2113年 8月某日
この国は、神の加護がないという。
そんな世界で、どうすればすべての国民が幸せに過ごせるのか。
わたしの仕事は、我が国の国民総幸福量(GNH)を増やすことである。
見解を募るべく、まずは身近な侍女に聞いてみることにする。
2130年 6月
「アニス!」
足音を立てずにそっと入ったのだが、部屋に辿り着く前に頓狂な声に止められた。
舎監であるこのシスターはいったいいつ休んでいるのか、寮生の行動に逐一目を光らせている。
薄灯りの廊下でアニスは肩をすくめふり向き、きまり悪そうに頭を下げた。
「——シスター・シキミ、こんばんは」
「こんばんは、じゃありません。こんな夜遅くに何をしていたんです、アニス」
シスター・シキミの鋭角な色眼鏡が、手に持ったランタンの灯に反射する。
「すみません、ちょっと眠れなくって」
「眠れないと、どうしてそんな格好になるのかしら」
アニスの白いナイトウェアは、ホラー映画の悪霊のように裾が泥だらけだった。
「いえ、あの、これは……」
中庭にある一晩しか花を咲かせないサボテンの一種を観察に行っていたんです、と一晩かけて説明したところで、彼女には一生わかってはもらえないだろう。
小さく開いたいくつかの個室のドアから、少女たちがくすくすと笑い声をもらしのぞいている。
「消灯時間はとっくに過ぎてますよ。みんな早くお休みなさい!」
シスターの手を打つ合図に、一同があわててベッドへもぐり込む。寄宿舎の誰もが、この「変わり者」のクラスメイトと距離を置いて近づこうとしなかった。
「アニス、あなたは後で舎監室にいらっしゃい」
「あっ、お話なら今……」
じろりと眼鏡の奥から睨まれ、やはりお説教なのか……とアニスは肩を落とした。
舎監室に呼ばれるのは、もういったい何度目だろう。
この部屋をノックするのもすっかり慣れてしまった。
「入りなさい」
中から抑揚のない声がしてドアを開けると、意外にもあまい香りに迎えられアニスは驚いた。舎監室はいつも、つんとしたハーブの清涼な香りが漂っているのに。
あたたかなカップが目の前に置かれ、アニスはいささか面食らって目をまるくする。
「どうしたの? お飲みなさい」
シスターはアニスが戸惑いながらもカップを口へ運ぶのを見ると、ホットミルクの湯気にため息を混じらせ、口を開いた。
「——アニス・リィ、あなたは成績優秀で真面目な生徒です。正直、普通教科で教えることはもうありません。今は女性も自立する時代、大変結構。土地を手放す没落貴族もいることですし、殿方に頼る世の中でもありません」
ほめられて照れるアニスを、三角眼鏡がきらりと睨む。
「普通教科だけです。今日はマナーの授業でしたね?」
お客さまにお茶を出すという、実践の授業。茶托を湯呑みにくっつけたまま出し、担当教師に注意されたアニスは、意気揚々とその理由と改善策を述べたのだ。
「接着は、茶托と湯呑みの間の温度の上昇によって起こります。これを回避するためには、お茶の温度と茶托の形状を考える必要があり、これによって効率のよい——」
教室は失笑の嵐だった。憤慨する担当教師が報告した状況を安易に想像できたシスター・シキミは、額に手を当て言った。
「……そう、あなたは奇行が目立ちすぎるの。こんな夜更けまで起きているのは、今夜だけのことではないでしょう。いつも顔色が悪いですからね」
自分が不健康な生活をしているのは、重々承知だ。「顔色が悪い」頬をぽりぽりとかくアニスに、シスター・シキミは淡々と続ける。
「わたしはあなたの母親ではありませんが、ここを卒業するからには、わたしはあなたを品行方正なレディに躾けるつもりですよ」
アニスは、小さな頃から知識欲の高い子だった。唯一の家族である母親は彼女が生まれてすぐに亡くなり、教会裏の墓地で眠っている。
身よりのないアニスは、教会の援助金で成り立つこの女学院の寄宿舎で育てられた。
見るものすべてに「なぜ、どうして」を連発するので、手を焼いたシスターたちはついに六法全書ほどの厚さのある辞典を、わずか六歳の少女に買い与えた。
そもそも、アニスは変わった子どもだった。
その年頃の女の子はお人形さんやおままごと、着せ替えゲームなどで遊ぶものだが、彼女の興味の対象は昆虫や草木の生態、空や海など自然に関することで、放っておくと日がな一日夢中で虫を追いかけたり、雲の動きを観察したりして過ごした。
特に好きなのはもの作りで、時間さえあれば風を計算しながら手作りの凧を上げたり、薬草を使って簡単な薬などを作ることに費やした。
同年代の子どもたちも周りの大人も、そんなアニスを呆れて相手にしなかったが、彼女は十歳で生物学、地球科学、物理、天文など自然科学を学び、中等部を卒業する頃には大学院博士課程を修了した。
だが白衣で学院内を闊歩するアニスを、クラスメイトたちは「リィ博士」と遠巻きに笑って揶揄した。それが、若干十六歳で本物の博士の称号を持つ天才少女に対するやっかみだと、「なぜ」と考えても彼女にはわからなかった。
自然科学のプロでも、ひとのこころの機微を知るにはまだ幼かったのだ。
「すみません、シスター・シキミ。わたし、育てていただいて感謝しています。でも、わくわくするものを目の前にすると、衝動が抑えきれないんです。もっと、いろんなことを知りたいんです」
熱弁するアニスにシスターは再びため息をつくと、
「——わかりました。それを飲んだらお休みなさい。明日は墓地の掃除当番ですからね。それから、初夏とはいえ夜はまだ冷えるわ、新しい夜着に着替えて。ひどい格好ですよ」
と、部屋へ帰るよう促した。
「はい。おやすみなさい、シスター・シキミ」
すごすごと自室へもどり、鏡を見る。
「ほんとだ、ひどい格好——ふわっくしょい!」
鼻腔を細かな粒子でくすぐられ、続けざまにくしゃみが出た。防具をつけないで外に出たので、目も痛むしのどもイガイガする。
外は降灰だ。せめてマスクくらいはつけていけばよかった。編み込みをひっつめた髪にも灰が積もって白髪のようだ。
(同じ灰かぶりでも童話のお姫さまとは大違い。こっちは、ただの冴えない女の子だもの)
身に纏っているものも、レースのドレスなどではなく、ただの着古した木綿のナイトウェア。
(でも——)
闇に浮かび上がる白い優美な花弁と濃厚な香りを思い浮かべ、アニスはうっとりと頬を染めた。
(月下美人、すごくきれいだった)
きれいなものを見ると、自分も少しは浄化される気がする。ただおだやかに過ぎてゆく日々の違和感も、身の置き所がない息苦しさも消え、呼吸がスムーズに流れるのを感じる。
気分がいいので白衣に着替え、実験途中の作業を再開した。どのみち今夜は、開花に立ち会えた興奮で眠れそうにない。
シスター・シキミがまたすっ飛んで来ないよう、灯りはできるだけ絞った。
ふんふんと鼻歌を交えながら、唐辛子の入った乳鉢をごりごりと懸命に摺り続ける。
自分で育てた鉢植えから採ったハーブであたたかなお茶を淹れ、アニスが充実感に浸っていると、いつの間にか薄曇りの朝が明け始めていた。
この国は、灰が降りやまない。
昼夜を問わずひとはマスクを身に着け、真夏でも砂上を歩くためのマントやブーツが必須である。視界はいつも仄白くかすみ、青空を拝めることはまれだ。
街では火山灰専用のロードスイーパーが、ゆっくりと滑りながら降り積もった灰を吸引し、その後をついて行くように散水車が道を洗い流してゆく。
灰は、街から湾を隔てた火山の噴火によってもたらされる。
(『丘』なら、降灰に影響を受けることはないのに)
誰もが羨望のまなざしで見上げた視界の先には、小山にそびえる巨大なドームが砂塵にけぶって建っていた。
『丘』に居住区をかまえる灰桜(カイオウ)国上位階層区グレーターの住人にとって、おおよその用事はこのドーム内で事足りる。
企業、学校、病院にショッピングモール。庶民階層区のコミューンにはない、ホテルの屋外プールやオープンテラスのカフェもここでは利用できる。
地下にはシェルターも設置されているこのドームでは、誰も防具を着ける必要もなく、みなそれぞれ流行りのファッションを楽しんでいる。
見上げれば、突き抜けるような初夏の青い空。
丸天井のモニター映像ではあるが、3Dグラフィックで映し出されたリアルな夏雲の演出と温度設定で、じゅうぶん季節感は味わえる。
雨が降らないぶん、湿度調整も完璧だ。
そして、小高い居住区にさらに君臨するように建っているのが、王族の住まう桜城だ。
ぐるりと堀に囲まれたまっ白で高い壁のてっぺんには、はるか昔の戦いの名残りである矢を射るための狭間が刻まれており、常時カメラはグレーターを見はるかし、不法に侵入する者がいないか、日夜見はっている。
そんな完璧な要塞である桜城では今、三人の元老院による首脳会議が、ティーカップを片手に和やかに行われていた。
「——王が崩御されて七日か」
「そろそろ、我が国の嚮後を考えませんと」
「いつまでも玉座が不在では不便ですしな」
「しかしキノコで食中毒とは、王もまことに残念な死因」
「そうですなあ。あ、お茶のおかわりをいただけますかな」
「ではわたくしも」
やれやれと、みな肩をすくめお茶を飲む。
「……で、どこで仕入れたキノコでしたっけ」
「確かアレですよ、政府主催のキノコ狩りイベントの」
「何やら陰謀を感じますな」
「誰の陰謀だと言うんだ」
入って来た長靴の音に、一同はさっと口を噤んだ。
「いやいや、別にあなたのことではありませんよ。ウツギ議員」
「いや、もうそういうのはいい。世継ぎのいない王亡き後、王位継承権があるのは確かに彼の実弟であるわたしだ。あらぬ疑いをかけられるのも当然だが……これだけは言っておく」
ウツギと呼ばれた男性は、コホンと咳払いをするとやおら身を乗り出して言った。
「わたしは政治家で、いっぱいいっぱいなんだ! ぜっったいに国王などやらん!」
「ではご子息のシュウカイドウさまは……」
「あいつはここ数年、自分の縄ばりから一歩も出て来ん。十八にもなって引きこもったままの息子に、国務が務まるか」
「ですが、王家の血を継ぐ者は他におりませんよ。こうして我々を召集されたということは、何か提案がおありなのでしょう」
眉をしかめる元老院のひとりに、何か言いかけてウツギは口を閉じた。
献身的に政務を司るものの万年疲労気味のウツギ議員は、野心家で我の強い近衛連隊最高司令官、ハオウジュ将軍と対照的にメディアで取り上げられることが多い。
それゆえ、日々自分に圧をかけて来るこの老人たちが、ウツギは苦手だった。
国王になどなったら元老院だけではない、貴族の支持も必要とされる。毎日彼らの望む裁決に頭を悩ませなくてはならない。
そんな重責にウツギは耐えられる気がしなかった。
「千人目の世継ぎは王国を開く者——」
ようやくウツギが口にした言葉に、元老院らが顔を見あわせる。
「それは——我々ですら失念しておりました、カビの生えた古い言い伝えですな。どうされました、いきなり」
国が創生された遠い昔、三賢者が残した言葉を初代国王が城の地下に彫らせたという。三賢者のレリーフとともに石碑に残るその言葉は、重役連も一度は目にしているはずだ。
だが地下自体忘れられた場所であり、価値観の目まぐるしい現代において予言のような碑文など、誰も気に留める者はいなかった。
「だから……次に王国を継ぐ者が千人目なのだ」
ウツギは難しい顔でソファに沈む。
「数えたんですか閣下。ヒマですな」
「そんな眉唾ものの伝説にまですがるとは」
「よほど国王をやりたくないと見える」
容赦ない突っ込みに、ウツギは顔をまっ赤にして立ち上がった。
「違う! 本当に継承者はいるのだ!」
「どこにそんな者が? 聞いたこともないですぞ」
「初耳なのも無理はない。これはわたししか知らん出来事だったからな」
会議室にざわめきが走った。
「実は兄は十七年前、おつきの侍女とただ一度、過ちを犯した。彼も若かったのだ。なのになぜかその後伴侶を得ることもなく……」
「モノローグは結構。で、その侍女は今どこに?」
「確かスイレンといったか——彼女はコミューンで女児を生んだ後、姿を消した。スイレンの娘は、生きていれば十六になる」
「それだけでは、名前も行方がわからんではないですか」
元老院の面々は、呆れて目配せをした。
「だから何とかして、その子を捜し出すのだ!」
早速、コミューンの駐在員から民生局、近衛連隊総出で捜索が始まった。
今年、近衛連隊に入隊したばかりのツバキは、ゴーグルをつけ指令書を片手に、コミューンの市民街を当てもなく歩いていた。
短く刈られた黒髪はすでに灰をかぶり、真新しく少しゆるい黒の軍服も刷いたように白い。
「名前もわからないやつをどうやって捜すんだ。十七年前なんて、おれまだ二歳の幼児じゃねェか」
不満気な口調にはまだ少年の名残りがあるものの、褐色の肌に見開いた三白眼の瞳には野性的な迫力がある。
ゴーグルをはずせば、すれ違う者は関わりあいにならないよう、そそくさと顔を逸らせて行く。
指令書に記されている内容は、件の侍女スイレンの古い写真と簡単な経歴のみだ。写真はモノクロで髪や瞳の色さえわからないが、少女を捜し当てた隊員には膨大な賞与が約束されている。
(おれには目的があるんだ。何としても見つけ出す)
こぶしを固めたツバキの脇を砂地仕様のサンドバイクが駆け抜け、積もった灰がさらに舞い上がった。
マスクを着用していなかったため、口中に入った灰粒を苦い顔で吐き出すツバキに、急停止したサンドバイクから見知った声がかかる。
「ツバキか? 今からレイド戦やるからお前も来いよ」
「見てわかるだろ、仕事中だっつーの。ゲームやってるヒマなんかねェんだよ」
「おめーマジで近衛連隊入ったの?」
ツバキの少し大きめの軍服姿をげらげらと笑い飛ばすドレッドヘアの青年は、郊外が実家のツバキと違って、市民街の出身だ。
「あーちょうどいいや。ちょっと訊きてェんだけど、コミューンの内情に詳しいやつっている?」
「そりゃおめー……」
悪友に連れられて行った先は、近代的に区画整理された商業地区より、さらに奥まった繁華街だった。目的の店舗はといえば、自販機にはさまれたこぢんまりとした造り。
店といっても小さなショーケースが軒先に面しているだけで、いったいどんな客層に需要があるのか、洗剤や切手、輪ゴムや小菓子という、とりとめもない日用雑貨が売られている。
友人曰く、「生き字引のババァだが、自分が生まれた頃からババァだった」という驚異の店らしい。
「しかもただのババァじゃねえからな、気をつけろよ」
こそっと耳打ちをすると、彼はさっさとと逃げて行った。
そんな助言をされると、返って身がまえてしまう。ツバキはピシリと襟を正すと指令書の写真を見せ、咳払いをして声をかけた。
「あー、すみません」
「——」
競馬新聞から顔を上げた店の主は、大きな色つきサングラスに鮮やかな紫のアフロヘアという、確かに「ただのババァ」とは違う派手な老婆だった。
服装もこれまたけばけばしいサテンのチャイナドレスに、ちぎれんばかりの耳飾りをじゃらじゃらとぶら下げている。
皺の刻まれた顔や指にもまっ赤な口紅とマニキュアが施され、もはや妖怪じみていた。
「あのー、このひと知りませんかね」
相手はこちらを見向きもしないが、ここで引き下がっては捜査にならない。
「あ……じゃあ、そこの板チョコを」
老婆はじろりと胡散臭げにツバキを見上げると、陳列棚から箱ごと板チョコを取り出し袋に入れた。
(……全部買えってか?)
経費で落ちることを期待しつつしょうがなく清算すると、老婆はツバキの持っていた指令書を取り上げ、くつくつと笑った。
「くだらんお家騒動だねえ。その娘を見つけてどうする。十六の少女に国をおしつける気かい」
「……王女を捜すのが自分の任務っスから」
「早く一人前になりたいんなら、お前も任務の意味くらい自分で考えな」
よく知りもしない赤の他人に説教をされ、ツバキは不快気に眉をしかめる。
そんなツバキをもう一度ニヤリと笑うと、老婆はパソコンのキーボードを慣れた手つきで打ち出し、ある住所の書いた一枚のメモをショーケースの上に滑らせた。
「手がかりはここだ」
ツバキが記された住所の場所へ行ってみると、そこは郊外の丘陵に広がる、だだっ広い教会墓地だった。
ツバキはゴーグルを上げ、墓地を一望する。
「……あんのババァ、板チョコ大人買いさせやがった見返りがコレかよ」
彼女は、すでに亡くなっているということか。
腹立たしい思いでチョコの銀紙をむいてかじるが、賞味期限が切れたチョコは白く脂肪分が浮いており、風味がかなり落ちていた。
「くそおっ!」
袋ごと地面に叩きつける。ふと顔を上げると、墓石の向こうから露骨に眉をよせてツバキを見つめる制服姿の少女がいた。
手には白い花を持ち、誰かの墓参りに来たように見える。
「あの、ちょっと」
唐突に墓石を飛び越えて来たツバキに肩をつかまれ、少女はマスク越しに悲鳴を上げて仰け反った。
「キャアアア! 痴漢、痴漢よお!」
初対面の人間なら思わずたじろぐ目つきの悪さだ、仕方がない。
「いやいや、違う、ちょっとだけ、ちょっとだけだから静かに……」
我ながら、不審なアプローチだなと思った瞬間——
バシィ!
「い、痛って……」
後頭部にしこたま打撃を受けた。ツバキがふり返ると、白衣の少女が箒をかかえ心もとなげに立っている。
「……そ、その手を離しなさい」
ツバキの凶相がよほど怖いのか、青ざめてがくがくと足はふるえ、箒を持つ手も頼りない。ひっつめた髪は、恐怖ではらりと落ちかけている。
哀れに思ったツバキは逆に気遣い、笑顔で応対した。
「まあ、落ち着けって。怪しいもんじゃねェよ、おれ軍人だから」
「軍人が痴漢を」
「いや、だから痴漢じゃねーって——」
突然、ツバキの視線は、少女の首のある一点にすい込まれた。
(首すじに、みっつのほくろ……?)
——が、いきなり少女にシュッと何かをふきつけられ、ツバキはわめき声をあげ目を覆った。
「ぐわっ、何だコレ! 目がっ——顔が痛ェ!」
ツバキがごろごろと地面をのたうち回っている隙に、アニスはもうひとりの少女をともなって駆け出す。
「あっ、待て! この——!」
ツバキはよろよろと覚束ない足取りで追いかけたが、目と顔が燃えるように痛み、断念した。
だが、制服は覚えている。あれは『聖マツリカ女学院』のものだ。正規の手続きを踏んで連れて来れば、問題はない。
(あの女——)
ツバキには、ひとつの確信が生まれていた。痛みが引いて来たので、墓石につかまり立ち上がる。
「しっかし都会では、軍人でもないただの女子高生が兵器を持ち歩いているのか。怖ェ」
投げ捨てたチョコをひろい、ばりりとかじる。
(見てろよ、おれは必ず)
とりあえず、ツバキは老婆に胸中で礼を述べた。
ツバキが桜城へもどると、王宮は何やらめずらしくにぎわいを見せていた。
近衛連隊上層部と元老院、ウツギとその細君ユウカゲが揃ってホールで祝杯を交わしている。
ユウカゲはその名の通りひっそりとした女性で、夫を影で支え、内助の功を果たして来た妻だ。
もともとは王家専属の医師で、自律神経失調症で鬱に陥ったウツギを献身的に看たことから、彼に見初められたという。
「これであなたも、心置きなく政務に打ち込めますわね」
「ああ、ひとまず肩の荷が下りた」
ツバキは先にもどっていた同僚のハッカに、不思議そうに尋ねた。
「何かあったの?」
「お、お前、どうしたの その顔!」
少女にふきつけられた怪しいスプレーのせいで、ツバキの目は泣きはらしたように赤らんでいた。顛末を説明するのも情けないので、話を逸らす。
「い、いや、灰溜まりに顔から突っ込んでよ……それより何? この騒ぎ」
「それがさ」
ハッカが答える前に、ウツギが上機嫌な歓声をあげた。
「ハオウジュ将軍、紹介を!」
へぇあのひと、あんな明晰な声も出せるんだ、とツバキが何の気なしに人だかりの中心を見ると、上品なワンピースに身を包んだ少女がウツギのそばに控えている。ハオウジュ将軍の、バリトンばりの中低音が王宮に響きわたった。
「みなさん、ご注目頂きたい! 灰桜(カイオウ)国の新しいプリンセス——」
「そんな馬鹿な!」
——一瞬ホールが凍りつき、その場にいた全員の視線が声を発したツバキに注がれた。プリンセス、とやらも冷ややかな目つきで睨んでいる。ハオウジュ将軍がかすかにこぶしをふるわせて言った。
「……ツバキ・リクドウ二等兵。この場で異を唱えるからには、お前は王女に心当たりがあるのであろうな」
「はっ、自分は今日コミューンで——もがっ」
「あっすみません。こいつ今、寝起きで寝ぼけちゃって。お騒がせしました!」
苦笑するハッカに無理やり口をふさがれ、ツバキはずるずると兵舎に連れて行かれる。
「——ぶはっ、何すんだ、ハッカ!」
「馬鹿なのかよ、ツバキ! お前、ただでさえハオウジュ将軍の印象悪いだろ。下手なことを言って、入隊早々クビになりたいのかよ!」
春の模範試合で、ツバキがハオウジュ将軍にとんでもない恥をかかせたのは、まだ記憶に新しい周知の事実である。
「王女は、将軍自ら見つけて来たんだぞ。出生証明書からDNAまで間違いはないんだ」
「……そりゃ、おれはあの子のDNAまではわかんねェよ」
「あの子?」
「聖マツリカ女学院の学生だよ。コミューンのヌシのババァから情報もらってよ、教会の墓地で見つけたんだ。そんときゃ、痴漢に間違われて連れて来られなかったけど。でも、スイレンと同じ場所に同じ数のほくろがあったんだぜ」
「そんな理由で王女だって定めたの?」
ハッカが肩をすくめため息をつくが、ツバキは興奮気味に笑いが込み上げた。
「あとよ、目がそっくりなんだよ、亡くなった王に。あの子は、山猫みたいな金色の目をしてた」
「王なんて、入隊式のとき遠巻きに見ただけじゃないか。当てにならないよ」
だがそれは、ツバキにも説明できない勘だった。
ふるえながらも、自分を睨みつけたときの少女のあの目。嵐の渦中にでも突っ込んでいきそうな強いまなざし。
確かに直々に王に謁見したことはないが、そこに宿る光に同じ繋がりを感じたのだ。
そんなふたりの話に、兵舎のすみで聞き耳を立てる影があることを、彼らはまったく気づいていなかった。
墓地に痴漢が出たという話は、瞬く間に学院に伝わった。教会の援助を受けている聖マツリカ学院は、ここの墓地の清掃や管理を当番制で行っている。そんな学院の管理下で桜城の近衛兵が不埒な行為を働いたとあれば、王室にも関わる大問題だ。
早速翌日、シスター・シキミを筆頭に、アニスも桜城に出頭した。
「——う、うちの近衛兵が痴漢行為を、ですか?」
報告を聞いたウツギは、おろおろしながらハオウジュ将軍に目配せをする。
「それが事実なら、厳しく処罰せねばなりませんな。で、その者の顔は覚えておりますかな」
「お、覚えています……日に灼けた若いひとでした」
将軍に訊ねられたアニスは、おずおずと答えた。
「では少々時間を頂きたい。ハッカ・ヨシノ二等兵!」
「は——はい!」
「下士官以下の者をすぐに召集しろ。グレーターの衛兵も呼びもどせ!」
ちょうど王宮の警護勤務だったハッカは、青くなってその場を飛び出した。
(あの子が、ツバキの言ってた王女(仮)? いや、そんなことよりマズイぞ、早くツバキに知らせないと……!)
「そ、その間、係の者に城を案内させよう。それとも、お茶とお菓子でティータイムがよいですかな?」
桜城の評判を何とか保ちたいウツギは、にこりともしないシスター・シキミのご機嫌取りに必死だ。
「ではお茶を——」「あの、わたし、お城が見たいです」
びくびくしながらもすかさず挙手するアニスに呆れながら、シスター・シキミはうなずく。
「……では、アニスは見学させて頂きなさい」
結局アニスひとり、初老の大臣の案内で城を回ることになった。
普段は立ち入ることのできない王室の大バルコニーや礼拝堂、舞踏会も行われるメインホールなど、見たことのない豪奢な作りに、アニスは興奮が治まらない。
だがアニスにはもうひとつ、どうしても行ってみたい場所があった。
「図書館、ですか?」
若い女の子が興味を持つような場所ではないので、大臣は初め少々面食らった。
しかし五百万冊を誇る王立図書館の蔵書を、世間に広めてもらって損はない。重々しいドアが開かれ、アニスは中へ通された。
そこは、膨大な本棚に囲まれた迷宮だった。書籍が幾重にも地層のように連なり、上方の本を取るために恐ろしく長い梯子がかけられている。
天窓から射し込む光のほかは、各コーナーに設置されたランプが仄かに光るだけの荘厳な空間。
大半は誰にも借りられた形跡がないが、学院にはない貴重な本が揃っていてうれしくなったアニスは、色褪せた羊皮紙のカビくさい匂いを胸いっぱいにすい込み、散策に没頭した。
どれくらいそうしていたのか。あまりに広いため、気がつくと案内の大臣の姿を見失ってしまっていた。
あわてて貸し出しカウンターへ向かうが、図書館内は閑散としていてよほどヒマなのか、受付もこくりこくりと船を漕いでいる。
すみの個人用デスクで書物を真剣に読み耽っている青年を見つけ、アニスはそっと声をかけた。
「あ、あのー……」
——ガタタッ!
いきなり現れた白衣の少女に驚いたのか、青年は椅子ごと後ろにひっくり返った。
両目まですっぽりと覆いかぶさった前髪でもこちらは見えているらしく、警戒するようにじりじりと後退る。
「だ、大丈夫ですか?」
落とした本をアニスがわたすと、青年はかろうじて平静を保ちながら、何事もなかったかのように椅子を立て座席にもどった。
「も、問題ない」
「その本、おもしろそう」
興味深げにのぞき込むアニスにびくりと青年は顔を上げ、躊躇いがちに口を開く。
「……な、なぞなぞだ。正しい答えを三つ、指定のブロックに書きまた壁にはめ込むと、仕掛けで図書館に新しい階層が開けると言われている」
「誰がそんな仕掛けを?」
「な、亡くなった国王だ。変わり者だったが、グレーターにドームやを作った天才で……」
「ほんとに新しい階層が?」
「いや、未だ解いた者はいない。図書館を利用する者の知識によって、本が増える仕組みだと言うが——信じられん」
(そんなの——試さずにはいられないじゃない!)
アニスの目に、光速で問題文が飛び込んできた。
ハイランドから帰る途中
アップルパイをひとつ買った
りんごをふたつ、道で拾って
りんごをよっつ、クマにもらった
いつつ、木から落ちて来る
りんごみっつでパイひとつ
アップルパイは全部でいくつ?
「ただの童謡ではない、裏がありそうで難しいのだ」
「難しく考えることないです。ストレートな引っかけ問題ですよ」
アニスはにっこり笑うと、ペンを取った。
「パイはひとつ、ひとつだけ——」
答えを書いたブロックを壁にはめると、突然館内に振動が走り、軋んだ上層部に見たことのない本棚が一段追加された。
「——す、すごいわ!」
ぱらぱらと落ちて来る埃も気にせず、アニスは興奮して顔を上げる。
「だ、だがりんごは全部で——」
腰を抜かしたように椅子によりかかる青年に、アニスは楽しげに解説した。
「『アップルパイ』は買ったひとつだけ、です。いくつりんごを手に入れても、パイを焼いたとは言っていないもの」
青年はあわてて本をめくった。
「ま、待て、まだある——これは!」
皮をはいでもわたしは泣かない
痛くはないの
でもあなたは泣くのね?
わたしはだあれ?
「わかった、『わたし』はタマネギ!」
アニスが同じように答えを書き込んだブロックを壁にもどすと、再び新たな本棚が出現した。
青年は初め面食らって声も出なかったが、
「き、きみはいったい……」
前髪の間から、初めてまじまじとアニスを見た。勢いがかって、次の頁をめくる。
「こ、これが最後の問題なんだ! これもさっぱり——」
『重くて軽い、長くて短い、苦くてあまい。それなんだ?』
「まあ、これは難しいわ……何かしら」
ふたりが考え込んでいると、
「いた——お前!」
突然静寂を突き破る大音声が図書館に響き、アニスたちは飛び上がって入り口を見た。
息を切らせた短髪の近衛兵が、大きくドアを開けたままこちらを指さしている。
「同僚から、お前が城に来てるって聞いた。ちょっといっしょに来てもらうぞ」
褐色の強い腕につかまれ、アニスはふり解こうとじたばたと暴れた。
「ななな何するんですか、この痴漢!」
「ち、痴漢なのか? その近衛兵は」
驚いて聞き返す青年に、ツバキがあわてて弁明する。
「違いますって! あーもう、お前とにかくいっしょに……!」
唐突に、パン、と高らかな破裂音がして、アニスのひっつめ髪がはらりとほどけた。
「……? なあに?」
「——! 机の下に隠れろ!」
ツバキがアニスと青年に覆いかぶさり床に伏せると、連続した銃声音とともに本が何冊か落ちてきた。
「きゃあっ!」
頭上、どこか高いところから声が響く。
「やめろ! 王子に当たる!」
ツバキはすかさず天窓の辺りを見上げたが、逆光でシルエットしか確認できなかった。
(どういうことだ? 狙撃されたのはおれたちなのか?)
「もう、な、何なんです……もぐっ」
身を低めたツバキは、わめくアニスの口を軍服のスカーフでふさいだ。
「しばらく静かにしてくれ」
ここにいてはならないと、ツバキの勘が告げていた。
唖然とする青年を後に、アニスを肩に担ぐと、ツバキは一気に図書館を飛び出した。
2113年 8月某日
国王が、わたしのスカートをめくった。いつもニヤニヤとこちらを見ていたので不快だったが、とうとう犯罪を犯したか。
フリルの数を数えていた自分は理数系だからとか、スカートの中には幸せがつまっているなどと意味不明な供述をするので、クビを覚悟で殴る。
アニスをかかえグレーターからコミューンへ出て来たツバキは、通りの向こうに数人の近衛兵の制服を見つけ、すばやく建物の陰に隠れた。
「向こうの路地にいるぞ!」
彼らは迷わずこちらへ向かって来る。
(何でおれの居場所がわかるんだ? ——あっ!)
城から支給されている携帯電話をあわてて叩き割る。GPS機能がついていたのだ。だが、追われる理由も狙われる理由も、さっぱりわからない。
「とにかくどこか安全な場所へ——」
アニスをふり向いたたツバキは、自分目がけて噴出される寸前のスプレーを間一髪で止めた。
「——っとォ、二度も同じ手に引っかかると思うなよ?」
ニヤリと悪い笑みを浮かべたツバキにスプレーごと手をつかまれ、アニスはじたばたと暴れる。
「いやっ、離して! あなたのそばが一番危険です!」
「おれは安全だ! 騒ぐんじゃねェ、手間かけさせんな、言うことを聞け!」
気づけば、ざわざわと周りは不審な目でツバキを見ている。
軍服を着ているとはいえ、今のやり取りはどう見てもツバキが悪者だ。警察軍が、人ごみを割って入って来た。
「……きみ、ちょっと話を聞かせてもらおうか」
「……あ、いや。ち、違うんです。こいつ——痛ェっ!」
狼狽えるツバキの一瞬の隙をつき、アニスはツバキの腕にかみついて逃げた。
「あっ待て、こら!」「待ちなさい、きみ!」
警察軍の声も無視し、ツバキは駆け出す。アーケードを抜け広場を走り、白衣の少女を追う軍人を、通行人も興味深げに見送った。
後ろをふり返りふり返り、息を切らせながらアニスは小路に入る。とたん、いきなり背後から口をふさがれ、路地裏の勝手口にあっという間に引っぱられた。
(今の捕獲の仕方、トタテグモのよう——)
などとアニスが思ったドアが閉まる瞬間、通りを駆け抜けるツバキの姿が見えた。
注・トタテグモ——巣穴の裏で待ち伏せし、獲物が通るとすかさず捕まえ、巣に引きずり込む習性を持つ。
(——って、そんなこと考えてる場合じゃない!)
ぐるぐる巻きで椅子に縛られたアニスは、我に返った。
薄暗い店内は、夜から開店するバーのようだった。テーブルは椅子が上げられ、カウンターにも誰もいない。天井の明り取り窓から射す光だけが、スポットライトのようにアニスと男を照らしている。
こちらに銃口を向けているサングラスとスーツの男は明らかに、あの軍人よりはるかに危険な香りがした。
「きみみたいなかわいい子に恨みはないけどね、きみが生きていると都合の悪い人間もいるってことで」
アニスにこれっぽっちも興味のない口調は、殺しがただの作業である仕事を物語っている。男はカチリ、と遊底を引いて装弾し、アニスに銃口を向けた。
アニスはぼんやりと、銃の作りを見ていた。いつも、ワンテンポ遅れて感情はついて来る。
(あれが発射されたら、わたしは……)
突然、入り口のドアをノックする音がした。
一瞬、あの軍人が追って来たのかと期待したアニスだったが、それっきりの沈黙に絶望した。男は黙って銃をかまえたまま、ドアのほうを警戒している。
ふいに、ぱらぱらと、天井からゴミのような薄片が舞い落ちた。
(……?)
アニスが顔を上げた瞬間——
「!」
開かれた明り取り窓を影が遮り、天井からツバキが降って来た。
「——がっ!」
背中に乗られ男は床に倒れたが、すぐに横へ転がり体勢をもどす。男が向けた銃を、ツバキも敏捷に蹴り落とす。
だが接近戦に持ち込んだ男は、ツバキの手首を鮮やかに捻り、躰ごと投げ飛ばした。
「ぐはっ……!」
ツバキはバックバーにぶつかり、酒瓶が派手に砕け散った。間髪入れずに男がツバキにのしかかる。
絡まりあったまま、ふたりはカウンターの裏に転がっていった。ガラスの割れる音、人体を殴る音、呻き声。
そしてやがて何も聞こえなくなり、アニスは青くなってバックバーを見た。ゆらりと、ひとつの影が立ち上がる。
「——な、おれのほうが安全だろ」
ぼろぼろのドヤ顔でニヤつくツバキに、アニスはこわばった表情がようやく破顔した。
「休んでるヒマねェぞ」
ツバキはアニスの縄を解き通りへ出ると、例の雑貨店へ向かった。老婆は相変わらず、競馬新聞に真剣な顔で見入っている。
「バーさん。おい、バーさん!」
声をひそめつつも聞こえるように呼ぶが、やはりこちらを見向きもしない。
(くっそ、わざとだな……)
そうこうしているうちに、辺りを見回しながら近衛兵が近づいて来る。ツバキは身をかがめ、あわててショーケースの上にくしゃくしゃになったお札を投げた。
「チョコひと箱!」
ニタリと魔女のような笑いを浮かべ、老婆がふたりを奥のスペースへ招くと同時に、近衛兵が店の前を通り過ぎて行った。
「おやまあ、痴話喧嘩かい。ツバキ・リクドウ二等兵」
老婆は怯え気味のアニスに目をやり、ツバキの痣と傷だらけの顔をからかう。だがツバキは、怪訝な顔で畳に上がり込んだ。
「……何でバーさん、おれのこと知ってんだよ」
「アンタはもう、お尋ね者だからね」
雑貨屋の奥は三畳ほどのスペースにパソコンがいくつも並ぶ、デイトレーダーのような小部屋だった。
老婆が、パソコンのひとつをツバキに向ける。ネットニュースには、ツバキの顔写真と名前が流れていた。
罪状、殺人容疑。殺されたのは、ハオウジュ将軍が王女だと主張する少女だ。
「なっ……!? おれは殺ってない! そもそも本当の王女はこいつだ!」
アニスが、ぽかんとツバキを見る。
「……何のことですか?」
「あんた、この女の娘なんだろう?」
ツバキが指令書をさし出すが、アニスは写真の女性に記憶がないようで、考え込んでいる。
ツバキはがりがりと頭をかいた。
「バーさん、説明しろよ! あんた何か知ってるんだろ!」
「アタシは手がかりを、教えただけさ。王女のことなんて知らないね」
ニヤニヤと肩をすくめる老婆を忌々しげに睨み、ツバキはアニスにこれまでの経緯を話した。
「……わたしが、亡くなった王さまの娘?」
アニスは信じられない、という顔で首のほくろをさわる。
「だって、シスター・シキミはそんなこと言ってなかった。お母さんは、ただ病気で亡くなったって……」
「あの教会の墓には、あんたの母親が眠ってるんだろ?」
「そう……聞いています」
「『丘』へ行けば、DNA鑑定をしてもらえる。いっしょに城へ来てくれ」
自信に満ちた顔でアニスを見るツバキを、嗄れ声が遮った。
「待ちな、ボーヤ。今その子が王女だと証明すれば、そのニュースの子の二の舞だよ」
(——そうだ、誰かが継承者を消そうとしている)
ついさっき、アニスはバーで殺されそうになったばかりだ。城の図書館でも。それは、ツバキも身を以って体験した事実である。
(ほとぼりが冷めるまで、彼女だけ警察軍に保護してもらうか? いや、だめだ)
陰謀渦巻くグレーターよりはマシだとしても、近衛兵が徘徊している現状、ここコミューンとて安全な保証はない。
見つかれば城へもどされてしまう。今こうしてここにいる時間すら、安心できない。
「それに——あれは近衛兵じゃない」
バーカウンターで、しばらくは気を失っているだろう男。彼との交戦を思い出し、ツバキはじっと自分のこぶしを見た。
警察軍でも近衛兵でもない、別の組織が暗躍している。
そんな緊迫した空気を破り、考え込むツバキの前をアニスがおずおずと横切る。
「あ、あのー、わたし学院へ帰ります。シスターが心配してると思うので」
「——ちょっと、今の話聞いてた?」
ツバキにぐいと腕を引かれ、アニスは思わず声をあげた。
「ひっ、離して」
「命を助けてやっただろーが」
「そ、それは感謝しています。でも、指名手配のあなたといることだって、危険には変わりありません」
「何だと? あんたを捜し当てたのはおれだぞ」
「み、見つけてくれなんて頼んでません。わたしは、お城になんか行きたくないんです」
老婆が、ひゃっひゃっと肩を浮かせて笑う。
「シンデレラがみんな、ガラスの靴をはきたがってると思ったら大間違いだよ、ボーヤ。ちっとは、女ってもんを勉強しな。だが、その子の素性はもう割れてるよ。学院へも、もう手は回ってるだろうねえ」
見ると、ネットニュースにはツバキが誘拐した被害者として、アニスの顔写真も出ている。
「そんな! じゃあ、わたしはどうすれば——」
「心配するな。責任持っておれが警護するからよ」
キリリと格好をつけて断言するさまにさすがにカチンときたのか、アニスは上目遣いにツバキを睨んだ。
「し、心配するなって、こうなったのは、全部あなたのせいじゃない……!」
「な——何だと!」
老婆はむきになるツバキをおさえつけ、アニスにおもむろに向き直る。
「——お嬢ちゃん、人生は選択の連続だ。今アンタは、その馬鹿のせいで岐路に立っている。だが、決めるのは自分だ。出口のない水槽で安全に暮らすか、危険な大海で自由を知るか。アンタはどっちの魚だい?」
(どっちの……?)
老婆の言葉に、急に高波がどっとアニスの眼前におしよせた気がした。
とたん、白衣のアニスは白くひらひらとした魚になって、波にさらわれる。
満たされた退屈な毎日。この先、自分を待っているもの。
アニスは白衣のすそをぎゅっとつかみ、怖々と怪しい老婆と容疑者の近衛兵を見た。信じるメリットは何もない。これまで、根拠のないルートを選んだこともない。
でも——、
自分が納得できる理由が、いつも選択肢に用意されているとは限らないのだ。
(最初で最後の冒険だわ)
意を決したように顔を上げたアニスを、老婆は三日月のような目で笑った。
「だがまあ、どっちにしろ危険なことには変わりはないからね。これはサービスだよ」
唐突に、地図を描いた一枚のメモがツバキの前にさし出される。
「コミューンにあるアタシの甥の城だ。レイチョウといって、王宮でアンタと同じ近衛連隊に所属してる。入隊したてのアンタはまだ面識ないだろうがね」
「レイチョウ少佐? 士官学校で、名前だけは聞いたことがあるぞ! 桜城きっての智将で、優れた軍師だとか」
「有給取って今は自分の城にもどってるはずさ。訪ねて行けば力になってくれるだろう」
「その話、信用できんのかよ」
訝しげに目を光らせ、ツバキがメモと老婆を交互に見やる。
「人生は選択の連続だと言ったろう。どのみち、崖っぷちのお前に、選ぶ権利なんかないのさ」
老婆の言う通りだった。ツバキは肩をすくめ、メモを軍服のポケットにしまう。
「……ふん、ま、いいや。でも、バーさんに軍人の身内がいたとはね」
「まあアタシも昔は、軍で土俵せましと暴れたクチだからね」
「え。近衛連隊は『男』しか入れな——」
青くなったツバキとアニスがよく見ると、老婆の顎にはうっすらと青い無精髭が生えかけていた。
店を出たツバキは、まず古着屋で軍服を売り、代わりに適当なトラックジャケットを購入した。
アニスの白衣をじろじろ眺めながら、ふーむと腕を組む。
「あんたもそれ、目立つから着替えたほうがいいな。今時の女の子の服って、どーいうのが流行ってんの?」
「わかりません。あまり興味なくって」
「しょーがねェなァ」
女性用のハンガーラックからツバキが服を見繕うが、自分もさっぱりわからない。結局マネキンが着ているコーディネートを一式買い取った。
「マイドオオキニ」
国籍不明のチョビヒゲを生やした親父が、舌ったらずに手もみする。
ぴったりとしたショートパンツに、ジップアップパーカー。
シスターたちが見たら、まず眉をひそめそうな短さのボトムである。
それでも、キャンディカラーのかわいらしいパーカーは、わたあめみたいなふわふわの素材で、アニスは思いのほか気に入り、袖を頬ずりした。
(寄宿舎にいたら、こんなの一生着ることなかったかも)
うきうきと髪もほどいたアニスを無言で一瞥し、
「ふーん。ま、いんじゃねェの?」
と、ツバキは無関心によそを向く。
「自分じゃないみたいです」
「あんただってすぐバレたら困るからな、ちょーどいいよ」
「あの、お代はどうすれば」
「桜城に請求するし。どうせあんた今、金持ってねーだろ」
ひらひらと片手を上げると、ツバキは次に中古のモーターショップへ向かった。
「ここで移動手段を物色するからちょっと待ってな——って、いねェ」
さっきまで隣を歩いていたはずのアニスは、すでに視界にいなかった。見ると、店内を物めずらしそうに、きょろきょろと見回している。
「エンジンにニトロを積んで走るんですかあ、すごい」
アニスが店員の話を熱心に聞くさまを、ツバキは唖然と見ていた。
(それは興味あるのかよ、ヘンなやつ)
乗り物を決めたツバキは、ヘルメットを二つ購入した。だが、アニスは顔をしかめて受け取ろうとしない。
「わたし、バイクの免許持ってないんですけど……」
「大丈夫、運転するのおれだから」
店内に並ぶサンドバギーに、ちらりとアニスは目をやる。
「あの、わたし、車のほうが……」
「こっちのほうが身軽で動きやすいんだよ」
「でも、二人乗りなんて(あんなにぴったりくっついて)」
通りを駆け抜けるカップルの乗ったバイクに目をやり、アニスは露骨にいやそうな顔で下を向いた。
「あのなァ、レイチョウ少佐の城に行くって決めたんだろ? 二人乗りくらいでビビってんじゃねェよ」
「ビ、ビビってるわけじゃ……」
決めたのは確かだが、デリカシーのない物言いにアニスはむっとなる。
「わっ、ちょっ……!」
ツバキは無理やりアニスにヘルメットをかぶせると、バイクの後部座席に有無を言わさず乗せ、自分もシートにまたがった。アニスの腕を取り、自分の腹に回させる。
痩身でありながらバネのあるツバキの躰は身体能力の高さを物語っており、腹部も固い筋肉で覆われていた。
アニスは自分のマシュマロのような腹を思わずぽよんと突き、初めて触れる異性の躰にヘルメットの中で赤面した。
そんなアニスの心中などつゆ知らず、ツバキがキーをイグニッションに入れる。グリップを捻ると、エンジンが快適な音を立てた。
「ちょ、無理です! こんなの……!」
「気になってたニトロエンジン試せるぞ、よかったな。さあ、しっかりつかまってないと落っことすぜ!」
「うっ——ひゃあぁぁぁ!」
躊躇と悲鳴は、すぐに爆音に打ち消された。
急発進したサンドバイクは、砂塵を巻き上げながら市民街を突っ切ってゆく。角を曲がるたび車体が地面すれすれに傾く恐怖に、アニスは何度もぎゅっと目をつぶった。
そっと薄眼を開くと、街がミラーにすい込まれどんどん遠ざかる。学院の鐘塔がかすかにけぶって見えた。
(次、あそこへもどれるのはいつなんだろう。ううん、もう、もどれないかもしれないんだ)
細かな灰の粒子が混じった風がアニスの頬を擦り、ちくちくと痛んだ。
最初のサービスエリアで休憩を取ったとき、アニスはすでにぐったりと疲れていた。
ふたりは今、海岸線を通りレイチョウ少佐の城へ向かっている。
「食う?」
ツバキが売店で買って来たオレンジ色のソフトクリームをさし出すと、とたんにアニスの表情がぱっと輝く。
「小ぶりのミニオレンジがこの辺の特産なんだよ。あーあと、板チョコも大量にあるぞ。賞味期限切れでまじィけど」
甘味で少しだけ機嫌を直したアニスに、ツバキは改めて自己紹介をした。
「おれ、ツバキ・リクドウ。桜城近衛連隊の二等兵だ。あんたのことは何て呼びゃいい? ……って、王女さま、か」
「王女さまはやめて下さい。そんなのわたし、信じてませんから」
アニスはぶんぶんと首をふって下を向く。
「でも前王のDNAと一致したら、あんた王女さまだぜ」
「もしそうだとしても、わたし王宮に住んでたわけじゃないし、白衣と寝まきしか持ってないし、ドレスなんか着たこともないんです。そんな人間が、いきなり王室で暮らせるはずありません」
「ふぅん……ま、そっから先はおれの知ったこっちゃないからいーけど。で、あんた名前は?」
相変わらず粗野な態度が気に障り、アニスもそっけなく返す。
「アニス・リィです。でもみんな、博士って呼びますからそれでいいです」
「それ、あだ名? 肩書き?」
「どっちもです」
「あ、そう。じゃあアニス博士、で」
何気なくつぶやいたツバキの一言に、アニスの心臓が一瞬、小さな拍子を刻んだ。
『アニス』。
学院ではリィ博士と揶揄される中で、その響きはアニスにとって面映ゆいものだった。
名前を呼ぶ者は、シスターたち以外誰もいなかったから。
そんなアニスの胸懐など知らず、ツバキは自分もソフトクリームの山にかみつく。
アニスも少しゆるんだクリームをすくうようになめると、潮風の中ひんやりとしたあまさが舌に心地よく溶けた。
沿岸に降る灰は塩分をふくんでいるので、建物はもちろん人体にもすぐにこびりつく。そのため、この辺りを出歩く者はあまりいない。
「……さてと、食ったら行くか」
コーンの包みをゴミ箱に捨てると、ふたりは駐車場にもどった。
早くから、ツバキは尾行に気づいていた。
人通りが少ない地区なので車は目立つ。海岸線はだいたい、ツーリングのサンドバイクか事業用トラックしか走っていない。
その車は、市民街を出る前からついて来ていた。
ツバキのバイクの数台後ろに割り込んで入って来た、砂地仕様にタイヤを改造した黒のBMWセダン。サービスエリアでも車から降りもせず、すみに駐車していた。
ドライバーも黒服にサングラスと、わかりやすいビジュアルだ。
(マフィアみてェなナリして素人かよ)
ツバキは鼻で笑い、こちらが気づいていると悟られないよう、しばらくは普通に走行した。海岸通りから内陸部への脇道へ入ると、いきなりギアをセカンドに入れスピードを上げる。
「ちょっ……リクドウさん!」
当然向こうはあわてて追って来るが、小道では敏捷なバイクにどんどん離される。わざといくつも角を曲がると、アニスが何度もわめいて訴えて来たが今は無視した。
街中へ突入しても、懲りずに相手は追って来た。だが混雑した車道では二輪車について来られるはずもない。
ついに二百メートルほど水をあけられ、やがてバイクのミラーから黒のBMWは消えた。
ツバキは辺りを確認すると、道路脇にバイクを止めた。アニスがヘルメットをはずし、ものすごい勢いで道端に投げる。
「リクドウさん、何ですかあの運転! 死ぬかと思ったんですよ!」
「まあまあ、無事生きてるから」
尾行されていたと聞けばアニスが怖がると思い、ツバキはへらへらと躱す。だがアニスはがみがみとまくし立てた。
「制限速度を八十キロはオーバーしてましたよ!」
「お前は取締りの婦警かよ」
「はぐらかさないで下さい、だいたいあなたは」
「——!」
いきなりツバキはアニスをかかえ、路地裏に転がり込んだ。ふり返ると、一度通り過ぎて行ったバイクが引き返して来る。
そのメタリックな車体に、ツバキは見覚えがあった。海岸線をツーリングしていた、大型のサンドバイクの一台。
ドライバーは、灰だらけのよくあるジャンプスーツを着ている。
いかにもな怪しさを醸し出している、黒のBMWに気を取られ気づかなかった。初めから、追跡車は一台ではなかったのだ。
「……くそっ、おれのミスだ」
ツバキは舌打ちをすると、すぐさまアニスの手を引いて走り出した。
「ちょっと待って、灰が目に……!」
ヘルメットを、さっき投げ捨ててしまったのだ。ツバキはアニスの縺れる足を躰ごとかつぎ、路地を疾走した。
バイクは狭い通路を歩道に乗り上げ追って来る。ツバキは、露店のフルーツショップの屋台をわざと薙ぎ倒し駆け抜けた。
「すまん、桜城にツケといて!」
とりあえず詫びるが、返事の代わりに怒鳴り声が飛んで来る。
走行を妨害したつもりだったが、バイクはいっせいにぶちまけられたオレンジを避け、通りの壁へジャンプすると地面と平行に走って来た。
「あの重量で嘘だろ!?」
ツバキは猫しか通らないような細い路地へ逃げ、窓から民家へ踏み込んだ。
ガレージへ回ると、ちょうどビーチバギーで出かけようとする青年が、鼻歌を歌いながらキィを入れている。
ツバキは助手席にアニスを突っ込むと、青年を突き飛ばし自分も運転席に収まった。
「ちょっと借りるよ、請求は桜城に!」
わめきながら追いかけて来る青年に言い放ち、強くアクセルを踏む。大通りに出ると、とたんに視界が開けた。
ツバキはダッシュボードに入っていたゴーグルを装着し、自分のヘルメットをアニスにわたす。窓を下ろし、コンバーティブルのルーフを全開にした。
「どうしてオープンにするんですか!」
走行中は灰をもろに受けるので、窓はもちろんルーフを開ける者など誰もいない。五分でシートはざらざらだ。
「このほうがスピードが出る!」
「出ません。車は空気抵抗が増加します」
「車じゃない、おれが出るの!」
「もう! いったい何が起きているんですか!?」
ここまで来れば、ツバキとて隠しようもない。
だが非常時のわりにはツバキの瞳孔は興奮して最大に開き、喜悦に昂っていた。街で襲ってきた刺客と同じ匂いを感じる。
「バーさんが言ってただろ、ニュースの子の二の舞になるって——ほら、来なすったぜ、お客さんがァ!」
ミラーに、さっきのサンドバイクが小さく映っている。渋滞になれば、今度は車であるこちらが不利だ。
「レイチョウ少佐の城から離れるがしょうがねェ、撒いてからもどるぞ!」
ツバキは街からできるだけ遠のくため、アウトバーンに入った。
「バイクも高速に乗って来ました!」
シートにしがみついていたアニスは顔を上げ、ふり返って叫ぶ。カーブで傾いたサンドバイクは、直線に入る寸前エンジンをふかし加速して来た。
これではすぐに追いつかれてしまう。
ツバキも並ぶ車を縫うように大きくハンドルを切り、列の先頭に躍り出た。飛んで来る罵声を無視して、アクセルを踏み込む。
とたん、サイドミラーが粉々に飛び散った。
「きゃああ!」
もう片方のミラーに目をやると、ジャンプスーツの腕がグリップを離れ、両手で銃をかまえている。
「アニス博士、シートに身を沈めろ!」
ツバキは何度も車線を変更し、S字を描きながら前の車を追い抜いて行った。だがバイクは数台後をぴったりとついて来ながら発砲する。
後方車のリアウィンドウが激しい音を立てて弾け、スピンしながら壁にぶつかった。
交通混乱とクラクションの嵐の中、高速は急カーブにさしかかった。ツバキが、速度計を一気に百八十キロまで上げる。
「やめて! 灰でスリップするわ!」
「頭に穴が開くよりマシでしょ!」
「正気——!?」
応酬の中、ビーチバギーは横滑りすると、前方を走っていたトレーラーの前に突っ込んだ。
すぐさま、ハンドルを逆に切り体勢を立て直す。トレーラーのクラクションが悲鳴をあげ、軋んだタイヤが傾きながら車線を滑った。
前方を巨大なコンテナでいきなり塞がれ、バイクは車体が横倒れしスリップした。後方からクラッシュ音が連続して聞こえる。
見返れば、すべての車線で玉突き事故が起き、車のバリケードができていた。
あの様子では、もう追って来るのは無理だろう。
「やったぞ!」
ツバキが躰を捻ってガッツポーズを取る。
「——リクドウさん、前!」
青くなって声をあげたアニスの前方に、料金所が見えた。
エアバッグの下から何とか這い出たふたりは、しばらくものも言えずに地面に這いつくばっていた。
「……へ、平気か?」
やっとのことでツバキに身を起こされ、アニスは脱出したビーチバギーをふり返る。見事につぶれたボンネットが目に入り、ぞっとした。
よく無事でいられたものだ。
近づいて来る青い回転灯とサイレンに、ツバキがはっとしたように顔を上げた。遠くから緊急車両が向かって来る。
「まずい、警察だ」
もともと、命令系統を異とする近衛連隊と警察軍は、日頃から対立している。
騒ぎの根元がツバキだとわかれば、強制的にふたりとも城に送り返されてしまうだろう。最悪、任意同行を求められる可能性もある。
(——そうなりゃ、何もかもパーだ)
ツバキは高速の塀から、視界に収まる限り全景を見下ろした。数メートル下を普通道路が交差している。
「アニス博士、どこも怪我してねェな? 大丈夫だな?」
「え? ええ。あの……何するつもりです?」
めずらしく真剣な顔で確認するツバキにいやな予感がして、アニスは身を固くして訊いた。
轟音がして、収集した降灰を積んだトラックが下道を走って来るのが見える。
(まさか……)
顔を引きつらせてふり返った瞬間、アニスはツバキに抱きかかえられ宙を飛んでいた。
2113年 8月某日
彼女に殴られた頰が痛い。国民総幸福量(GNH)について話がしたかっただけなのだが、伝わらなかったようだ。
だが殴ったほうもきっと痛いだろうと思い、この痛みをわたしはあまんじて受ける。
それよりも、この胸の痛みは何故であろうか。
彼女は、お茶に何かを入れたようだ。媚薬という名の毒を……
荷台でゆられること二時間。辺りがすっかり暗くなった頃、トラックはようやく停車した。ツバキが運転席をのぞくと、ドライバーは道端の自動販売機へ向かっている。
ふたりはそっと荷台を飛び降り、辺りを見回した。
「どこだ? ここは……」
活気のよさはコミューンの市民街と似ているが、匂いが違う。提灯やランタンが彩る街の背後に、工場のシルエットが見える。
油の匂い、煙の匂い。裏道に入れば、生ゴミのようなすえた空気が漂っている。
そして匂いより何より、降灰量が違った。ここに降る灰はコミューンの比ではなく、陽が落ちた後もロードスイーパーが走っている。
少なくとも、レイチョウ少佐の城が近くにあるとは思えない。
「マズイぜ、アニス博士。おれたち——って、またいねェ!」
今しがた後ろにいたはずのアニスの姿はなく、道路をはさんだ牌坊門からツバキを手招きしている。
「リクドウさんこっち! ほらこのひと、お家じゃなくてこんなところで寝てるんです。おかしいでしょ、どうして?」
見ると、泥酔した男が歓楽街の飲み屋の軒下で高いびきをかいている。
「飲み過ぎて帰れなくなったんだよ。よくあることだ」
「お家があるのに、外で飲んだり寝たりするんですか?」
「いやまあ……男にはそういう日もあるんだよ。あまり突っ込んでやるな」
アニスが理解不能という目でじっと見つめてくるが、さすがのツバキも簡単に答えは出せない。
「もういい、放っとけ。自業自得だ」
「でもまだ夜は冷えるし、このままだとこのひと、灰に埋もれてしまうわ。とりあえず起こしましょ」
栗色のくせっ毛は、すでに灰だらけである。男をアニスがゆすって起こすと、男はニヤニヤとした寝顔で腕を回してきた。
「うーん……○○ちゃァん……」
店の女の子と勘違いしているらしく、アニスにしがみついてくる。
「ど、どうしましょう。リクドウさん」
青くなって固まるアニスから男を無理やり引きはがすと、ツバキは男の頬をぺちぺちと叩いた。
「おい起きろ、オッサン! 何寝ぼけてんだ!」
男はぼんやり覚醒すると、無精髭の生えた口をぬぐい起き上がる。
「ひでえ、おれまだ二十八……あれ、女の子だと思ったのに、野郎かあ……」
「てめ、おれが起こさなかったら、あんた朝には灰といっしょに埋立地行きだぜ」
「ははっそーだな、サンキュ。んじゃま、帰るとするかあ」
派手にくしゃみをし、鼻歌交じりにご機嫌に去って行く後ろ姿を見送りながら、ツバキは肩をすくめた。
「あーいう大人にはなるなっていう見本だ」
「あんなひと、あまり見ないですね」
「そりゃ、ここはコミューンじゃねェから——」
言いかけてツバキは、改まってアニスを見た。
「あのな、あんた勝手にいなくなるからよ、先に決めとこうぜ」
「はい」
遠回しに注意されているのがわからず、きょとんとしてうなずくアニスにツバキはため息をつく。
「迷子になったら、その街の駅を目指すこと。いいな」
ちょっと目を離すとこれだよ園児かよ、とぶつぶつ文句を言うツバキに、今度は街角からふいに声をかけて来た男がいた。
「兄さぁん、灰も深まって来ましたよ。今夜の宿はお決まりで?」
愛想よく表面はにこやかに近づいて来たが、細身の長袍(チャンパオ)に強い香を漂わせ、あまりまともな稼業ではない印象だ。
加えて足は砂地仕様のごついブーツという、一見サービス業のような外見とはちぐはぐなスタイル。
ツバキは、男をそっけなくあしらって先を行った。
「あァ、決まってる」
「どうです? 安くしときますよ」
「ウサギの世話にはならねェよ」
男の耳たぶには、小さなウサギのピアスが光って見えた。
「兄さん。この街に来たら、ウチを通したほうが利口ですって」
「どーだか」
邪魔だというように片手で躱す。
「何ですか? ウサギって」
アニスが後ろをふり返ると、男はにっこりと親指を下に向けていた。
「『ハイイロウサギ不正規連隊(イレギュラーズ)』。ギャング気取りの、ロクでもないゴロつきの集まりさ。プロ用の軍靴履いてただろ、あーいうやつはヤバいんだ。連中の取り締まりは警察軍でおれらの管轄じゃないが、ま、どのみちあんなのには関わらねェほうがいい」
とはいえ、どこかで宿を取らないといけないのも事実だ。降りしきる灰の下、野宿するわけにも、朝まで街をぶらつくわけにもいかない。
ツバキは目がチカチカするような漢字だらけの発光する看板を見上げ、ため息をついた。
「こんなところに女子高生と泊まったら、犯罪だよなァ……」
しょうがなく、騒がしいネオン街を抜け、ひっそりとした旧市街へ入る。今はもう使われていない、壊れかけの廃ビルが建ち並ぶエリアだ。
建設途中で工事が中断したもの、もともと欠陥建築で傾いてしまったもの。機能を失った街は、まるでゴーストタウンだ。
水も電気も通っていないため、ホームレスすら住んでいないが、工場区から少し離れているので空気は悪くなかった。
「防砂設備もねェし、ちっと寝心地は悪ィが、横になれりゃいいだろ」
ビルはかつてオフィスとして使われていたらしく、壊れた椅子や机が無造作に積み上げられ、散乱している。最上階にはところどころ剥げかけた革ばりのソファが並んでおり、ツバキはソファにうっすら積もった灰を叩くと、腰かけてスプリングを確かめた。
「ひっでェ音……あ、アニス博士はそっちのソファな」
「ここで、いっしょに寝るんですか?」
アニスが驚いて聞き返すので、ツバキはキリリと清廉に敬礼する。
「誓って何もしないから安心しろ」
「? 何をしてくれるんでしょう?」
疑問と期待に満ちた目がツバキを見つめてくる。アニスは、寄宿舎以外のベッドで眠ったことがない。ましてや、誰かと眠ったことも。
(……もう帰りてェ)
ツバキはどっと疲れに襲われた。アニスはいつもと違う状況を楽しんでいるようで、いそいそとソファを整え休む準備をしている。
だが、一日はりつめていた緊張が解けたせいか、ふたりはそのまますぐに寝入ってしまった。
一時間ほど経った頃、ツバキははっと目を覚ました。そっとアニスをゆり起こすと、人さし指をくちびるに当て出口のほうへ促す。
階下で足音がする。ツバキは非常階段のほうへ回った。ドアを開けると、とたんに灰がふき込んで来てふたりとも思わず目をつぶる。
「あれぇ、兄さんじゃないですかぁ」
突然抜けるような能天気な声が飛んで来て、ツバキはぎょっと立ちすくんだ。さっきの男が尾けて来たのか、数人を引き連れて非常階段の下からニヤニヤと見上げている。
「兄さぁん、ここウチの自社ビルなんで……宿泊するなら、宿代払ってもらわないと!」
彼はいきなり、階段を数段すっ飛ばして駆け上って来た。長袍の袖口から、キラリと刃物がすべり出る。
ツバキは、転がっていたパイプ椅子の足をつかみ、男が繰り出してきたナイフを十字に受け止めた。
相手は怯むどころか、細い躰からは思いもつかない重厚なパワーでおして来る。
「だからぁ、ウチ通したほうがいいって言ったよねぇ!」
「失せろ!」
ツバキが男の腹を思いきり蹴ると、軽い躰はいとも簡単に飛ばされ、壁に激突した。
「痛ってぇ……」
言葉とは裏腹にたいしたダメージもないのか、男は楽しげにまた突進して来る。目にも止まらぬ速さでナイフをくり出すが、ツバキの手刀で叩き落とされる。
だが、身を捻った拍子に体勢を崩したツバキのすきを男は敏捷に見極め、ツバキの髪をつかむと顔に肘鉄を食らわせた。
「……ぐふっ!」
「……!」
飛び散る赤い飛沫に、アニスは声にならない悲鳴をあげる。
(リクドウさん……!)
アニスは思わず机の山へ走っていた。力いっぱい下の椅子を引き抜くと、
「うわあぁぁ!」
オフィス家具が雪崩のように彼らに襲いかかった。
ツバキは瞬発で起き上がると、アニスの手を引き屋上へ駆け上がった。家具の下敷きになった男たちは、物騒な言葉を毒づきながらよろよろと這い出している。
ツバキは走行の延長のように、隣接するビルに跳び移った。
「アニス博士、こっちだ!」
「……嘘っ、無理です!」
ツバキが腕を広げて待つ対岸のビルは、ここからおよそ二メートル。
それはともかく、地上数十メートルの高さでジャンプする機会など、アニスに当然これまであるわけがなかった。
下を見ると奈落のような暗闇に目がくらみ、足がカタカタとすくむ。
「むむむ無理無理、絶対落ちます!」
「やつらが来る、早くしろ!」
アニスをかかえて跳べる距離ではないのだ。だがそうこうしているうちに、本当に男たちが屋上へ上がって来た。
「——くそっ、来やがった。あー、高校生女子立ち幅跳び平均記録は一・五〇メートルはある(多分)! 大丈夫だ、助走つければ跳べる! おれが絶対受け止めるから来い!」
その瞬間、実質的な数値の提示がトリガーとなり、アニスは跳んだ——
「きゃっ……!」
着地で足を踏み外す。だが強い腕ががっしと引きもどし、アニスはツバキの胸に無事収まった。ほっとしたのも束の間、あまりの近距離にぎょっとして、アニスはまた立ちくらみを起こしそうになる。
おさまらない動悸を抑えつつ、アニスはツバキの後を追ってビルの階段を駆け下りた。
「はあはあ……もう心臓が持たない」
「もうちょっとだ、がんばれ!」
一階まで下りると見せかけ、渡り廊下を伝って隣りの棟へ。走って旧市街の駅まで出ると、そこはもう無人ではなかった。
駅には屋台やタクシーが並び、そこそこにぎわっている。
「もうのんびり休んでるヒマはねェ。これでレイチョウ少佐の城まで行こう」
ツバキはタクシーを一台捕まえ、アニスを後部座席におし込むと自分も乗り込んだ。
「とりあえずコミューンまで行ってくれ」
「お客さん、これ、街内限定車なんですよ」
「あ? 何だよそれ、ゴーカートじゃあるまいし」
「まあ、ゴーカートみたいなもんですよ。行き先も決まってますしね」
言うやいなや、ドライバーがマスクをつける。深くかぶった制帽からのぞく耳たぶに小さなウサギのピアスが見え、ツバキはあっと声をあげた。
不透明なガラス板が、運転席と後部座席を仕切るように可動する。
「しまっ——」
しかし車内に満ち始めたガスのほうが回りが速く、意識を奪われたアニスたちは夜より深い闇に堕ちて行った。
「う……頭が痛ェ……」
ふたりが目を覚ましたとき、そこはさっきと同じビルの一室のようだった。窓から、工場の灯りが規則的に点滅するのが見える。
見回すと、折りたたみ椅子やダンボールの山。どうやら、物置に使われている部屋のようだ。
「……おれら、何か薬で眠らされた?」
こめかみをおさえるツバキに、アニスはくんくんと鼻を鳴らす。
「吸入麻酔薬イソフルラン。エーテルの匂いがします。副作用は頭痛、嘔吐。化学式は」
「いい、余計頭痛くなるから。つーか詳しいな、あんた。やっぱ『博士』なんだな」
ツバキは眉間をつまみながら苦笑する。
「あーいう薬、作ったりすんの?」
「はい。昨日、痴漢行為をなさったリクドウさんに使用したものとか」
「だから痴漢じゃねェって……てか、アレ、あんたが作ったの!?」
「はい。こういうのもありますけど」
アニスはうなずいて、ポケットから水鉄砲式の護身用具を取り出した。
「……マジか。昨日めいっぱい浴びたやつ、劇薬じゃないだろうな」
「有害なものじゃありません。原材料は、トウガラシとオリーブオイルですから」
ツバキはいささか理不尽な気持ちでつぶやいた。
「……それフツー、キッチンで使うのが正しいんじゃないかね。まあいいや、これ使えるぞ。あいつらはどこだ?」
「隣りから話し声がします」
アニスは落ちていた紙コップを壁に当て、じっと耳をすました。
「何か食うって言ってますけど」
「はは。ウサギはニンジン食っとけって」
「わたし、だそうです」
「誰が言ってる!?」
「みんな。白くておいしそうって……食うなんて冗談ですよね?」
不安な表情のアニスに、ツバキは青くなった。
「い、いやそういう意味じゃなくて——とにかく逃げるぞ」
ツバキは急いで窓から外を見た。大窓が片壁全面を覆っている。だが本来外にあるべきベランダは崩れ、ほぼ断崖だ。
しかもさっきとは向きが違う部屋らしく、隣接する建物は見当たらない。
どのみち、今度は跳べる状況ではなかった。動くたび、じゃらじゃらという金属音がふたりにつき纏う。
彼らの手首は、仲よく手錠で繋がれていた。
突然がちゃりとドアが開き、さっきの長袍の男を筆頭に、がらの悪い面々が入って来た。めいめい手に鉈や鉄パイプを、耳障りな音を立て引きずっている。
「ほんとだ、かわいーねぇ」
「くんくん、おいしそう」
強面な男たちの、ウサギとは思えない肉食獣な発言に、アニスは思わず後退りした。 鉈男が、長袍の男ににやついた目線を送る。
「どうする? イチイ」
「野郎はいらねぇや。手錠はずぜ」
「めんどくせ、それじゃ手首ごと——」
ツバキ目がけて鉈が大きくふり上がる。アニスの悲鳴が響く前に、男たちから叫び声があがった。
「ぐわあぁ! 痛ぇ!」「目があぁぁ!」
ツバキがトウガラシエキスの水鉄砲を手に、アニスの手を引き出口へ向かう。
だが——
「!」
後頭部を鉄パイプが襲い、ツバキは床に転倒した。
「ガキが! ナメたマネしやがって、何使いやがった!」
男は腫れた目をこすりながら、ツバキの胸部を刺突のようにパイプで撃つ。
「ぐはっ……」
骨が軋む鈍い音を聞き、アニスはツバキの前に立ちはだかって叫んだ。
「——や、やめなさい、それを作ったのはわたしです!」
「あァ? 何だと?」
男の視線がアニスへと矛先を変える。ツバキは身を起こし声を荒げた。
「やめろ! こいつは——」
そのとき、破砕音が部屋を突き抜け、窓ガラスが一斉に割れた。
一瞬、その場にいた者は何が起きたかわからず、黒のロングブーツが窓を蹴破って入って来るのを唖然と見ていた。
特殊部隊よろしく、頭にバンダナを巻いた大柄な男が、ハーネスのロープを慣れた手つきではずす。
棒つきキャンディなどくわえてはいるが、獣のような鋭い眼つきに、思わず数人が数歩退った。
場を奪われた一同におかまいなしに、男はだるそうにコキコキと肩を鳴らす。
「あーらら、ここ倒壊寸前とはいえウチのビルなんだけど……兄さん方、使うならショバ代払ってもらわないと」
「ンだとコラァ! ここはハイイロウサギの……!」
鉈男が我に返り勢い込む。
「だから、ウチのビルだって言ってんだろ」
戯けた声色が急に冷気を帯び、全員が思わず息を呑んだ。
男のむき出しの肩に彫られたウサギのタトゥーを見咎め、イチイの顔がみるみる青ざめる。
「あんたまさか……」
動揺を隠せないイチイの様子に、アニスは男を返す返す見た。
どこかで見たことのある顔だ。それも、ついさっき。
「あっ、リクドウさん、このひと——」
アニスがツバキにささやいたほんの一瞬の出来事だった。イチイは突然、アニスを開いた窓へと大きく突き飛ばした。
「アニス博士!」
ツバキがとっさにアニスの手をつかむ。だが支えられるはずもなく、ふたりはまとめて三階から落下した。
バンダナの男があわてて窓際へ駆けよる。
「……おいおい、マジかよ」
呆れたように笑みを浮かべた先には、植え込みの繁みに絡まって沈んでいるふたりがいた。
「運のいいやつ」
『ハイイロウサギ』を騙った徒党は、とっくに姿を消していた。
「逃げ足だけは早いな。脱兎とはよく言ったものだ」
「ほんと、あーいうの困りますよね」
アニスが目を覚まして最初に耳に飛び込んできたのは、バンダナの男と少年の会話だった。
ここは、どこか工場の事務所のようだ。
寝かされているのは三人がけの使い込まれた革ばりのソファで、毛玉だらけだが自分にはあたたかいブランケットもかけてある。
とりあえず、さっきのようなたちの悪い連中とは違うようだった。
助かった、とアニスはひとまず安心した。起き上がると、包帯が巻かれた額の傷が少し疼く。
「痛……」
「あっ、気がついた?」
少年がうれしそうに、水の入ったコップを持ってやって来た。
陽に灼けた肌に光る黒曜石のような大きな瞳が、こちらを無邪気にのぞいている。動くたび、さらさらの短い髪がゆれるかわいらしい子だ。
最後に口にしたものと言えば、サービスエリアで食べたソフトクリームのみだったので、コップ一杯の水でもありがたかった。
飲み干すと、意識がだんだんともどって来る。
「あの、リクドウさんは……」
「連れは医務室」
男がキャンディの棒で奥の別館を指す。
「ぶ、無事なんですか?」
「ま、頑丈なやつだよ。アオイ、案内してやれ」
アニスは急いで立ち上がると、アオイと呼ばれた少年について行った。
ツバキは古い簡易ベッドの上で、わきに立つ巨漢の男と口論の最中だった。天井から片足を吊るされ、至る箇所包帯でぐるぐる巻きと見るからに重傷ではあったが、息巻く元気はあるようでアニスはほっとした。
「だから、動けるって言ってるだろ! はずせよ、この拘束具!」
「だめだ、お前は全治一ヶ月と診断された。勝手に動くならそのままでいてもらう」
「おれは仕事があるんだよ!」
部屋の入り口に立つアニスに気づき、なおも言い立てる。
「あっ! アニス博士も言ってくれよ、おれたちは急ぐんだってことをよ」
「やれやれ、麻酔が切れたら騒がしいもんだ」
応酬を遮るように、バンダナの男が入って来る。
「それにしても、わざわざ危険な旧市街で寝泊まりするとは、世間知らずなやつだな」
いかがわしい歓楽街よりはマシかと思った先が犯罪組織の温床だったと知り、ツバキはぐっと言葉をつまらせた。男は説教するように責めて来る。
「しかも、女ひとり護れないとは情けない」
「お、おれは身を呈してこいつの下敷きになったんだぞ」
「おれならまず頭部を護る」
「あ、あのー、わたしどこも何ともありませんから」
見かねてアニスが口を挿むと、アオイが呆れた口調で入り口から顔を出した。
「アカザさま、ふたりを交えてみんなに話があるんでしょ。ぼくもヒマじゃないんです、早くして下さいよ」
男——アカザはきまり悪そうにアオイを睨むと、アニスとツバキに向き直って腕を組んだ。いつの間にか医務室の外には、十数人の男たちが集まっていた。
「さて、成りゆき上、お前たちをこうして拾ったわけだが——」
「何だと? ひとを犬か猫みてェに」
ぎりりと睨むツバキに、アニスが目配せをする。
「リクドウさん、このひと、ゆうべ路上で寝ちゃってたひとですよ」
「あ!?」
確かに、よく見ると自分たちが灰の中起こしたあの酔っ払いだ。灰だらけだった栗色の髪は、今日は無造作に後ろでまとめられている。
「おい、オッサン」
とたんにぴきぴきとアカザの額が筋走るが、ツバキはしたり顔で身を乗り出した。
「おれたちゃ、あんたの命の恩人なんだぜ。わかってんだろうな。さっさとコミューンへ帰してもらおうか」
「アカザさま、飲みに行くときは気をつけて下さいって、いつも言ってるでしょ」
小姑のようなアオイの小言を躱し、アカザは大仰な仕草でツバキを見下ろす。
「おお、その節は世話になった。だからこそこうやって、仲間全員でお前を助けた」
「だから! さっさとここから出せって言ってるだろ、オッサン!」
「今度言ったら殺す。カシ、その馬鹿を黙らせろ」
アカザが凄みのある一瞥をツバキに送ると、大男がベッドの足をドンと蹴った。振動にかはっと息を吐くツバキの額には、うっすら脂汗が浮いている。
「平気なふりをしているが、相当痛むはずだ。片脚は骨折、肋骨も二本イカレているからな。ああ、やっとまともに話ができるな。アニス——といったか?」
アカザが腰に手を当て、ベッドの横に怖々と控えていたアニスを見下ろす。
「不本意かもしれんが、『灰都(ハイト)』へようこそ、お嬢ちゃん。さっきの話にもどるが、我々はお前たちの面倒を見ることになった」
黙ってうなずくアニスに満足したように、アカザは微笑んで続けた。
「さて、ここ灰都ではみんなが働き者だ。だがお前さんの連れを看病する間、ウチは業務が滞る。お前に、その穴埋めができるかな?」
「お前らの仕事を手伝えって言うのか? 冗談じゃないぞ、何か白い粉を砂糖と偽って運ばせたりするんだろうが!」
とたんに飛んできた声に、アカザが呆れながらカシに目配せをする。
「ほんっと馬鹿だな、お前は。ビルから落ちて頭のネジもイカレたか?」
「ぼくら、そんなことしないよう」
アオイも不満そうに口を尖らせる。
唐突な提案に、アニスは戸惑った。
ずっと寄宿舎と学院を往復して生きてきた自分は、当然一度も働いたことなどない。経験のある仕事といえば、せいぜい当番で回って来る、掃除や皿洗いくらいだ。
本音を言えば、こんなところにいるより早くレイチョウ少佐の城へ向かいたかった。
しかしツバキのあの様子——カシにまたベッドの足を小突かれ、痛さに躰を折っている——では、どのみちしばらくここから動くことはできない。
「わ、わかりました。わたしにお手伝いできることなら」
「おい、アニス博——」
「アニス、こっちだよ!」
アオイに手を引かれ病室を出て行くアニスを、ツバキは呆然と見送った。
早速次の日から、アニスは持ち場に配属された。
「ぼくたちの仕事は、降った灰を除去することだよ。ロードスイーパーが入れないような道や、工場の中を掃除するんだ」
周りを見ると、年齢も性別もわからないほど完全防備の作業員たちが灰をせっせと掃き、専用のゴミ袋につめている。
アオイが、箒とマスクをアニスにわたす。アニスは分厚く固いマスクを翳し、しげしげと観察した。
「このマスク、学院の売店で売ってるものとは違うみたい」
「そりゃそうさ。コミューンで売ってる、あんな風邪ひき対策みたいな薄っぺらなものじゃ、ここでは役に立たないよ。正規の降灰用を買わなきゃ。でも、上等なものだと、逆に狩られちゃうから気をつけてね。息が苦しくなったら、すぐに中のフィルターを交換するんだ。あっ、コンタクトとかしてない? 灰が目に入ったら半端なく痛いよ。ゴーグルも必ずつけて。それから髪は……」
よどみなく続く助言に、アニスは面食らって訊いた。
「ここはどこなの? コミューンではないのね?」
「お嬢ちゃん、何にも知らないんだな。ここは排気と石粉の工業地帯、スクラップだ」
アカザが、額にバンダナを巻きながら工場へ入って来る。
「スクラップ、ここが……」
地理の授業で、一度習っただけの階層区名。労働者街、貧民街とカテゴライズされている。
地下にはり巡らされた下水道で暮らす、まつろわぬ民と呼ばれる無法者たちもおり、警察軍も手を焼いているという。
実際、足を踏み入れるのは初めてだ。アニスは、改めて曇った空を見上げた。
いったい、いつから灰は降り続けているのか。
湾奥の火山活動で、世界最大級のカルデラができたのはおよそ三万年前。その窪地の縁にある緋(あけ)ノ島は、それから約四千年後に噴火を始めたと言われている。
火山ガスと火砕流で灰桜国の人類と文明を一度は滅ぼしたという大噴火、『緋ノ島大変』から数百年。そして現在に至るまで、降灰禍は変わらず国民をじわじわと脅かしてきた。
くり返す農産業への打撃に国は防砂事業を立ち上げたが、それでひとびとの生活から不安が消えたわけではない。緋ノ島の風下は、壊滅的な被害を被うこともあった。
当然、そんな土地にひとは住みたがらない。
逆に風上は灰がふいて来ないため、人気があった。資産階級がものを言うのは世の理の通りである。王族貴族たちは、こぞって風上の土地を買い漁った。
そうしてできた階層が、グレーター、コミューン、スクラップである。
「ここの降灰量に驚いたか? 神の加護のないこの国でも、特に灰都は最悪だからな」
アカザが、灰にけぶる緋ノ島を仰ぐ。
「灰が降る街だから、誰ともなく『灰都』と呼ぶようになった。ま、『丘』の対義語みたいなもんだ」
だがそう語るアカザの口調は開放的で、少しも悲嘆に暮れたところはない。むしろ、ここの生活を楽しんでいるように見える。
アカザはサンドバイクが無造作に並んだ工場の入り口をくぐると、ブリキのバケツをガンガンと鳴らし、むさくるしい男だらけの作業員を注目させた。
「いいかみんな、新しいお仲間だ、いろいろ指導してやれ。コミューンでは教わらないことをな!」
そしてアニスに食べかけの棒つきキャンディを向け、哀れみを込めたまなざしで口の端を上げる。
「お前は走るメロスのようなものだ。怠けてスピードが落ちるようなら、あの超絶馬鹿なセリヌンティウスの回復は保証できない。いったんハイイロウサギの巣に紛れ込んだら、ただで帰すわけにはいかないからな」
「もう、アカザさま、意地悪なんだから」
アオイがベェとアカザに舌を出したが、アニスの額にはたらりと一滴、汗が伝った。 助かったとは、とても思えなかった。
2113年 8月某日
昨日殴ったはずの国王がなぜか機嫌がいい。ニヤニヤとペンダントなどプレゼントしてくるが、気持ち悪いので返す。
彼はドームの設計に携わったりと、馬鹿に見えて天才だ。凡人には理解しがたい特殊な性癖があるのかもしれない。気持ち悪いので(二度目)、お茶係を別の侍女に代わる。
清掃の仕事は、アニスの想像を越えて過酷なものだった。学院や墓地と違い、数人で片づく灰の量ではない。
そしてわかってはいたが、そもそも灰は雪や雹などと違い、解けてなくなるものではない。掃いても掃いても、次の日にはまた灰溜まりができている。気の遠くなるような無限の作業なのだ。
おまけにゴミ袋はひとつ数キロに及び、アニスにとっては持ち運ぶのも一苦労だった。
「ノルマはひとり三十袋だ」
「……無理です」
「お前の意見など聞いていない」
不敵に微笑むアカザに、アニスは改めてとんでもないところに来たと悟った。
「現場に出ればそのうち慣れる」とアカザは簡単に言うが、数日後には手のひらはマメだらけ、桜貝のような爪と指の間には灰がつまり、すっかり黒くなっていた。
毎朝、躰の節々が筋肉痛で悲鳴をあげる。
「アニス、起きてる? 朝ごはんだよ」
隣りの部屋のアオイが呼びに来るものの、アニスはジョイントに油が足りないブリキ人形のように、起きるのもままならない。
「いらない、寝てるほうがいい……」
「だめだよ、ちゃんと食べなきゃ美容にもよくないよ。それにここ、朝だけは無料で何でも好きなもの食べていいんだ。いいもの食べなきゃ損だよ」
そう言われても寝起きは食欲がなく、寄宿舎にいたときでさえコーヒー一杯ですましていたくらいだ。
しかし引き下がらないアオイに根負けして、仕方なく食堂へ向かう。
寄宿舎の食堂の数倍ほどの広さもあるホールは、すでに作業員で大にぎわいだった。さらにメニューも豊富で、朝から一ポンドステーキを食べている強者もいる。
グラノーラを小皿にすくうアニスにアオイは、
「そんな鳩のエサみたいなのだけじゃ足りないよ!」
と、ホットミールのカウンターに連れて行く。賄い担当の調理人が、目の前でパンケーキやオムレツを焼いてくれるコーナーは人気らしく、長い列ができている。
カリカリのベーコンやマッシュポテトを適当に皿によそっていると、マントを颯爽と羽織りアカザが人ごみを分けてやって来た。
「おはようございます、アカザさま」
「おう、ちゃんとそのやせっぽちのお嬢ちゃんに食わせてるか、アオイ」
アカザはアニスのトレイをじろりと見下ろす。
「だめだ、そんなんじゃ一日働けねえぞ」
さらにチキンやゆでたヒヨコ豆を勝手にどっかりと皿に盛られ、アニスはうんざりと肩で息をついた。
「ところで、リクドウさんはどうしてますか? ちゃんと食べているんですか?」
ツバキのいる病室とアニスの部屋は、同じ館内とはいえ離れている。
アカザはリンゴをかじりながら、飄々と答えた。
「ああ、もちろん。怪我人にふさわしいもん食わしてやってるよ——」
——一方、病室では、相変わらずツバキがカシと口論をくり広げていた。
「おい、ふざけんな! 育ち盛りの男子が、こんな鳩のエサみてェな朝メシで足りると思ってんのか、せめてクラブハウスサンド持って来い!」
ツバキがグラノーラの入った小皿をスプーンで叩く。
「一日中ベッドの上なら、たいしてカロリーも消費しないだろう——また昼に来る」
「おい待て、この固太り!」
叫ぶツバキをまる無視して、カシはのしのしと部屋を出て行く。ひとり残されたツバキは、小皿に添えられたミルクを注ぎ、やけになってかっこんだ。ぼりぼりとグラノーラをかみしだき、ふと我に返る。
(——アニス博士は、どうしてるだろうか)
おそらく、寄宿舎から生まれてこのかた、出たことのない世間知らずだ。見知らぬ土地で、心細い思いをしているに違いない。
ツバキは、ここ数日とんと姿の見えないアニスの身を案じた。
そんな心細さを感じるひまもなく、アニスは今日も仕事に追われていた。
毎日早朝から起き出し、日中は陽が暮れるまで灰掃除の作業。夜になれば交代制で食事当番が待っている。後片づけ、入浴をすませると睡魔に襲われ、就寝時刻を待たずにベッドへ倒れ込む。
夜通し実験をくり返していた生活が懐かしい。
(もういや、寄宿舎に帰りたい)
学院は決して居心地のいい場所ではなかったが、規則に縛られていても人並みの生活が保障されていた。口やかましいシスターの保護下にあった毎日が、いかに恵まれていたかを思い知らされる。
こんな劣悪な環境で、文句も言わず元気に働く工場の面々が信じられなかった。
ツバキは、ハイイロウサギはギャングだと言っていなかったか。
ツバキが買ってくれたふわふわのパーカーは、ここへ来てすぐに降灰で生地がぼそぼそになり、古タオルのような質感になってしまった。
ハンガーにかかったままの薄汚れた服を見ると、悄然となる。
(——やっぱり自分はお姫さまなんかじゃない、ずっと灰かぶりなんだ)
アニスは情けない気持ちで、灰を掃く箒をにぎりしめた。
翌日、天候は最悪だった。強風に混じって灰が舞うと、顔がちくちくする。アオイが、鈍色の空を見上げて言った。
「台風が来てる。こんな日は外に出ないほうがいいんだよ」
「今日は中を手伝ってもらおう」
アカザに連れられて工場へと入る。むわりとした油っぽい熱気に迎えられ、アニスはまわりを見回した。中では、外の作業員と変わらない完全防備の作業員たちが、各部署で規則正しく動いていた。
どろどろした液体が大釜の中で撹拌され、型に流し込まれる。別のエリアでは、チーズのような塊を均等にピアノ線で切っているチームもいる。
(何? 食べもの……?)
パッケージングされた商品を見て、アニスは驚いて言った。
「——石けん、ここは石けんを作っている工場なのね!」
「ご名答」
アカザが得意顔でふり返る。
「スクラップは工場区だ。食品会社、金属製造会社と、石けんの原料になる廃油はありあまるほどある。これなら元手不要で商品が作れるというわけだ」
「なのに、なかなか儲からないのはなぜなんですかね」
「うるせえ。お前はひとつでも多く商品を作って来い」
毒づくアオイの頭を、アカザはぐいっとおし込めた。
アニスは、工場奥の一室へ通された。
「お前には今日は、ここで事務を手伝ってもらう。納品を手配する部署だ」
そこは工場ほどの動きはなく、みな机に向かっていたが、ピリピリと謎の緊迫感が漂っていた。
(でも、いつもの重労働よりはマシだわ)
お願いします、とぺこりとを垂れるアニスに、部署の責任者であるヒノキがせかせかと説明をする。
「ええと、アニスくん? きみにはオペレーターをしてもらうよ。なんせ納期が近くてね、人手が足りないんだ」
ヒノキに一通り受け答えの説明を受け、電話の前で待機する。ヘッドセットをつけるとドキドキと緊張した。
プルルルル。
「『ハイト油脂』です、マイドオオキニ! はい、○○ですね、ただ今代わります!」
「……アニスくん、アニスくん。毎度おおきに、はないんじゃないかな? 普通にお世話になります、でいいから」
ヒノキが額の青筋を抑えつつ苦笑する。
(古着屋の店員さんが使ってたんだけどなあ)
アニスが首を捻る間もなく、再びコールが鳴る。
「はい、ハイト油脂です、お世話になります! HS石けん十ダースご注文ですね、ありがとうございます!」
——カチャ。
「……アニスくん? 今の注文どこから?」
受話器を置いたアニスに、ヒノキが訝しげに尋ねる。
「あっ、聞き忘れました!」
「早く着信見て、着信!」
「ええと……イズム船舶さまです!」
プルルルル。
「はい、ハイト油脂です! ハレルヤマーケットさま。えっ発注ミス? 商品コードHSからSー2に変更ですね。承知いたしました」
「はい、ハイト——あっ、石けん十ダースのシズム船舶さま! あれ沈む——? あっすみません、待って、切らないで!」
呆然とマイクを見つめるアニスに、ヒノキが目からビームをだしそうな勢いでぎりぎりと睨んでいる。
「……き〜み〜!」
プルルルル——
怒涛の午前を終え、アニスがぐったりと机にうつ伏せていると、血相を変えた社員がひとり飛び込んで来た。
「ハレルヤマーケットの納品手配したの、誰?」
「おれだけど」
ひとりの社員が立ち上がる。
「何か、Sー2に商品変更したのに違うって」
「変更なんて聞いてねえけど——」
ヒノキを初め、みなの目がいっせいにアニスへ集まる。アニスは、はっと青くなった。
(しまった——変更の電話、受けたんだった!)
「ハレルヤマーケットは、明日がオープンだぞ!」
「在庫は!?」
ヒノキの言葉に、動揺とざわめきがが走る。
「Sー2はここにはねえ。でも旧市街の倉庫にならある!」
「わっ、わたし、取って来ます!」
「あっ、ちょっと待て!」
ヒノキが止めるのも聞かず、アニスはゴーグルとマスクをつかむと、弾かれたように工場を飛び出した。
旧市街の倉庫——偽のハイイロウサギに襲われた、あのビルのことだ。
だが外は灰が幾千もの針になり、ブリザードのように吹雪いていた。
しばらく行くと刺すような痛みに襲われ、アニスは思わず立ちすくんだ。ゴーグルをつけていても、ろくに前が見えない。
ひどい砂嵐のせいか、出歩く者はおろか、車両さえ見かけなかった。店舗もシャッターを閉め、営業している様子はない。
ふと、灰色の砂塵の中、アニスは店の軒先に小さな人影を見咎めた。
急いで近づくと、ひとりの少年が防具もなしにうずくまっている。うっかり、忘れて出て来たのだろうか。
だが、この天候でそれはない。少年は、躰のあちこちに傷跡が窺えた。襲われ、防具を奪われたのだと気づき、アニスは血の気が引いた。
アオイが言っていた。上等な防具は、狩られてしまう危険性があると。
少年は砂粒で表皮が固められ、息ができているかも怪しい状態だった。
「大変、早くどこかで診てもらわなきゃ……!」
アニスは、少年の頬を覆う細かい粒子を払い、自分のマスクを彼へとつけ替えた。薄く目を開けた少年のかすかな呼吸を確認すると、自分とさほど変わらない背丈を背負い、急いで病院を探し始める。
「待ってて、もう少しがまんしてね」
だが通りをいくらも進まないうちに、アニスは灰で滑って転倒した。はずみで、ゴーグルが飛んでいく。
(……!)
そうなるともう、目を開けていられなかった。倒れた躰にも容赦なく灰がふきつけ、少年を背負ったまま、立ち上がることもままならない。
ふきすさぶ灰が顔にはりつき、自分の呼吸すら危うくなった頃、急停止したサンドバイクから聞いたことのある声が降ってきた。
「こんな天気に出かけるとは、お前もあいつに劣らず馬鹿だな」
涙でぼやけた視界に、迷彩のジャンプスーツを着た完全防備の男が、アニスの腕をつかんでいる。ガスマスクで声がくぐもってはいるが、アカザだとわかった。
アニスは少年をかかえ、アカザに懇願した。
「あの、この子をすぐ病院に!」
「ああ、わかっている——おい!」
バイクの後ろに控えていた車を呼ぶ。社員が運転する車に、無事少年が乗せてもらうのを見ると、アニスは安心して改めてアカザを見上げた。
「あ、あの、すみません……注文変更の電話、わたしのせいです」
アカザはこちらも見ずに、おもしろくなさそうに答える。
「下のヘマはトップの責任だ」
顔が見えないのでわからないが、怒っているようだ。だがアカザは、アニスを風の当たらない建物の軒下へ連れて行くと、淡々と述べた。
「天候の脅威について予め説明しなかったのは、こちらのミスだ。まあ、まさか知らんとは思わなかったがな。ただの台風でも灰都では砂嵐。長時間屋外にいれば、さっきの子のように命にも関わる。倉庫へは車を出すつもりだった」
やがてヒノキを初め、アオイたち社員の乗ったトラックが駆けつけた。
「あっ、みなさん、すみま——」
「アニス、外に出たって聞いて心配したんだよ!」
謝罪も言い終わらないうちにアオイに抱きつかれ、アニスは動揺してまわりを見た。ヒノキはやはり睨みを利かせているが、ほっとしたように額をぬぐっている。
「さあ、急いで商品を運ぶぞ」
アカザの一声に、アニスもトラックに同乗し倉庫へ向かった。マーケットへ無事納品が済んだ頃、ヒノキにはくどくどと一時間にわたり説教をされたが、誰もアニスを責める者はいなかった。
場末のこの工場に潔さと正しさを垣間見たアニスは、いつしか仕事への接し方が変わってきた。
「アオイ、こんな重いもの、そんな小さい躰でよく持てるわね」
いつもの灰袋運びで、アニスが感心したように息をつく。今ではアニスも、一日三十袋のノルマをこなせるようになっていた。
「小さい、は余計だよ。これでもアニスとふたつしか変わんないんだからね、ぼく」
アオイが得意げに腕をまくって見せると、きれいに陽灼けした二の腕がしなやかに袖からのびている。
「ここにいると、自然と鍛えられるんだよ。でもぼく、本当は絵を描く仕事につきたいんだ」
そう言うとアオイは、積もった灰をキャンバスに、落ちていた枝でがりがりと線を描いていった。
「見て見て、これアカザさま。それでもってこれがリクドウでえ……こっちがアニス!」
うれしそうに指さした地面には、三人の生き生きとした顔がこちらを見ていた。
偉そうなアカザ、むくれているツバキ、笑顔の自分に、アニスは思わず感嘆の声が出る。
「まあ、そっくり」
アオイの画力は、マツリカ女学院の誰よりも群を抜いていた。
「へえ、あのチビ、上手いもんだな」
改めて紙に描いてもらった似顔絵をわたすと、ツバキはアニスのぶんも病室の壁にピンで留め、興味深げに眺めた。
「こっちはもう、ヒマでしょうがねェよ」
言った後で、失言とばかりにあわてて謝る。
「い、いや、すまん。アニス博士ばかり働かせちまって……」
「気にしないで下さい。リクドウさんは命の恩人ですから」
にっこりと笑うアニスに、ツバキはわずかに動揺する。よくよく見れば、仕事明けなのだろう、アニスはそこはかとなく薄汚れていた。
「何かあんた……こき使われてんじゃねェのか?」
「こき使われてますけど、平気ですよ」
あっけらかんと笑って答えるアニスが、ツバキは不思議でならなかった。
明らかに、コミューンを出た頃のおどおどとした感じが消えている。むしろ灰都に来てからのほうが、はつらつとして見えた。
(男子三日会わざればうんぬん——なんて言うが、女だってそうだ)
青白かった肌は健康的にうっすらと陽に灼け、血色もいい。ふらふらとやせっぽちで頼りなげだった体幹も、今やしっかりと地に足がついている感じがする。
自分が負傷している間に何か置いて行かれた気がして、ツバキは焦りを感じた。
(何でだ、アニス博士がどう変わろうと、おれには関係ない。おれの仕事は、彼女が王女だと証明すればいいだけだ——)
もんもんと自分に言い聞かせていた口上が、突然当のアニスによって遮断される。
「あっ、もう行かなきゃ。今から会議なんです」
「会議? 何の!?」
「どうやったら商品が売れるかの、作戦会議だそうです。この工場、結構な負債額があるらしくって」
「……な、何でそんな大事な会議に、アニス博士が出るんだよ」
思いもよらない展開に、頭がついていかない。
「アカザさんが、素人の意見も聞きたいって言うんです。また来ますね、お大事に」
「あの、ちょ……!」
身動きが取れないとはいえ、完全に蚊帳の外である。激しく疎外感を覚え、ツバキは肩を落とした。
アカザが病室のドアの隙間から、ニヤニヤと小馬鹿にした笑みをもらす。ツバキは力任せに、枕を閉じられたドアに投げつけた。
会議はいつもの食堂で行われた。下はアオイから上は七十代の老人まで、あらゆる世代が参加している。
「さて、知っての通りウチは今、危機的状況にある。この現状を打破しないことには、工場に未来はない。そこで、みなの意見を募る」
議長を務めるアカザが、食べ終わったキャンディの棒をぽいと投げ捨て、立ち上がる。
「ブレインストーミングといこうじゃないか。何でも発言してくれ」
「はい! この石けん、すぐ溶けちゃって使いにくいんだ」
早々に手を挙げたアオイの意見を、書記役のカシが太い指で黙々と打ち込む。躰が大きいので、普通のノートパソコンが単行本のようだ。
すぐにひとりの社員も挙手した。
「おれ、匂いがあまり好きじゃないんスよね。廃油そのままで油くさいっていうか」
「あーわかるわかる。フロ用じゃねーんだよな、台所用で」
別の作業員も賛同してくる。ヒノキがサンプルの石けんのひとつを取って、くんくんと鼻に近づけた。
「スタンダードのHS(ハイトソープ)はともかく、Sー2タイプはいちおう香料を入れているが」
「Sー2は安っぽい香水でカラダ洗ってる感じだよ。この桃みてえな匂いがあまったるくてなあ……もっと一般受けする匂いのほうがいいんじゃねえかな」
「む……だが高価な香料は使えんぞ」
ヒノキの指摘に、一同はしばらく考え込んだ。
アニスも思案を巡らせる。
安価で大衆性のある香りは限られているうえ、アロマオイルは大量には使えない。
そのときふと、コミューンのサービスエリアでツバキが買ってくれた、ソフトクリームを思い出した。
「あの、この辺、オレンジが特産だって聞いたんですけど」
「ああ、緋ノ島で採れるミニオレンジね。小さいけど、あまみがあってうまいんだよ」
ヒノキがおやつカゴの中から、ひとつを取ってわたす。
アニスは卵ほどの小ぶりのオレンジをしげしげと見つめ、独り言のようにつぶやいた。
「これなら……」
一方桜城ではここ数日、騒然とした空気が辺りを包んでいた。
王弟ウツギの息子であるシュウカイドウが狙撃された件で、近衛連隊、警察軍といかつい装備に身を固めた各員が図書館を埋め尽くし、捜査を続けていた。
「リクドウか? やつがシュウカイドウを狙ったのか!?」
「……ち、違う、父上。その近衛兵は、ぼくをかばってくれた。むしろ、狙われたのは彼らのほうだと——」
動揺するウツギを鎮めるように、シュウカイドウがおずおずと口を挿む。
「だが事実、リクドウはあの場から逃げたではないか。何か、後ろめたいことがあるのではないか?」
「おまけにプリンセスまで殺害された。どうなっとるんだ!」
ハオウジュ将軍は、イライラと館内を歩き回った。
「その件ですが」
元老院のメンバーが書類を手に、図書館に入って来る。
「あなたが連れて来たあの少女、改めてDNA鑑定をした結果、王家とは何の繋がりもないことが判明しました」
「な……!」
「不思議ですな。いったい、どういった鑑定を試みたんですかな」
「か……鑑定にも穴はあるだろうが! だがプリンセスと思い込み、少女を殺害したのはリクドウなのだろう! あやつ、革命軍かもしれん、早くやつを調べろ!」
頭から湯気を出しそうな勢いで、ハオウジュ将軍は図書館の机を叩いた。タイミングよく、別の近衛兵たちが入って来る。
「ご報告いたします! コミューンでリクドウ二等兵と思われる男に、先日ビーチバギーが盗まれたという通報がありました」
「その同じビーチバギーでしょうか。アウトバーンで玉突き事故が起こった後、姿を消したドライバーが、リクドウ二等兵に酷似していたという目撃情報も」
「そしてどちらの件も、リクドウが城から連れ去った、マツリカ女学院の少女が同行していたらしいのです」
今度ばかりは、ハオウジュ将軍も鬼の首を獲ったかのように、鼻の穴をふくらませて反り返った。
「そらみろ! やはりリクドウめ、殺人を犯したから逃げるのだ。痕跡を追え、何としても捕まえろ!」
もはや、ハオウジュ将軍がDNA鑑定を偽った件は、若き二等兵が犯したであろう殺人事件とすり替わっている。元老院の面々がひそひそと画策を練る。
「おおかた、ハオウジュ将軍の息のかかった偽の王女を王家に迎え入れ、自分に都合のいいよう、国を動かすつもりだったのでしょう」
「だが今は、そこを指摘しても無駄ですな」
「何やらきな臭くなりそうですので、その件は後回し……ということで」
かたや、ウツギは額から徐々に青ざめ、椅子にすわり込んでいる。
「あなた、少しは休まれたほうが。何かリラックスできるお茶でも淹れましょうか?」
頭をかかえるウツギに、ユウカゲがそっとやさしくより添う。特別な医療を施さなくても、彼女の言葉は癒しの効き目がありそうである。
「なぜ自分が任期の際に、もめ事が起きるのだ。もう、政治家でも国王でも同じような気がしてきた……」
「ですがそのリクドウとは、王女に心当たりがあると言った二等兵ですよね? 本当なのでしょうか……」
考えたくないというふうに、ウツギは力なく頭をふった。
静謐を常とするはずの図書館が、ここ数日は床が抜けそうなほど騒がしい。シュウカイドウは、うんざりと天窓から空を見上げた。
(——彼らは、無事なんだろうか)
(——どこにいるんだよ、ツバキ)
心配そうな表情で、図書館に待機していたハッカも見上げる。
思わず目があったふたりはぎこちなく笑いあったが、ふと思いついたようにシュウカイドウがハッカに近づいて来た。
「き、きみは、今年入った近衛兵だな?」
「は、はい! シュウカイドウ王子!」
王家の者に直々に話しかけられたことなどないので、ハッカは即座に姿勢を正し緊張気味に答えた。
「リ、リクドウ二等兵とは、親しいのか?」
「はい、同期の入隊です!」
「彼はその……ほ、本当にひと殺しをするような人間なんだろうか……」
躊躇いがちに尋ねるシュウカイドウに、ハッカはこぶしを固めて力説した。
「——いいえ、何かの間違いです。リクドウは元ヤンで無茶で粗暴で馬鹿なところもありますが、基本はいいやつです!」
フォローになったかわからないが、シュウカイドウはほっと息をついて言った。
「そ、そうか、ならば協力してほしい。彼の無実を証明したい、謎を解きたいのだ。誰が偽の王女を殺したのか、この城で何が起きているのか」
(そして、リクドウが連れて行った少女は、いったい何者なのか——)
自分に課せられたなぞなぞの答えを知るには、慣れ親しんだ図書館の、あの重いドアの向こうへ出て行かなくてはならない。
シュウカイドウの胸に、仄かな炎が熱を帯びた。
2113年 9月某日
最近、彼女はわたしを避けているようだ。贈ったペンダントも返されてしまった。
元老院を初め、みなが世継ぎをとうるさい。妃候補を次々と連れて来ては、もう誰でもいいから選べと言う。
これまで、周りを失望させないためだけに生きて来たが、誰でもいいということは、それは誰でもない。
試行錯誤をくり返し、ようやく試作品を持って割烹着姿のアニスがよろよろと工場から出て来たのは、会議から三日目のことだった。
「こちら、固めたものです。まだ熟成前ですが、香りだけなら確認できます」
早速、わらわらと作業員が集まって来る。アオイも、牛乳パックで固めた石けんに興味深げに手を出した。
「あっ、アオイ。水酸化ナトリウムが残ってるから、まだ触っちゃダメよ」
水酸化ナトリウムとは石けんの材料のひとつで、取り扱いには注意が必要とされる劇薬である。
サンプルを囲む全員に手袋が配られ、みな牛乳パックに顔を近づける。始めに声をあげたのはアオイだった。
「……いい匂い! これ、オレンジの香りだ!」
「清々しいな! これならフロで使えるぜ」
ほかの社員も感動したように、口々に石けんをほめ讃えた。同時に、不思議そうに香りを確かめる。
「油くささが消えてるな。いったいどうやったんだ?」
「鹸化率を高めに設定し、ミニオレンジの皮を擦ったものと、乾燥させたもので香りづけしました。アロマオイルや香料を使うよりは安価ですみます」
感嘆の声があがる中、アカザが試すような口調で尋ねる。
「ほう、だが使い心地はどうかな。溶けやすいままでは今までと変わらんだろう」
「熟成が終わり、実際使用するまでは何とも言えませんが、廃油を減らし代わりに牛脂をブレンドすることで、溶けにくい効果が期待できます。牛脂は、近くの食品工場でただでもらえます」
「いやはやアカザさま、この子は事務より現場向きですよ」
感心するヒノキに、さすがのアカザも言葉を呑む。
「……ふん、まあいい。とりあえず休め。ロクに三日寝てないだろうが」
その言葉を合図に、アニスはにっこり笑みを浮かべたまま、ふらっと横倒しに傾いた。
「わあっ、アニス!」
「……っとぉ」
間一髪でアカザが支え、アオイはほっと胸をなで下ろした。
「——っとにしょうがねえなあ」
そのまま、ひょいと抱き上げ別館へ向かう。アカザの後を、アオイが仔犬のように追いかけた。
「どこへ連れて行くの?」
「寝室に決まってんだろうが」
「アニスに何もしない?」
「何するんだよ」
「アカザさまがお店の女の子にするようなこと」
アオイが不機嫌につぶやくと、アカザは呆れたようにため息をついた。
「阿呆、こんなガキに手え出すか」
「——ガ、ガキじゃないもん!」
痛みを溜めた目で見返され、アカザが思わず立ち止まる。
「いや、お前のことじゃないだろ」
「アカザさまの馬鹿! わあぁぁぁん!」
廊下を走り去るアオイの声は、フロア全体に響いた。
「何なんだ、いったい……アイツも難しい年頃だからなあ……」
右脚で左脚のふくらはぎをぼりぼりとかきながらふり返ると、今度は点滴スタンドにゼェゼェとしがみつくツバキの姿。
「……アオイのやつが騒ぐから、めんどくせえやつが起きて来たじゃねえか」
アカザがふうとまたため息をつくそばから、殺気を醸しながらツバキが唸る。
「アニス博士に何してる……!」
「おっ、随分回復したじゃねえか。若いと治りも早えな」
「ごまかすな、そいつをどうするつもりだ!」
「どうするって、見りゃわかるだろ。ベッドに連れて行くんだよ」
「てっめェ……!」
包帯に巻かれた腕でパンチをくり出すが、アカザは簡単にすいと避ける。
勢い込んだものの二発目はさらにへろへろと力が入らないうえ、アカザに足を引っかけられ、ツバキは点滴スタンドごと転倒した。
「あーらら。今ので退院がのびたかもな」
アカザがアニスをかかえたまま、ツバキの頭を踏みつける。
「ぐっ……」
「負傷しているとはいえ、非力だねえ。辛いか? 悔しかったら、さっさと立ち上がって強くなるこった。こっちはてめえらガキと遊んでるほど、ヒマじゃねえんだよ」
アカザが去って行く長靴の音を聞きながら、四苦八苦した後、ツバキはよろよろと起き上がった。
「くっそ……」
アカザの言うことは何も間違っていない。それがさらに腹立たしかった。
ひと暴れしたせいで、また肋骨の辺りが痛み出す。それが怪我のせいなのか何なのかわからずに、ツバキはぐっと胸をおさえた。
翌朝、ツバキの病室を訪れたアニスは、始終ご機嫌だった。
今日はめずらしく休みをもらったらしく、ツバキの病室でいっしょに、トーストとコーヒーの朝食を摂っている。
だが何やら話しかけてくれてはいるが、ツバキは一向に頭に入って来ない。
(夕べ、あのバンダナ野郎と何かあったんじゃ……)
あの後、何とか躰を引きずって再び様子を見に行ったのだが、カシに見つかり無理矢理引きもどされたのだ。
(あのオッサン、ガキには興味ないみてェなこと言ってたが、アニス博士はよく見ると、まあまあかわいいからな……)
コミューンの古着屋では無関心を装ったが、着替えた後のアニスに一瞬目を持って行かれたのは事実だ。
ショートパンツからのびた白い太ももが今でもちらつく自分に、おれもオッサンかよと胸中突っ込みを入れる。
「——でね、リクドウさん、聞いてます?」
「——あ? ああ、聞いてるよ。太ももがどうした」
「太ももなんて言ってませんけど。何のことですか?」
完全に訝しんでいる。ツバキは冷静を装い、咳払いをすると新聞を広げてみせた。
「それ逆さまですよ」
普段は読みもしない新聞を、わざとらしく開いているのがバレバレである。
「い、いや、違うんだ。これはアレだよ。逆さ読み健康法って言ってさ……」
「何が健康になるんですか?」
「視力とか、メンタルとかだよ……」
「もー、そんなの聞いたことないですけど」
軽くふくれながら、ふと気づいたように眉をよせる。
「何か、前より傷が増えてません? リクドウさん」
夕べアカザとやりあって——というか、転んでついた傷だ。
「バナナの皮が廊下に落ちててよ……」
トーストをかみながら、我ながら苦しい言い訳をする。
「何か変です。スウェットも前後ろ逆だし」
それは素だった。
「あ、トーストが裏表逆!」
「えっ? あっすまん」
思わず裏返すが、不審に睨まれてトーストに裏表などないことに気づく。
「やっぱり変。どこか、具合でも悪いんですか?」
「い、いや、何ともねェよ。それより、アニス博士こそ疲れてるじゃねェか」
「わたしは大丈夫ですよ」
実際体力は掃除のときより消耗していたが、心地いい疲労感に満たされ、アニスの頭はこれまでにないほど冴えていた。
むしろ、あふれるほどの充実感で興奮している。
「久しぶりに頭を使ったから、すごく気持ちがいいんです」
ツバキは眉をよせて不可解な顔をしている。
「すまん、おれそれ、よくわかんね」
数式が解けたとき、なぞなぞが解けたとき、アニスにはこれまでも確かに、少なからず高揚感はあった。だが、それが誰かに喜ばれたりしたことはなかった。
「わたし、平気ですよ。だから、リクドウさんも早く怪我を治して下さいね」
「お、おう……」
にっこり微笑むアニスを、ツバキは正面から見ることができない。
怪我が治って灰都を出て、レイチョウ少佐に助力を仰ぎ、彼女を王女だと証明する。王宮から賞与をもらい、めでたしめでたし……
(——十六の少女に国をおしつける気かい)
老婆、いや老爺の何気ない言葉が甦る。
(おれには関係ねェ)
頭の中で払拭し言い聞かせても、これから待っている現実が、これほど自分を落ち込ませるとは思わなかった。
アニスと自分の未来は、同じ場所にはないということが。
ツバキの様子も変だったが、アオイも今日は体調が悪いらしく、めずらしく部屋に引きこもっていた。
食欲がないというアオイのために、アニスは薄いキュウリのサンドイッチを作ってもらい、部屋へ持って行く。
「大丈夫? アオイ」
いつもは育ち盛りの男の子らしく、もりもりと食べるアオイがなかなか食が進まない。アオイはひと口かじったサンドイッチを置くと、アニスをじっと見た。
「……ねえ、アニスはリクドウの怪我が治ったら、ここを出て行くんだよね。どこから来て、どこへ行くとこだったの?」
どこまで話せばいいんだろうと、アニスは迷った。
自分が灰桜国の王女かもしれないということ。ツバキが殺人の嫌疑をかけられ、追われて灰都へ来たこと。目的はレイチョウ少佐の城へ向かうこと。
どれも、食事時に軽く話せる話題ではない。悩んでいると、アオイが助け舟を出した。
「ごめん、みんな事情があるよね。じゃあ、別の質問……ねえ、アニスは好きなひと、いる?」
これにも言葉がつまる。
「う、うーん……でも、いつかは誰かを好きになりたいって思ってる」
「リクドウのことは?」
「リクドウさん? 初めは目つきが悪いし怖かったけど……今はそうでもないわ。隠しごとのできない正直なひとだもの」
今朝の様子のおかしかったツバキを思い出し、ふと表情が翳る。くすりと笑うアオイにアニスは問い返した。
「なあに、アオイはどうなの?」
「うん、いるよ。好きなひと」
一瞬、少年が大人の女性のように目を伏せたので、アニスはドキリと言葉を失った。
「いっしょにいると楽しいけど辛くって、あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになって……」
(あれ? それって、どこかで聞いたような……)
ぽかんと見つめるアニスに、アオイがあわてて笑って繕う。
「えへへ、こんな話つまんないよね。えっとね、じゃあアニスは大人になったら何になりたい?」
「うーん、そうね……」
これもまた、答えが定まらなかった。
アニスは、そもそも自分が何をしたいのかわからなかった。何か夢があるわけでも、ましてや王女になりたいわけでもない。強いて言えば、実験や研究が好きなだけだ。
「む、難しいな。アオイには夢があるのよね? 絵を描く仕事がしたいっていう」
「うん……でも、きっと叶わない。ぼく、病気かもしれないんだ」
「病気?」
アオイは真剣な顔で、瞳を潤ませている。
「ずっと……お腹痛くて……」
「何か悪いもの、食べた?」
「ううん、違う。その……」
即答するが、言いづらそうに口ごもるばかりで、なかなか話が要領を得ない。
「どういう症状なの? ちゃんと言わなきゃ、大変な病気かもしれないじゃない」
アオイはぽろぽろと泣き出し、今朝用を足してから、『出血』が止まらないことを告げた。
「アカザさん! ちょっと!」
怒り心頭で工場に乗り込んだアニスは、みなが驚いて注目するのも介せず、野郎づくしの作業員をおしのけアカザに食ってかかった。
「——あ、あなたいったいどういうつもりですか! アオイは……アオイは『女の子』じゃない!」
「あれ、知らなかった?」
棒つきキャンディをくわえたまま、何食わぬ顔で答えるさまがまた腹が立つ。
「知らなかった? じゃありません! どーいう教育してるんですか! あの子、何も知らないんですよ!」
「いやー、おれ父親じゃねえし——痛ててて!」
ぼりぼりと悠長に頭をかくアカザの耳を引っぱり、アニスは工場の外に出る。
事情を話すと、さすがのアカザも固まった。
「そ、そうか。じゃあ今夜は赤飯でも……」
「アカザさん……」
開口一番、本気か冗談かわからないアカザの態度に、アニスの背後にゆらりと青い炎が沸き上がる。アカザはあわてて謝罪のように片手を上げた。
「い、いや、確かにアオイに関しちゃウチ野郎ばっかだし、気遣いが欠けてた。すまん」
「わたしに謝まるくらいなら、もっとアオイのこと、気にかけてあげて下さい。あの年頃ってデリケートなんですよ」
「まいったな。あんなチビでも、いっちょまえに女だったんだなあ……」
アカザは苦笑しながら、灰色の空を見上げた。
「ここ灰都じゃ、孤児なんてめずらしくねえ。十四年前——おれもまだここに来たばかりで、仔猫の鳴き声がうるせえなと思って見に行ったら、工場の前にアイツが捨てられてたんだよ。放っときゃ、地下のマンホールタウン行きだろ? 生まれたばかりの赤ん坊をみすみす、まつろわぬ民にするのも忍びなくてなあ。しょーがねえから、子育てもしたことのねえ連中で交互に面倒見てよ」
懐かしそうに話すアカザの目はおだやかで、欠けている教育はあれど、ハイイロウサギのみんながアオイを大切に思っていることが、アニスにもわかった。
(元手不要の工場が儲からないのは、きっとみんながこんなふうに、放っておけないひとたちの面倒を引き受けてしまうからかも)
みな、見た目の怖さとは裏腹に情が深い。
いったいハイイロウサギとは、どういう集まりなのだろう。
不思議に首を捻るアニスに、アカザが自慢げな目線を投げる。
「でも男手総出で育てたにしちゃ、アオイの野郎、まともに成長したろ?」
「アオイは『野郎』じゃありませんよ。とにかく、ちゃんとケアしてあげて下さいね」
ぴしゃりと釘を刺し工場を出て行くアニスの背を見送りながら、アカザは心中呆れ気味につぶやいた。
「お嬢ちゃんの連れも案外、デリケートなんだがね……」
アニスはアオイの部屋へもどると、痛みをやわらげるカモミールティーやしょうが湯などを処方し、「女の子なら当然のこと」と、時間をかけて言って聞かせた。
学院のませた少女たちに比べると、育った環境が違うとはいえ驚きである。だが、今朝のアオイの大人びた表情は、やけに印象的でアニスの心に残った。
(好きなひと、か……いつかわたしにもできるのかな)
自分に、恋がいつどのように訪れるかなど、天文学的確率のようで想像できない。
(あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになって——)
アオイのつぶやきが思い出される。
「そうだ!」
何かを閃いたアニスは、早速工場へもどった。石けんの熟成まで期間はあるものの、こうなるともう、自分でもストップが効かない。
(今のところ、恋より実験みたい)
自分を納得させるように苦笑いすると、アニスは割烹着の紐を結び直した。
熟成が終わり、ようやくアニスの石けんが完成した。お披露目会では、男たちが揃って手を洗ったり顔を洗ったりと、めいめいが使用感を試した。
「これならコミューンのホテルにも納品できるぞ」
「『丘』にだって出せるぜ!」
豊かな香りとなめらかな泡立ちに、部長のヒノキを初め工場の作業員は大絶賛だ。
「あと、バリエーションも増やしてみたんです。試してみて下さい」
アニスが、これまでの無味乾燥なハイト油脂の箱とは違う、しゃれたパッケージをさし出す。試作のオレンジとはまた異なった香りに、みな興味深げにくんくんと鼻を鳴らした。
「これは花……? こっちはあまい匂いがするな」
「あ……これ、チョコだ!」
「はい、チョコレートを混ぜて作りました。もうひとつは、工場裏に群生していたハーブです」
アニスが、ツバキに分けてもらった板チョコとカモミールを見せる。
「すげえなあ。チョコなんてどっから思いついたんだい」
「アオイがヒントをくれたんです」
まさか、「あまい気持ちと苦い気持ちがごちゃ混ぜになった」自分の恋心が香りに使われているとは知らず、当の本人はきょとんと不思議そうに首をかしげる。
これまで黙って商品を試していたアカザは、新しいパッケージのデザインに気づきアオイを見た。
「これ、お前が描いたのか?」
「うん、どうかな」
繊細なタッチで箱に描かれた、カカオやカモミール。
「素敵でしょ? アオイは絵がとっても上手いんです。こんな才能、活かさないなんてもったいないわ。適材適所って言うじゃありませんか」
自分のことのように得意げに話すアニスに、アカザは肩をすくめた。
「——やれやれ、お嬢ちゃんには驚かされるな」
「アカザさま、ぼくが描いた絵、どう? これ売れる?」
「ああ、売れるぞ。お前はいいもん持ってるな」
アカザにぐしゃぐしゃとと頭を強くなでられ、アオイは照れくさそうに笑う。
唐突に、ヒノキがアニスに申し出た。
「あんた、どこかに行く途中だったんだろうが、あの怪我人の連れといい訳ありだろう。いっそここで働いたらどうだ?」
「それいいな」
「ぜひ、そうしてくれよ」
ヒノキの提案に口々に作業員が賛成する中、工場の扉が勢いよく開いた。
「ちょっと待ったァァ!」
またか、という顔でアカザがうんざりとふり返る。
「なーにがここで働いたら、だ。勝手に決めてもらっちゃ困るぜ」
松葉杖をつきつつも、ツバキがどかどかと工場へ入って来る。アニスは驚いて目を開いた。
「リクドウさん、ギプス取れたんですね」
「まあなァ、知らなくて当然だよな。同じ敷地内にいながら、お互い顔を見るのも久しぶりだしな」
アニスへの皮肉に続いて、ツバキは荒んだ表情でアカザへ向き直る。
「初めに言っただろうが。おれらは仕事があるってよ。何おれに無断で、こいつスカウトしてんだよ」
「ほう、アニスはお前の所有物なのか?」
「そーいうこと言ってんじゃねェ!」
本気の怒号に、アニスはおろおろとツバキをなだめた。
「落ち着いて下さい、リクドウさん。わたし、ここにずっといるつもりは……」
「あーそうかい。だいたいあんた、石けんなんて作ってる場合じゃないだろ。何しにコミューンを出たんだよ」
「だから、それはリクドウさんの怪我が治るまでの間……」
「まったく、小せえ男だなあ」
アカザはゆらりと腰を上げると、ツバキの前に立ちはだかった。平均より背は高いほうのツバキでも、その見上げるほどの高身長にたじろぐ。
「このお嬢ちゃんはな、おとなしく見えて知力も行動力もある。だがお前は、彼女を己に釣りあったレベルに引き止めておきたいんだろう。なにしろ、自分に自信がないんだからな」
「そんなんじゃ……!」
レベルどころか身分すら違うかもしれぬ相手に、そんな考えを抱いているはずがない。
ツバキはカッと赤くなり、松葉杖をアカザにふりかぶった。
「おーっと」
からかうようにひょいと避けるアカザ。だがふたりは気づかなかった。杖が弧を描くその先に、劇薬の陳列棚があることに。
「アカザさま!」
小さな躰のどこにそんな力があったのか、アオイは、自分の倍以上の重量のアカザを突き飛ばし、落ちてきたボトルの劇薬をかぶった。
「アオイ!」
倒れた少女は左頬から首にかけ、ひどい火傷を負っている。アカザはみるみる青ざめ、ツバキの胸ぐらをつかみ、殴りかかろうとした。
「——貴様!」
「やめて! そんなことやってるひまがあったら、救急車を呼んで下さい!」
アカザを叱咤し、アニスはアオイの患部を流水につけ応急処置を始める。
「知ってますよね、水酸化ナトリウムの化学熱傷は普通の火傷より破損力が強いんです。ここでは治療できません」
「……ああ。アオイ、待ってろよ。すぐ医療院に連れてってやる」
やがて緊急車両のサイレンが鳴り響き、アカザが同乗すると、救急車は街の中へ消えて行った。
(——手術になるだろうな)
(あれじゃ、痕が残るんじゃ……)
騒然とする作業員たちをヒノキが制する。
「とりあえず、こぼれた薬を片づけろ。ほかのみんなは持ち場へもどるんだ」
ぺたんと床に腰をつき放心状態のツバキを起こし、カシが黙って肩を貸す。病室へもどる二人に、アニスも松葉杖を持って急いでついて行った。
「おれのせいだ……」
悄然とうつむいたままのツバキに、アニスはかける言葉が見つからなかった。様子を伺いに来たカシも、いつものように黙ったまま横に控えている。
「アニス博士を警護すると言っておきながら、着いた先はスクラップだ。あまつさえ、何も悪くねェチビまで傷つけてよ……」
「あれは条件が整ったがゆえに起きたことだ。お前だけのせいではない」
寡黙なカシが唐突に発した言葉に、驚いてふたりは顔を上げた。
「アカザさまも本当はわかっている。後はアオイが退院して償えばいい」
挑発したアカザにも責任はある。だから誰もツバキを責めなかった。
元凶を突きつめるより、起きてしまったことへの対処を優先するのが、誰ともなく無意識に掲げているこの工場のスローガンなのだ。
(あのときと同じ。わたしが変更を伝え忘れたときと——)
広がる安堵をかみしめるアニスに、カシが改めて向き直った。
「そもそも、部長がお前をスカウトしたのには理由がある」
「理由、ですか?」
「実はハイト油脂は今、乗っ取りの危機にある。買収されれば、クビになり路頭に迷う者も出て来るだろう。これを奪回するには、新商品の開発達成が必要なのだ」
「——香りとか小手先の変化じゃない、新しい石けんが必要なんですね」
アニスが深刻な顔でうなずいた。
「そうだ。だがこれは強制ではない。お前は十分ウチに貢献した。協力するもしないも、またここを出て行くのもお前たちの自由だ。検討してくれ」
端的に言うと、カシはふり返りもせずのしのしと病室を出て行った。
しばし無言の後、ふたりはお互い顔を見あわせる。
「あの……」「あのよ」
第一声がハモってしまい、ツバキはぼそりとつぶやいた。
「……やりてェんだろ? 新商品」
「……わからないんです」
アニスは困惑した顔でツバキを見た。
「開発はやってみたいです。でも、工場を救える商品なんて……」
「やれよ。ここで逃げちゃ、おれも後味悪いしよ。脚もそろそろ治って来てるし、おれにできることなら協力するからよ」
「リクドウさん……」
初めて頼るような目ですがられ、ツバキの手が思わずアニスの肩にのびる。
「——あ、明日にでもチビの見舞い、行くか」
「ほう。脚を折っても手は早いのな」
——ガタタッ!
入り口のドアによりかかる、キャンディをくわえた長身が視界に入り、ツバキはベッドから落ちそうになった。
体勢を崩したツバキには気づかず、アニスがアカザに走りよる。
「アカザさん、アオイの容態は?」
「ああ、すぐに退院はできるってよ」
「そう、よかった」
アニスがほっと胸をなで下ろし、ツバキも肩で息をついた。
だがアカザはいつもの意地悪な口調にもどり、ベッドのツバキにずいとキャンディを近づける。
「——アオイはなあ、完治には高額な治療費がかかるんだと。いいか?『ツバキ』。アオイが火傷を負ったのはおれたちの責任だ。金はおれとお前で折半だ、いいな」
凶悪な顔をして部屋を出て行くアカザを、不審な顔でツバキは見送った。
「——おれ、あいつに名前言ったっけ?」
2113年 10月某日
王には、新しい侍女がついた。彼女はずっと、彼に好意をよせていたらしい。お役目をうれしそうに話す。これでよかったのだ。
だが、この苛立ちは何だろう。わたしは彼のような天才ではないが、この気持ちがどこから来るのかを確かめたい。
アニスが工場にこもったまま、数日が過ぎた。なかなか新商品が思いつかず、うろうろと徘徊するアニスを、他の作業員たちも心配そうに遠巻きに窺っている。
松葉杖なしで歩けるようになったツバキは、アニスを街へ連れ出した。
追っ手や刺客は気になるものの、ゴーグルとマスクは着用しているし、過敏に行動すれば逆に目立つ。
(それにまさか、王女が辺境の灰都にいるとは相手も思うまい)
それでもいちおう、尾行に気づけなかった失敗をくり返さないために、ツバキは車道側を選んで歩いた。
そんなツバキの横を、アニスは不安げにとぼとぼと歩く。
「こんなぶらぶらしてるだけで、新商品を開発できるんでしょうか。聞き込みとかしたほうがいいんじゃ……」
「そんなの、みんなやってる。他と同じアプローチじゃだめだ」
とりあえずふたりは、症状の気になっていたアオイを見舞うため、ケーキを持って医療院を訪れた。アオイは頬のガーゼが痛々しかったが、喜んでふたりを迎えてくれた。
ツバキが、深々と頭を下げる。
「——すまなかった、チビ」
「リクドウさん、チビじゃなくてアオイですよ」
失笑を抑えつつ耳打ちするアニスだったが、アオイはふたりのやり取りを楽しそうに観察している。アニスがケーキを皿に取り分けている間、ツバキは躊躇いながら尋ねた。
「その……痕は残るのか」
「ううん、ちゃんとぼく、お嫁にいけるって」
「嫁!?」
アオイの性別を知らなかったツバキは頓狂な声をあげ、皿のフォークを取り落とした。青くなってまじまじと目の前の『少女』を見る。
「お、おれ、とんでもねェことを……!」
「いいんだ、リクドウ。でもその代わり、工場を助けてよ。ぼく、あそこがなくなったら行くところがないんだ」
困ったようにアオイが笑う。買収されれば、アオイのような子どもはまっ先に切られるだろう。
ツバキは意を決したようにごくりとつばを呑み込むと、親指を立て自信に満ちた笑顔で応えた。
「任せろ、絶対に工場は乗っ取らせねェ」
「……あんな大見得を切っちゃって、どうするんですか。無責任ですよ、リクドウさん」
ふたりはドーナツショップのカウンターに腰かけ、大きなガラス窓から道行くひとを眺めている。
今のところ、新しい石けんについて何の策もない。紙コップの薄いコーヒーをすすりながら、アニスは不機嫌にツバキを見た。
何の根拠もないこと、不確かなことを堂々と口にするのは、アニスにとって嘘の論文を発表するのと同じだ。
小さなころから、不思議なことを解明するのが好きで、実験したり研究を重ねたりしているうちに、いつの間にか『博士』と呼ばれる立場になっていた。
だがアニスにとって、もの作りはただの趣味で、こんなふうに責任やリミットに迫られるものではなかったのだ。
「まず需要をリサーチして、データ化しなきゃ。パッチテストだって……」
「パッチンテスト?」
「パッチテスト、皮膚アレルギーの試験です!」
当然、マイナスからの現状に焦りを感じ、ピリピリしてしまう。
「怖いか」
おだやかに尋ねるツバキが馬鹿にしているように思え、アニスはむっとしてコーヒーをカウンターに置いた。
「怖いんじゃありません! できるかどうかもわからないことを断言するのは、間違いだって言ってるんです」
「責任は取る。だからアニス博士は、あんたにしかできないことをしてくれ」
「そんなこと言われたって——!」
めずらしく尖った口調のアニスに、ツバキは呆れたように肩をすくめる。
「あんたさ、頭でっかちなんだよ。アイディアなんて水ものだ。理づめで考えてばっかじゃ、いい案も浮かばねェよ。既存の商品作るんじゃない、できるかどうかわからねェもん作るのが『博士』なんだろ?」
ツバキからまさかのまともな言葉が出て来たせいか、アニスは反論することも忘れ、唖然と口を半開きに開けた。
「そうだなあ、例えばよ。あんた、花は好きか?」
唐突に何の脈絡もないことを尋ねられ、さらに困惑する。
「何を思って花を見る? 花弁の数や種類をいちいち考えながら見るのか?」
アニスの頭に、寄宿舎の庭に咲いていた月下美人が浮かんだ。
一晩しか咲かない花。開花に出会えただけで、幸せになれる花。
「ううん、きれいだって、いい香りだって……」
「だろ? 自分の感覚をを信じろ。それでいいんだよ」
ドヤ顔で口角を上げるツバキに、アニスも冷静に質問をかぶせる。
「で、花が何なんですか?」
「——あれ? おれ、何が言いたいんだっけ」
自論に混乱し焦るツバキがおかしくて、アニスはぷっとふき出した。
「——わかりました。まずは何が売れるかとかより、わたしがいいと思うもの、作りたいものを好きに作ればいいんですよね?」
「そうそう、そーいうこと」
「でもデータ化、数値化もわたしの『好きな』やり方なので、そこは譲りませんよ」
挑戦的に微笑むアニスに、ツバキもほっとしたようだ。
「やっとエンジンがかかったな。で、どんな石けんを作るんだ?」
「そうですね……」
アニスは紙コップの中を見つめて考えた。
何かを作ることは、ずっと好きだった。けれど、それが誰かの役に立つことが、こんなにも自分の喜びになるとは思わなかった。
「まずは、幸福度の反比例を考えたいと思います」
「幸福度の反比例? 何だそりゃ」
ツバキは片眉を上げ、顔をしかめた。
「わたし、スクラップに実際来て、経済の豊かさとそこに住むひとの満足感が、釣りあってないように思えたんです。灰都のひとたちのほうが、コミューンや桜城の住人より、何だか毎日笑ってるなあって」
確かに、アカザを筆頭とする工場の作業員たちは、人生を楽しんでいる気がする。
「石けん作るのに、それが何か関係あんのか?」
未だ理解できないツバキに、アニスは堂々とプレゼンを始めた。
「わたしが作りたいのは、製作側も消費者も幸せになる石けん。まずは国民総幸福量(GNH)の増加を目指します。そこで、最下層のさらに先、緋ノ島に取材に行きたいんです」
「あ、緋ノ島!? オレンジ畑しかねェぞ、あんなとこ」
さすがのツバキも、声がひっくり返って驚く。だがアニスは、確信を持って湾の向こうの火山を見すえた。
「だからこそ、何か幸せのヒントが隠されてる気がするんです」
港へ行くと、ちょうど船を出すところだった中年の漁師が、島まで乗せて行ってくれることになった。
船はフェリーやまっ白なボートなどではなく、コミューンでは見たこともない、煙突付きの古いタイプの漁船である。
十五分ほどで対岸の島に着くとはいえ、スリリングな乗船だ。ディーゼル臭のする黒煙に、ふたりは早々にマスクをつける。
「……レトロですね、リクドウさん。いつの時代の乗り物でしょう」
「素直にボロいって言えよ。島に着く前に海上で爆発するんじゃねーか、コレ」
ひそひそと移動手段を訝しむ声を知ってか知らずか、漁師は慣れた手つきでエンジンを始動する。
「兄ちゃん方、あげな灰だらけんとこ行きたいたあ、変わっとるねえ」
やはり、島にわたるのは、観測所の研究員か農家の人間くらいしかいないそうだ。
「何しに行くの? 若い子が興味を持つようなもん、何もないよ」
よほどめずらしいのか、運転しながらも興味深々に、操舵室から漁師はぐいぐいと訊いてくる。
「でえとね?」
「違ェーよ」
つまらなさそうに即答するツバキに、アニスの胸はなぜかちくりと痛んだ。
(……そうよね、わたしといっしょにいるのは、リクドウさんにとって仕事なんだもの。こんなところまでつきあってもらうのも、ほんとは迷惑なんだろうな)
もうひと月も行動をともにしていたので、目的を忘れそうになっていた。アニスのDNA鑑定がすめば、どういう結果が出ようとそこでお別れなのだ。
「リクドウさんは、わたしが王女だったらいいと思いますか?」
「そりゃ、本物の王女を捜すのがおれの仕事だし……」
歯切れの悪いツバキに、アニスは黙ってうつむく。
やっぱり、仕事の一環なのかなと、アニスはツバキの様子を窺いながら訊いてみた。
「わたし、やっぱりお城に行かなきゃいけないんでしょうか」
「——全部、すんだらな」
操舵室のほうを向いたまま、ツバキはふり返りもせず答える。
「でも、わたしがもしも王女だったとしても……王さまはもういないんですよね?」
「王はいなくても、国という領地が手に入るだろ」
「わたし、領地なんていりません」
「馬鹿やろう! 権力なんて、そうそう簡単に手に入るもんじゃないんだぞ」
こぶしをにぎり思わず力説するツバキを、アニスは呆気に取られ見つめる。漁師も何事かと顔をのぞかせた。
「……あ、いや、すまん。何か、せっかくのチャンスをもったいねェなって」
我に返ったツバキは一瞬間を置くとため息をつき、一息に吐露した。
「……おれんとこの実家、執行能力のない馬鹿親父のせいで領地手放しちまったからよ」
何だか聞き覚えのある話だ。アニスはシスター・シキミから聞いた言葉を、思わず口走っていた。
「あ、没落貴族?」
「——うっ」
ツバキは、やや胸にダメージを負ったようだ。アニスはあわてて、ぶんぶんと手のひらをふり謝る。
「す、すみません! 以前ちょっと聞きかじっただけで」
「い、いや、結構なニュースになったからな……」
『アケイシア伯リクドウ卿』。それがツバキの父だ。
伯爵の爵位を持ちながら、資金不足のため管理できなくなった城も土地も売り払い(ツバキ曰く、方々の女性に注ぎ込んだせいだという)、今では領地だったエリアの一角で、小さなオーベルジュを営んでいるらしい。
だがアケイシア地区は市民街からすれば郊外ではあるが、広々とした高原の別荘地だ。コミューンの中でも比較的降灰量が少なく、避暑地としても人気が高い。
「——すごい、お家柄だったんですね」
驚くアニスに、ツバキは操舵室に聞こえないよう船尾に移った。
「……すごかねーよ。おれなんて実際、どの女の子どもかもわかんねェらしいし、所詮ウチは没落貴族だし……」
「あの、ほんとすみません……」
どうやら地雷を踏んでしまったらしい。アニスは躊躇いながら訊いてみた。
「リクドウさんは、それで近衛連隊に入ったんですか?」
「ああ、軍人なら食いっぱぐれることねェしな。でもおれは親父とは違う。ここで功績を上げて、いつかリクドウ家を興し直すのが夢なんだ」
そう語るツバキのまなざしは、降灰の中でも輝いていた。
(——夢。リクドウさんもアオイも持っている)
自分にはまだない。だがこの仕事を達成したら、灰で曇った未来が少しだけ開けそうな気がする。
アニスは、ゴーグルをはめると下船を待った。
初めて緋ノ島にわたったふたりは、船着き場で眼前の火山を見上げたまま、立ち止まった。いつも湾越しに見えていた、けぶったシルエットとは違う雄大な姿に言葉を失くす。
漁師は夜にまた来ると言い、たも網を持って湾に出て行った。
かすかな硫黄臭と灰の匂いに、違う世界に来たような畏怖を感じる。コミューンやスクラップで見て来たざらざらとした砂粒ではない、ここに降る灰は雪のように幻想的だ。
土石流や溶岩流の跡を恐る恐る歩きながら、アニスは岩の間から顔を出す小花に目を見はった。灰のせいで、草一つ生えない土壌だと思っていたのに。
(でもよく考えたら、ミニオレンジは育つんだ)
山頂へ続く道に、ビニールハウスの畑が段々と見える。ふたりはまず農家を訪ねてみることにした。
オレンジ農家の老人はふたりを見ると驚いたものの、快く家に招いてくれた。老婦人がお茶と干物のお茶請けを出してくれる。
「幸せかどうかねえ。考えたこともないねえ」
唐突な質問に、ふたりとも戸惑っているようだ。
「ミニオレンジを、本土で作ろうとは思わなかったのですか?」
「ウチは先祖代々ここで畑を作ってるよ。ほかの地ではあまみが出ないのさ。この水はけのいい、軽石をふくんだ大地の緋ノ島でないとね」
灰の土壌に適した栽培があったこと、この辺境でなければならない理由があったことが、アニスにとっては衝撃だった。だが、暮らすとなるとまた話は別だ。
「降灰が生活に不便ではないですか? 大噴火の恐れもあるし」
実際、昔は島のハザードマップも公表されたこともあるという。
「災害が起きたときゃあ、そんときはそんとき。逃げるだけだよ」
笑って話す老人に、老婦人も微笑んでお茶を注ぎ足す。
「それに緋ノ島は災害だけじゃない、ちゃんと恵みもくれる神さまがいるのよ」
神の加護のないと言われてきた灰桜国のはずだが、老婦人はなおも続ける。
「不便は楽しむしかないわね。どのみち、灰は毎日放出されるんだし。ほら、このお湯呑み、灰でできてるの。この小魚も灰干しで作ったのよ」
アニスたちはびっくりして、湯呑みをしげしげと見返した。どっしりとした大地の色の素朴な器。小魚も臭みがなく、ほくほくとおいしい。
驚くふたりの反応がおかしかったのか、老婦人は自分の手ぬぐいとエプロンを自慢げに広げた。銀色の模様が、かわいらしく並ぶおそろいのデザインだ。
「これも、火山灰。灰の染料で刷ったのよ」
「——つ、作り方を教えて下さい! 全部!」
取材を忘れてのめり込むアニスが想定内だったツバキは、あきらめて待つことにした。手持ち無沙汰なツバキに、老人が話しかけて来る。
「あんたたち、遊びに来たんじゃないんかね?」
「いやー、石けん作るために取材に来たんスよ」
ツバキが、肩をすくめてお茶をすする。意味がわからんと言われるかと思ったが、老人はよいしょと一度奥へ引っ込むと、何やら手にかかえるほどの壺を持って来た。
中を確認したツバキが、不思議そうに目を細める。
「これは、灰? いや違う……」
降灰よりも白く、さらさらと粒子は細かい。老人は中身を手に取ってツバキに見せた。
「これは、白砂だよ」
『シラス』とは、火山灰の堆積物であり、コミューンでも地層として諸所に見られる。
「わしらはこんなふうに使うのさ」
意図がつかめずにいるツバキを、老人は台所へ連れて行った。
「——アニス博士!」「リクドウさん!」
ふたりが同時に別室から飛び出して来る。紅潮した顔を興奮気味に見あわせ、お互い大きくうなずく。
「灰都へもどろう!」
「はい!」
ふたりは農家の老夫婦に深く礼を言うと、迎えのオンボロ船に飛び乗った。漁師が朗らかにツバキをからかう。
「兄ちゃん、来たときとは違って晴れ晴れした顔しとるねえ。でえとがうまく行ったとね」
「ああ、意義ある『でえと』だったぜ。感謝する!」
ツバキは額の包帯をシュッとはずし、風に流した。
その頃、コミューンの市民街では、ハッカとシュウカイドウがツバキの足取りを捜索していた。城からそのまま出て来たシュウカイドウに、ハッカが心配そうにささやく。
「王子、変装とかしたほうがよかったのでは……」
「メディアへの露出が多い父上ならともかく、引きこもりのぼくの容貌など、誰も知らんだろう」
シュウカイドウが自嘲気味に笑う。
確かにゴーグルとマスクで人相などわからないが、下町の繁華街を由緒あるロイヤルファミリーのシュウカイドウを引っぱりまわしていいものかと、さすがにハッカは迷う。
だが当の本人は、ものめずらしげにきょろきょろと辺りを見回し、
「ヨシノ、あれは何だ。何かの罰なのか」
と、鼻ピアスの青年をふり返らせ、
「ああっ、ヨシノ、あの者たちはどうしたことだ。頭に模様が!」
ヘアタトゥーの愚連隊に揃って睨まれる始末。ハッカがあわててシュウカイドウの口をふさぐが、ちょっと目を離すと呼び込みの店員に捕まり、煌々しい看板の店に連れ込まれようとしている。
夕暮れにはぐったりと疲れたハッカであったが、ひとしきり興奮し空腹になったのか、シュウカイドウがひとつの露店を指さした。
「ヨシノ、あれを食してみたいな」
「回転焼き……ですか?」
伝統的な菓子であり、グレーターのデパートなどでも売っているはずだ。シュウカイドウは口にする機会がなかったのだろうか、とハッカは首をかしげた。
「母上が不衛生だと言って、実演で売られているものは、買わせてもらえなかったのだ」
「ユウカゲさまは、王子のことが大切でいらっしゃるんですね」
ハッカは微笑ましく言葉をかけたが、シュウカイドウは何か言いたげに微苦笑した。
ふたりで、シュウカイドウ曰く「禁じられている」食べ歩きをする。
「……う、うまいぞ、ヨシノ! 回転焼きとは餡がつまっているものと聞いていたが、これは餅も入っている!」
「ここのは栗も入っていますよ。お気に召して頂きよかったです」
ようやく落ち着いたのか、回転焼きをほおばりながらシュウカイドウがつぶやく。
「……もう夜だというのに、みな働いているのだな」
「そうですね。夜から開く店もありますし。そういえば確か、この辺りでリクドウのGPSが消えたという報告が……」
そこは細い路地がいくつも交差する雑多なエリアで、ひとひとり見つけるのは困難な迷路だった。
「リクドウは、何しにわざわざこんなところまで来たのだ? 車を盗んだと聞いたが、逃げるなら、もっと人目のつかない遠い場所がいいだろうに」
不思議そうに首を捻るシュウカイドウに、ハッカが顔を上げる。
「もしかしたら、コミューンのヌシに会いに来たのかもしれません。あの子のことを聞いたと言っていましたし」
「あの子?」
「王子もお会いになられているのでは。図書館にいた少女ですよ」
「ああ、リクドウが痴漢を働いたという……」
「そ、それはさておき、その少女です」
「あの白衣の少女は何者なのだ? リクドウは、なぜ彼女を連れて逃げた?」
シュウカイドウにじっと見つめられ、ハッカは返答につまった。
ツバキは彼女が王女だと目星をつけているが、そんな不確定な情報を王家所縁の者にもらしていいものか。
頭をかかえるハッカを察してか、シュウカイドウは残った回転焼きを口に放り込むと、先に歩き出した。
「よし、とにかく、そのヌシとやらに会ってみよう」
早速、サンドバイクを路側帯に停めているドレッドヘアの男を捕まえ尋ねる。
よりにもよってそんながらの悪そうな男に……とハッカは身がまえたが、男は存外親切に案内してくれた。
「ただのババァじゃねえからな」
という、忠告も添えて。
教えられた先は怪しげな雑貨店で、ヌシとやらも人間離れした風体の人物だった。手始めに駄菓子を箱ごと買わされたハッカは、ぶつぶつと文句を言いながら財布をしまう。
「桜城近衛連隊の、リクドウ二等兵がここへ来たと聞く。彼の行方と、同行していた少女の素性を知りたい」
猜疑心満々のハッカとは対照的に、ストレートに尋ねるシュウカイドウを、店主はじっと見つめた。
「その情報は、子どものおやつなんかじゃ足りないねえ」
「下手に出ていれば……この方を誰だと——!」
カウンターに乗り出すハッカをシュウカイドウが制し、
「これで足りるか」
と胸のポケットから、王家の紋の入った金の万年筆をわたす。
「ああっ、あんな高価なもの……!」
後ろで指をかむハッカだったが、店主は満足げに万年筆を空に翳し、ニヤリと笑って言った。
「リクドウ二等兵は、近衛連隊少佐レイチョウの城へ向かった」
「レイチョウ少佐って……ぼくの上官の?」
ハッカが眉根をよせ、シュウカイドウを見る。
「ハオウジュ将軍はレイチョウと連絡がつかないと、最近苛立っていた。父上も、レイチョウの有給の取り過ぎには困ったものだと」
「レイチョウ少佐の城って、どこにあるんですか?」
「確かコミューンのはずれだ」
ハッカとシュウカイドウは、互いに顔を見あわせた。
「シュウカイドウさま、ぼくはまだ、レイチョウ少佐にお会いしたことがないんです。凄腕の軍師と聞きますが、どのような方なんですか?」
「レイチョウはいかなるときも取り乱すことのない、冷静な男だ。宴の席でも酒も嗜まず騒がず、品がいい。極めてストイックで硬派で軍人らしい人物だ」
シュウカイドウの分析に店主がぶはっとふき出すが、訝しげな視線のふたりに取り直したように言葉を加える。
「まあ、リクドウたちが城に無事着いたかは不明だがね。少女のほうは、名をアニス・リィという。聖マツリカ女学院の生徒で、博士の称号を持つ天才少女だ」
「アニス……」
シュウカイドウは趣深くつぶやく。だが店主はいつもの調子で、嘲笑するようにひゃっひゃっと肩をゆらした。
「恋慕を抱くには早いよ、ぼっちゃん。あの少女はおたくの一族かもしれないからねえ」
「あっ、ババァ! 何バラして——!」
つかみかからんばかりの勢いのハッカを抑え、シュウカイドウは店頭を見すえる。
「かまわん、話せ」
店の奥に上がり込み、おおよそのいきさつを聞いたシュウカイドウは、しばらく無言でうつむいていた。
「……あの、王子、DNA鑑定がすむまではまだ決まったわけではありませんから」
ハッカは気落ちしているように見えるシュウカイドウを気遣って言ったのだが、ふり返った彼は、
「何を言う、ヨシノ! ぼくは今、希望にあふれている! 彼女が近しい存在ならば、こんなにうれしいことはない。ぼくはずっと、あの城でひとりだった……ぼくにはわかる、彼女は同士だ!」
と、涙を流し喜びを訴えた。
シュウカイドウのあまりの感嘆の昂りに、失礼ながら少々引いてしまったハッカだったが、わずかながら王家の背景が見えて来た。
政治にしか関心のない父、息子に執着する母。桜城には、何かが過剰で何かが足りないのだ。
そんな偏った環境の中で育って来たシュウカイドウが、さみしさの行き場を書物に求めるのもわかるような気がした。
「真実を話してくれて礼を言う、『老爺』」
「老……ええっ!?」
ハッカが店主を二度見する。ニヤニヤと顎をさする『ババァ』に対し、たらりと焦燥の汗が流れるが、反転感心したように息をつく。
「……すごいな、王子は本質を見抜く力がおありです」
「いや、今日は自分が無知だと知った、記念すべき日だ。本だけでは知り得ぬ世界があるのだな……そなたにも感謝する、ヨシノ。さあ、ぼくらもレイチョウの城へ向かおう!」
「はい、王子!」
「盛り上がってるとこ悪いけど、アンタ呼び出しが鳴ってるよ」
店主の言葉にハッカがあわてて、後ろポケットの携帯を取り出す。画面を確認すると、青くなって携帯を取り落とした。
「緊急連絡です、王子……桜城でクーデターが!」
2113年 12月某日
彼女が城を去った。スカートめくりなど、子供じみたアプローチしかできなかった自分の本当の気持ちに、今頃気づいても遅い。
誰でもないということは、彼女だったからだ。
やけになって酔ったわたしを介抱してくれたスイレンが、朝目覚めたら隣に寝ていた。
まさかわたしはスイレンとxxx(以下略)
桜城では、王族を近衛連隊が取り囲み、今にも発砲せんとばかりにかまえていた。ハオウジュ将軍の大音声が、大広間に響きわたる。
「ただ今を以って桜城いや灰桜国は、近衛連隊最高司令官ハオウジュの指揮下に入る!」
執務室から無理やり引きずって来られたウツギは、わなわなとこぶしをにぎった。
「——貴様! 初めから仕組んでいたのだな。あの王女もやはり偽物か!」
かたわらでは、蒼白になったユウカゲが今にも倒れそうに身をふるわせている。
「ウツギ議員、貴殿が玉座を疎ましく思っていたようなので、わたしが名乗りを上げたまで。むしろ、感謝してほしいくらいだな。傀儡の王女を奉ろうとしたのは、そっちも同じだろう」
「お前が国を指揮するだと? 笑わせるな、元老院が黙っておらんぞ!」
「元老院など、やっかいな老害だと日頃からもらしていたではないか。望むなら消してさしあげるが、永遠に」
その元老院は危険を察知して逃げたのか、王宮には誰ひとり見当たらなかった。思い当たったように、ウツギが顔色を変える。
「もしや、お前が前王を殺……!」
「勝手に食中毒を起こした王のことなど知らぬわ。此度とタイミングが重なっただけのこと」
ハオウジュ将軍は、心外とばかりにふんと鼻を鳴らす。言及に答えるのも面倒になってきたのか、ウツギに銃口を向けた。
「わたしの配下に降るなら、これまで通り政と外交は任せよう」
「ならん! せめて二院制だ。王族でもないお前に統括権をわたせば、国や隣国にどのような波及が出るかわかったものではない」
「ウツギよ、わたしは貴殿と政治講義をするつもりもないし、これは要求ではない、命令だ。わたしに抗うと言うなら、血族諸共処刑台行きだぞ」
将軍はちらと背後のユウカゲたちに目線を移す。ウツギに選択肢はなかったが、決断する勇気もなかった。
アニスとツバキが桜城のクーデターを知ったのは、工場にもどってからのことだった。
「そんな……」
作業員のミニタブレットに流れるニュースに、ツバキは軽くよろめいた。当然だが、自分は何も聞かされてはいない。
(ハッカはどうしてる?)
将軍率いる近衛連隊側に命の危険はないとは思うが、問題はシュウカイドウたちだ。王族や王党派は、いつどうなってもおかしくはない。
(そして、王女捜索の件はもう——)
クーデターが起きてしまった以上、王女の存在など誰もありがたがりはしないだろう。むしろ世に出て来ないほうが、本人にとっては安全である。
完全に気落ちするツバキに、アニスはおずおずと声をかけた。
「あの、お城が心配ですよね」
「……ああ」
「でも、リクドウさんの上官が起こした叛乱なら、きっとお友だちは無事ですよ」
「そうだな。だが、何もかも水の泡だなって……」
工場のすみにどさりとすわり込み、ツバキは言いにくそうに口を開いた。
「……王女を見つけた者にはよ、城から莫大な賞与が出るはずだったんだ。リクドウ家の領地を買いもどすには、金が必要だ」
ツバキの言葉に、アニスは胸がきゅっとつまるのを感じた。
あのとき船上で歯切れが悪かったのは、捜す理由をストレートに言いたくなかったのだろう。
(功績を上げて、いつかリクドウ家を興し直すのが——)
強い目で語ってくれた、ツバキが思い出される。
しかし、その夢は叶わない。
それはアニスにとっても辛いことであったが、それ以上に、やはり自分の存在はツバキにとって、ただの任務でしかないという事実が悲しかった。
黙り込むアニスに、ツバキがあわてて取り繕う。
「だっ大丈夫だ。城はあんなことになっちまったが、アニス博士の身柄は頃合いを見計らって、おれが責任持って学院に送り届けるからよ!」
何も言葉が出てこず、アニスはその場を走り去る。
「あー怒らせた」「女の子怒らせたー」
軽蔑の半眼でハモってくる作業員たちを蹴散らし、訳がわからずツバキはその場に立ち尽くした。
ラジオのゲリラ放送や街中の巨大モニターでは、ハオウジュ将軍の声明文が流れっぱなしになっていたが、今のところ、処刑は告知されていなかった。
(とりあえず、王子たちは無事なんだな)
彼らがふたりでツバキのことを捜すため城を出たことを知らない本人は、報道に胸をなで下ろす。
だが自分も将軍から目をつけられているうえ、プリンセス殺しの指名手配も出ているので、簡単に桜城へはもどれない。
(まず先決は、アニス博士をどうするかだ)
しかし加えて痴漢の嫌疑もかけられているので、マツリカ女学院へも行きづらい。ついでに金も底を尽き、アオイの治療費どころか、アニスを安全にコミューンへもどす手はずさえ整わなくなってしまった。
こうなると、自分の今後のビジョンも当然見えない。ツバキはわかりやすく、頭をかかえ落ち込んだ。
一方アニスは、これまで以上に商品の開発に打ち込んだ。
緋ノ島で取材し、教えてもらったレシピを早く試したかったこともあるが、何かに没頭しているほうが、余計なことを考えずにすんだのだ。
それでも、
(道が閉ざされ、リクドウさんは悩んでる)
憔悴しきったツバキを見ると心が痛む。そしてそのツバキは、
「二、三日でもどる。ここで待っててくれ」
とアニスに言い残し、工場を出て行った。
「——あいつ、もう帰って来ないかもな」
ぼやく作業員の頭を、別の男があわてて叩く。ツバキを見送って立ち尽くすアニスが、隣りにいたからだ。
誰に言われなくとも、アニス自身そう感じていた。
今の自分は彼にとって、何の役にも立たないお荷物なのだから。
(……ねえ、アニスは好きなひと、いる?)
アオイの声が頭で問う。
「うん、いるよ、アオイ」
つぶやくアニスを、ふたりの作業員が訝しげに、そして少し離れたところからアカザが厳しい表情で見つめていた。
スクラップからコミューンへ出たツバキは、列車でアケイシア地区へ向かっていた。
『アケイシア伯リクドウ卿』、父親の営むオーベルジュが行く先だ。父親とは折りあいが悪く、ここ数年顔も見ていない。できれば会いたくはないが、用件が用件だ、仕方がない。
だが灰の舞うせせこましい街並みを抜け、山をいくつも越え、車窓からの景色が雄大な大地に変わってくると、不思議と荒んだ心もやわらいでくるのを感じた。
第三セクター鉄道が未だ残る数少ない土地。数年ぶりの郷里はさすがに懐かしい。
久しぶりに訪れたオーベルジュは意外にもにぎわっており、戸惑いながら入って行くと見知った顔のメイド長、セリが驚いてやって来た。
母親不在のリクドウ家でツバキの面倒も見ていた、彼にとっては乳母のような存在でもある。とっくに還暦を超えているはずだが、どすどすとした足音は相変わらずかしましい。
「まあ、バ……ぼっちゃま! 無事でいらしたんですか」
「ああ、まあいちおうな……おい今、馬鹿ぼっちゃまて言おうとしただろ」
「いえいえ、ただ数日前まで、警察軍がぼっちゃまの行方を捜してアケイシアまでやって来ましてねえ。いえ、わたしどもはぼっちゃまの無実を信じてございますよ? それで、てんやわんやだったもんですから」
他の使用人もくすくすと笑っている。
「……そりゃ、めーわくかけたな。親父は?」
「厨房で、シェフと新メニューの打ちあわせ中でございます。書斎でお待ちになっては」
ツバキの指名手配のニュースが流れたのだからある程度予測はしていたが、やはり警察軍はここまで来たのだ。そのうえで、職員たちのあの対応。
ある意味、信用してくれてはいるのだろう。
「そうだ、些細な蔑称なんか取るに足らねェ……くそっ。ぜってーアレ、親父の入れ知恵だ」
書斎で待つこと十分、リクドウ卿が靴音高くもどって来た。髪にはところどころ白いものが混じってはいるが、恰幅がよくアカザと同じくらいの体躯はある。
リクドウ卿はどかりとソファにすわると、櫛で髪を後ろになでつけながら足を組んだ。
「何だ、ツバキ、めずらしいな。何の用だ?」
「——金貸してくれよ」
勝手にキャビネットの高級酒をグラスに注ぎながら即答する息子に、リクドウ卿は片眉を上げる。
「久々に顔を見せたと思ったら金の無心か。相変わらずの馬鹿息子だな。指名手配なんぞされおって。おかげでこっちの宿にも大打撃だわ」
「客、入ってんじゃねーか」
「これでも減ったんだよ。王党派のキャンセルが相次いでな」
「そりゃ……悪かったな。全部片づいたら、おれアケイシアにもどって、ここ手伝ってもいいぜ」
どのみちもう、近衛連隊はクビだろう。無実が証明されても、一度指名手配された人物を雇ってくれるところなど、そうそうあるわけがない。
故郷の懐かしさに、ふとツバキはそんな気持ちになった。
神妙な態度のツバキをリクドウ卿は黙って見やると、ふっと小馬鹿にした笑みを浮かべる。
「お前、任務で何かヘマしたな? 勝手に家飛び出しといて、仕事につまずいたら実家を頼るたァ情けねェ。あまったれんじゃねェぞ。お前の居場所なんざここにはねェからな」
「た、頼ってなんかねェ! おれはいつか城を買いもどし、爵位に恥じないリクドウ家に建て直すんだ!」
カッとなって、グラスを置いて立ち上がる。
「建て直してどうする? こんな時代だ、またいつクーデターが起きるやもしれんぞ。そうなったら、爵位なんぞ何の役にも立たん」
「だからって、親父はこのままでいいのかよ!」
ツバキは書斎の机を威嚇のように強く叩いた。だがリクドウ卿はぴくりとも動じず、朗々と答える。
「このままじゃない。おれも城を買いもどし、今度はそこでオーベルジュを開く。給金を払えなくなっても、城からついて来てくれたやつらのためにな」
セリを初め、ツバキが小さな頃から城に勤めていた見覚えのある顔が、確かに何人か館内にいた。
「——何だよ、地位より人脈とかあまっちょろいこと言ってっから、女にも逃げられ、土地を手放すはめになったんじゃねェのかよ」
父親の方針を認めたくない気持ちが、舌打ちに出てしまう。リクドウ卿はそんなツバキのささやかな反抗など、歯牙にもかけないふうに鼻で笑った。
「ツバキ、お前がいずれ後を継ぎたいなら、そのときはそのやり方でいけばいい。だが今はおれの代だ、お前のターンじゃない。それにお前はまだ世間を知らん。軍人でも何でもヘマを重ねてもどって来い」
そして腕時計を見ると、時間とばかりにさっと立ち上がり出て行った。
——世間知らず。
アカザにも言われた。安全だと思っていた旧市街が、危険区域だった。コミューンの海岸線では、本物の尾行に気づかなかった。
ツバキは自分の手のひらを見つめた。父やアカザの手に比べ、一回り小さくうすっぺらだ。ぎゅっと白くなるほどこぶしをにぎり、うつむく。
(こんなんじゃ、何もつかめねェよな……アカザの言う通り、本当に非力だ)
ポーチのベンチで佇むツバキに、セリが声をかけて来る。
「馬鹿ぼっちゃま、お茶でもいかがですかね」
(そうだよ、もうはっきり馬鹿と言ってくれたほうが……)
「いいわけあるか!」
弱った心身のせいで危うく認めてしまいそうになったツバキが、額に縦線を醸し我に返る。
「ほっほ、調子がもどったようでございますね。旦那さまから、これをお預かりしております」
セリが札束の包みをツバキにわたす。その重みに驚いたツバキは、包みと彼女を交互に見やった。
「こ、こんな大金……!」
とたんに、さっと札束をセリがまた取り上げる。
「わたくしが、旦那さまに交渉して参りました。旦那さま曰く、試合で自分を負かしたら貸してやる、だそうです」
「親父と試合? ——剣戟か?」
リクドウ卿はアケイシアでは第一の剣の達人だ。だがすでに現役は引退しているうえ、ここ十年は宿泊業に専念していたため、剣など書斎の壁の飾りである。
一方ツバキは入隊したばかりとはいえ、近衛連隊の中では上位を争うかなりの剣の使い手だった。
ただし模範試合で、ハオウジュ将軍の『髪の毛』をうっかり剣先がかっさらってしまうというハプニングのせいで、彼からは目の敵にされており、以来一切試合に出させてもらっていない。
そんな挿話はともかく、承諾しない理由はなかった。
「いいぜ、やってやるよ!」
試合は中庭の広場で行われることになった。幸い今日は風向きもよく、灰も舞っていないので、裸眼で臨むことができる。
どこで聞きつけたのか、オーナーとその息子の交戦が見られるということで、ギャラリーはにぎわいを見せていた。
リクドウ卿は敢えて着替えもせず、蝶タイにタキシードのままだ。その余裕ぶりが、またツバキの癇に触った。
「ルールは簡単だ。互いの胸につけたこの胸章が、先に割れたほうを負けとする」
リクドウ卿にわたされた、家紋のバッジを胸につける。触るそばからざらざらする、安っぽいちゃちな玩具だ。
芝生にはやはり剣が二本、用意されていた。公平を期すためか、リクドウ卿が先に取れと促す。ツバキは取った剣先をまじまじと確認し、躊躇うように父を見た。
「……おい、刃が潰れてねーぞ。コレ真剣じゃねェか」
「男同士の勝負にイミテーションを使ってどうする。それとも、怖気づいたか?」
挑発するようなふくみ笑いに、ツバキは一気呵成に攻め込んだ。
「るせェ! ガタの来た中年親父に長期戦はキツいだろ、一気にカタをつけてやるぜ!」
踏み出したツバキの胸に、リクドウ卿が軽く一閃を切る。
——ぽすっ。
剣先が触れたか触れないかの風圧で、ツバキのバッジはほろりと割れて地面に落ちた。
「おーっと、早くも試合終了かー?」
レフェリーよろしく、箒をマイクにアナウンスするメイド長に、観客がどっと沸く。
「ちょ、ちょっと待て! 当たってないのに割れたぞ、今!」
「ルールはルールだ。残念だったな、ツバキ。男は引き際も肝心だ」
剣を鞘に収め、さっさと退場しようとするリクドウ卿の肩を、ツバキがぐいと引きもどす。
「——待て親父。そっちのバッジも見せろ」
「え」
動揺が窺えるリクドウ卿のバッジをツバキがさっともぎ取ると、明らかに自分のものとは違う硬い材質。割れたツバキのバッジは、よく見ると砂糖菓子でできている。
ツバキはわなわなとバッジをにぎり潰した。
「……イカサマか、てめェ!」
「リクドウ卿、レストランのオリジナルシュガーで小細工です! 自分はオーベルジュのノベルティで対戦、これにはギャラリーも黙っておりません!」
セリがふたつのバッジを掲げると、外野は大ブーイングを起こした。
「ふざけやがって、くそ親父!」
「待て待て、今度はわたしが、そちらの潰れやすい砂糖菓子のバッジをつけよう。それでいいだろ?」
へらへらと嘲笑するリクドウ卿からは、微塵も反省の念が感じられない。
「いいぜ、菓子といっしょに潰してやるよ!」
ツバキは剣先をシュッと閃かせるとかまえ直し、機先を制そうと攻めかかった。
まずは正面から。左——と見せかけて右に反転。だがリクドウ卿は、簡単にその切っ先を払い退ける。ツバキが多方向から鋭い突きをくり出すものの、ことごとく剣で躱されるのだ。鋼のぶつかりあう金属音が鼓膜に響き、ツバキは顔をしかめた。
鍔競りあいで対峙しては旋回、攻撃のくり返し。ツバキは、リクドウ卿のニヤつく表情を払いたい一心で剣をふった。
「どうした、ツバキ。もう体力の限界か?」
息が上がっている自分に対して、父は汗ひとつかいていない。抑えた動きで、こちらの剣戟を的確に読んでいるのだ。とてもブランクがあるとは思えない剣さばきだった。
「……くそっ!」
次第にツバキは焦り始めた。確かに脚や肋骨はまだ完治していない。だがそんな理由は今は通らない。もう外野の野次も聞こえなかった。
攻めも守りもひたすら激しく、セリもアナウンスを忘れ、戦いの行方を見守っている。
「……やれやれ、ガタの来た中年親父は持久力がないからな。ここらで締めとするか」
長丁場にうんざりしてきたのか、リクドウ卿がようやく攻撃に転じた。ツバキの隙をつき、足払いをかけ薙ぎ倒す。ツバキは剣を取り落とすが、即座に背面で跳ね起き、リクドウ卿の剣は空を切った。
ツバキはすばやく剣を足で蹴り上げ、にぎる。が——
「あまいわ!」
背を向けたツバキの首筋に、切っ先がヒュッと突きつけられた。襟足の髪がぱらぱらと舞い落ち、ギャラリーは水を打ったように静まり返る。
「剣を捨てろ、ツバキ」
言う通りにするしかない。ツバキの手からするりと剣が落ち、地面に突き刺さる。リクドウ卿は満足げに勝ち誇った笑みを浮かべた。
「こっちを向け、ツバキ。己の非力を思い知ったか。お前などわたしから見れば、まだまだ殻つきのヒナのようなものだ。だが成長とはそれを受け入れることから始まり——」
——ピシュッ。
突然、後ろ姿のままのツバキの脇から何かが噴射された。
「——な!?」
リクドウ卿の砂糖菓子のバッジが、砕けて地面に落ちる。ニヤリと笑いふり返ったツバキの手には、アニスの水鉄砲がにぎられていた。
「——話が長いのも、中年親父の悪い癖だぜ?」
とたんに、中庭に歓声が上がった。リクドウ卿がツバキに食ってかかる。
「ル、ルール違反だ! バッジは剣で割ると……!」
「言ってねェし。それにルールについて、てめェが言うか?」
「——ジャッジ! バンカー(勝者)、ツバキ・リクドウ!」
有無を言わせないセリのコールに、外野は大音声でさらに湧いた。
「これは、約束通りぼっちゃまにおわたししますよ」
オーベルジュのロビー。セリからツバキの手に札束がわたるのを、リクドウ卿が恨めしげな目で見ている。
「旦那さま、子どもの前で往生際が悪いですよ。わたしから見れば、どっちも子どもですよ、まったく……」
ぶつぶつとセリが厨房へもどって行く。ふたり残されると特に話すこともなく、気まずい沈黙がロビーの一角を覆った。
リクドウ卿が煙草をくわえながら、話を切り出す。
「……あー何だ、何のために金がいるんだ。女か」
「は、親父といっしょに——」
いや、確かにふたりの『女』のためだが、そこはニュアンスが違う。言い淀んでいると、リクドウ卿がさらに訊いてきた。
「恋人でもできたか」
「そんなんいねーよ」
「だろうな馬鹿め」
呆れたようにふーっと煙草をふかす。ケンカ売ってんのかと睨み返すと、父親は生あたたかいまなざしで息子を見つめ、
「——ま、どんな馬鹿になるかはお前次第だな」
と片手を上げ、もどって行った。
アケイシアへ来て翌日、ツバキは帰りの列車をホームで待っていた。
(とにかく、これでアオイの治療費が出せる)
改めて札束を確認すると、安堵で胸がほっとする。が、
(アニス博士も、今度こそ学院へ送り届ける)
そう考えると、今度は鉛のように重くなった。
そうだあれは仔猫だ、預かっていた仔猫にちょっと情が湧いて、返したくないのと同じだ、と自分に言い聞かせていると、
「猫が何ですって?」
セリが駅舎から出て来た。
「いや、この駅も猫駅長がいればいいなと」
ごにょごにょとしたツバキの言い分など聞いていないように、セリはリネンのクロスで包んだバスケットをどんとわたす。
「はい、馬鹿ぼっちゃまの好きなクラブハウスサンドイッチですよ。揚げたポテトもたくさん入れておきましたから。列車の中でお食べになって下さいね」
「はいはい、もういいよ、馬鹿で」
あきらめたようにツバキが肩をすくめると、セリは失礼します、と隣りにすわった。
「馬鹿は一生変わりませんです。旦那さまも、ぼっちゃまに負けず劣らず馬鹿な方ですから。正攻法では、あなたたち親子は生きられないんでございましょう」
「……そうか、一生変わんねェのか。じゃあしょーがねェな、ははっ」
アケイシアの広い空を見上げ、気が抜けたようにツバキは笑った。
「旦那さまから伝言でございます」
「金は返せ、だろ」
「さすがです、馬鹿ぼっちゃま」
真面目な顔のセリの肩越しに、白い列車がうねって来るのが見えた。ホームに軽く手を上げ乗車する。見送るセリが小さくなって、列車は空気の澄んだ高原地から、またごみごみとした灰の街へツバキを運ぶ。
当面は、そこがツバキの生きる場所だった。
2114年 10月某日
わたしは今、ある施設に身をよせている。どうしていつも逃げてばかりだったのか、しきりにあのときのことが思い出される。
だが自分の気持ちを知ってしまった以上、城にはいられなかった。身分の違う自分が彼と結ばれるはずもない。
それでも、今も期待してしまう。あのドアを開けて、彼が迎えに来てくれることを。
おや、ノックの音が……
澄みわたる天気だったアケイシアとは一転、スクラップは灰混じりの雨模様だった。
「ふう、ただいまー」
呑気なかけ声で工場の入り口をくぐった瞬間、ツバキは強烈なパンチに見舞われた。頭に上げたゴーグルも、ベルトがはずれふっ飛ぶ。
「……てめっ、何すんだ、いきなり!」
切れた口の端をぬぐい体勢を立て直すと、アカザが仁王立ちになって、パキポキと指を組み鳴らしながらツバキを見下ろしている。
「そこへ直れ……」
「とんだ出迎えじゃねェか。何のつもりだ!」
息巻くツバキに、ヒノキが黙って一枚の手紙をわたした。
「お前宛ての書き置きだ。アニスは今朝早く、我々も気づかんうちに出て行ってな」
「な!?」
「新しい石けんを置いて行ったよ」
ヒノキが小さなガラス瓶を棚から取り出す。
薄い木のスプーンが添えられたまっ白なそれは、今までの固形石けんとは違う洗料だった。手に取るとアイスクリームのようになめらかで、思わずなめてみたくなる。
「あんたと取材に行った緋ノ島の白砂で作ったと、我々への手紙には書いておった」
そう、緋ノ島のオレンジ農家の老人は、きめの細かい白砂を洗料に使っていたのだ。それをヒントに、アニスは商品を開発した。
「これで工場は安泰だ。おまけにあの子は、灰干しや灰を使った染色法まで残していきおった。やっかいな火山灰が役に立つ日が来るなど誰が考えた? わしも夢にも思わなかったわい」
ヒノキが鼻をすすり、うれしさに涙ぐむ作業員の姿もある。巨漢のカシすら無表情のまま、だらだらと涙を流していた。
ツバキも、思わず感嘆の声をもらす。
「新商品、できたのか……よかったな、アニス博士」
(わたしが作りたいのは、製作側も消費者も幸せになる石けん——)
アニスが目を輝かせて語ったあのプレゼンは、今現実のものになろうとしている。
ツバキは我に返り、アカザに向かって敢然と反駁した。
「おい、おれたちは工場に貢献したじゃねェか。何で殴られなきゃいけねェんだよ!」
「その手紙を読んでみろ、この脳筋が」
にぎってぐしゃぐしゃになった紙面に気づき、あわててそっと開く。
そこには、数行ほどの文面が、きれいな文字でしたためられていた。
ツバキはざっと目を通すと、手紙をつかみ急いで工場から飛び出した。文字が、アニスの声で甦る。
——リクドウさんへ
短い間でしたが、お世話になりました。
わたしは桜城へ行き、DNA鑑定を受けてみようと思います。
国王のいない国で、神の加護のない国で、わたしができることなんて本当にちっぽけ。もしもわたしが王女だったとしても、何も変わらないかもしれません。リクドウさんに、賞与をわたせるかもわかりません。
それでも、塾考欠乏体質のリクドウさんを見ていたら、わたしも無謀なことに挑戦してみたくなりました(笑)
リクドウさんの夢が叶うことを願って——アニス
行く手を遮るように灰雨が叩きつける。通常の豪雨より灰が混じっているぶん重く濁っており、それは泥が降るような状態だ。
ゴーグルなしでは数歩も進むことができず、瞬く間に泥だらけになりツバキはつまずいて転んだ。転倒したまま、ぐしゃりと手紙をにぎりしめる。
「何だよ(笑)って。笑えねーよ。塾考が欠乏してて悪かったな。さりげなくけなしてんじゃねーよ。おれだっていちおう考えたんだよ。でも、何で自分はいつも勝手に行っちまうんだ。そんなのずりィじゃねーか」
雨といっしょに灰の粒が目に入り、痛さに泣けてきた。いつかのトウガラシスプレーより激しい痛みに、後から後から涙が出た。
うずくまるツバキの前で、黒のアーミーブーツが砂利を踏む。
「悪いが手紙は読ませてもらった。おれが殴ったのは、お前の姿勢が気に入らねえからだ。ツバキ・リクドウ二等兵、お前は自分の昇格の手段にアニスを使おうとした。本当にどうしようもない男だな」
アカザが、ツバキの胸ぐらをつかんで起き上がらせる。されるがままになりながら、ツバキはぼんやりと思った。
(……こいつ、初めからおれの名前知ってた。指名手配されてたから? でも、じゃあ何で工場に招き入れた。いったい、いつから素性を知ってた?)
だが、今はそんなことはどうでもいい。
蔑する目つきで、アカザが力の抜けたツバキに顔を近づける。
「ふん、もう少し骨があるかと思ったが、所詮この程度の——」
——カチ。
「動くな」
脇腹に当てられた銃口の感覚に、アカザがぴくりと片眉を上げた。抑揚のない声でツバキが告げる。
「サンドバイクのキィをよこせ」
「……これ以上罪を重ねると、近衛連隊から除名されるぞ」
「わたさねェと撃つ」
銃口をおし当てたままアカザを睨むツバキのまなざしは、磨いた水晶のように硬質で精悍な光を宿していた。
脅されているというのに、アカザはニヤリと口角を上げる。
キィを受け取るとツバキはバイクにまたがり、札束の半分をアカザに投げた。
「——チビのことは悪かったな、オッサン」
バイクは爆音を立て工場の敷地を出て行き、作業員たちがわらわらと出て来る。
「オッサン……」
こめかみを引きつらせるアカザの隣りに、ヒノキもやって来た。
「リクドウのやつ、行ったんですか」
「ああ、ようやくな。馬鹿め、おれが水鉄砲と銃の区別もつかねえと思ってやがる」
アカザは忌々しげに、だが楽しげに、遠ざかるバイクを見やった。
叛乱の起きた城へ単身で向かい、「わたしが王女かもしれません」と自己申告するなど、正気の沙汰ではない。
(朝一番に出たとしたらもうコミューンへ到着する時間だ。間にあってくれ)
ツバキはアクセルを全開にし、フルフェイスのヘルメットの中で少女の無事を祈った。
ところが当のアニスはというと、未だスクラップを出ていなかった。
アニスに交通費の持ちあわせがあるはずもなく、スクラップへ来たときと同様、灰を積んだトラックの荷台にこっそり忍び込んで来たのだ。
「あれ。ここ、どこ……?」
荷台から降り立ったアニスは、灰混じりの風にくしゃみをした。ゴーグルは持って来たが、マスクの準備を忘れていた。
きょろきょろとを巡らせば、見わたす限りの灰の山。砂漠と違うのは、砂丘が海に面していることくらいだ。
アニスが乗って来たトラックは、灰の埋立地行きだったのだ。ぽつぽつと遠くにガソリンスタンドや社屋は見えるものの、現在地はさっぱりわからない。
(考えてみれば、降灰収集のトラックが『丘』へ行くわけがないんだ)
どんなに学力が高くても、肝心な部分の思考が抜けている自分の浅はかさに情けなくなる。
それを笑う声も説教をする者も、今はいない。十六年の間で、まったくのひとりになったのは初めてだった。
ずっと護られて生きてきた。寄宿舎ではシスターたちに、学院を出てからはツバキに。
護られるのは悪いことではない。ただ、隣りに誰もいない心細さにドキドキするだけだ。博士号など、ここでは何の役にも立たない。
背のびをしてもう一度見わたせば、遠くに線路が見える。
(迷子になったら、その街の駅を目指すこと)
それは、ツバキとの約束事。
(あれを伝って行こう)
不安を払拭するように頭をふると、ざくざくとした灰の小山をアニスは歩き出した。
「あっ、また……」
立ち止まっては、スニーカーを脱ぎひっくり返す。すぐに灰が入ってくるのだ。ブーツや軍靴でないので進むたび靴が埋まり、とかく砂地は歩きにくい。
朝から飲まず食わずでかれこれ二時間以上は歩いているので、そろそろ息も荒くなってくる。
「人間の平均時速はおよそ五キロだから、十キロは歩いたかも……」
計算で気を紛らわせようとするが、きついものはきつい。
ようやく線路の道床に入るも、方向がまったく定まらなかった。磁石を持って来るべきだったと思いつつ、風向きで決める。風上が『丘』方面だろう。
海沿いの線路はレールも錆び、枕木もほぼ朽ち果てていた。いったいどこへ向かう路線なのか。
標べのないルートを行くのは、数式であっても実際の歩みであっても、アニスにとって意味を成さない行為であった。
(でも、わたしが王女だって証明されれば、リクドウさんの役に立つかもしれないんだ)
その思いだけが、アニスを先に進ませる。
ツバキにほめてほしい、喜んでほしい、笑ってほしい。
アニスは、彼が心から楽しそうに笑った顔を見たことがない。いつもつまらなそうに、それか照れたように、下を向いて控えめに笑う。
それは粗野で言動も荒いツバキのイメージとはかけ離れていて、思い出すとアニスは少し切なくなる。
そんな彼の笑顔を拠りどころに歩いていたが、唐突に線路は終わりを迎えた。小さな駅舎の先に、列車が走る道はなかった。
ただでさえ経営の苦しいスクラップでは、第三セクター鉄道の事業を廃止せざるを得なかったのだろう。線路は地底に続くかのように、その先が灰に埋もれている。
これでは、どこにも辿り着けない。
「そんな……」
自分の望みも断たれた気がして、アニスはやりきれなかった。途方に暮れて、海岸線から海を見下ろす。
海面へと続く長い階段を、ひとりの男が降りて行くのが見えた。だが今は満ち潮、眼下の砂浜には下りられないはずだ。
不思議に思い、自分も階段を伝って行くと、なんと壁に横穴が空いている。
「こんなところに通路があったなんて……」
横穴からはちょろちょろと水が滴っており、初めは地下水路かと思ったが、どうも下水道のようだ。
ここを辿って行けばグレーターへ着くのではという期待は萎えたものの、何があるのかどうしても奥が気になる。
「どのみち、他にひとはいないんだもの。あのひとに『丘』への行き方を聞けばいいわ」
アニスは男の後をこっそりついて行った。横穴のトンネルは天井が低く、アニスの身長でぎりぎり通れる高さである。男はかがんだ姿勢で、そろそろと注意深く歩いてゆく。
(どこまで行くんだろう)
いくつか角を曲がり、もとの場所にひとりでもどれるだろうかと、アニスは心配になった。
ふと顔を上げると、追いかけていた男が見当たらない。こうなった場合を想定しておらず、アニスはどっと不安に襲われた。
トンネルの中は、あちこちに電気の配線が通りまったくの闇ではないが、下方は見えない。足もとをすり抜けるドブネズミに驚いて、アニスはしりもちをついた。
「痛った……」
突然、ライトで顔を照らされ、まぶしさに思わず目をつぶった。
気がつくと、気の荒そうな数人の男たちがアニスを囲み、怪訝に見下ろしている。目が慣れてくると、老若男女いろんな層の人間が十数人、遠巻きにアニスを見ているのがわかった。
みな、汚れた顔に古びた服を纏い、武装している者もいる。希望通り奥に入れたとはいえ、どう見ても無事に帰れそうにはない。刺客や偽ウサギたちのような殺意や悪意は感じないものの、わかりやすい敵意は感じる。
話が通じる連中とも思えず、アニスはカタカタとふるえ出した。
「……お前、どっから来た。西のもんか?」
浅黒い顔のリーダーらしき男が、配管を肩に掲げながらアニスを睨んだ。二十代ほどの大男で、素肌にモッズコートを羽織り、桜柄のネッカチーフを首に巻いている。
「に、西? い、いえ違います。わたし、中がどうなっているのか気になって……」
「下水が気になってわざわざ入った? 何を企んでいる、貴様。そんなやついるか!」
脅すように配管をこちらに向けられ、アニスがひっと肩を上げたとたん、集団の中から涼やかな声がした。
「いたよ、『そんなやつ』」
ひとりの少年が、バスタオルをショールのようにかけ、歩み出る。
色白で華奢で、アオイと同じくらいの男の子だ。威嚇気味のリーダーの声質がくるりと変わった。
「その通りだな、クコ」
クコと呼ばれた少年はぺたぺたと裸足でアニスに近づくと、自分もちょこんとすわり、アニスの顔をじっと見て笑った。
「——やっぱり、あのときのお姉さん。助けてくれてありがとう」
通路の奥は広がりがあり、ソファやテーブルが置かれたそこは、用途で言えばラウンジだった。テレビや冷蔵庫、今ではお目にかかることのない旧型のラジカセもある。
彼らは、地下にはり巡らされた下水道、通称マンホールタウンで暮らす、まつろわぬ民と呼ばれるコミュニティだった。
それは孤児だったり、組織や社会に適合できずドロップアウトした者だったりと、さまざまである。
アオイも、工場のみんなが面倒を見てくれなかったら、ここに行き着いていたのかもしれない。
「要は、不要とされた者の集まりってことだ」
「違法ってのもわかってるッス。でも働き口も住むところもなくて、しょうがないんスよ」
前歯の抜けた男が投げやりな口調で、ブリキのコップをアニスにさし出す。
ただのお湯で溶いただけのインスタントコーヒーだが、アニスはようやくほっとして口をつけた。
あの砂嵐の日、防具を盗られ行き倒れ寸前だった少年は、自分を助けてくれたアニスの顔を、おぼろげながら憶えていたのだ。
仲間の恩人をみな歓迎して受け入れてくれ、リーダーも清廉と頭を下げた。
「クコは大切な弟だ。助けてくれて礼を言う」
親子ほどの年齢差があるうえ、遺伝子の欠片も共有していないような二者に、アニスは笑顔が固まるが、リーダーは申し訳なさそうに続ける。
「さっきはすまん、西のやつと間違えたのだ」
「西?」
「スクラップの地下住民は東と西に分かれててな、抗争が耐えない」
聞けば、昔は住処が違うだけで、食料も分けあったりしていたという。ここまで関係が悪化したのは、最近のことらしい。
「互いのテリトリーに足を踏み入れれば、どちらもただじゃすまさねえッス」
歯抜け男が悪い笑みを作るが、アニスはノラ猫の縄ばり争いみたいだな、と胸中思った。
「でも、どうして仲が悪くなったんですか?」
「初めに仕掛けてきたのは、西のやつらッス。ウチのバッテリー壊しやがった。それから度々、食材をめちゃくちゃにしたりとケンカ売ってきやス。こないだなんか飲み水全部、下水に流しやがったんスよ」
「どれもおれらにとっては、なくなりゃ死活問題だ。絶対に許せない」
怒りの代弁のように、リーダーが配管を床に打ちつける。だがアニスは、不思議な顔で周りに尋ねた。
「あの、西のひとが壊すのを、誰か見たんですか?」
みな顔を見あわせるが、挙手もなく、どこからも声があがらない。アニスはラウンジを見回す。
「わたし、海沿いの入り口から入る人物を見て追って来たんですけど、そのひと、ここには見当たらないんです」
「そいつがきっと西のもんだ」
リーダーが忌々しげに顔をしかめる。アニスはさらに質問を投げかけた。
「西のグループっていうのは、物資には恵まれているんですか?」
「そんなわけはない。同じ環境、こっちと似たようなものだ。何が言いたい?」
アニスの問いの意図がわからず、リーダーはイライラとひざをゆすった。
「いえ、ここ東のグループにとっても大切な物資なら、西にとってもそれ、必要なものですよね。どうしてわざわざ壊して行ったのかなって。食材や飲料水だって、使いものにならなくするくらいなら持って行けばいいのに」
「そりゃ、あいつらのいやがらせで……」
「死活問題ですよ。そんないやがらせする余裕あるでしょうか」
「どういうことだ?」
「つまりですね。それ本当に、西のグループの仕業なのかなって」
アニスの出した結論に、コミュニティ全員が考え込んだ。沈黙する集団の中、リーダーが配管をかかえ、やおら立ち上がる。
「よし、わかった。西エリアへ行こう」
アニスは、話しあいを促したつもりだった——のだが、
「ちょ、ちょっと待って下さい! 西のグループがやったとはまだ……」
「だからその男のことを訊きに行くんだ」
リーダーを初め、男たちは続々と武器を装備している。
「訊きに行く格好じゃないじゃないですか!」
アニスの話を訊き、考えるのがまどろっこしくなったのだろう。完全武装で身を固め、抗争する気満々だ。
しかし、こちらには子どもや老人もいる。最前線の男性陣に何かあったら、クコだって今度こそ無事ではいられない。
そもそも、『丘』を目ざしていたにもかかわらず、自分が興味本位で下水道に足を突っ込んだせいでこんな展開になった——ような気がする。
少なからず責任を感じたアニスは、半ばやけくそ気味に声をあげた。
「わかりました、わたしが訊きに行きます!」
「あんたが? 無理に決まっている。こちらにもどるどころか、二度と地上に出られないぞ」
リーダーがアニスを鼻で笑う。だがそんなふたりの間に、クコがするりとすべり込んだ。
「じゃあ、ぼくがいっしょに行く。西エリアに案内するよ」
「な……だめだだめだ、クコ! お前にそんなことはさせられん! また、こないだみたいに何かあったらどうするんだ!」
顔色を変えて反対する兄を、クコはきらきらとした上目遣いで見上げた。
「兄さん、お願い。ぼくもみんなの役に立ちたいんだ」
「む……では『土雲』を連れて行け」
(……どうして、こうなったんだろう。いや、わたしが言ったんだけど)
曇った鏡に映る灰色の自分の姿を見て、アニスは深くため息をついた。
地下住民になりきるにはと、アニスは変装を強いられた。顔は薄墨で塗られ、髪や服もあえて灰でまぶされ、まるで薄汚れた捨て猫のようである。シスターたちが見たら、卒倒しそうな装いだ。
リーダーはアニスに、小型の機器をわたした。電波の届かない地下ではGPSではなく、このビーコンが活躍する。
さらにリーダーは、出発までクコにくどくどと言い聞かせていた。
「いいな、クコ。お前が行くのは、西エリアの入り口までだ。その先は、危険だからアニスに任せるんだぞ」
(えぇ……)
弟がかわいいのはわかるが、こちらも少しは心配してほしい。あからさまな差別に意欲の萎えたアニスであったが、自分から言い出した手前、やめるわけにもいかない。
「じゃあ、しっかりぼくについて来てね」
クコに促され、配線の通っていないまっ暗なトンネルを進み出した。
「灯りのない通路を行けるのは、地下住民だけなんだ」
クコは何の躊躇もなく何度も角を曲がり、鉄梯子を上ったり下ったりと、道筋を完全に把握している足取りである。
だがアニスから見れば、マンホールタウンは迷路だった。いったん迷子になったら、リーダーの言う通り二度と出られないだろう。クコがついて来てくれてよかったと、アニスは思った。
「でも、お兄さんには心配かけちゃうわね」
「最近ますます煩わしいんだ。かわいくお願いすれば、だいたい言うこと聞いてくれるけどね」
なかなかしたたかである。
「でもほんとのこと言うとね、ほんとの兄弟じゃないんだ。びっくりした?」
言いづらそうに告白するクコに、アニスは真顔で答えた。
「ううん、それほどは」
クコは先代のリーダーの息子で、親は警察軍と抗争の際亡くなったという。そのため現リーダーが面倒を見ているそうだが、彼が過剰にクコにかまうことを除けば、アオイとアカザの関係性に似ているとアニスは思った。
ハイト油脂にしても東のコミュニティにしても、そこで暮らす者たちには絆がある。
(うらやましいな。もしもわたしが王さまの娘だったとしても、もう家族はいないんだもの)
しかし今は、そんな泣き言を言っているひまはない。
先を行くクコがぴたりと止まったかと思うと、アニスをそっとふり返った。下方を見ると、少ホールほどの広がりに、固まる物々しい集団がある。西エリアだ。
アニスは、忍び入るチャンスをじっと待った。外から来たふりをして、西のグループに入れてもらおうという作戦だ。
高みから様子を窺い見る。だが彼らは話あいの最中のようで、なかなか散らなかった。
『……が、また壊された』
『飲み水も下水に……』
『東のやつらが……』
既視感のある会話に、アニスは首を捻った。
「ねえ、これって、西も同じ——」
そうクコにささやいた瞬間、アニスの持っていたビーコンが、少ホール目がけて落ちていった。
「しまっ……!」
コーンコーン……
集団の目が、いっせいに上方へ向けられる。
「ひ……東のやつらだあ!」
あっという間にアニスとクコは捕まり、少ホールの中央にまとめて縛られた。東のグループに負けず劣らず物騒な連中が、険悪な目で睨んでいる。
「あ、あの、違うんです。わたしたち、外から来て……」
「嘘をつけエ! お前らが配線の通っていないルートから来たのが、何よりの証拠じゃ! 外の人間は灯りなしでは地下を歩けんからな!」
西のリーダーは着流しに日本刀を携え、今にも抜刀しそうな勢いだ。縄目の痛さにクコはもぞもぞと首を傾け、うるんだまなざしでリーダーを見上げた。
「これ、解いてほしいな」
「何、馬鹿なこと言っとるんじゃ!?」
「……だめだアニス、このひとお願いが効かない」
「当たり前でしょ!」
場違いな応酬に一触即発の西の集団の中、部下がリーダーに耳打ちする。
「頭目、今まで物資をめちゃくちゃにしたのはこいつらじゃ……」
「違うよ! ぼくたち犯人を見つけに、東から来たんだ!」
「さっきと言うとること違うやろ!」
クコの発言にもう作戦が破綻したと感じたアニスは、すばやく西のグループを見わたした。やはり、海沿いの入り口で見た男は見当たらない。
(やっぱりこれは……)
そうこう考えている間に、ふたりはずるずると奥へ引きずられてゆく。
「頭目、こいつらどうしましょう」
「死ぬまでここでこき使え」
「そ、そんな! わたし『丘』へ行かなきゃならないんです!」
そのとき、ざわざわと壁を這う不穏なざわめきが聞こえたかと思うと、小ホールのほうから悲鳴があがった。
「ぎゃああぁ! 何だこいつら!」「助けてくれ!」
なんと西の集団を、ドブネズミほどもある『蜘蛛』が襲っている。見たこともないグロテスクな物体に、アニスは驚愕して固まった。
「な、何あれ……!」
「土雲だ! ぼくたちの護衛について来た蜘蛛型のドローンだよ!」
ガシャガシャと人体を襲う小型の機械に、西のグループはパニックに陥った。リーダーも半狂乱になって刀を抜刀する。
「止めさせろ! 止めないとお前らを斬るぞ!」
だがふり上げられた日本刀は、鈍い音とともに配管で遮られた。
「き〜さ〜ま〜! 弟に刃を向けたな〜!」
東のリーダーが、鬼のような形相で立っている。後からやって来た歯抜け男が、ふたりの縄を解いてくれた。
しかし場はすでに、両グループ入り乱れての大乱闘だ。
「ちょっと、みなさん止め……」
誰も、アニスの言うことなど聞く耳を持たない。
「——クコ、灯りの配線を切って!」
「いいけど、どうして?」
「暗くなればわかるわ!」
ぶつん、と地下は闇に覆われ、驚いた集団の戦いの手がはっと停まった。
そのほんの一瞬を突いて、アニスが叫ぶ。
「——物資を壊したのは東西どちらでもないわ! ここから逃げようとする者が犯人です!」
アニスの指南に、東のリーダーはドローンの指揮を変えた。すぐに、土雲に追われ、暗闇であわてふためき縺れる足音がした。
西のリーダーの言う通り、外の人間は灯りなしでは地下を歩けない。ぼちゃんと下水に落ちた人物を捕えたとき、ふたつのグループはすべてを理解した。
この騒ぎを、ずっと嗤って見ていた別の者がいたことに。
捕まった人物は、スクラップの住民だった。
地下のマンホールタウンは、基本違法である。なかなか沈静化できないまつろわぬ民を一掃するため、両グループを戦わせ壊滅させる作戦だったという。
これまで息巻いていた両リーダーは停戦するとともに、自分たちの将来を真剣に考え始めた。
「……まあ、いつまでもこのままってわけにもいかねえよ」
「クコたちのためにも、ちゃんとした仕事を探さないとな」
「そういえばあのおじさん、仕事があるって言ってたのにね」
クコが思い出したように、兄を見上げる。
「それは、わたしと同じように、ここが気になって入って来たひと?」
「うん、一月くらい前かな。海に宝物を探しに来たっていう、変なおじさんがいたんだ」
「宝物?」
とたんにわくわくと聞き入るアニスを、呆れたように男たちが笑う。
「何でも、ここの海底の泥には宝が眠ってるんだと。このポイントを拠点に調査をしたいから仕事に協力してほしいと頼まれたが、それきりだよ」
なぜその男はすんなり地下へ入れてもらえたのか、アニスが不思議に考えていると、クコが巻いていたバスタオルを広げて見せた。
「そのひと、これ、くれたんだ。あれも」
兄の首の、シルクのネッカチーフを指さす。古びたコーディネートの中で、確かに首回りだけ後づけ感があった。
手下がニヤニヤ笑っているところを見ると、さしずめ「それをよこせば通してやる」とでも言ったのだろう。リーダーは知らん顔だが、クコ曰く、顔を隠すようにバスタオルを被った『変なおじさん』だったそうだ。
(何者だろう、どこかの大学教授かしら)
だが、海底の泥に眠る『宝』に、アニスはおおよその予測がついていた。
ここスクラップは、緋ノ島を眼前に臨む地区である。その湾には、気象庁が活火山に指定したカルデラの主要火口があり、約200度の熱水噴出孔(チムニー)が発見されている。
つまり、海底火山が生まれた海で、火山ガスが溶け込む酸性水塊の泥は、ある鉱物をふくむ鉱床の可能性が高いのだ。
アニスはすぐにでも調べたくなったが、今優先すべきことは別にある。
ふたりのリーダーは、両グループ総出でアニスを快く見送ってくれた。
「あんたには、クコともども世話になったな」
「今度来たら、手ぶらでも入れてやるぜ」
クコはいっしょに地上へ出て、アニスを途中まで案内してくれた。
「ここから北上すれば『丘』が見えてくるよ。近道——は海沿いの線路だけど、今はもう埋立地だから、気をつけてね」
「ありがとう」
「また会えるといいな、アニス!」
クコに手をふり、再び防具をつけると身が引きしまる。一度は刺客に狙われた身なので、できれば最短ルートで行きたい。
アニスはもと来た道からまた歩き始めた。ほどなくして、切れたと思っていた線路が再び現れた。先を見わたせば、レールはところどころ灰に埋もれ、見えなくなっていただけだとわかった。
「よかった、線路はまだ残っていたんだわ。枕木やレールは再利用できるものね。これを辿っていけばいいわ」
アニスは安心して足を足を踏み出した。しかしその一歩は——
ずっ、と灰に足を捕られ、アニスは蟻地獄のような窪みにはまった。
(——流砂!)
さらさらとゆっくり、灰はアニスを呑み込んでゆく。その緩慢なうねりが、なおさら恐怖を呼び起こした。
「誰か、助けて!」
線路の先が消えていた訳を、なぜ予測しなかったのか。流砂で陥没したのだ。
(流砂に落ちたら、焦ってもがいてはだめ。まず砂に面する体積を広げ、上体を横に——)
言い聞かせたが、知識の通り行動できるとは限らない。特に、精神の鍛錬ができていないアニスには無理だった。
「誰か、誰かあーっ!」
必死になってレールの先をつかむ。だが灰の中から見えない力に引っぱられるようで、腕だけで支えるには躰が重すぎた。
ずるずると漏斗のすぼまりに引き込まれ、ついに口にも灰が入ってくる。
(アンタはどっちの魚だい?)
ふいに、コミューンの老爺の声が聞こえてくる。
自由になった魚は外の世界で生きてゆけず、灰の海で溺れて死ぬのだろうか。
(助けて、リクドウさ……)
耐えきれず、手がレールを離れた。遠くから、轟音とともに砂塵が近づいて来るのが、かすむ視界にぼんやりと見える。
(砂嵐……?)
途切れそうな意識の中、突然砂塵の中からサンドバイクが現れ、強い腕が埋まりかけたアニスを引き上げた。
「——アニス博士!」
アニスを抱いた人物は、そのまま平地へバウンドして転がる。咳き込みながらも、アニスは目をまるくして顔を上げた。
「リ、リクドウさん、どうし——」
(あっ、夢かもしれない。人間は臨終の際、エンドルフィンが発生して幻を見るという報告もあるし、これが俗に言う走馬灯——)
大脳生理学が巡るアニスの頬についた灰を、夢のはずのツバキが手荒くぬぐう。
「あんたが金持ってねェの思い出して、近場の駅から線路伝いにシラミ潰しに当たった。迷子になったら駅を目指せって言ったの、覚えててくれて助かったよ。それにしても——すげェ格好だな」
アニスの変装にふき出すツバキの笑い声に、ようやく夢ではないと理解し、アニスも高揚気味に話し出した。
「あ、あの、リクドウさんの真似をして、灰を積んだトラックに乗ったんです」
「マンホールタウンに入って、地下住民の方たちにも会ったんですよ」
「でも、線路を歩いてたら流砂にはまっちゃって」
間断なくささやかな冒険譚を語っていると、ツバキが低い声でささやいた。
「大丈夫、もう平気だ。落ち着け」
それでもまだ動悸が止まらない。ドキドキする胸をおさえると冷や汗がふき出した。貧血になりそうで大きく深呼吸する。
突然強く抱きしめられ、アニスの息が一瞬止まった。
堅い胸、ビートを刻む鼓動。ツバキのぬくもりがアニスの躰にも伝わり、確かな脈を打っている。
ツバキは、辛そうに眉をよせていた。抱きしめられたまま、アニスは呆然とつぶやく。
「……こ、これは痴漢行為、じゃないですよね?」
「……どっちでもいい。いやならスプレーで撃退しろ」
きまり悪そうにツバキが顔をしかめる。
(……そうね、どっちでもいい)
アニスがもう一度顔をうずめると、広い胸からは懐かしい灰都の匂いがした。