恋の駆け引き~イケメンDr.は新人秘書を手放せない~

ボスの勝手に決めた門限9時を、私は守った。

仕事が終わったらマンションに帰り、できるだけ夕食も手作りし、料理と一緒に自撮りの写真を送る。
『美味しそうだな。今度作って』
『いいなー、俺も食いたい』
普段口に出さないようなメールが届き、ちょっとうれしかった。

そして、日付変わる前には寝ますよのアピールに、
『今日も1日お疲れ様でした。お休みなさい』
のメールを送る。

日がたつにつれ、いつも怒ってばかりのボスがなぜか懐かしくて、内心焦っている私がいる。
マズイ・・・いつの間にか、ボスの側が当たり前になってしまっている。
広いマンションに1人で留守番。
ボスのいない時間はとても長かった。

一週間後。

京都出張から戻ったボスは病院に寄らず、マンションに帰ってきた。
大きな紙袋いっぱいにお菓子や漬け物を詰め込んで、うれしそうにリビングに広げて見せる。

「うわー、これ好き。美味しいんですよねー。あっ、これテレビで出てました」
普段見ない美味しそうなお菓子についテンションが上がってしまう。
「いいよ。欲しいものは全部とって。残りを病院へ持って行くから」
「えー、どれにしよう」

できることなら全部食べたかったけれど、ボスのお土産を喜ぶのは私1人ではない。
病院のみんなに持って行かなくちゃ。

今人気のおしゃれな洋菓子は秘書室に。
バラエティーのある詰め合わせは外来の看護師さん達。
定番の和菓子は医事課用に。
それぞれ喜ばれそうなものを、選んでみた。

「課長と院長にもいりますか?」

「いや、実家と武広には別に送った」

へー。
「なあ」
何かを思い出したように、私を呼ぶ声。
「はい」

「・・・すまなかった」
「へ?」
私には謝られる覚えが、ない。

「怒って、悪かった」

違う。
怒られるようなことをしたのは私。
心配をかけてしまったんだから。

「帰ったらいないんじゃないかと、正直気が気じゃなかった」
「・・・ボス」
こんな不安そうな姿を初めてみた。
いつもはすごく強気なボスが、こんな顔もするのね。

「私こそ、ごめんなさい」
言いながら、泣きそう。

でも、泣かない。
そう思っているのに、
ボスが私に近づき、肩を引き寄せ、そっと抱きしめた。

私は初めて、ボスに触れた。
もちろんスーツ越しではあるけれど、その暖かさとたくましさは伝わってくる。

ああこのまま、時間が止まって欲しい。
そうすれば、ずっとボスの側にいられる。
そんな馬鹿なことを思っていると、一瞬体を離され、
え?
驚いて見上げると、そこにはボスの顔があった。

このままキス?なんて想像している私に、
コツン。
おでことおでこの当たる音。

ん?

「熱はないみたいだな」
はああ?
今、この状況で?
まさかのタイミングで健康チェックですか?
確かにあなたは医者ですけれど。

「見張っておかないとすぐに無理するからな」
照れ隠しなのか、本当になんとも思っていないのか、私には判断がつかない。

「さあ今日はもう遅いから、寝るぞ。明日からまた、1週間分の溜まった仕事を片付けないといけないからな」
そのまま私から離れていったボスは、いつものボスだった。
翌朝。

「あれ?今日はご飯?」
朝食にご飯とお味噌汁を用意した私に、不満そうなボス。

「パンが良かったですか?」
出張中の1週間はホテル暮らしだったはずだから、パンよりもご飯がいいと思ったんだけれど。

「オムレツが食べたい」
はあ、オムレツ。
そういえばボス好きだものね。

でも、私が作るオムレツはどちらかというと残り物処理の感じが強い。
冷蔵庫の残り物を炒めて入れ、ボリュームたっぷりの具を卵で包む。
何のコツもレシピもないメニューなのに。

「食べたい」
えー。
「今日は卵焼き作りましたから。それに、せっかく京都のお漬け物があるからご飯が食べたいんです」
ねっ。

「じゃあ、明日」
「はい」
作ります。
そんなもので喜んでもらえるのならいくらでも。

それにしても、
「副院長って、意外と庶民的なものが好きですよね」
お金持ちのお坊ちゃまならもっと高級なものとか、好みそうなのに。

「そうか、普通だろう。金持ちがいつも良い物食ってるって考えがおかしいんだ」
そんなものですかね。
「大体、夕食はいつもお手伝いさんが作っていたから俺ん家の味ってわけでもないし」
え、お手伝いさん・・・
ボスのご両親は2人ともドクター。
いつも忙しくて、家事はお手伝いさんがしていたらしい。
お袋の味は?って聞いた私に、記憶がないと答えた。
なんだか寂しいなあと思ったけれど、ボス自身はそんなに気にしている様子はなく、

「お袋は欲張りだから、いつも時間がなかったんだよ」
って笑っていた。

確かに、ボスのお母様は大学病院の勤務医で、皆川総合病院の院長夫人。
その上3人の子供をみんな医学部に行かせた立派な母。
どこかで手を抜かないと、体がいくつあっても足りなかったと思う。

「家事をしないからって手を抜いていたわけじゃないぞ。どんなに忙しくても学校行事には顔を出していたし、時間があれば俺たちと一緒にいてくれた」

ふーん。
「お母様のこと、好きなんですね」
ポロッと口を出てしまった。

「馬鹿」
照れくさそうにしたボスが、コツンと私のおでこを小突いた。
「じゃ、先に行くよ」
珍しくボスの方が早く出勤する。

1週間の不在で溜まった仕事もあるし、今日は午後から外科との合同カンファレンスもある。
さすがの副院長も、いつものような重役出勤とはいかないらしい。

「私もすぐ行きますから」
「ゆっくりでいいよ。勝手に始めるから」
そうですか?
本当は一緒に早出したいんですけれど。
先輩達に見つかったらまた嫌みを言われてしまう。

「それより・・・今日は早く帰れそうだから、あじフライが食べたい」
「あじフライ?」
「うん。タルタルソースも作って」
恥ずかしそうにするボスが、かわいい。
「はい。わかりました。用意しますから、お仕事頑張ってください」
「うん。行ってきます」

行ってらっしゃい。
その日1日、穏やかに過ごした。

ボスは一週間分の残務で院内を飛び回り、私は淡々と仕事をかたづけていった。
大きな会議やミーティング、カンファレンスもあったはずなのに、夕方には一通りのけりがついたようで、
「はー、疲れた。並木くん、コーヒー入れて」
副院長室に帰ってくるなりコーヒーのリクエストをするボス。


「落ち着きましたか?」
「ああ」
疲れた表情は浮かべたものの、ホッとしたようにコーヒーに手を伸ばす。

なんだかんだ言って、ボスは優秀だ。
時間の配分がうまくて、今何をすべきかが瞬時に判断できる。
物事の優先順位が分っているから、効率的で無駄がない。
医者になっていなくても、優秀な社会人だったはず。
かえって医者でいることがもったいない気さえする。
そもそも医者って人たちは、頭が良くて、お金持ちで、チヤホヤされることになれている。
ぶっちゃけわがままな人が多い。
みんなとは言わないけれど、医者っていう環境がそうさせてしまうんだとも思う。
その分、人を気遣うとかサポートするとか、日常生活における雑務が苦手。
でも、ボスはちょっと違う。


「ん?何?」
ボーッと見つめていた私に視線に気づき、声をかけられてしまった。
「いえ、残業になるかと思ってましたのに、仕事が早いなあと」
「まあね。久しぶりに、家で夕食を食べたいから頑張った」

ヤダ、その笑顔。
私の方が照れてしまう。
いつもと変わりない日常。
ちょっとずつ近づく距離に危機感を感じながら、穏やかに1日は終わっていく。
さあ、買い物でもして帰ろうかなと思っていたその時、

ブブブ。
内線が鳴った。

「はい、副院長室です」
『こちら総合受付ですが、副院長先生にお客様です』

お客様?
予定にはなかったはずだけれど・・・
「どなたですか?」

『東都医大の和田瞳様です』

東都医大・・・和田瞳さん・・・
って、女性だよね。

「副院長。東都医大の和田様が受付に見えているようですが」
「えー?」
この反応は、どうやら約束ではなかったみたい。

「お通ししますね」
「はい」

あれ、少しだけ表情が曇った。
数分後、

トントン。
ノックと共に開けられたドアから入ってきた女性。

うわー綺麗な人。
ヒールを履いた身長は170センチくらい。
意志の強そうな目と、はっきりとした顔立ち。
少し小麦色の肌に、茶色いロングウエーブの髪。
健康的な美人さん。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
立ち上がって頭を下げた。

「どうぞ」
副院長室から顔だけ出して、お客様を迎えるボス。

「並木くん、お茶はいいから」
「はい」
ってことは、気心の知れた親しい人ってことね。

執務室に2人が入っていくと、私は『東都医大の和田瞳さん』についてリサーチをした。
和田瞳さん。
外科医。
30歳。
えー、見えなかった。まるでモデルのようで、年齢不詳な感じ。
ああ、ボスの同期なんだ。
それにしてもかっこ良すぎるでしょう。

『ハハハ』
『もう、真之介ったら』
楽しそうな声が時々聞こえる。

ヤナ感じ。


30分ほど後、

「外出します。今日はこのまま直帰するから」
「はい」
ドアが開き、2人で出て行く。

見送るように立ち上がった私のデスクに、ボスがメモを残した。
『今日は遅くなる。夕食、ごめん』
大丈夫。平気だから。

私はただの同居人。