「瀬越の顔見に来た」
「え……」
「今日は何時に出るの?」
「ええと、もうすぐ……あ」

 左手首に癖で目を落とすも、腕時計はない。

「腕時計、忘れたの?」

 井野さんに指摘され、思わずどきりとする。

「ええ。ちょっと……寝坊しちゃって」
「そうなんだ」

 私は得も言われぬ緊張感に包まれつつ、井野さんと黙って向き合う。

 まさか、さっきの織との電話、聞かれてないよね?

 細かな会話は覚えていないけれど、もしかすると今朝まで一緒だったってわかるような言葉を言っていたかも……。

 どぎまぎとしていると、井野さんはすっと自分の腕時計を外し始める。
 そして、私の左手を引っ張った。

「なっ、なに?」
「これ、使っていいよ」

 井野さんは動揺する私の手首に、黒のスポーツブランドの腕時計をつけながら言った。私は手を引くわけにもいかず、おろおろと答える。

「でも、井野さんが困るんじゃ」
「俺、デスクに予備のが入ってるから」
「そうなんですか……?」

 淡々と返され、なすすべなく私は井野さんの腕時計を受け入れた。

 なんだか、織にも井野さんにも罪悪感を抱いてしまう。うまく笑えないのをごまかすように、腕時計を見るふりをした。

「俺、今日は都内回って夜にまたここに戻ってくる予定なんだけどさ。瀬越は?」
「えっ。あ、私は今日、千葉のほうへ行く予定で……」
「直帰? もし時間あるなら、ちょっと戻ってくる気ない? ちょっと見てほしいものがあって」
「見てほしいもの?」

 食事ではなく、オフィスでの用事らしい誘いに緊張が少し解けるも、どんな用件なのかと首を傾げる。

「うん。ちょっとでもいいから。腕時計もそのとき返してくれればいいし」
「あ、そうですよね。わかりました」

 私が承諾すると井野さんは、僅かに微笑んで片手を上げて去っていった。