基準値きみのキングダム




「……杏奈」




お砂糖をまぶしたみたいな深見くんの声が、耳もとにそっと降りかかった。

甘く痺れて、動けない、麻痺したみたいに。




思わず深見くんの背中に回した手で、シャツをきゅっと握ると、深見くんは瞳を熱に揺らす。



そして、そっと持ち上げた手で、私の顔の横の髪に触れた。





「……っ、ぁ」





はらり、落ちた長い髪を深見くんの指先がするりと絡めとって。


ゆっくりと丁寧に、耳にかけ直してくれる。



頬に深見くんの親指が触れて、その淡い感触に思わずぴくんと震えると、深見くんは我に返ったようにパッと手を離した。



名残惜しい、なんて思っちゃだめだ。





「……測れた?」

「……う、ん」








こくんと頷くと、深見くんの体が離れていく。

心臓はまだうるさくて、鳴り止まない。

深見くんは視線を逸らして、ぱたぱたと手で扇ぎながら。




「暑っついな」




と呟いた。



……暑いよ、深見くんのせいで。



こんな風に心臓を大暴れさせているのは、私の方だけなんだと思うと、今度はツキンと痛みが走る。切なくなった。





「衣装さ、どんなのになるんだろうな」

「深見くんならなんでも似合うと思うけど……」








「ふは、褒め殺すじゃん」



だって、事実だよ。



私とは違うもん。

深見くんのことは、みんな見たいって思ってるんだから。




「見たい」

「……え?」

「だから、俺は、杏奈がどんな衣装着るか見たいって話。杏奈はこういうの苦手だろうから、くじ引きあてて、内心絶望したんだろうけど」





憂鬱が、たった一瞬で、溶けてなくなるなんて変なの。



代わりにまた心が甘く疼き始める。

深見くんと一緒にいると、体中が変だ。



目はチカチカするし、頬は熱いし、胸はぎゅっとなるし。





「……文化祭、楽しみ」




ほろっとこぼれ落ちたのは、本心だった。





「な」





と深見くんがテノールで同調して、また、心臓が飛び跳ねた。








𓐍
𓈒




「わあ、森下さんのお弁当、今日もかわいい〜!」





安曇さんの感嘆の声に、どれどれ、とみんなが集まって私の手元を覗き込んでくる。


恥ずかしくなって、お弁当の蓋を閉じると「なんで隠しちゃうの」と安曇さんがふてくされた。





「これは京香の……、妹のお弁当の練習をしてたら、楽しくなっちゃって」




お花の形にくりぬいたにんじんに、くまの形に盛りつけたごはん。



京香の喜ぶ姿がかわいくてキャラ弁に挑戦してみたら、案外、私の方がのめりこんでしまって、最近はレパートリーを増やそうと研究中なのだ。



だけど、高校生にもなって、このお弁当はファンシーすぎたかもしれない、と思っていると。




「なんで? いいじゃん、かわいいは正義だよ。私なんて、毎日コンビニ飯で彩りもあったもんじゃないんだから」








プレハブの防音室。


1度訪れて以来、お昼ご飯にたまに誘われるようになって、最初に感じた落ちつかなさは、回数を重ねるごとになくなった。


私が混ざっていることにも、みんな違和感を覚えなくなってきたみたい。




「妹と、あと弟もいるんだっけ? 何歳なの?」

「妹が小1で、弟は中2」

「へ〜、けっこう年の差あるんだね。かわいい?」




首を傾げた安曇さんに、ぶんぶん首を縦に振る。




「うん、かわいいよっ。毎日かわいい盛り」




京香は言わずもがな。


奈央は……たぶんかわいいなんて言ったら「子供扱いすんな」って不機嫌になるだろうけど、私にとってはやっぱりかわいい弟で間違いないのだ。


勢いよく肯定した私に、安曇さんが吹き出す。




「ふはっ、親ばかならぬ、きょうだいばか?」

「……そうかも」








「ふふ」



くすくす笑った安曇さんは私のすぐ隣にまでやってきて、すとんと腰を下ろした。




「なんか、森下さんって、話しやすくなったよね」

「っ、えっ?」



「雰囲気が柔らかくなった? というか……。最初にここで話したときは、近寄りがたいオーラ出てたもん。冷たそうっていうか、正直言って仲良くなれなさそうっていうか」




ああ……、と納得する。

それは、いつも言われることだったから。



やっぱり私は、と思ったところで「でも」と安曇さんが言葉を続けた。





「最近、なんか、こうぐっとわかりやすくなった。────で、気づいたんだけど、森下さんってめちゃくちゃピュアでしょ」



「えっ? そう、かな」



「そう、今どき珍しいくらいだよ? もともとすごーく純粋な子なんだなってやっと気づいた。なかなか見抜けないくらい、あんた、鎧着込んでたんだから」





鎧、かぁ。



着込んでいた自覚はあるし、脱ぐのを諦めていた自覚もあった。

どうせ、わかってもらえないからって。








「まあ、まだまだ分厚いけど。まだまだ、硬い殻かぶってるなって思わなくもないけど……最初よりはマシ。表情も柔らかくなった気がするし。それって、なにか、きっかけとかあるの?」





興味本位、といった感じで安曇さんが首を傾げる。



自分の変化には自分じゃなかなか気づけない。

首をひねって考える。



きっかけ。

きっかけ……が、あると、したら。





近衛くんと他愛ない話で盛り上がっている、その人にちらりと視線を送る。


アッシュブラウンの髪、色素の薄い瞳、誰もが羨む “王子様” 。



そのとき、プレハブの扉がガチャリと開いて。





「深見、いる?」

「おー、なに?」

「深見に用あるって、2年の女子が教室まで来たんだけど、お前いなかったから呼びに来た」

「2年? 誰?」









「知らん。委員の後輩って言ってたけど。とりあえず、その子、中庭んとこで待ってるって」

「あー……マジか。わかった」




深見くんは立ち上がって、ふらっとプレハブから出て行く。


扉がパタンと閉まると、一瞬、防音室が静まり返って。




「あれは告白だな」

「100パーそうだろ。あいつ、モテっからな」

「しかも後輩? やるねえ」

「ヒュ〜〜ッ、熱っ」




やいのやいの好き勝手、盛り上がる。



深見くんがこんな風に、たくさん告白されているのは情報として知っていたけれど、実際呼び出される場面を目の当たりにしたのは、はじめてだった。



どろりと黒いなにかが、胸のなかに流れこんでくる。





「恭介、今回も断るんかな」

「断るんじゃない? ていうか、今まで勝率0パーなのに告る女の度胸がすごいと思うよ俺は」



「よっぽど好きなんだろ。あと、時期?」

「あー、夏休みだしな。わかるわー、長期休暇って人肌恋しくてたまんねーもん。俺も彼女欲しー」




夏休みは気づけばもう半分を過ぎている。

今日は、文化祭準備のための、久しぶりの登校日だった。









ギラギラと照りつける夏の日差し。



その下で、今、深見くんは、後輩の女の子から気持ちを打ち明けられているのかな。

「好き」って。




思わずきゅっと手のひらを握りしめる。

と、同時に誰かがすくっと立ち上がった。





「美沙? どこ行くの」




安曇さんの問いかけにも答えず、上林さんは小走りに防音室から出ていってしまう。

それは、まるで、さっき出ていったばかりの深見くんを追うように。




「あー、あれは恭介んとこ行ったな」

「美沙ちゃんも健気だよねー」




ベースのチューニングをしながら、近衛くんが感心したように呟く。

他のみんなも、頷いて同調した。





「俺的には、美沙と恭介はいつか付き合うんじゃね? って思ってんだけど」