社会人になって六年。雪村すみれは日本から遠く離れた南米の国・チリに赴任することになった。南米の細長い形が特徴の国だ。

「チリって、南米の国ってこと以外何も知らないし……」

ブツブツ言いながら、すみれは空港を出る。すみれがチリに赴任することになった大きな理由は、スペイン語が話せるからだろう。大学生の頃、スペイン語を学んでいたのだ。

チリに赴任することに、すみれの両親は「治安は大丈夫なの?」ととても心配していた。すみれの両親は、とても心配性だ。すみれが大学の卒業旅行にインドネシアに行く前も同じことを聞いていた。

「もう子どもじゃないんだから、そんなに心配しなくてもいいわよ。チリでの家は会社の社宅だし、夜に外出なんてしないから!」

両親にいろいろ言われながらすみれはチリへとやって来た。チリのことですみれが知っているのは、スペイン語圏の国だということだけだ。

普通ならば、これからの生活に多少の不安を感じるのかもしれない。しかし、すみれは逆だった。これから始まる生活に少し嬉しさを感じていた。
「やっと新しい生活が始まるんだ……」

すみれはそう呟き、かばんの中からアルバムを取り出す。両親が無理やり持たせたものだ。

すみれはその中から一枚の写真を取り出す。金髪に染めた男にしては長い髪の毛に、ジャラジャラとつけられたピアスやネックレス。すみれはその写真を近くにあるゴミ箱に捨て、歩き始めた。



話はすみれが大学生の頃に遡る。

すみれは語学に興味があり、スペイン語と英語、そして中国語の講義を受けることになった。

基本の挨拶や文法、長文などレベルはどんどん上がっていく。周りの人の中には、「こんなに難しいなんて聞いていない!」と言う人もいたが、すみれは楽しいと思いながら授業を受けていた。

「う〜ん……。これってどういう意味の単語だったかなぁ……」

図書室で一緒に勉強している友達が頭を抱える。すみれはノートを覗き込み、言った。

「よかったら教えましょうか?別にあんたのためじゃなくて、私のためね!私も勉強になるから教えるのよ!」
すみれがそう言うと、友達はにいっと笑う。

「出ました〜!すみれのツンデレ〜!!」

「ツン……?って何バカなことを言ってるの!」

少しふざけた後、すみれは友達に単語の意味を教える。

「Dia de la muerteは命日という意味。だから、「私の叔父の命日は八月です」という意味になるわ」

「ありがと〜!さっすがすみれ!わかりやすい!」

友達がすみれに思い切り抱きつく。すみれは顔を赤くして照れた。

「べ、別に大したことないわよ!暑苦しいから離れてちょうだい!」

その時だった。すみれの運命を変える男と出会ったのは……。

「ねえ、俺にもスペイン語教えてよ。あの授業退屈でさ。つまんないし、眠いし、わかんないんだよね〜」

長い金髪のチャラチャラした雰囲気の男が話しかけてきた。彼はバンドをしていることで有名な生徒だ。イケメンと女子がよく騒いでいる。

「ね、お願い」

すみれが答える前に、男は席に座って筆記用具などを出していた。すみれは仕方なく彼にもスペイン語を教えたのだ。
彼は、すみれの好みのタイプではなかった。むしろすみれはチャラチャラした男は好きではない。これだけの関係だと思い込んでいた。

しかし、すみれに彼は話しかけるようになり、いつのまにか交際がスタートしていた。すみれは今まで男性と付き合ったことなどなかったため、苦労をすることになる。

彼はデートに遅刻したり、急にドタキャンをしたりする。すみれが忙しい時間帯や、夜中に関係なくラインや電話をしてきたりする。すみれはだんだん彼との関係に疲れてきた。

しかし、デートをきちんとすれば恋人らしいことをしてくれるので、こういう人なのかとすみれは思っていた。

大学を卒業し、すみれと彼はお互い別々の会社に入社した。社会人になってからはすみれはとても忙しくなったが、彼との関係は続いていた。

社会人になって一年ほどした頃、ある日すみれが住んでいるマンションへ帰ると彼が立っていた。

「会社、やめてきた。アパートの家賃が払えなくなったから同棲しよう!」
彼はかなり前に会社を辞めてニート生活をしていたようだ。すみれは同棲する気はなかったのだが、「ちゃんと仕事するから!」という彼の言葉を信じ、一緒に暮らすことにした。

しかし、彼は仕事もせずにブラブラ遊んでばかりいる。家にいるくせに家事はしない。すみれが怒ると、「え、家事って女の仕事だろ?」の一言。

すみれが彼との関係を限界だと思い始めた矢先に、チリへの赴任の話がやってきた。すみれが彼にそのことを話すと、「じゃあ俺ら別れよう」と軽い口調で言われた。

「俺、もっと尽くしてくれるタイプがいいし。お前いちいちうるせえから」

すみれは怒って腕を組み、言った。

「私もとても嬉しいわ。自分だけを養っていけばいいんだもの。別れてくださって、どうもありがとうございます。あなたと私の人生がもう二度と交わらないことを、心の底からお喜び申し上げます。どうぞお幸せに」

皮肉たっぷりの言葉を言い、すみれと彼は別れた。最初に言いだしたのは彼なので、すみれは振られたことになるのだが、すみれは傷つくことなくチリへとやって来たのだ。

新しい人生を歩むために……。



彼の写真を捨てたすみれは、その足でチリにいる間自分が働く会社へと足を運んだ。挨拶をし、社宅へと案内してもらう。白い壁の小さな家だ。しかし、一人暮らしには十分のスペースだろう。

「明日から早速仕事ね……」

荷物を片付けていると、すっかり暗くなってしまった。今日は疲れていて食事を用意する気にはなれない。

すみれは近くにあるレストランに食べに行こうと立ち上がった。

スマホでレストランを調べ、向かう。花がたくさん植えられた花壇のあるかわいらしいレストランだ。

「Bienvenida!(いらっしゃいませ!)」

黒いレストランの制服を着た男性従業員がやって来た。黒い清潔な髪をしていて、身長は百七十センチほどだろうか。女性客がチラチラ見てしまうほど、顔はクールで整っている。

すみれはじっと男性従業員が自分を見ていることに気付いた。イケメンに見られているとはいえ、ジロジロ見られるのはあまり落ち着かない。

「あの、さっきから何ですか?」

Amor a primera vista

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