基準値きみのキングダム



知ってる、と言い切った俺に奈央は目を見開いた。

それから俺をまじまじと見つめて、すべて悟ったように少し笑う。




「姉ちゃんのこと、好きなんですね」




弟のが、よっぽど察しいいな。

ふ、と口元が緩んだ。




「ばれたか。杏奈には内緒にしといてよ」




小指を差し出すと、奈央は「わかりました」と自らの指を絡める。

男の約束がたった今、交わされた。




別に、隠しておく必要はないけれど、どうせ伝えるなら自分の口でがいい。

弟とは正反対で鈍すぎる彼女が、俺の気持ちを知ったときにどういう反応をするのか、この目で見たい。



そう思うほどには。



好きなんだよな。


目の前のこの子に、森下杏奈に、惚れてる。

じゃなきゃ、わざわざこんな足繁く通わねえよ、家にまで。








「……姉ちゃんが過剰なまでに強がりなのは、俺らのせいでもあるんです。母さんがいなくなって、父さんが忙しくなって、そのとき俺と京香はひとりじゃなにもできないくらい幼かった。だから、俺らのために早く大人にならなきゃって」




奈央はゆっくりと、杏奈の方に視線を戻す。




「姉ちゃんは、俺らには弱いところを見せてくれない。たとえ、俺らがいいよって言ったって、絶対に甘えようとしない。……だから、恭介くんが甘やかしてやってほしいんです」




言われなくても。



甘やかしたい。甘えてほしい。

杏奈は、もっと人に甘えることを覚えていい。

そう思う、……けど。






『もう、帰っちゃうの……?』





上目づかいに細く揺れた声、あまりにも破壊力の高かった “甘え” をふと思い出して、独りよがりに葛藤する。



甘えてほしい────できるなら、それは、俺だけにしてほしい。



たぶん、俺はけっこう面倒くさい男だ。





「気になったんですけど」

「ん?」

「恭介くんって、姉ちゃんの、どこを好きになったんですか」

「あー、それは、……ひみつ」





不服に唇をとがらせた奈央に、ふっと笑う。



教えねえよ。


だって、そんなもん弟にぶっちゃけるとかさすがに小っ恥ずかしいし、なにより。



それはまず、本人に聞かせたいと思うから。








𓐍
𓈒

SIDE/ 森下杏奈



次に起きたときには、もう真夜中で、当然、深見くんは帰ったあとだった。



その代わりに、ベッドのそばに「お大事に」って、深見くんらしいさらりとした字のメモが残されていて、その小さな紙を思わず胸の前でぎゅっと抱きしめた。

たった4文字が、心強くて、お守りみたいで。




そして翌朝には熱は下がっていたけれど、奈央に言われるがまま、大事をとってもう1日欠席することに。




結局、2日も休んでしまった。


病み上がり、久しぶりの教室だ。



まだ本調子じゃないけれど、そうも言っていられない。


休んだ分、今日から頑張らないと、と気合いを入れて立ち上がったのだけれど。





あれ……?

おかしいな。




次は化学の授業だから、移動教室のはず。

なのに、クラスメイトは誰ひとりとして教室から動こうとしない。




化学の教科書を抱えたまま、きょろきょろと周りの様子を伺っていると、隣の席の近衛くんのいぶかしげな視線に捕まった。









「何してんの? 次、ホームルームだけど」

「へっ」

「授業変更。あー、杏奈ちゃん休んでたから、聞いてないのか」

「初耳……」





そっか、学校を休むとこんな風に浦島太郎みたくなることもあるんだ。

ひとりだけ移動教室だと思っていたのは、ちょっと恥ずかしい。



慌てて化学の教科書を机にしまって、着席した。




でも、この時期にホームルームって、何をするんだろう。




近衛くんにちらりと視線を向けると、それに気づいた近衛くんは

「聞きたいことあるなら言えばいいのに。杏奈ちゃんってよくわかんないとこで謙虚だよなー」

と頬杖をついたまま目を細めた。




それから私の疑問に答えてくれる。






「文化祭について色々決めるってさ」

「文化祭?」

「そ。もうそんな時期らしいねー。俺ら3年は最後の文化祭だし、気合い入れて話し合うんじゃない?」





想像しただけでダルいわー、と近衛くんは机に突っ伏して、ちょうどそのタイミングで授業開始のチャイムが鳴った。








𓐍
𓈒




「えー、というわけで多数決の結果、クラスの出し物は “コスプレ写真館” に決まりましたー」




文化祭実行委員の中辻くんが黒板に並んだ正の字を数えてそう言うと、パチパチと拍手が起こった。




私たちの高校の文化祭では各クラス、抽選によって「ステージ発表」、「教室展示」、「食品模擬店」の3つのうち、どれかに割りふられて、それで出し物をするの。




私たちのクラス、3年4組は教室展示の担当になった。




そして数十分にわたる議論と多数決の結果、その内容は「コスプレ写真館」に。



教室に背景セットを作って、当日には衣装を貸し出して、記念撮影ができるフォトスポットにするんだって。



アイデアを出した子を中心に話し合いは白熱していたけれど、私は見守るだけ、それから最後に多数決でちょっと手を挙げただけの人だった。




でも、文化祭みたいなイベントは嫌いじゃない。


顔に出ていない自覚はあるけど、わくわくするしそわそわするし、待ち遠しいって思うタイプなの、実は。




ただ、目立ちたくはないし、せいぜい裏方にいそしむくらいでちょうどいい────と思っていると。








「じゃー、次。今年も例年通り、2日目に服飾部主催のファッションショーがあります。……ってなわけで、男ひとり女ひとり、俺らのクラスからも出なきゃなんねえ、です」




中辻くんは、丁寧語とタメ口が入り交じった口調で説明を進めて、それからわしわしと困ったように頭を掻きながら。





「えーと、立候補、いたら、挙手!」




誰の手も挙がらない。


しーんと静まり返った教室、さっきまでクラスの出し物であれだけ白熱した話し合いが繰り広げられていたのが、嘘みたいだ。




なるほど、今日のホームルームの本題は、ここかららしい。


文化祭の話し合いのためだからって、化学の授業を1時間まるまるホームルームに変える必要あるのかなってちょっと疑問だったけど、これなら頷ける。



……というのも。





「出たよー、“実質ミスコン” 」





頬杖をついたまま眼鏡の奥の瞳を少し細めて呟いた近衛くんの声を、私の耳は器用にひろった。








毎年恒例、文化祭2日目の大目玉、体育館で開催されるファッションショー。



吹奏楽部がステージでミニコンサートをするのと同じで、このファッションショーも、もともとは服飾部の出し物。



服飾部の部員がめいめい作った衣装を発表する場で、観客の投票で “男子の部” “女子の部” それぞれグランプリ衣装が決まる、というものだったのだけれど。





衣装をおひろめするには、モデルが必要。

そのモデルは3年生の各クラスから男女ひとりずつ選出するという伝統(?)になっていて。

それを代々、美男美女が担当してきたものだから。




本来はいちばん素敵だと思った衣装に投票するイベントだったはずが、次第に衣装関係なく顔投票、つまりモデルの人気投票に。




要するに、服飾部のファッションショーは、生徒の間ではもっぱら “事実上のミス&ミスターコン” として知れ渡っているの。




とはいえ、1・2年生の間は遠巻きに見ているだけの、まったく無縁のイベントだったわけで……。


こうやって実際、クラスの中から、あのファッションショーの出演者を募るのは、はじめてのこと。


こんなところで「そっか、もう3年生なんだ」って実感する。





「やっぱ、立候補はさすがに出ないよなー」





静かな教室をぐるりと見渡して、中辻くんが「だよな」と頷く。



こういうイベントに飛びこんでいくのが好きなひとも一定数いるはずだけれど、あいにく、私たちのクラスにはいない。



それは想定内だったようで、中辻くんはまた声を張り上げた。





「じゃー、次、他薦!」







教室がざわつく。



ええと、こういうとき推されそうなのは────……とひそかに教室中に視線を走らせながら、考えて。




あ、と目が止まる。



たぶん、クラスメイトみんな同じことを考えて、同じひとを見ている。

視線が集まったのは、教室のいちばん前、ど真ん中。



そしてその様子に「あは、ウケる」と言いながら手を挙げたのは、私の隣の席のひとだった。





「うし、近衛、どーぞ」




中辻くんに指名された近衛くんは、愉しそうに口角をにっと上げて、それはそれは悪い笑みで。




「深見恭介くんを推薦しまーす、えー、理由は特にな────いや、あったわ。理由は、圧倒的に顔がいいからでーす」




近衛くんの間延びした声に、どっと笑い声が上がる。







「賛成」

「ナイスー」



なんて、ちらほら賛同の声も聞こえてきて、当の、教室のいちばん前ど真ん中に座る深見くんは



「おい椋、お前調子乗んな」



と文句を言いつつ、みんなの方を振り向いた。


するとさらに、どっと教室が湧く。



一気にこんな和やかな雰囲気にしてしまえるのは、中心にいるのが深見くんだからだよね。

他の人だったら、こうはならない。




「ってことで、深見、出演決定でオーケー?」

「あー、別にいーよ。そんくらい」

「マジ? 正直すげえ助かるんだわ」

「その代わり、今度なんか奢ってよ」

「上限学食のアイスで頼む」




気だるげに、だけどすんなり快諾した深見くんに目を見張る。

きっと、こうやって注目を浴びることに慣れているのもあるのだろうけど、それでも、すごいよ。




慣れていたとしても、気乗りするわけじゃないと思うのに。

みんながためらうことを、求められたことを、さらっと引き受けてしまうところが、ずるい。格好いいもん。