夏の夜空に大輪の花が咲くと、熱心に見上げている人々はその鮮やかな光を見て歓声をあげた。数秒遅れてどーん、と海岸線から打ち上げ花火が上がる音が聞こえる。
つくづく、「彼女」は線香花火のようだった。今は誰もが大輪の花火に心焦がれて見上げている。じりじりと地面の近くで小さく火花を散らす線香花火など、今は誰も必要としない、見向きもしない。その目元に光る涙など、僕以外は誰も知らないのだから。
夏の夜に不規則に瞬き、刹那の輝きを放って儚く散りゆく、そんな短命の線香花火を愛しているのは、きっと今はこの世で僕だけではないだろうか。
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僕が彼女──清水さんと出会ったのは数年前のこと、とある建築関係の会社の同じチームの同僚として、昨年の春に二人同時に異動してきた。
清水さんは短大卒業の春に事務員として入社し、既に勤務歴五年目の二十四歳だった。一方の僕は彼女がこのチームに異動してきたと同時期、大学卒業の春に入社した。当時の僕は二十二歳であり、彼女の方が年齢の上でも仕事の上でも年上かつ先輩であった。
こう言っては失礼だが──正直に言うと彼女の容姿は普通であったが、身なりや服装、化粧などはそこそこ垢抜けていて、噂に聞いた"感じのいいお姉さん"という評判は全く妥当であったし、周りの男性陣からも人気が無いわけではなかった。仕事の教え方もとても丁寧で、仕事もきっとできる方に入るだろう。
就職するまでずっと学生だった僕は、席が隣になった清水さんに色々なことを教えてもらいながら、社会人として、会社の一社員として成長してきたつもりだ。
当時、僕には大学から付き合っていた年下の彼女がいた。一応、そこそこ普通の若い独身の男ということで、入社当時には彼女の有無を直ぐに確認されたが、彼女持ちと分かると女性陣は波が引くように興味を失って去っていった。清水さんも年上の余裕のある男が好きだと言っていたし、恋愛イベント的な何かが起こる予感は無かった。
「西村くん、今日飲みに行かない?」
金曜の夜、飲み好きの清水さんから誘われることは珍しくなかった。いつも仕事面でとてもお世話になっているし、二人とも他意がないのは分かりきっていたので、仕事帰りに居酒屋に付き合うのはままあった。
そんな社会人生活が続いていた一年目の秋、僕と清水さんの仲を激しく嫉妬して聞く耳を持たなかった彼女から別れを切り出され、僕は清水さんと同じ寂しい独り身の仲間入りを果たしたのだった。
フラれました、というと周りの人間はちょっと笑いながらも慰めてくれたが、実際には彼女に振られたからといって、連日連夜激しく落ち込むようなダメージは受けていなかった。ああやってしまったのか、という後悔と申し訳ないという思いはあったが、引きずるほど彼女を想い、常に気遣えるほど好きだったのかと言われると疑問符が浮かぶ。だから振られてしまったのだろうが。
「振られてしまった西村くん、ヤケ酒いこ!」
変に気遣われるより普段通りに扱ってもらえるのはありがたかった。その日は少し飲みすぎてしまい、翌日の目覚めたときは激しく後悔した。
振られた責任は、確かに僕が彼女を放っておいたこともありますけど、でも四分の一くらいは貴女にあるんですよ──。そう言っていたら、清水さんはどんな反応をしただろうか。どんな顔をしただろうか。
実際には決して言うことは無いだろうけれど、その日二日酔いでズキズキする頭で考えずにはいられなかった。
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年末から三月の年度末に向けて仕事が忙しくなり、連日残業をしていた。初めは三時間も残業すると翌日まで疲労感を感じたが、やらなけれならない仕事を片付けるためには四時間でもするようになった。
そして時間は風のように過ぎ去って季節は春になり、ようやく仕事が落ち着いてきたころ、去る人もいれば来る人もいる。異動になった人の席に、同じ課に新入社員が配属された。男性と女性の二人である。どちらも二十二歳であり、男性の方は同じチームに配属された。女性の方は庶務の方に回った。
うちのチームは営業や外回りの仕事が多く、お客様と直接やりとりする場面が多い。経験を積ませるためにも、若手と若手を育てるためのベテランが多く配属される課・チームである。
そのときから少し嫌な予感はしていた。
「今年度から採用を頂きました、山下祐樹です。趣味はサッカーです。精一杯頑張りますので、皆さま、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
あれは女にモテる雰囲気イケメンというやつだなあ、と男の先輩がわざとらしく笑った。
確かに、職場の女性陣は目を輝かせている。サッカー好きの割には色白だが、身長は高めで確かにさわやかな印象があった。整った顔立ちではないが、雰囲気というのは恐ろしい。女性陣にとっては"特段美形すぎず、それなりに良いそれなりの顔"なのだろう。
「同じく今年から採用されました、庶務の牧綾子です。皆さま、よろしくお願いします」
彼の隣でぺこりと頭を下げた同じく新入社員の子は辺りを見渡してはにかんだ。
その様子を僕の隣で遠巻きに眺めていた年上の同僚が「牧さんね、清楚っぽくてかわいいね」と含み笑いをした。僕は何も返さなかった。
新任者紹介も終わり、それぞれのチームの席に散っていったとき、清水さんが普段より笑顔が多く、そして浮き足立っている様子なのが分かった。彼女も新人君のことが気になるのだろうか。
平凡な自分には関係のないことだが、女性陣の肉食さは恐ろしい。早速話しかけに行ってプライベートな自分を売り込んでいるのを見て、分かりやすく必死だなあと僕は人知れず小さく笑った。
女性陣の肉食加減は僕の予想以上だった。
彼女はいないということを確かめた女性陣は、即座に彼の週末の予定を押さえ、新人君と女性陣四人で花見に行ったらしいのだ。
もちろん、LINEは交換済み、清水さんと新人君は花見の日からずっと毎日LINEが続いており、電話をするときもあるのだという。
週明けに清水さんと新人君に報告をされたとき、僕は「そうでしたか、楽しかったですか?」と微笑んで返すほかなかった。
そして、その週の金曜日、清水さんは新人君と飲みに行くので西村くんもついでに良かったら行かないかと誘ってきた。
去年、早速清水さんと最も親しい飲み仲間の地位を築いたと思ったが、新年度になって二週間目でその地位は奪われ、ついでの男になったことに一瞬脱力したが、特段嫌な気持ちにはならなかった。
飲み屋で飲んでいる際、新人君が席を外すと、早速清水さんの恋愛相談が始まった。
「山下くん、第一印象は顔が結構好みでいいと思って、花見の時にはすごく話も面白くて。アパートが近いことも分かって、家の近くまで送って行ってくれて優しいし。ありがとうってLINE送ったらずっと返事くれるからずっと続いてるの。彼女いないって言ってたし......」
ばーかそんなので惚れるとか高校生かよ。これだからモテないのに結婚ばっかり夢見てる女は......。
酒に酔った思考はそのまま、笑顔を貼り付けた胸の内で吐き捨てたが、「彼、仕事も真面目だし、好青年って感じだからいいんじゃないですか」と言っておいた。清水さんが背中を押して欲しがっているのも手に取るようにわかる。
山下くんが再び席に戻ってくると、清水さんは待ってましたとばかりに彼の恋愛事情を探り出した。清水さんのあまりの前のめりさに僕は少しだけ引いてしまった。
清水さんはまず山下くんの恋愛観を探ろうと過去の恋愛の話を聞くことにしたようだ。質問された山下くんはちょっと焦ったように手を振った。
「え、自分ですか。大学時代、彼女はいませんでしたからお話しできることはないですよ」
「えっ、真面目!」
その発言を鵜呑みにして素直に喜んでいるのは清水さんくらいだろう。彼女がいない人間は聖人君子だと誰が決めたというのか。
「そういう清水さんはどうなんですか?」
新人君はさりげなく話題を逸らしたようだ。
「私? 私は彼氏は二年くらいいない」
「へー。好きなタイプは?」
「優しくて真面目な人、かな」
「いっぱいいそうな気もしますけど。じゃあ、例えば年下の男はどうですか?」
新人君の流し目に清水さんはなんとも言えないような声を上げた。
「と、年下も大丈夫! うん!」
清水さんは目を輝かせる。
はい、アホ。恋は盲目。
いつの間にか年下の男もいけるようになっていた清水さんと彼女を持ち上げ続ける新人君たちの話を真面目に聞くことが段々バカバカしくなった僕は、胸に詰まったような靄を流し込むようにハイボールを一気にあおった。
「西村さんはどうですか。結構モテていらっしゃいそうな感じですけど」
「西村くんはダメダメ! せっかく可愛い彼女がいたのに、あ、写真見たことがあるんだけどね、放置しすぎてて愛想つかされちゃったの。顔も性格も悪くないのに、付き合いと愛想が悪いからあんまりモテてないよね」
クスクスと清水さんに笑われてイラッとした僕は、飲みかけのハイボールのグラスを彼女の鼻先に向けた。
「付き合いが悪いっていうのは無いでしょ。飲みのたびに貴女に付き合ってるじゃないですか、僕」