しばらくして、1人が泣き出した。
もう1人が肩を抱いて励ましている。
それから、泣いていた子の席に座り、パソコンに向かって何か作業を始めた。
す、すごい。
別人のようなするどい眼光。モニター越しにも聞こえてきそうなキーボードを叩く音。
それに、すっごいスピードだ。
一心不乱すぎて、なんだか怖い。
一体、こいつは何者なんだ。
それから7.8分位だろうか、脇目も振らずパソコンに向かっていた。
そして手を止めると、泣いている子のUSBを端末に差し込む。
どうやら、保存を忘れて落としてしまったんだな。
ってことは、もう1人の子が打ち直したのか?
こんな短時間に?
信じられない。
それにしても、すごいスピードだった。
ん?
誰か入ってきた。
研修担当のチーフだ。
2人に何か注意をしている。
2人はひたすら頭を下げている。
すごいな、あの子。
それに、みんな明るめの色のおしゃれな服装なのに、彼女だけかちっとしたリクルートスーツのまま。
化粧もしているのかわからないくらいのナチュラルメークだ。
どうやら、今年は変わった子が入ってきたらしい。
それが俺と並木の出会い。
俺は迷うことなく、あの子が良いと武広のリクエストした。
午前4時の、高級マンションリビング。
ボロボロの私。
それでも叱られるために、ソファーに座った。
「何考えてる?何で徹夜なんてするんだ」
本当に心配そうに言われて、ちょっとだけ胸が痛む。
「あんまり仕事がはかどったから、つい」
普段は電話や来客で途中中断することも多いから、できるときには集中してやってしまおうと欲が出た。
気がついたらこんな時間だった。
「馬鹿野郎」
ああ、また馬鹿って言われた。
「大丈夫です。今から寝ればギリギリ3時間寝れますから」
それから準備すれば十分間に合う。
「そういう問題じゃないっ」
すっかりお怒りモードのボス。
「もういい、今から寝ろ。朝は起きなくていから、今日は午後から出勤しろ」
「ちょ、ちょっと待ってください。無理です。叱られます」
「大丈夫、火事に遭った人間に誰も文句なんて言わない」
「でも・・・」
「これは上司命令だ。今日は半日有休を取れ」
「いや、でも・・・」
結局、ボスに押し切られた。
「おはようございます」
「おはよう」
それでも、起きたのは午前8時。
「俺、行くから。もう少し寝てろ」
「はい」
返事をしながらも、自分の顔色が良くないのは分っている。
何しろ低血圧で、朝はいつもこんな感じ。
「本当に大丈夫か?具合でも悪いか?」
「いいえ、ただ、朝がとっても苦手で・・・」
「そうか。お前にも苦手があるんだな。いいからもう少し寝てろ」
「ありがとうございます」
お言葉に甘えて、もう少しだけ休ませてもらおう。
課長が買ってきたパンで朝食を食べるボス。
今日は外来だから、9時までに出社ね。
「それで、これからどうする」
「とりあえず、ゲストハウスか何かを探してみます」
「そんなことしなくても、部屋が決まるまでここにいろよ」
「へ?」
あまりの事に・・・言葉が出ない。
「いや、できません」
昨日は仕事をかたづけたくてお世話になったけれど、このまま一緒になんて無理。
私の心臓が持たない。
「アパートから会社までどのくらいかかっていたんだ?」
「えっと、電車を乗り継いで1時間です」
「ここからなら歩いても20分。車で行けば10分とかからない。どうだ?」
「どうだって・・・」
無理に決まっているじゃない。
私とボスは上司と部下でしかないんだから。
「・・・少し考えます」
そう言わないと沈黙が終わりそうもなくて、とりあえず今夜はここに帰ってきますと約束をした。
私だってここにいれば仕事がはかどるから、環境的には良いんだけれど・・・。
仕方ない、課長に相談しよう。
うちの病院でボスに意見できるのは課長ぐらいなものだから。
ダメだよって、説得してもらおう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。今日の夜は何もありませんでしたよね?」
「ああ」
何かあるのかって目が言ってる。
「夕食を用意しておいていいですか?」
買い物もしたいし、せめてものお礼。
昨日は本当に助けてもらったから。
「遅くとも8時には帰れると思う」
「はい」
たいした物はできないけれど、お礼の意味を込めて準備しよう。
その日の午後、私は病院へと出勤した。
幸い、ボスは会議で外出中。
とりあえず課長に遅くなった報告をし、「大丈夫か」と気遣われた。
「あの、実は・・・」
他に相談する人がいない私は、ボスの提案を課長に相談してみる。
「へー、意外だな」
なぜだか楽しそうに、笑っている課長。
「笑い事じゃありません。困ってるんです」
「ごめんごめん。で、君はどうしたいの?」
え?
「私は・・・」
仕事がはかどるのはとてもうれしい。
同居とは言っても広いお家の一角を借りているような物だし、短い期間ならいいかなと思ったりもする。
でも、もしバレたら怖い。
何しろボスのファンは多いから。
「そうだなあ、真之介の友人としてはいいと思う。総務課長としては勤務時間外のことには口を出さない。そして、娘を持つ父親としては・・・もってのほか。ありえない。相手の男を一発殴ってやりたい。って感じかな」
「はあ」
やっぱり世間的には非常識な行動なのよね。
「結局君次第だ」
「はあ」
なるほど。
「お疲れさまです」
「ああ」
会議で出かけていたボスが戻ってきた。
私の前を通り過ぎようとして、足が止まった。
「怪我は大丈夫?」
怪我?
ああ、忘れていた。
昨日ボスに手当てしてもらってから、そのままにしている。
でも、気にならないって事は大丈夫なんだと思う。
「そうだ。院長が君の仕事が早いって喜んでいたよ」
「ありがとうございます」
「馬鹿。そんなに喜ばせるなって言ってるんだ。また仕事を回されるぞ」
また怒ってる。
「大丈夫です」
「俺が大丈夫じゃない。俺の仕事だけ受けていれば良いんだよ」
そんなあ・・・院長秘書はベテランさんで、パソコンの入力が得意でないみたいだし。私ができるんだから、問題ないと思うけれど。
ボスには通じないらしい。
その時、
プププ。
内線が鳴る音。
「はい、副院長室です」
『副院長先生におかかりの患者さんから外線ですが?』
「先生にですか?」
『ええ、できればお話ししたいと』
こんな電話は珍しくはない。
大抵は外来の看護師が対応してくれるけれど、中には「先生と直接話をしたい」と訴える人もいる。
「お待ちください」
電話を保留にして、ボスに患者さんの名前を伝える。
「うん、変わります」
即答だった。
ボスは病棟の患者は持たないから外来で診た人なんだろうけれど、こうやってすぐに電話に出てくれるドクターって多くはない。