イケメン不良くんは、お嬢様を溺愛中。

「ここ、港だったんだね」


眼下にはザブンザブンと波音を立てている海が広がっている。


「いたぞ!」


呆然と海を眺めていると、声が聞こえた。

振り返ると、バルコニーに続く廊下にいた男たちがこちらに走ってくる。

どうしよう、見つかっちゃった!

逃げ場を失った私たちは、追い詰められて顔を見合わせる。


「剣ちゃん……」


私はすがるように、つないでいた手に力を込める。
この温もりを失いたくない。


「愛菜、大丈夫だ」

「え?」


前方からは男たちが走ってくるし、後ろにはどこまでも広がっている青い海。

この絶体絶命の状況で、大丈夫なわけがない。

なのに、剣ちゃんは不敵に笑っていた。


「愛菜、俺を信じるか?」

「うん」

1秒も考えずに答えた。

「じゃあ、しっかり俺につかまってろよ!」


そう叫んだ剣ちゃんは私を抱き上げると、2階のバルコニーの手すりに足をかけて、勢いよく飛び降りる。

――バッシャーン!

息を吸う間もなく、海面に叩きつけられる。

身体が痛い。
息もできない。
溺れちゃうっ。

手足を動かしても、身体は沈んでいく。

すると、剣ちゃんはグイッと私の腰を引き寄せた。

そのまま、酸素を分けるように唇を重ねてくる。

んっ……。
あったかい、ほっとする。

剣ちゃんのぬくもりが冷えた身体に染み渡っていくのを感じながら、私は海面に引き上げられる。


「ぷはっ」


水の中から頭を出してすぐ、肺いっぱいに空気を吸い込む私を抱えながら、剣ちゃんは沖へ泳いだ。


「はっ、は……愛菜、俺の首に腕回せ」


言われた通りに剣ちゃんの首にしがみついたとき、目の前に白いボートが停まった。


「お嬢様っ、ご無事ですか!」


ボートを運転していたのは、うちで雇っていた警備員さんだった。

なんでも、私のスマホのGPSを頼りに助けに来てくれたんだとか。


「間に合ったようでなによりです」


警備員のひとりが浮き輪をこちらに投げてくる。

剣ちゃんは片腕で私を抱えたまま、それにつかまった。

私たちは船上に引き上げられると、ひと息つく。


「この毛布を使ってください」


警備員さんは私たちに毛布を渡すと、急いで操舵室に戻っていき、周りにてきぱきと指示を出した。

船が動き出して、私は剣ちゃんと甲板から遠ざかる港を見つめる。


「私たち、助かったんだね……」


剣ちゃんを見れば海に飛び込んだときに痛めたのか、渋い顔で肩を押さえていた。

私は重い身体を動かして、自分をかばってくれた剣ちゃんの頬に手を当てる。


「痛い思いさせて、ごめんね。助けてくれてありがとう」

「お前はまた、そうやって謝る。しかも、泣きそうじゃねぇか。ったく、自分のために泣けよ」


剣ちゃんは私の顔をいつもみたいにゴシゴシと荒っぽい手つきでふいた。

でも、ふいてるそばから涙がポロポロこぼれてこぼれて止まらない。


「お前、意外と泣き虫だよな」

「剣ちゃんの前だけだよ……弱い自分も、全部見せられるんだ」

そう言えば、剣ちゃんが息を呑むのがわかった。

「あーもう、なんなんだよ、お前!」

剣ちゃんはいきなり、私の身体をかき抱く。

「わっ、剣ちゃん!?」

「俺に心許してくれてるって言うなら。痛い思いさせてごめんとか、謝るんじゃねぇよ」

背中に回った腕に力が込められる。

「お前見てると、守らねぇとって強く思うんだよ。だからこそ、無茶できたんだ。いいかげん、わかれよ」

息ができないほどの抱擁。

でも私は、その苦しささえも愛おしかった。


「お前が、愛菜が、いつものほほんとしていられるように、俺がお前を傷つけるやつ全部ぶっつぶしてやっから」

「うん……」


剣ちゃんの想いに胸が熱くなる。

イラついたから、憂さ晴らしに誰かをやっつけるんじゃなくて、剣ちゃんは私を守るために戦ってくれるって言ってくれた。

どうしよう、うれしい……。

自然に笑顔がこぼれたとき、ふと剣ちゃんの顔が近づいてくる。


「え……」


驚く間もなく、誓うようにそっと私の額に剣ちゃんの唇が触れた。

これって……これって、キス!?

瞬時に心拍数が跳ねあがる。

どうして、なんで!?

疑問符が頭の中をぐるぐると駆け巡って、剣ちゃんを見上げれば、真剣な瞳がそこにある。

顔が熱い……。

額に触れただけなのに、意識が飛んじゃいそうなくらいドキドキしてる。


「わりぃ、嫌だったか」


固まっている私になにを勘違いしたのか、剣ちゃんは申し訳なさそうに身体を離す。

あっ、違うのに……。

私、剣ちゃんに触れられてうれしかった。


「嫌、なんかじゃないよ」


私は勇気をふりしぼって、剣ちゃんの気持ちに応えるように、その頬にキスを返した。


「おまっ、なにして……」


目を白黒させて頬を押さえる剣ちゃんの顔は、ほんのり赤い。

なんだ、恥ずかしいのは私だけじゃなかったんだ。
その事実にすごくほっとして、すぐにくすぐったい気持ちになる。


「り、理由は聞かないでね。じ、自分でもよくわからないけど、剣ちゃんに触れたくて……」


しどろもどろに気持ちを伝えていると、剣ちゃんが私の肩をつかんだ。


「愛菜……」


切なげに呼ばれた名前に、胸が騒ぐ。

あぁ、そっか。

私は剣ちゃんに対してだけ抱く安心感の理由に気づく。


「愛菜」


たまらずといった様子で、私の顎に手をかける剣ちゃん。

その瞳には、焦がれるような熱が見え隠れしている。

私といたら、剣ちゃんは危険な目に遭う。

それがわかっていても、剣ちゃんだけは手ばなせない。

彼を受け入れるように、私もそっと目を閉じる。

何度も命がけで守ってくれて、少しずついろんな表情を見せてくれる剣ちゃんのことが、私は……。

――好きなんだ。

気持ちを自覚した瞬間に、重なる唇。

初めてのキスに頭の中が真っ白になった。

波音さえも遠ざかって、聞こえるのはお互いの吐息と自分の壊れそうなほど高鳴る鼓動の音だけ。

――好きだよ、剣ちゃん。

それしか考えられないくらい。

命を狙われていたことなんて忘れちゃうくらい。
どうしようもなく、好き……。
翌日、誘拐されたものの軽傷ですんだ私と剣ちゃんは普段どおり学園に登校していた。

今は外でキャンバスを並べて、美術の自由デッサンの授業中だ。

昨日の話をしたら、学くんは少しほっとしたように私と剣ちゃんの顔を見比べる。


「学園ジャックの次は、誘拐か。命が助かっただけでも、不幸中の幸いだな」

「ケンケン、愛ぴょんを守るなんて、さっすがナイト!」


萌ちゃんの中で、剣ちゃんのケンケン呼びが定着したみたい。

当の本人である剣ちゃんは、複雑な顔をしてるけど。


「花江、お前は黙っていろ。で、森泉と矢神をさらった人間に覚えはあるのか?」


「あのときは逃げんのに必死だったからな、わからねぇ。ただ、見張りの男たちは若かった。たぶん俺らとそんなに変わらないくらいだ」


剣ちゃん、あの状況でそんなところまで記憶してたんだ。

驚く私には気づかずに、剣ちゃんは腕を組んで難しい顔をする。


「警備万全のこの学園に侵入したやつらの件もだけどよ、ここは簡単に不審者が入れる場所じゃねぇだろ?」

「そうだな。詳しくは言えないが、学園のセキュリティは警備員含め優秀で万全だ」


詳しく話せないようなことを知ってる学くんって、何者なんだろう。

生徒会長の枠を超えてる気が……。


「閣下、恐るべし」


私と同じ気持ちだったのか、萌ちゃんが小声でそう耳打ちしてきた。

その間にも、ふたりの話は進む。


「立て続けに愛菜が襲われたことといい、俺は校内の人間の仕業じゃねぇかと思う」

剣ちゃんの推測に私は愕然とする。

「そんな……この学園に私を狙ってる人がいるの?」


私は外でデッサンしているクラスメイトや校庭で走っている生徒たちを見る。

もしかしたら、この中に私を狙っている人が……?

また関係のない人たちを危険な目に巻き込んじゃったら、どうしよう。

不安が渦巻く胸を服の上から押さえると、頭にこつんっと剣ちゃんの拳が当たる。


「お前は余計なこと考えんな。いつも通り、のほほんとしてろ。疑うのも警戒すんのも、俺がすればいい」

そのやりとりを聞いていた学くんと萌ちゃんは顔を見合わせた。


「森泉への過保護ぶりに拍車がかかっているな」

「愛しちゃってるんだね~」


にやにやする萌ちゃんに、剣ちゃんの眉間には深いしわが寄る。

なにもしてないと嫌なことばっかり考えちゃうし……。

私は気を紛らわすように、キャンバスに筆を走らせる。

花壇に咲く花を見て描いていると、私のキャンバスを覗き込んだ剣ちゃんが顔をしかめた。


「どうしたら、そんなに花が毒々しくなんだよ」

「森泉は絵の才能は皆無だからな」


すかさず学くんもつっ込む。

ふたりとも、ひどい。
そんなに下手かなあ?
今回は我ながら、力作だと思ったんだけど。

ずーんと沈んでいると、萌ちゃんが私の肩を抱く。


「ち、ち、ちー。見る目ないな、ふたりとも。このへんてこりん加減が才能でしょ」

ねー?とハイタッチしてくる萌ちゃん。

喜んでいいのかな?

疑問に思いつつも絶句している男子たちをよそに、私は「ありがとう」と萌ちゃんに抱きついた。



美術の授業が終わり、教室に戻るために廊下を歩いていると前から雅くんがやってきた。


「愛菜さん、大変な目に遭ったんだって?」

「え? どうしてそのことを……」

誘拐されたこともあって、勘ぐってしまう。

「父さんに聞いたんだ。でも、俺が思うに、きみが悪い子だから狙われちゃったんじゃないかな?」


雅くんが私に手を伸ばそうとしたとき、目の前に剣ちゃんが立つ。


「ずいぶん、含みのある言い方するんだな」

「はぁー、またきみか。本当に目障りだね。俺は今、愛菜さんと話をしてるんだけど、邪魔しないでくれるかな?」


言葉に反して、笑顔を浮かべている雅くんにゾワッと鳥肌が立つ。

けれども剣ちゃんは動じることなく、雅くんから視線をそらさない。


「聞き捨てならないような話だったからな。お前、やたらと絡んでくるけど、こいつの親父が嫌いなんだろ?」

「別に森泉先生に限ったことじゃないよ。俺は、俺を退屈させる人間が嫌いなんだ」

「だったら、なんでこいつにちょっかいを出す? お前を退屈させるからか?」


剣ちゃんが問い詰めると、雅くんがぷっと吹きだした。

それからお腹を抱えて、「はははっ」と盛大に笑いはじめる。


「彼女の平和主義なところは、たしかに退屈だけど、どんな目に遭っても純真さを失わないところには大いに興味があるんだ。退屈だと思ってたのに、今じゃ癖になってる」


それを聞いた剣ちゃんが目を丸くしたあと、少し呆れたように口を開く。


「お前それ、こいつのことが好きってことか?」

「ええっ」


私はびっくりして、叫んでしまった。

剣ちゃんの言葉を受けた雅くんは、私をちらりと見ると納得したような顔をする。


「ああ、なるほど。きみをけがしたくてたまらないって感情は恋だったんだ。どうりで気になるわけだ」

「だいぶ、ゆがんでるけどな」

「なら、ますます欲しい」


雅くんの粘ついた視線が向けられて、私は剣ちゃんの背に隠れる。


「あのな、こいつを好きになるのは自由だけどよ、お前の勝手な気持ちを一方的に押しつけんのは違うだろ」


剣ちゃんは、きっぱりと雅くんに言ってくれた。

それを頼もしく思いつつ、少しだけ寂しさが胸をよぎる。

雅くんが私を好きでも、剣ちゃんは平気なんだな。

剣ちゃんは私のこと、どう思ってるんだろう。

同じ気持ちだったなら、いいのに。

そんなことを考えてすぐに、私はぶんぶんと首を横に振ると邪念を振り払う。

キスはしちゃったけど……。

あれはきっと、危険な目に遭ったあとだからだ。
人に触れて安心したかったから。

だから、剣ちゃんは私を好きなわけじゃない。

ただ守ってくれてるだけ。

そんなこと、初めからわかってたことだし……。

それ以上を求めるなんて、ダメだよね。


「きみにとやかく言われたくないよ。俺は俺の方法で、愛菜さんを自分のものにする」


そんな雅くんの声で、物思いにふけっていた私は現実に帰ってくる。


「あのな、こいつは物じゃねぇんだよ。お前のゆがんだ愛情がこいつを傷つけんなら、俺も容赦しねぇぞ」


剣ちゃんの声にも、どこかイラ立ちがにじむ。

それを無視して、雅くんは私を見つめた。


「俺たちは政治家の子どもだからね。事件に巻き込まれやすい立場にあるし、お互いに気をつけよう。じゃあまた」


雅くんは意味深な言葉を残して、私たちの横をすり抜けていく。


「あいつ……執着してるうちに、お前のことが好きになってたんだな」

「まさか、ありえないよ。雅くんの好きは、恋とはちょっと違う気がする」


雅くんの口から聞いてもなお信じられないのは、想われているというのに、それを聞いて心が冷たくなる感覚があるから。


「うまく言えないんだけど、恋ってもっと温かいものじゃないのかな?」


私は剣ちゃんのことが好きだって気づいたとき、どうしようもなく胸が熱くなった。

でも雅くんは私を好きって言いながら、目が冷たいままだった。


「人を好きになるって、理屈で説明できるものばかりじゃねぇだろ。憎いも嫌いも、愛情の裏返しだったりする」

「雅くんの執着も?」

「そうだ。そこから恋に変わることだって、無きにしも非ずじゃねぇの?」


そっか、いきなり人を憎んだり、執着したりはしないもんね。

好き、気に入られたい、仲良くなりたい。

そういう気持ちが根本にあるからこそ、その人が嫌いになったりするって剣ちゃんは言いたいのかな。

ちょっとしたきっかけで、どちらにも転びうる可能性があるのが人の心なのかもしれない。


「なんとなく……わかったかも」

「わかったならいい。とにかく、ひとりのときはあんましあいつに近づくなよ。危ない思考には変わりねぇからな」

「う、うん」


雅くんのこと、なにも知らないうちから申し訳ないけど……やっぱり、苦手だな。

それでも、あの人を理解できる日がくるんだろうか。

私は複雑な気持ちを抱えながら、雅くんの背中を見送ったのだった。



――数日後。

私は放課後に図書室にいた。

剣ちゃんと一緒に帰るはずだったのだけれど、授業の小テストの結果が悪かったので、常連の萌ちゃんと一緒に再試験を受けているのだ。

剣ちゃんを待って読書をしながら時間をつぶしていると、そこへ雅くんが現れる。


「あれ、今日はボディーガードの彼はいないんだ?」

「う、うん」


剣ちゃんに近づくなって言われたのに、どうしよう。

緊張しながら、席を立つ口実を考える。

そんな私に気づいているのかいないのか、雅くんは苦笑いしながら、近寄ってきた。


「ここ、いい?」


私の隣の席の背もたれに触れる雅くん。

断るのも感じ悪いよね。

仕方なくうなずくと雅くんが隣の椅子に腰かけた。


「俺がきみのお父さんと敵対する派閥の政治家の息子だから、警戒しちゃうかな? それとも、俺自身が怖い?」

「えっ!?」


私の気持ち、見透かされてる? 
やっぱり、態度に出てたんだ!

私は雅くんのほうに身体を向けて、バッと頭を下げる。


「ご、ごめんなさい!」

「愛菜さんは素直だね」


くすくすと笑う目の前の雅くんからは、いつもの不気味さがない。

私が雅くんのことを誤解してただけなのかも。

ちゃんと、話してみたいな。

怖い気持ちはいったん胸の奥にしまって、私はいつもならそらしてしまう雅くんの目をしっかり見つめる。


「私、雅くんのことをなにも知らないのに勝手に怖がって……本当にごめんなさい。今からでも遅くなければ、お友だちになりませんか?」


握手を求めるように手を出すと、雅くんはうつむいた。


「きみはやっぱり、森泉先生……お父さんに似てるね」


雅くんの肩が小刻みに震えている。

まさか、泣いてる!?
私、そこまで雅くんを追い詰めてたんだ……。


「雅くん、本当にごめんね」


下を向いた雅くんのことが気になって、私はその顔を覗き込む。

すると、雅くんはゆがんだ笑みを浮かべていた。


「剣斗くん、だっけ? 彼から忠告されなかった? 俺に近づくなって」

「それ、は……」


はっきり肯定するのは気まずくて言いよどんでいると、雅くんはくすくすと笑った。


「なのに近づいてくるなんて、怖いもの知らずなのかな。それとも俺を信じてくれてるの? そのどっちもか」


雅くんは勝手に納得した様子で、私の返答を待たずにどんどん話を続ける。


「人を疑わないにもほどがあるよ。あ、あとね。俺、きみとは友だちになりたくない」

「え?」


きっぱりと拒絶されて、私はショックを受ける。


「だって、俺はきみの恋人になりたいんだから」

「そんな冗談、笑えない」

「冗談じゃないよ。俺はきみと、もっと親密な関係になりたいんだ」


不意にガシッと手首をつかまれ、強く引っ張られる。


「きゃっ」


――なに!?

そのまま視界が反転して、私は椅子から落ちると図書室の床に背中を打ちつけた。


「いった……」

「痛い? ごめんね、加減がきかなくて」


薄っぺらい謝罪を口にした雅くんは私を組み敷いたまま、楽しそうに目を細めている。


「……っ」


私は雅くんを押しのけようとしたのだけれど、手首を頭の上でまとめるように押さえられてしまった。

しかも、雅くんにお腹に乗られているせいで身動きがとれない。


「雅くん、なんでこんなこと……」

「この体勢で、やることなんてひとつでしょ」


感情を映さない瞳が私を捉える。

身体の芯から凍りつくような恐怖を覚えた。

私は震えながら、目に涙を浮かべる。


「その顔、ぞくぞくする」


雅くんの手が私の制服のリボンにかかったとき――。

バンッと勢いよく図書室の扉が開いた。


「愛菜!」

飛び込んできたのは剣ちゃんだった。

「剣ちゃ……ん」

怖くて、かすれた声で名前を呼ぶと剣ちゃんは無言で私を押し倒している雅くんに向かって大股で歩み寄る。

そして、雅くんのワイシャツの襟をつかむとその身体を思いっきり後ろに押しのけた。


「ぐっ、乱暴だな」


投げ飛ばされる勢いで背中を図書室の床に打ちつけた雅くんは、それでも変わらず微笑を浮かべている。

それを見た剣ちゃんは忌々しそうに舌打ちすると、雅くんをにらみつけた。


「てめぇが投げ飛ばされるようなことをこいつにしたからだろうが」

「ごめんね。愚かなくらい愛菜さんがかわいくて、つい」


悪びれもせずに襟もとを直す雅くんに、剣ちゃんのまとう空気が張り詰める。


「言ったよな。てめぇのゆがんだ愛情がこいつを傷つけるなら、俺も容赦しねぇぞって」

「俺も言ったはずだよ。彼女をなんとしても手に入れるって。そのために手段は問わない」

「そうかよ」


今にも殴りかかりそうな表情で雅くんを一べつすると、剣ちゃんは私の前で腰をかがめる。


「剣ちゃん?」


呼びかけても返事がない。

怖い顔で唇を固く引き結んだまま、剣ちゃんは私を肩に担ぐと図書室の扉まで歩いていき、雅くんを振り向く。


「俺、犬並みに鼻が利くんだよ。だからな、その綺麗な顔、つぶされたくなかったら二度とこいつに近づくな」

「はは、怖いね」

「警告してやってんだよ。次、愛菜に変なマネしてみろ。今度は投げるだけじゃすまねぇからな」


相手を震え上がらせるような威圧感をはなって、剣ちゃんは私を担いだまま図書室を出る。

私は冷めない剣ちゃんの怒りを肌で感じながら、振り向いた。


「も、もう降ろして大丈夫だよ?」

「…………」

「重いでしょ?」

「…………」

「剣ちゃん?」


声をかけてもまったく返事をしてくれない剣ちゃんに、私は不安になる。

そのまま空き教室に連れていかれると、乱暴に床に下ろされた。


「痛っ……剣ちゃん、どうし……」


どうしちゃったの?

そう尋ねようとしたとき、床に座り込んでいる私に剣ちゃんがおおいかぶさってくる。

私の両手首を掴んで、動きを封じるように壁に押しつけた剣ちゃんは――。


「あっ」


まるでイラ立ちをぶつけるように、首筋に噛みつくようなキスをしてきた。


「や、やめ……んぐっ」


私の悲鳴は剣ちゃんの大きく骨ばった手にふさがれてしまう。


「いつもみてぇにぼさっとしてっから、あいつに押し倒されたんじゃねぇの?」

「んーっ」


どうしてこんなことするの!

なにも言えない私の首筋に、剣ちゃんは唇をはわせたまま続ける。


「あんまし、ほかの男に気を許してんなよ。でねぇと俺の歯形、消えねぇうちにまたつけるぞ。首輪みてぇにな」


剣ちゃんの歯が軽く肌に食い込む。

その表情は険しいのに悲しげで、胸がチクリと痛んだ。

こんな顔、知らない。
剣ちゃん、すごく怒ってるんだ。
でも、だからってこんなこと……。

剣ちゃんの気持ちがわからなくて、じわっと目に涙がにじんだ。


「んっ、やめて!」


私は泣きながら剣ちゃんの胸を突き飛ばす。

その拍子に尻餅をついた剣ちゃんは、バツが悪そうに私から目をそむけていた。


「剣ちゃんがなにを考えてるのか、なにを言いたいのか、全然わかんない! どうしてこんなこと……」

「愛菜……悪か――」

「ひどいよっ」


剣ちゃんの言葉を最後まで聞かずに、私は一方的に責めてしまった。

それに罪悪感が襲ってきて、私はたまらず逃げるように教室を飛び出した。