2113年 9月某日 
 最近、彼女はわたしを避けているようだ。贈ったペンダントも返されてしまった。
 元老院を初め、みなが世継ぎをとうるさい。妃候補を次々と連れて来ては、もう誰でもいいから選べと言う。
 これまで、周りを失望させないためだけに生きて来たが、誰でもいいということは、それは誰でもない。
 
 
 試行錯誤をくり返し、ようやく試作品を持って割烹着姿のアニスがよろよろと工場から出て来たのは、会議から三日目のことだった。
「こちら、固めたものです。まだ熟成前ですが、香りだけなら確認できます」
 早速、わらわらと作業員が集まって来る。アオイも、牛乳パックで固めた石けんに興味深げに手を出した。
「あっ、アオイ。水酸化ナトリウムが残ってるから、まだ触っちゃダメよ」
 水酸化ナトリウムとは石けんの材料のひとつで、取り扱いには注意が必要とされる劇薬である。
 サンプルを囲む全員に手袋が配られ、みな牛乳パックに顔を近づける。始めに声をあげたのはアオイだった。
「……いい匂い! これ、オレンジの香りだ!」
「清々しいな! これならフロで使えるぜ」
 ほかの社員も感動したように、口々に石けんをほめ讃えた。同時に、不思議そうに香りを確かめる。
「油くささが消えてるな。いったいどうやったんだ?」
「鹸化率を高めに設定し、ミニオレンジの皮を擦ったものと、乾燥させたもので香りづけしました。アロマオイルや香料を使うよりは安価ですみます」
 感嘆の声があがる中、アカザが試すような口調で尋ねる。
「ほう、だが使い心地はどうかな。溶けやすいままでは今までと変わらんだろう」
「熟成が終わり、実際使用するまでは何とも言えませんが、廃油を減らし代わりに牛脂をブレンドすることで、溶けにくい効果が期待できます。牛脂は、近くの食品工場でただでもらえます」
「いやはやアカザさま、この子は事務より現場向きですよ」
 感心するヒノキに、さすがのアカザも言葉を呑む。
「……ふん、まあいい。とりあえず休め。ロクに三日寝てないだろうが」
 その言葉を合図に、アニスはにっこり笑みを浮かべたまま、ふらっと横倒しに傾いた。
「わあっ、アニス!」
「……っとぉ」
 間一髪でアカザが支え、アオイはほっと胸をなで下ろした。
「——っとにしょうがねえなあ」
 そのまま、ひょいと抱き上げ別館へ向かう。アカザの後を、アオイが仔犬のように追いかけた。
「どこへ連れて行くの?」
「寝室に決まってんだろうが」
「アニスに何もしない?」
「何するんだよ」
「アカザさまがお店の女の子にするようなこと」
 アオイが不機嫌につぶやくと、アカザは呆れたようにため息をついた。
「阿呆、こんなガキに手え出すか」
「——ガ、ガキじゃないもん!」
 痛みを溜めた目で見返され、アカザが思わず立ち止まる。
「いや、お前のことじゃないだろ」
「アカザさまの馬鹿! わあぁぁぁん!」
 廊下を走り去るアオイの声は、フロア全体に響いた。
「何なんだ、いったい……アイツも難しい年頃だからなあ……」
 右脚で左脚のふくらはぎをぼりぼりとかきながらふり返ると、今度は点滴スタンドにゼェゼェとしがみつくツバキの姿。
「……アオイのやつが騒ぐから、めんどくせえやつが起きて来たじゃねえか」
 アカザがふうとまたため息をつくそばから、殺気を醸しながらツバキが唸る。
「アニス博士に何してる……!」
「おっ、随分回復したじゃねえか。若いと治りも早えな」
「ごまかすな、そいつをどうするつもりだ!」
「どうするって、見りゃわかるだろ。ベッドに連れて行くんだよ」
「てっめェ……!」
 包帯に巻かれた腕でパンチをくり出すが、アカザは簡単にすいと避ける。
 勢い込んだものの二発目はさらにへろへろと力が入らないうえ、アカザに足を引っかけられ、ツバキは点滴スタンドごと転倒した。
「あーらら。今ので退院がのびたかもな」
 アカザがアニスをかかえたまま、ツバキの頭を踏みつける。
「ぐっ……」
「負傷しているとはいえ、非力だねえ。辛いか? 悔しかったら、さっさと立ち上がって強くなるこった。こっちはてめえらガキと遊んでるほど、ヒマじゃねえんだよ」
 アカザが去って行く長靴の音を聞きながら、四苦八苦した後、ツバキはよろよろと起き上がった。
「くっそ……」
 アカザの言うことは何も間違っていない。それがさらに腹立たしかった。
 ひと暴れしたせいで、また肋骨の辺りが痛み出す。それが怪我のせいなのか何なのかわからずに、ツバキはぐっと胸をおさえた。

 翌朝、ツバキの病室を訪れたアニスは、始終ご機嫌だった。
 今日はめずらしく休みをもらったらしく、ツバキの病室でいっしょに、トーストとコーヒーの朝食を摂っている。
 だが何やら話しかけてくれてはいるが、ツバキは一向に頭に入って来ない。
(夕べ、あのバンダナ野郎と何かあったんじゃ……)
 あの後、何とか躰を引きずって再び様子を見に行ったのだが、カシに見つかり無理矢理引きもどされたのだ。
(あのオッサン、ガキには興味ないみてェなこと言ってたが、アニス博士はよく見ると、まあまあかわいいからな……)
 コミューンの古着屋では無関心を装ったが、着替えた後のアニスに一瞬目を持って行かれたのは事実だ。
 ショートパンツからのびた白い太ももが今でもちらつく自分に、おれもオッサンかよと胸中突っ込みを入れる。
「——でね、リクドウさん、聞いてます?」
「——あ? ああ、聞いてるよ。太ももがどうした」
「太ももなんて言ってませんけど。何のことですか?」
 完全に訝しんでいる。ツバキは冷静を装い、咳払いをすると新聞を広げてみせた。
「それ逆さまですよ」
 普段は読みもしない新聞を、わざとらしく開いているのがバレバレである。
「い、いや、違うんだ。これはアレだよ。逆さ読み健康法って言ってさ……」
「何が健康になるんですか?」
「視力とか、メンタルとかだよ……」
「もー、そんなの聞いたことないですけど」
 軽くふくれながら、ふと気づいたように眉をよせる。
「何か、前より傷が増えてません? リクドウさん」
 夕べアカザとやりあって——というか、転んでついた傷だ。
「バナナの皮が廊下に落ちててよ……」
 トーストをかみながら、我ながら苦しい言い訳をする。
「何か変です。スウェットも前後ろ逆だし」
 それは素だった。
「あ、トーストが裏表逆!」
「えっ? あっすまん」
 思わず裏返すが、不審に睨まれてトーストに裏表などないことに気づく。
「やっぱり変。どこか、具合でも悪いんですか?」
「い、いや、何ともねェよ。それより、アニス博士こそ疲れてるじゃねェか」
「わたしは大丈夫ですよ」
 実際体力は掃除のときより消耗していたが、心地いい疲労感に満たされ、アニスの頭はこれまでにないほど冴えていた。
 むしろ、あふれるほどの充実感で興奮している。
「久しぶりに頭を使ったから、すごく気持ちがいいんです」 
 ツバキは眉をよせて不可解な顔をしている。
「すまん、おれそれ、よくわかんね」
 数式が解けたとき、なぞなぞが解けたとき、アニスにはこれまでも確かに、少なからず高揚感はあった。だが、それが誰かに喜ばれたりしたことはなかった。
「わたし、平気ですよ。だから、リクドウさんも早く怪我を治して下さいね」
「お、おう……」
 にっこり微笑むアニスを、ツバキは正面から見ることができない。
 怪我が治って灰都を出て、レイチョウ少佐に助力を仰ぎ、彼女を王女だと証明する。王宮から賞与をもらい、めでたしめでたし……
(——十六の少女に国をおしつける気かい)
 老婆、いや老爺の何気ない言葉が甦る。
(おれには関係ねェ)
 頭の中で払拭し言い聞かせても、これから待っている現実が、これほど自分を落ち込ませるとは思わなかった。
 アニスと自分の未来は、同じ場所にはないということが。

 ツバキの様子も変だったが、アオイも今日は体調が悪いらしく、めずらしく部屋に引きこもっていた。
 食欲がないというアオイのために、アニスは薄いキュウリのサンドイッチを作ってもらい、部屋へ持って行く。
「大丈夫? アオイ」
 いつもは育ち盛りの男の子らしく、もりもりと食べるアオイがなかなか食が進まない。アオイはひと口かじったサンドイッチを置くと、アニスをじっと見た。
「……ねえ、アニスはリクドウの怪我が治ったら、ここを出て行くんだよね。どこから来て、どこへ行くとこだったの?」
 どこまで話せばいいんだろうと、アニスは迷った。
 自分が灰桜国の王女かもしれないということ。ツバキが殺人の嫌疑をかけられ、追われて灰都へ来たこと。目的はレイチョウ少佐の城へ向かうこと。
 どれも、食事時に軽く話せる話題ではない。悩んでいると、アオイが助け舟を出した。
「ごめん、みんな事情があるよね。じゃあ、別の質問……ねえ、アニスは好きなひと、いる?」
 これにも言葉がつまる。
「う、うーん……でも、いつかは誰かを好きになりたいって思ってる」
「リクドウのことは?」
「リクドウさん? 初めは目つきが悪いし怖かったけど……今はそうでもないわ。隠しごとのできない正直なひとだもの」
 今朝の様子のおかしかったツバキを思い出し、ふと表情が翳る。くすりと笑うアオイにアニスは問い返した。
「なあに、アオイはどうなの?」
「うん、いるよ。好きなひと」
 一瞬、少年が大人の女性のように目を伏せたので、アニスはドキリと言葉を失った。
「いっしょにいると楽しいけど辛くって、あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになって……」
(あれ? それって、どこかで聞いたような……)
 ぽかんと見つめるアニスに、アオイがあわてて笑って繕う。
「えへへ、こんな話つまんないよね。えっとね、じゃあアニスは大人になったら何になりたい?」
「うーん、そうね……」
 これもまた、答えが定まらなかった。
 アニスは、そもそも自分が何をしたいのかわからなかった。何か夢があるわけでも、ましてや王女になりたいわけでもない。強いて言えば、実験や研究が好きなだけだ。
「む、難しいな。アオイには夢があるのよね? 絵を描く仕事がしたいっていう」
「うん……でも、きっと叶わない。ぼく、病気かもしれないんだ」
「病気?」
 アオイは真剣な顔で、瞳を潤ませている。
「ずっと……お腹痛くて……」
「何か悪いもの、食べた?」
「ううん、違う。その……」
 即答するが、言いづらそうに口ごもるばかりで、なかなか話が要領を得ない。
「どういう症状なの? ちゃんと言わなきゃ、大変な病気かもしれないじゃない」
 アオイはぽろぽろと泣き出し、今朝用を足してから、『出血』が止まらないことを告げた。

「アカザさん! ちょっと!」
 怒り心頭で工場に乗り込んだアニスは、みなが驚いて注目するのも介せず、野郎づくしの作業員をおしのけアカザに食ってかかった。
「——あ、あなたいったいどういうつもりですか! アオイは……アオイは『女の子』じゃない!」
「あれ、知らなかった?」
 棒つきキャンディをくわえたまま、何食わぬ顔で答えるさまがまた腹が立つ。
「知らなかった? じゃありません! どーいう教育してるんですか! あの子、何も知らないんですよ!」
「いやー、おれ父親じゃねえし——痛ててて!」
 ぼりぼりと悠長に頭をかくアカザの耳を引っぱり、アニスは工場の外に出る。
 事情を話すと、さすがのアカザも固まった。
「そ、そうか。じゃあ今夜は赤飯でも……」
「アカザさん……」
 開口一番、本気か冗談かわからないアカザの態度に、アニスの背後にゆらりと青い炎が沸き上がる。アカザはあわてて謝罪のように片手を上げた。
「い、いや、確かにアオイに関しちゃウチ野郎ばっかだし、気遣いが欠けてた。すまん」
「わたしに謝まるくらいなら、もっとアオイのこと、気にかけてあげて下さい。あの年頃ってデリケートなんですよ」
「まいったな。あんなチビでも、いっちょまえに女だったんだなあ……」
 アカザは苦笑しながら、灰色の空を見上げた。
「ここ灰都じゃ、孤児なんてめずらしくねえ。十四年前——おれもまだここに来たばかりで、仔猫の鳴き声がうるせえなと思って見に行ったら、工場の前にアイツが捨てられてたんだよ。放っときゃ、地下のマンホールタウン行きだろ? 生まれたばかりの赤ん坊をみすみす、まつろわぬ民にするのも忍びなくてなあ。しょーがねえから、子育てもしたことのねえ連中で交互に面倒見てよ」
 懐かしそうに話すアカザの目はおだやかで、欠けている教育はあれど、ハイイロウサギのみんながアオイを大切に思っていることが、アニスにもわかった。
(元手不要の工場が儲からないのは、きっとみんながこんなふうに、放っておけないひとたちの面倒を引き受けてしまうからかも)
 みな、見た目の怖さとは裏腹に情が深い。
 いったいハイイロウサギとは、どういう集まりなのだろう。
 不思議に首を捻るアニスに、アカザが自慢げな目線を投げる。
「でも男手総出で育てたにしちゃ、アオイの野郎、まともに成長したろ?」
「アオイは『野郎』じゃありませんよ。とにかく、ちゃんとケアしてあげて下さいね」
 ぴしゃりと釘を刺し工場を出て行くアニスの背を見送りながら、アカザは心中呆れ気味につぶやいた。
「お嬢ちゃんの連れも案外、デリケートなんだがね……」
 
 アニスはアオイの部屋へもどると、痛みをやわらげるカモミールティーやしょうが湯などを処方し、「女の子なら当然のこと」と、時間をかけて言って聞かせた。
 学院のませた少女たちに比べると、育った環境が違うとはいえ驚きである。だが、今朝のアオイの大人びた表情は、やけに印象的でアニスの心に残った。
(好きなひと、か……いつかわたしにもできるのかな)
 自分に、恋がいつどのように訪れるかなど、天文学的確率のようで想像できない。
(あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになって——)
 アオイのつぶやきが思い出される。
「そうだ!」
 何かを閃いたアニスは、早速工場へもどった。石けんの熟成まで期間はあるものの、こうなるともう、自分でもストップが効かない。
(今のところ、恋より実験みたい)
 自分を納得させるように苦笑いすると、アニスは割烹着の紐を結び直した。

 熟成が終わり、ようやくアニスの石けんが完成した。お披露目会では、男たちが揃って手を洗ったり顔を洗ったりと、めいめいが使用感を試した。
「これならコミューンのホテルにも納品できるぞ」
「『丘』にだって出せるぜ!」
 豊かな香りとなめらかな泡立ちに、部長のヒノキを初め工場の作業員は大絶賛だ。
「あと、バリエーションも増やしてみたんです。試してみて下さい」
 アニスが、これまでの無味乾燥なハイト油脂の箱とは違う、しゃれたパッケージをさし出す。試作のオレンジとはまた異なった香りに、みな興味深げにくんくんと鼻を鳴らした。
「これは花……? こっちはあまい匂いがするな」
「あ……これ、チョコだ!」
「はい、チョコレートを混ぜて作りました。もうひとつは、工場裏に群生していたハーブです」
 アニスが、ツバキに分けてもらった板チョコとカモミールを見せる。
「すげえなあ。チョコなんてどっから思いついたんだい」
「アオイがヒントをくれたんです」 
 まさか、「あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになった」自分の恋心が香りに使われているとは知らず、当の本人はきょとんと不思議そうに首をかしげる。
 これまで黙って商品を試していたアカザは、新しいパッケージのデザインに気づきアオイを見た。
「これ、お前が描いたのか?」
「うん、どうかな」
 繊細なタッチで箱に描かれた、カカオやカモミール。
「素敵でしょ? アオイは絵がとっても上手いんです。こんな才能、活かさないなんてもったいないわ。適材適所って言うじゃありませんか」
 自分のことのように得意げに話すアニスに、アカザは肩をすくめた。
「——やれやれ、お嬢ちゃんには驚かされるな」
「アカザさま、ぼくが描いた絵、どう? これ売れる?」
「ああ、売れるぞ。お前はいいもん持ってるな」
 アカザにぐしゃぐしゃとと頭を強くなでられ、アオイは照れくさそうに笑う。
 唐突に、ヒノキがアニスに申し出た。
「あんた、どこかに行く途中だったんだろうが、あの怪我人の連れといい訳ありだろう。いっそここで働いたらどうだ?」
「それいいな」
「ぜひ、そうしてくれよ」
 ヒノキの提案に口々に作業員が賛成する中、工場の扉が勢いよく開いた。
「ちょっと待ったァァ!」
 またか、という顔でアカザがうんざりとふり返る。
「なーにがここで働いたら、だ。勝手に決めてもらっちゃ困るぜ」
 松葉杖をつきつつも、ツバキがどかどかと工場へ入って来る。アニスは驚いて目を開いた。
「リクドウさん、ギプス取れたんですね」
「まあなァ、知らなくて当然だよな。同じ敷地内にいながら、お互い顔を見るのも久しぶりだしな」
 アニスへの皮肉に続いて、ツバキは荒んだ表情でアカザへ向き直る。
「初めに言っただろうが。おれらは仕事があるってよ。何おれに無断で、こいつスカウトしてんだよ」 
「ほう、アニスはお前の所有物なのか?」
「そーいうこと言ってんじゃねェ!」
 本気の怒号に、アニスはおろおろとツバキをなだめた。
「落ち着いて下さい、リクドウさん。わたし、ここにずっといるつもりは……」
「あーそうかい。だいたいあんた、石けんなんて作ってる場合じゃないだろ。何しにコミューンを出たんだよ」
「だから、それはリクドウさんの怪我が治るまでの間……」
「まったく、小せえ男だなあ」
 アカザはゆらりと腰を上げると、ツバキの前に立ちはだかった。平均より背は高いほうのツバキでも、その見上げるほどの高身長にたじろぐ。
「このお嬢ちゃんはな、おとなしく見えて知力も行動力もある。だがお前は、彼女を己に釣りあったレベルに引き止めておきたいんだろう。なにしろ、自分に自信がないんだからな」
「そんなんじゃ……!」
 レベルどころか身分すら違うかもしれぬ相手に、そんな考えを抱いているはずがない。 
 ツバキはカッと赤くなり、松葉杖をアカザにふりかぶった。
「おーっと」
 からかうようにひょいと避けるアカザ。だがふたりは気づかなかった。杖が弧を描くその先に、劇薬の陳列棚があることに。
「アカザさま!」
 小さな躰のどこにそんな力があったのか、アオイは、自分の倍以上の重量のアカザを突き飛ばし、落ちてきたボトルの劇薬をかぶった。
「アオイ!」
 倒れた少女は左頬から首にかけ、ひどい火傷を負っている。アカザはみるみる青ざめ、ツバキの胸ぐらをつかみ、殴りかかろうとした。
「——貴様!」
「やめて! そんなことやってるひまがあったら、救急車を呼んで下さい!」
 アカザを叱咤し、アニスはアオイの患部を流水につけ応急処置を始める。
「知ってますよね、水酸化ナトリウムの化学熱傷は普通の火傷より破損力が強いんです。ここでは治療できません」
「……ああ。アオイ、待ってろよ。すぐ医療院に連れてってやる」
 やがて緊急車両のサイレンが鳴り響き、アカザが同乗すると、救急車は街の中へ消えて行った。
(——手術になるだろうな)
(あれじゃ、痕が残るんじゃ……)
 騒然とする作業員たちをヒノキが制する。
「とりあえず、こぼれた薬を片づけろ。ほかのみんなは持ち場へもどるんだ」
 ぺたんと床に腰をつき放心状態のツバキを起こし、カシが黙って肩を貸す。病室へもどる二人に、アニスも松葉杖を持って急いでついて行った。

「おれのせいだ……」
 悄然とうつむいたままのツバキに、アニスはかける言葉が見つからなかった。様子を伺いに来たカシも、いつものように黙ったまま横に控えている。
「アニス博士を警護すると言っておきながら、着いた先はスクラップだ。あまつさえ、何も悪くねェチビまで傷つけてよ……」
「あれは条件が整ったがゆえに起きたことだ。お前だけのせいではない」
 寡黙なカシが唐突に発した言葉に、驚いてふたりは顔を上げた。
「アカザさまも本当はわかっている。後はアオイが退院して償えばいい」
 挑発したアカザにも責任はある。だから誰もツバキを責めなかった。
 元凶を突きつめるより、起きてしまったことへの対処を優先するのが、誰ともなく無意識に掲げているこの工場のスローガンなのだ。
(あのときと同じ。わたしが変更を伝え忘れたときと——)
 広がる安堵をかみしめるアニスに、カシが改めて向き直った。
「そもそも、部長がお前をスカウトしたのには理由がある」
「理由、ですか?」
「実はハイト油脂は今、乗っ取りの危機にある。買収されれば、クビになり路頭に迷う者も出て来るだろう。これを奪回するには、新商品の開発達成が必要なのだ」
「——香りとか小手先の変化じゃない、新しい石けんが必要なんですね」
 アニスが深刻な顔でうなずいた。
「そうだ。だがこれは強制ではない。お前は十分ウチに貢献した。協力するもしないも、またここを出て行くのもお前たちの自由だ。検討してくれ」
 端的に言うと、カシはふり返りもせずのしのしと病室を出て行った。
 しばし無言の後、ふたりはお互い顔を見あわせる。
「あの……」「あのよ」
 第一声がハモってしまい、ツバキはぼそりとつぶやいた。
「……やりてェんだろ? 新商品」
「……わからないんです」
 アニスは困惑した顔でツバキを見た。
「開発はやってみたいです。でも、工場を救える商品なんて……」
「やれよ。ここで逃げちゃ、おれも後味悪いしよ。脚もそろそろ治って来てるし、おれにできることなら協力するからよ」
「リクドウさん……」
 初めて頼るような目ですがられ、ツバキの手が思わずアニスの肩にのびる。
「——あ、明日にでもチビの見舞い、行くか」
「ほう。脚を折っても手は早いのな」
 ——ガタタッ!
 入り口のドアによりかかる、キャンディをくわえた長身が視界に入り、ツバキはベッドから落ちそうになった。
 体勢を崩したツバキには気づかず、アニスがアカザに走りよる。
「アカザさん、アオイの容態は?」
「ああ、すぐに退院はできるってよ」
「そう、よかった」
 アニスがほっと胸をなで下ろし、ツバキも肩で息をついた。
 だがアカザはいつもの意地悪な口調にもどり、ベッドのツバキにずいとキャンディを近づける。
「——アオイはなあ、完治には高額な治療費がかかるんだと。いいか?『ツバキ』。アオイが火傷を負ったのはおれたちの責任だ。金はおれとお前で折半だ、いいな」
 凶悪な顔をして部屋を出て行くアカザを、不審な顔でツバキは見送った。
「——おれ、あいつに名前言ったっけ?」