「桜、何かしたいことはある? 僕ももう少しでフランスに帰らなきゃならないし、桜が望むことは今してあげたいんだ」
「そうだよね…………。尚の、ピアノが聴きたいな」
尚がフランスに戻ってしまったら、桜が次にピアノを聴くことができるのはゴールデンウィークのコンサートのとき。
桜は、尚の繊細で滑らかで心に響いて時々涙が出そうになるピアノの音をもっともっと聴きたいと思っていた。
その音色を、心の中に閉まっておきたいと考えていた。
「そういえば」
尚は、どこか遠くを見て、昔懐かしい過去を思い出しながら話し始める。
「僕ね、桜に会うまであまりピアノが好きじゃなかったんだ」
「そうなの?」
まさか尚が遠い昔にそんなことを思っていたことを、桜はもちろん知る由もなく、その言葉は信じられないほど意外なものだった。
桜の目に映るピアノを弾いている尚は、いつでもそれを大切にしているようにみえたから。
まるで、誰にも触れられたくないない宝物のように。
「そう。でも、桜が「尚くんのピアノ、すごく好き」って言ってくれたのをきっかけに、ピアノを弾くのが好きになったんだよね。桜、すごく良い表情で僕のピアノ聴いてくれるから」
桜は、何も言わずにただその話を聞いている。
「だから、いつでも、コンサートの時もコンクールの時も、僕は桜のために曲を弾いてるんだ。桜がいないホールでも」
「尚……」
「桜の一言のおかげで、今の僕がある」
尚は、桜の頰を大きな手でそっと優しく触る。
そして、2度目のキスをした。
「桜?」
キスをし終えて尚が桜の顔を見ると、彼女の目からは大粒の涙が流れていて、それはコップの横に落ちていった。
「はは、なんだろう。なんか涙が出てきちゃった」
そんな桜を、尚は黙って、先ほどとは違い力強く抱きしめた。
「寂しくなったら、いつでもフランス来ればいいよ」
「うん」
桜が頭を縦に振ると尚は、彼女の小さな頭をそっと撫でた。