居酒屋から2件目の店に移動し、気が付けば11時。
参加したメンバーのほとんどが新卒の新社会人ということもあり、学生時代の飲み会のようだった。
時間は気にしていたつもりだったけれど、つい遅くなった。
「橘、電話鳴ってるぞ」
元々座っていた席の辺りで声がして、携帯が回ってきた。
「あー、サンキュ」
電話を受け取り、ゲッって顔をした先輩。
「はい、橘です。はい、はい。今、駅前の・・・ええ、もうすぐ、はい。分かりました」
電話を切り、苦笑いしている。
「どうしたんですか?もしかして、呼び出し?」
研修医たちは休みの日でも呼び出しがあるって聞くから。
「まあ、病院からではあるかな」
へー、やっぱり大変なのね。
久しぶりに同年代と飲むのは楽しかった。
今まで話せなかった人たちとも話ができたし、いい気分転換にもなった。
「じゃあ、お疲れ様」
店を出たところで、何人かはタクシーに乗り込む。
「茉穂ちゃん、この後女の子だけで飲みに行くんだけど一緒に行こうよ。明日休みでしょ?」
「ええ、まあ」
「いや、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないか?」
先輩が横から口をはさんでくる。
あれ?
どうしたんだろう。
その時、
ブブブ。
携帯の着信。
あ、ボスからだ。
「もしもし」
『何やってるんだ、11時半だぞ』
「だから、」
昨日朝帰りした人には言われたくない。
言葉にこそしなかったけれど、不満が態度に出てしまった。
『右側5メートル先』
「はあ?」
言われた通り右手の5メートルほど先を見ると、
うわわわ、ボスの車。
なんで?
『帰るぞ、早く来い』
いや、でも。
「茉穂ちゃん、行こう」
「ぅ、うん」
『迎えに行こうか?』
「待ってください」
そんなことされたら大騒ぎになる。
「茉穂ちゃん?」
焦っている私に、大丈夫?って顔をされている。
「ごめん、今日は帰るわ」
せっかく誘ってくれたのにって思いながら、断るしかない。
『早く来い』
と、ボスの電話は切れた。
「ごめん、並木」
申し訳なさそうに、頭を下げている橘先生。
「先輩?」
「さっき電話があって、俺がここを教えた」
なるほど、そういうことか。
「いいんです。先輩は悪くありませんから」
悪いのは・・・私かな。
バタンッ。
挨拶もせず助手席に乗り込んだ。
マンションまでは無言。
いつもの駐車場に車が止まった時、私はボスの方を向いた。
「なんで、こんなことするんですか?」
泣くつもりはないのに、涙声になった。
「帰りが遅いから迎えに行っただけだ」
悪びれる様子はない。
「困ります」
「俺に見られて困るようなことをしてたのか?」
そうじゃなくて・・・
なんでこうなるんだろう。
『帰りが遅くなって、心配かけてごめんなさい』って言えば済むことなのに。
いつもの私なら、いくらでも言えるはずなのに。
「帰りが遅くなれば心配するんだって、この間注意したばかりだろう。なんでそんなこともわからないんだ」
ああ、また上から目線。
でもね、自分はどうなの?
昨日は朝まで何をしていたのよ。
素直じゃない私は『ごめんなさい』が言えなくて、かわいくない私は『和田先生とはどんな関係なんですか?』と聞くこともできなくて、ただ仏頂面でうつむいた。
「当分飲み会は禁止な。外出は必ず俺に連絡すること」
はあ?
これって、束縛ですか?軟禁ですか?
何よりも、悪いのはお前だってボスの口調に腹が立った。
この時、普段抑えていた我慢の糸がプツンと切れた。
「何様ですか?」
「はあ?」
一気に、ボスの目が鋭くなった。
「私とボスは上司と部下です。たまたまお部屋をお借りしているけれど、それだけですよね」
「それだけ?」
ピキッ。
ボスの頬がひきつった。
同居を始めて4か月。
長くいすぎたのかもしれない。
近づきすぎたのかも・・・
これ以上続ければ、お互いを傷つけてしまう。
「私、部屋を探します」
半分、勢いで出た言葉。
けじめをつけようという気持ちと、離れたくない気持ちが私の中で戦っている。
「本気か?」
ボスは怖いくらい冷静だった。
「はい。今度は本気です」
「止めないぞ」
元から止めてもらうつもりはない。
「分った。すきにしろ」
投げ捨てるように言い放たれた。
この一言で、同居が終わることが決定した。
ここを出れば、元の上司と部下に戻れる。
この時の私は、単純に考えていた。
私が引越しを宣言してから、ボスの口数が減った。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日は秘書課のミーティングですから、少し遅くなります。ビーフシチューを作って出ますから、温めて食べてください」
「ああ」
以前だったら、『あれが食べたい』とか『待ってるから一緒に食べよう』とか言ってくれたのに。
今は『ああ』って返事しか返ってこない。
そうさせてしまったのは私だってわかってはいるんだけど、少し寂しい。
その日の夕方。
私は一人で秘書課ミーティングの準備をしていた。
「あれ、今日も並木さん?」
ちょっと不満そうな課長の声。
「まあ、新人ですから」
どうしても雑用は私に回ってくる。
「それだけじゃないでしょう」
まあ、そうですね。
私の性格がそうさせるのかもしれません。
自業自得です。
「並木くん」
近くの椅子に座った課長が私を呼ぶ。
「はい」
手を止めて振り返ると、その表情が厳しくてちょっと背筋が伸びた。
「前にも言ったよね。自分の気持ちをはっきり言いなさいって」
確かに言われた。
でも、これが私の性格だから。
「今はまだ新人だから困らないかもしれないけれど、この先後輩が入ってきてチームをまとめるような立場になったときに、自分が我慢すればそれでいいなんて考えでいたら仕事は回らないよ。みんな、言いたくて苦言を言うわけではないんだ。社会人として主張すべきことはきちんと言いなさい」
「はい」
課長に説教されるのなんて初めてかも。
いつも、どちらかというとかばってもらっていたから。
ボスとの同居を解消したら、もっと仕事を頑張ろう。
先輩秘書さんたちがどんなに意地悪でも、課長の下でなら頑張れる。
それに、ボスのいるこの病院で働いていたいから。
その日のミーティングはとても順調だった。
課長が同席していることもあり、先輩たちが意地悪を言うこともなかった。
「では、各自申し送り事項は以上ですね。他に何かありますか?」
司会の問に、誰も何も言わない。
「じゃあ、私から」
課長が声を上げた。
え?
何?
小さな声が聞こえる。
「新人も慣れたことだし、そろそろ配置換えをしたいと思います。みんなそれぞれ希望を出してもらい、ドクターの意見や部署の声も聞いてから考えます」
「なぜ今なんですか?」
お局様が手を挙げた。
普通は年度初めの異動の時期に行われるから、この時期の配置換えは珍しい。
「それは、」
課長が、厳しい顔で皆を見回す。
「ドクターから秘書室へのクレームが出ています」
「「ええー」」
一斉に声が上がった。
「みんなそれぞれ言い分もあると思いますが、このままにするわけにもいきませんから全員を対象に異動を考えようと思います。各自今月中に希望を出してください」
「「はぁい」」
不満そうに、でもみんな返事をするしかなかった。
原因はきっとボス。
ってことは、私のせい。
いっそのこと、私もボスの下を離れようかなあ。
黙々とパソコンに迎えるようなところがいいな。文書作成の部門とか。
そうすれば先輩たちのやっかみもなくなるし、もう少し仕事しやすくなるかもしれない。
「お疲れ様でした」
ミーティングが終わったのは午後9時半。
先輩たちはそのまま飲みに行ってしまった。
きっとこの後、異動の話で盛り上がるんでしょうね。
当然、私は呼ばれない。
元凶だし。
「並木くん、ちょっといい?」
「はい」
ちょうど帰り支度をしているところを、課長に呼ばれた。
イヤだ、何言われるんだろう。
「副院長とはどうなの?」
いきなり、直球。
「同居解消に向けて、アパートを探そうと思っています」
「それは・・・ただの同居人だったってことかな」
「はい」
どうしてですか?
なぜ、そんなこと。
文句を言われるほど親しげな行動をした覚えはないけれど。
「副院長、最近すごく投げやりなんだよ」
「投げやりですか?」
「うん。今度外科にくる和田先生。彼女は高校からの同級生でね、俺もよく知っているんだけれど、前から彼女をうちに呼んでゆくゆくは副院長と一緒にさせたいって、院長は考えていたんだ」
「はあ」
やっぱりそういう人だったのね。
「でも、副院長が断り続けた。それが、先週になって急にそれでいいなんて言い出したから・・」
「はあ」
「君、何か知ってる?」
「いいえ」
そんなの知るわけ・・・ない。
知っていても、私のせいじゃないし。
「僕が見る限り、副院長には君が必要だと思うけれど」
「まさか。課長の気のせいです」
私がいるだけで、すぐに機嫌が悪くなるのに。
「君はどうなの?」
「私にとっては、仕事上の上司です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「本当に?」
「ええ」
「まあ、いいよ。プライベートにまで口を出す気はないから。でもね、仕事に影響が出るのは困る」
いつもは物腰やわらかで穏やかな課長なのに、いざとなるとやっぱり厳しい。
「大丈夫です。迷惑をかけるつもりはありませんし、公私混同もしません」
「そう、それなら何も言うことはないね。よろしくお願いします」
いつも以上にどっと疲れたミーティングは、やっと終わった。
その足で、私は病院を後にした。
これからは、仕事に徹しよう。
ボスの元を離れることになるにしても、このまま働くにしても、きちんと距離を保とう。
いつもより時間がかかったミーティングの後、課長に呼び止められ、結局10時過ぎに病院を後にした。
歩いて20分ほどのマンションへ向かう道。
街中だけあって明るくて治安が悪い場所ではないけれど、さすがにこの時間は人通りもない。
ん?
しばらく歩いたところで、後ろからついてくる足音に気づいた。
ヤダ、怖い。
それでも振り返ることができない。
少し早足になって、
ええ?
ついてくる足音も早くなった。
私は駆け出した。
このままマンションまで走ってしまおうか、
それとも、近くのコンビニへ、
まずはボスに電話を、
頭の中が混乱したまま、必死に走った。
このまま消えてくれるといいなとそれだけを思って。
しかし、
「待てよ」
急に背後から肩をつかまれた。
こ、この声を、私は知っている。
「久しぶりだな、茉穂」
お願いやめて。
思い出したくない。
「忘れたとは言わせないぞ」
薄ら笑いを含んだ、気持ち悪い声。
忘れるはずがない。
高校時代の、消してしまいたい記憶。
たった一度の過ち。
自分で自分が許せない過去。
その当時、私は友達にいじめられていた。
意地悪な集団のターゲットにされて、無視されたり、物を隠されたり、家からお金を持ち出せって言われたり、無理難題を押し付けられた。
そんなある日、罰ゲームって言われおじさんについて行かされた。
いわゆる援交。
気が付けばホテルの部屋にいて、そのまま逃げ出せなくなって、私の初めては奪われた。
その男が、目の前のこいつ。
その後、私は精神的におかしくなった。
手首を切り、3ヶ月の入院。
お陰で成績がおちて、狙っていた志望校の受験ができなかった。
悔やんでも悔やみきれない過去。