そのままボスの車に乗せられた。
車が動き出しても、私はただ黙っていた。
「泣いてもいいぞ」
こちらを振り向くこともせずにかける優しい言葉。
でも泣かない。
泣きたくない。
「もっと叱ってやれば良かったな」
私よりも悔しそうに、ボスが言う。
「やめてください。10倍で返ってきます」
女の世界は怖いんだから。
「俺がその百倍でやり返してやる」
「えぇ」
もー、ボスったら。
思わず笑ってしまった。
「そうやって笑っていろ。辛そうな顔をされると、俺が辛い」
「副院長」
こんな時に優しくされると、気持ちがぐらついてしまう。
ダメダメ。
きっと部下として言っているだけだろうと分っていても、弱っているときには反則だよ。
マンションへ帰るのかと思っていると、15分ほど走っておしゃれなビルに着いた。
「ここは?」
「買い物して帰ろう」
とビルの中へ。
そこは、普段足を踏み入れたこともないブランドのショップだった。
「いらっしゃいませ、皆川様」
「こんばんわ。今日はこの人に、夏物を見繕ってください」
「はい、かしこまりました」
「いや、ま、待ってください」
こんな高級な店では買い物なんてできない。
そんな私の思いなど関係なしで、次々と並べられる服達。
さあどうぞとフィッティングに通され、着せ替え人形のように袖を通していく。
「気に入らない物があれば言え」
え、違うよね。気に入った物があれば言えの間違いだよね。
そんなこと思っている私に、
「うん、これかわいいね」
ボスのとんでもない台詞が聞こえてくる。
今、かわいいって?私のこと?
唖然としていると、
「馬鹿、服がかわいいと言ったんだ」
「はあ」
あー。あー。あー。
結局この人は並べられた服をみんな買ってしまいました。
スーツ、スカート、パンツ、ブラウス、カットソー、靴も3足。
これって、絶対私のボーナスでは払えない。
「ありがとうございました」
色々と言いたいことはあるけれど、ボスが私を気遣ってくれたことは伝わってきて素直にお礼を言った。
きっと、ミーティングで私が言われたことを聞いていたに違いない。
「お前、もっとはっきりと自分の意見を言うべきだと思うぞ」
確かに、先輩達にあんな態度を取らせてしまうのは自分にも問題があるんだと思う。
分ってはいる。
でも、この性格はどうにもできない。
「たまには外で食って帰るか?」
「いえ、カレーがあります」
「ああ、そうだったな」
それに、内緒で用意している物もあるから今日は家で食事をしたい。
「あの、副院長」
「なんだ?」
「お洋服のお金はすぐには返せません」
「バカ。あれは、残業代だ」
何を言っているんだと呆れ顔。
「残業代、ですか?」
「ああ。家でやっている仕事に給料が発生していないだろう。その分だ」
でも、それをボスが払うのはおかしい。
「いいから、黙ってもらっておけ。お前はいい秘書だ。やめられたら困るんだよ」
ボス。
時々見せるボスの優しさに、私は戸惑っている。
だんだんとボスに対する警戒心がなくなってきてもいる。
ダメだ。この生活に慣れてはダメだ。
「お疲れ」
「お疲れ様でした。今日は、ありがとうございました」
色々と。
マンションに帰り、ちょと遅めの夕食。
冷えたビールを口に運び、
プハー。
やっぱりこの時間が幸せ。
「うまそうだな」
「ええ。幸せです」
今日1日、この時のために頑張ってきたと思える。
1日の終わりを実感できる瞬間。
「カレー、旨いよ」
「そうですか?」
市販のルウを使って普通に作っただけですけれど。
でも、付け合わせはにんじんのラペとシュリンプカクテル。
ちょっと頑張ってみた。
「なんだかおしゃれだな」
ふふふ。
「今日はまだあるんです」
ボスの、何だよって顔。
「これです」
冷蔵庫から取り出した大きなお皿。
乗っているのは、生クリームで飾り付けられたイチゴのホールケーキ。
「??」
ボスが、ポカンと口を開けている。
「もしかして、忘れてますか?」
「何を?」
「今日、お誕生日でしょ?」
「ああー。そうだった」
完全に頭から消えていたらしく、自分でびっくりしている。
でも、自分の誕生日を忘れてるって事は、今は彼女がいないって事。
居候させてもらっている私として、大変助かる。
だからこそ、せめてケーキぐらいはと思って昨日の夜から準備をしていた。
「31歳のお誕生日おめでとうございます。フーしてください」
ろうそくに火をつけた。
「えー、恥ずかしいな」
って言いながら、でもしてくれた。
「食べます?」
「ああ」
「残ったら会社に持って行きますね。2人じゃ多すぎますから」
「ダメだよ」
へ?
「俺のお祝いだろ」
「でも・・・」
「明日の朝ご飯と夜のデザートにも食べる」
ヤダ、かわいい。
食事が終わりテレビで野球を見ているボス。
「野球好きなんですか?」
「いや。でも、患者さんに好きな人がいて。今日は優勝を左右する試合だから、絶対に見てくれって力説された」
そんなの明日の朝刊やスポーツニュースで結果だけ見たら良いのに。
「見ますって約束したんだ」
ふーん、真面目ね。
そう言う小手先でごまかさないところは、尊敬する。
患者さんに対してはいつも誠心誠意だものね。
「じゃあ、私は仕事をしてから寝ます」
「ああ。早く寝ろよ」
もー、子供じゃないって。
最初の宣言通り、ボスは寝る前に私が仕事用に使わせてもらっている部屋のドアを開けて必ず確認する。
それが分っているから、私は日付が変わる前に寝室に入る。
しかし、買い物して食事を作り、ボスの帰宅を待って食事をし、片付けをしてお風呂に入ると、時間がなくなっていることも少なくない。
そこで、最近裏技を見つけてしまった。
それは、一旦寝て、夜中に起き出して仕事を再開すること。
当然ボスは眠っているし、出社までにかなりの仕事がこなせる。
今日もまた3時に目が覚めた。
低血圧で朝が人一倍苦手な私なのに、仕事のためだと思うと起きられてしまう。
そーっと寝室を抜けだし仕事を開始。
当然パジャマのまま。
誰にも見せられない格好だけれど、この方が仕事がはかどったりもする。
しかし、
「何してるの?」
それは低い低い低音。
声を荒げず、静かに言うときのボスが一番怖い。
私は振り返ることもできなかった。
「何しているかって聞いてるんだけど」
再度声がかけられ、仕方なく振り返る。
ドアの前で、仁王立ちのボス。
うわー、怒ってる。
「日付が変わる前には必ず寝ろって言ったよな」
「寝ました。今、起きてきて少し仕事をしてるんです」
「3時だぞ」
「でも、寝たし・・・」
だんだん声が小さくなっていく私。
「ふざけるなっ」
吐き捨てるように言い、近づいてくるボス。
何をされるのかとドキドキしていると、
私の前を通り過ぎ、デスクにおいていたUSBを手に取った。
ああ。ダメ。それがないと仕事ができない。
私がとっさに手を伸ばす。
しかし、
ピシャリッと、手を叩かれた。
「・・・ごめん」
聞こえてきた弱々しい声。
私よりも、ボスの方が驚いている。
「私こそ・・・ごめんなさい」
約束を破って、こそくなまねをした。
叱られて当然。
きっと、悪いのは私なんだ。
「叩いたことは謝る。でも、こんなことを続けるなら、武広からの仕事を全部断る」
そう言った顔は険しくて、怒鳴られるよりも怖かった。
「ダメです。皆さん、せっかく私にって言ってくださるのに申し訳ないです」
それに、手が回らないから私に頼まれているわけで、みんな遊んでいるわけではない。
「イヤなら、USBは渡さない。俺の仕事だけなら勤務時間内にできるだろう」
えー。
それではボス以外の仕事に手が回らない。
「イヤか?」
「はい」
「じゃあ、コソコソ仕事をするな。朝はゆっくり寝ろ」
「・・・」
「いいな」
コクン。
声には出さず、ただ頷いた。