞いていた彼は、最後に
「安田って、良い奴だな」
って、言っていた。
純平さんが関わった人は、きっとみんな良い人なんだよ。
安田さんを見て、あらためてそう思った。