翌朝、夫も次男も何事もなかったように出勤して行った。そして私もいつも通り、2人を見送った。
別れよう、そう言った私に、夫は答えをくれなかった。まだ迷ってるのだろうか?もし夫が今夜、私の決心にノーと言ったら、どうなるのだろう。その時に、私の中に話し合う余地はまだあるのだろうか?
「今夜は少し遅くなる。夕飯はいらないから。スマンが、待っててくれ。」
そう言い残して行った夫。今日は長い1日になる。
溜まっていた家事を、昨日に引き続きこなして行く。少なくとも、自分の中では、はっきりと別離を決めた今、いろいろな思いが、湧き上がって来ることはどうしようもない。だからこそ、とにかく今は、身体を動かしたかった、作業に没頭したかった。
気が付けば、年末の大掃除並み、いやそれ以上の勢いで、掃除をしていた。飛ぶ鳥、跡を濁さず、もうそんな気持ちになってるのかもしれないと、ちょっと自分で苦笑いする思いになった。
そんなこんなをしているうちに次男が帰宅。久しぶりに2人で夕食を摂った。
初任給が出たからと、彼が私達を食事に招待してくれたのは、ほんの1ヶ月程前の話だ。去年の長男に続いて、次男からもそんなもてなしを受けて、1つの区切りを迎えたんだなぁと実感したのを思い出す。
これからは夫婦の時間を大切にしていこう、なんて考えていたのが、嘘のようだ。
次男も就職してから、間もなく3ヶ月。試用期間が終わり、正式登用されれば、今までのように、定時帰りばかりなんて、呑気なことは言ってられなくなるはず。
如才ない長男と違って、寡黙なタイプの次男は、あまり無駄口をきかず、今も黙々と食事をしている。
しかし、根は甘えん坊で、たった1歳の違いなんだけど、今にして思うと、私もやっぱり次男の方に甘かったかな、なんて思う。
独立心旺盛で、就職を機にとっとと、家を出た長男に対して、実家暮らしを選んだ次男。
私達が、正式に別れることになったら、この子はどうするんだろう。今更ながら、ふと心配になった。
食事が済むと、次男は自室に引き上げて行った。後片付けを済ませ、あとは夫の帰りを待つばかりなのだが、やはり落ち着かない。
と言って、テレビを点ける気にもならず、私は、時計とにらめっこしながら、夫を待つ。
そう言えば、今夜なぜ、夫は夕食を家で摂らなかったのだろうか?仕事、とは思えない。そうなら、そう言う人だ。
まさか・・・なんてことは、さすがに思わなかったが、何か釈然としない気持ちが湧き上がる。
カチャリ、鍵を開ける音がして、夫が帰宅して来たのは、10時を過ぎていた。
「お帰りなさい。」
私は少し慌てて、ダイニングで彼を迎える。
「ただいま、遅くなって悪かった。」
そう言って頭を下げる夫。
「お茶、煎れるね。」
そう言って、立ち上がろうとする私に
「いや、いい。」
と制止する夫、一瞬見つめ合った私達。
「座ってくれないか。」
「はい。」
いよいよ、この時が来たんだ。私は緊張して、座り直す。
「プロポーズの時以来、かな?」
「えっ?」
「朱美と話すのに、こんなに緊張するの。」
「・・・。」
そんな夫の言葉に、なんと返したらいいかわからなくて、ただ彼の顔を見つめてしまう。
「言ったことは、『朱美のことを心から愛してます。一生大切にして、必ず幸せにします。だから・・・俺と結婚して下さい。』だった。随分いろいろ頭を悩ませて、考えてたんだけど、結局は平凡でありきたりなセリフになっちゃって・・・。でもそんな俺の言葉に、『はい。』って朱美が頷いてくれた時、とにかく嬉しかった。あの時のことは忘れない、天にも昇るような気持ちで、なんか天下でも取ったかのように気持ちが高揚したのを覚えてる。」
「隆司さん・・・。」
「あの時は、自分がとんでもない嘘つきだなんて、気付くことが、出来なかったから、な・・・。」
そう言って、寂しそうな表情で俯いた夫を、私は息を呑んで見た。
「今日1日、時間をもらったのは、友達と会う約束してたからなんだ。そいつは離婚経験者でさ。覚えてるかな、4年前、朱美に感謝の気持ち伝えることにした、そのきっかけをくれた奴がいたって、話したよな。」
うん、覚えてる。
「本当は、もっと早くそいつと話したかったんだけど、相手が出張があったりして、なかなか時間が合わなくてな。やっと今日会えたんだ。」
「・・・。」
「いろいろ話聞いてもらって、『なんだよ、結局、全部お前のせいじゃねぇか』と言われてしまった。俺がプロポーズの時の言葉をキチンと守っていたら、こんなことにはなってない。1週間考えて、自分でもそう思ってたんだけど、ダメを押されたよ。」
そう言って、一瞬苦笑いを浮かべた夫は、でもすぐに表情を引き締めた。
「朱美。やっぱり俺達、ケジメをつけるべきだと思う。昨日、お前が言ってた通り、今の俺達にはもう信頼関係がない。信頼関係のない相手と、ひとつ屋根の下で一緒に暮らすのは、やっぱり無理だと思う。」
そう言って、真っすぐに私を見る夫。その視線に応えるかのように私は
「はい。」
と言って、頷いた。
「朱美、今まで本当にありがとう。そして・・・約束を守れなくて、すまなかった。」
そう言って私に頭を下げる夫。
「いいえ。私の方こそ、至らぬ妻で、申し訳ありませんでした。でも、今まで・・・幸せでした。ありがとう、ございました。」
こう言って、頭を下げた瞬間、涙が溢れ出して来る。
ガタン、部屋の外で音がしたと思うと、階段を駆け上がって行く音がする。だけど、私も夫も、その音を追うことは出来ず、ただ涙を流すことしか出来なかった。
翌朝は、始まりは、いつもと変わらぬ朝だった。夫と次男を送り出し、一通りの家事を済ませた私は、その後、外出をした。
今日から不動産屋さん巡り、そして仕事探しだ。結論を出した以上、もうグズグズしている時間はない。
思えば、私は一人暮らしの経験がない。当然、不動産屋さんに1人で行ったこともない。とても不安だったけど、そんな事を言ってる場合じゃない。
私が、この辺で新居を探すと言うと、夫は驚いていた。どうやら私が実家に戻ると思っていたようだ。
その方が楽かもしれないが、現実に1週間戻ってみて、隣近所から好奇な目で見られたのは事実だし、穏やかに老後を過ごしている両親の負担にもなりたくない。実家に帰るという選択肢は、私の中には全くなかった。
並行して、ハローワーク通いも始める。この齢で、働いた経験も数年しかない女が、正社員になれるとは思えないが、少しでも条件のいい仕事を探さなくては、生活していけない。
夕方には家に戻って、夕飯の準備。夫はもう俺のことは気にしなくていいと言っていたが、次男がいるし、正式に離婚したわけでもなく、現実に夫の稼ぎでまだ生活している以上、最後まで責任は全うしたかった。
夜はまた話し合い。いろいろ決めなくてはならないことも、相談したいこともある。
夫からは離婚に際して、弁護士を入れようと提案があった。最後に揉めるのは嫌だし、後々に禍根を残さないようにした方がいいとのことだったが、私は首を横に振った。
でも慰謝料の額とか、わからないじゃないかと言う夫に、私は慰謝料という名目のお金を、請求する気も、もらう資格もない。夫婦の共有財産を折半すればいいだけだよと答えた。
別れることになったけど、お金に汚いことは絶対にしない人だということは、長年夫婦をやっていて、わかっていたから。
私の方からは、今日の状況の報告。仕事はともかく、住む所は、今度の週末に一緒に探そうと言う夫。
お前が嫌じゃなきゃ、保証人は引き受けるし、生活が安定するまで、当面は家賃も負担させてもらうから、ここは口を出させて欲しいと言われ、少し考えたけど、ここは素直に甘えることにして、この日の話は終わった。
仕事については、以前勤めていたスーパーへの復帰も考えた。
勝手知ったる仕事だし、慢性的に人不足な職場だから、歓迎はされるのではないかとは思っていた。
だけど、相手は既にいないし、事情を知ってる人もいないとは言え、やはりいろいろ思い出したくないことを思い出すのも嫌なので、ハローワークの紹介で、近くのショッピングモールにある、衣料専門店のパートに応募することにした。
面接に行くと、30歳そこそこの店長が待っていて、履歴書を一読して、いろいろと質問される。
私のワケありの現状も、黙っているわけにはいかないから、包み隠ず話して、反応を待っていると、接客業の経験とフルパート希望と土日も働けるということが評価され、OKが出た。後日、正式契約に行った時、こちらの保証人はさすがに父親にした。
仕事が決まり、収入額の目処が立ったことで、住居の方に出せる家賃額が見え、借り手市場にも助けられ、築浅の手頃な物件が見つかった。
離婚合意からほぼ2週間で、ここまで来た。あっと言う間だった。
(いよいよ、だな・・・。)
そう思った時、今更ながら、胸に締め付けられるような痛みが走った。
いよいよ明日は引っ越し。20年あまり住んだ家には、自分の荷物がこんなにあったんだと、我ながら驚く。
当然、全てを新居に運び込むことなど、出来るはずもなく、また運び込む必要もなく、一部は処分し、一部は実家に送った。
共有の物については、家電を含め
「必要だと思うものがあったら、遠慮なく持っててくれて構わない。こっちは買い直せば、いいんだから。」
と言ってもらったけど、そう言われるとかえって遠慮してしまうものだ。
写真などの思い出の品も、やはり欲しいものは、遠慮なく。残りはこちらで保管するなり、処分するなりするからとのことだった。
そうこうしているうちに、次男、夫と相次いで帰宅。このところ、夫は家で全く食事を摂らなくなっていたが、今夜は最後なんだからと私から頼んで、夕食を共にすることにした。
夕飯の準備、家族で一緒に摂る夕食。何十年も当たり前のように続けて来たことを、もうこれでしなくなる、出来なくなるんだと思うと、やはり感慨もひとしおだったし、いろんなものがこみ上げて来るのは、抑えられなかった。
それでも、久しぶりに3人で摂る夕食は、特別なことを話したりすることはなく、いつものような雰囲気。それっぽいことは
「もう全部準備は終わったの?」
と次男から聞かれたくらいだった。
「ごちそうさま、美味しかったよ。」
夕飯が終わると、夫が笑顔でそう言った。
「明日は久しぶりに日帰り出張で早く出るから・・・朝食はいらないよ。」
そう言い残して、夫はダイニングを出て行く。続いて、次男もごちそうさまとポツンと言い残して、席を立ち、私は後片付けにキッチンへ入る。
何事もないかのように時が、過ぎて行く。
全てを終えたあと、私は1人ダイニングで、1枚の紙を見つめていた。緑色のその用紙を直前に夫から渡された。既に他の必要事項は全て記入されており、あとは私の署名捺印を残すだけの状態だった。
「間違いはないと思うけど、念の為確認してもらって、OKならサインをよろしく。本当は最後のケジメだから、一緒に出したかったんだけど、さっきも言ったように明日は早いんで、すまないけど、君が出してくれ。」
そう言って、足早に出て行く夫の姿を黙って見送った。
私達は高校の部活の先輩後輩から、スタートしているから、今まで夫から「君」なんて呼ばれたことはなかった。もう夫の中では、ちゃんと整理がついてるんだな。離婚を切り出したのは自分なのに、少し寂しく思ったのは、我ながら不思議だった。
1つ息をつくと、私はペンを握った。離婚にあたって、夫はほとんど私の要望を容れてくれた。貯金もほぼ私に渡してくれた。専業主婦で、収入がなかった私が離婚に際して、共有財産を多めにもらうのは、当然らしかったが、それにしても、気前がいいと思ってしまった。
だけどたった1つだけ、許してくれなかったのは、私が離婚後も現姓を使いたいと言った時だった。
「それは、ダメだな。」
夫は短くそう言っただけだったけど、私は自分の覚悟を問われた気がして、恥ずかしくなった。
恐らく最後の機会となる現姓名の記入をし、婚姻前の姓に戻り、新しい戸籍を作る旨を選択して、最後に押印した時、涙が溢れ出して来た。
「泣くくらいなら、そんなもん、破っちまえよ!」
突然飛んできた声に、ハッとして振り向くと、そこには厳しい表情をした次男が。
「なんでだよ。本当は2人とも別れたくなんかないくせに、なんでそうやって2人して、意地張ってるんだよ?ガキかよ!」
「清司・・・。」
そう叫んでいる次男の目にも涙が溢れている。
「母さん、いいのかよ?明日、それを出しちまったら、全ては終わるんだぞ。それで、本当に後悔しないのか?」
そう言って真っすぐに私を見る次男。私はその真っすぐな視線を受け止めきれなくて、視線を逸らす。
「父さんのこと、嫌いになったか?憎めたか?」
その次男の問いに、首を横に振る。
「だったらなんで・・・父さんだって、同じはずだよ。そんなの見てりゃわかるよ。なのに、なんで・・・わかんねぇよ。」
「・・・。」
「今日さ、最後にもう一度、2人を説得しようって、兄貴誘ったら、仕事忙しいからとか言いやがって。親が離婚するかしないかの時に、仕事もへったくれもないだろうって言ったら、俺達が口出しする話じゃないって。あんな冷血人間だとは思わなかったよ。」
憤りを隠せない次男。
「で、兄貴はどっちに付いていくんだって聞いたら、バカだな、親権がどうのこうのなんて、未成年の子供がいれば、問題になるんで、俺達じゃもう関係ない。それにあの2人がどうしようと、どうなろうと、俺達にとっては、たった1人しかいない父親と母親。それには、変わりねぇだろって。」
その長男の言葉に胸をつかれる。
「カッコつけてんじゃねぇよ。子供の頃、パパとママは仲良しじゃなきゃイヤだとか、泣き叫んでたくせに。俺は嫌だ、もうガキじゃねぇけど、やっぱり母さんと父さんには仲良しでいて欲しいんだ。離婚なんかすんなよ、子はかすがいじゃねぇのかよ。今の図体でかくなった俺じゃ、かすがいにもならねぇのかよ!」
次男の心からの叫びだった。私は涙が溢れ出して止まらない。
「ゴメンね、清司。」
私は絞り出すように言った。
「さっき、お父さんのこと、嫌いになったのか、憎めたのかって聞かれたよね。私は首を振った。お父さんのこと、やっぱり愛してる。今は。」
「今は?」
そう言って、次男は私の顔を改めて見つめる。
「だけど、このまま一緒にいたら、きっと嫌いになる、憎むようになる。だって、信じられないんだもん、疑いたくないって思っても、やっぱり疑っちゃうんだよ。」
「母さん・・・。」
その私の言葉に、愕然としたようにこちらを見る次男。
「私達は生涯、お互いを愛し抜こうって誓い合って結婚したの。だけど、情けないことに、それを貫けなかった。でも・・・せめて憎み合うような2人にだけはなりたくない。だから・・・もう一緒にはいられない、いちゃいけないんだよ。たぶん、お父さんも同じ気持ちだと思う。」
必死になって、私は言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい。愚かな私達を許して、ね・・・。」
そう言って、頭を下げる。
「もうすぐ、試用期間が終わる。そしたら正式採用になる。やっと自分の力で金稼げるようになるんだよ、俺。」
「清司・・・。」
「やっと自分達の力でやってやれるようになったんだよ。あんた達からもらった小遣いを貯めたんじゃなくてさ、自分達の稼いだ金で。」
「・・・。」
「11月だろ、もうすぐじゃねぇかよ。25年だろ、銀婚式なんだろ。兄貴と2人で、盛大に祝ってやろうって、張り切ってたのにさ。よりによって、こんな時に別れんじゃねぇよ。ふざけんな!」
そう言って、私を怒鳴りつけると、次男はダイニングを飛び出して行った。
ごめんなさい、溢れ続ける涙を止めることなど出来ずに、私は心の中で、そうもう一度次男に謝ると、頭を下げた。