今日のボスは普段とは違っていた。
少しだけ優しくて、寂しそう。
いつもの意地悪な言葉が、聞こえてこない。
「温泉、ゆっくり入っておいで。いつも急いで入ってるだろう?」
え?
「いや、女性って普通はもっとゆっくり入るじゃないか」
照れくさそうにキョロキョロしてる。
言われてみれば、ボスのマンションでは急いでお風呂に入ることが多かった。
でもそれは、早く上がって少しでも仕事をしたかったから。
それに、『女性って普通はもっとゆっくり入るだろう』って、かなり経験豊富な発言。
きっと、素敵な人たちと恋愛してきたんだろうボス。
そんな人たちと比べられると思うと、自分が惨めすぎる。
「ほら、どうしたの。行くよ」
「はい」
温泉は男女それぞれに露天風呂やサウナがあり、とってもゆったりできた。
本当に久しぶりに長湯をした。
「すみません。お待たせしました」
「いいよ。ゆっくりしろって言ったのは俺だ」
やっぱり、いつもより優しい。
「へー、こんな所にパン屋さんがあるんですね」
「ああ。結構うまいぞ」
何度か来ているらしいボスは迷うことなく店に着いたけれど、知らない人はたどり着けないような田舎道。
よくこんな所に店を作ろうと思ったなって感心してしまう。
「元々、酪農家なんだ」
「酪農家?」
「うん。代々続く酪農家に都会から来たお嫁さん。それがベーカリーのオーナー。新鮮なミルクと、天然酵母で大好きなパンを作ってみたら評判になってしまった。日曜大工が趣味のご主人が奥さんのために店を作ったら、大繁盛。日曜日には渋滞ができるらしいぞ」
「へー」
「いいよな」
え?
何が?
「休日にここへ来て、牧場を散策して牛や羊を見て過ごす。時間があればパン教室や、バター作り体験。帰りにはうまいパンを買って帰る。最高だよな」
「そうですね」
「一攫千金を狙ったわけでもなく、好きなことをして商売になるなんて幸せなことだ」
ん?
ボス、何かあった?
「大丈夫、ですか?」
「ああ、明日には元気になるから」
ボス・・・
その後、パンをいっぱい買い込んだ。
車の中はパンのいいい匂いに包まれ、幸せな気分。
帰り道、疲れきって会話が続かない車内。
だからといって、沈黙が辛いわけではない。
黙っていることが負担にならないくらいには、打ち解けてきた。
そのうちに、どちらともなく手を差し出して・・・握っていた。
私にとって、ボスは上司。
その関係に変わりはない。
でも、
今日のボスは別人のようで、辛そうだった。
並木と2人、会社を休んだ。
不満そうにしていた彼女も、最後には笑顔を見せてくれた。
楽しかった。
自分のストレス発散に付き合わせて申し訳ないと思いながら、それでも楽しかった。
「副院長。今日のスケジュールです」
「ああ」
何もなかったように、仕事をする俺の秘書。
「ちゃんと寝られたか?」
「え、ええ」
答えながら、顔を赤くする。
昨日マンションに帰る車の中で、俺たちは手をつないだ。
そして、登山に疲れた彼女は、途中で眠ってしまった。
マンションに着いた俺は、起こそうとしてやめた。
そのまま抱きかかえると、寝室へと運んだ。
「おやすみ」
無防備で寝る彼女に声をかけ、そして眠った。
朝まで、手をつないだまま。
30も過ぎたいい大人が何をしているんだとも思う。
けれど、その手を離したくなかった。
トントン。
「おはようございます」
ノックの返事も待たず、武広が顔を出した。
理由はわかっている。
きっと昨日の欠勤に文句を言いたいんだ。
「並木さん少し外してくれる?」
彼女に席を外すように言い、俺の前に立った。
そして、ジーッと睨んでいる。
「言いたい事があるんだろう、言えよ」
自分に非があるのは分っていて、それでも強い言葉が口を出た。
「お前はないのか?」
すでに敬語でなくなっているのは怒っている証拠。
「昨日は考えをまとめたいことがあって休んだ。すまなかった」
どんなに強がっても、武広には通じない。
意地を張るだけ無駄だ。
「リストラか?」
心配そうな顔。
「ああ」
最近の病院は電子化が進んでいる。
カルテも検査もすべてコンピュータ管理。
それに伴って、すべての業務がパソコンで行われる。
必然的に、年配者より若者の方が得意だ。
その上、不景気は病院経営も同じで、経営の健全化のためには人員はできるだけ押さえなくてはいけない。
そうなると長く勤めたスタッフから若者へのシフトチェンジの問題が出てくるわけで・・・
俺は今その難題を突きつけられている。
はあー。
また溜息が出てしまった。
「そのことはいい。お前が大変なのも分っている」
「じゃあ何だ」
「俺が言いたいのは並木くんのことだ」
ああ、そっちかぁ。
「なぜ彼女も連れて行った。彼女はまだ新人で、ただでさえ年上の秘書達から標的にされがちなんだ。昨日みたいなことをすれば必ずイジメられるぞ」
説教じみた口調にカチンときた。
「お前が止めろ。それが上司の仕事だろう」
大体、武広が黙っているから並木がイジメられるんだ。
この間のミーティングの件だって、俺はまだ納得していない。
「もちろん、彼女に非がなければいくらでも叱ってやるよ。でも、勝手に休んだのは彼女だ。それもボスと一緒に」
「ボス?」
「彼女がお前のことをそう呼んでる」
へえ。
俺の知らないところで、何を言ってるんだ。
「今回のこと、俺は何も言わないからな。自分で始末しろ」
普段は冷静な武広が、珍しくキレた。
「なあ、お前は彼女のことが好きなのか?」
「・・・わからない」
俺は、彼女が気になっている。
今まで周りにいなかった女性で、その意外性にやられている。
「本気なら、しっかり守ってやれ。俺の部下が色恋沙汰でやめますなんて言ってきたら、1発殴りにくるぞ」
「俺をか?」
「ああ、悪いのははお前だ」
確かに。
まるで10代のガキみたいだ。
自分自身、どうしていいかもわからなくなっている。
「とにかく、しっかりしてくれ。いいな」
と、武広は部屋を出て行った。
ゴホゴホ。
滅多に風邪なんかひかない、元気だけが取り柄の私が風邪を引いた。
はあぁー。
朝方から、ちょっと熱っぽい。
熱を計ってみようかなと思ってみたけれど・・・やめた。
ただでさえ仕事が遅れているのに、休むわけにはいかない。
そう思うと、怖くて計れなかった。
「どうした、食欲ないのか?」
一向に箸の進まない私を、ボスが見ている。
「大丈夫です」
「本当に?」
近づいてきたボスの手が私の額に当る寸前、
「平気ですから」
避けてしまった。
体調不良がボスにバレれば、きっと休まされてしまう。
それは避けたい。
「眠たいだけですから」
「ならいいけれど」と、身支度をするボス。
ボスのマンションに居候して2ヶ月。
変わらない日常の中で、少しずつ距離が縮まっている。
鈍感な私だって、気づいている。
でも、今だけだから。
いつかは終わってしまう関係だから。
この気持ちは、そっとしまっておこう。
ゴホゴホ。
病院に着いても、体調不良は変わらない。
「本当に大丈夫か?」
眉間に皺を寄せながら、見下ろすボス。
今朝。
普段歩いて通勤する私は、
「じゃあ、先に行きますね」
いつものように玄関を出ようとした。
しかし、
「待って」
と、腕を取られてしまった。
??
「送って行く」
「え、いいですよ」
もし先輩達に見られたら、それこそ大騒ぎ。
これ以上立場を悪くしたくない。
それでも、
「いくぞ」と、手をひかれる。
「やめてください。噂になったら困ります」
精一杯抗議したのに
「イヤなら、休むか?」
はあ?
「もう、いいです」
文句を言うのもあきらめた。
いくら言っても無駄だから。
「絶対に無理するなよ」
「分ってます。辛くなったら受診します」
本当は受診なんてする気はない。
でも、そうでも言わないと、ボスは納得してくれそうもない。
「何かあったらすぐに連絡しろ。俺が診る」
「結構です」
私にだって羞恥心はある。
ボスに裸を診られるなんて・・・・無理無理。
「いいか、俺は外来に行くけれど、休んでるんだぞ」
「はい」
「仕事はいいから、ゆっくりしていろ」
「はいはい。いいから、外来へ」
ゴホッ。
「早く外来へ行ってください」
患者さん達だって待っている。
それに、こんなところでもめてたらまた先輩達にイジメられてしまう。