アパートに近づくにつれて、煙が見えてきた。
とりあえず、近くの駐車場に車を止め向かってみる。
焦げた匂いが鼻をつく。
でも・・・良かった、建物は無事。
消防が出入りしているけれど、炎も見えない。
火元は、どうやら4階みたい。
ホッとしている私の耳に、
「ワーン」
同じアパートの1階に住む桜ちゃんの、泣き声が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「パパの写真が・・・」
そうか、桜ちゃんのパパは事故で亡くなったはず。
きっと思い出の品なのね。
「桜」
お母さんも泣いている。
色んな思い出が詰まっているのよね。
5階の私の家は無理でも、1.階なら荷物を出せそうだけど・・・
キョロキョロと周りを見回す私。
正面は消防の人がいる。
けれど、裏の非常口は人影がない。
よし。
ボスの目を盗んで、私はアパートに入った。
ゴホゴホ。
ハンカチで口元を押さえ、桜ちゃんの部屋へ。
さすがに玄関は鍵がかかっていて、近くの窓ガラスを割り中へ入った。
部屋の中は煙っている。
前が見えない中、手探りでリビングへ向かい、手近にあったバックに、写真、アルバム、引き出しの母子手帳を入れる。
早く戻らないと。
このままじゃ、煙に巻かれて死んでしまう。
転がるように玄関へ向かい、玄関の扉に手をかけた途端、
「熱っ」
ドアが熱くなっていた。
マズイ、早く早く。
隠れることも忘れ、私は正面から外に出た。
はあ、助かった。
「ありがとう」
荷物を受け取った桜ちゃんは、とってもうれしそう。
しかし、
『何してるんですか』
当然、消防隊に叱られ、
『すみません』
頭を下げる。
仕方ない、確信犯だから。
その時、
「こらっ。何やってるっ」
ボスの怒鳴り声。
ああ、忘れてた。
「お前は何を考えているんだ。火事に飛び込むなんて、馬鹿かっ」
周りに大勢の人がいるのに、ボスはお構いなし。
「でも、1階だったし・・・」
「ふざけるなっ」
わー、完全に怒ってる。
消防隊員も、ボスの勢いに負けて黙り込んだ。
「もういい、帰るぞ」
え、帰るって・・・
現場の警察官に緊急連絡先だけ伝え、半ば強引に車に乗せられた。
怒っているボスには、どこに行くんですかと聞くことさえできなかった。
そして、連れてこられた高級マンション。
「ここは?」
「俺ん家」
はあ、やっぱり。
「でも、何で?」
「そこ、怪我してる」
ああ、気がつかなかった。
右腕の肘から下に切り傷が数カ所。
きっと、ガラスで切ったんだ。
それに、手のひらに水ぶくれもできている。
「ついて来い」
有無を言わせない迫力に、私は素直に従った。
ボスのマンションは街の中心に建つ高層マンション。
その中でも、最上階の部屋がボスのお家だった。
「手を見せて」
「はい?」
ここまで来て、今更拒めるはずもない。
私は素直に差し出した。
「馬鹿野郎」
ギュッと腕を引かれた瞬間、
「痛っ」
つい声が出た。
「無茶するからだ」
確かに、その通り。
何も言い返せません。
初めて足を踏み入れた高級マンション。
生活感のない部屋は
「ホテルみたい」
「褒め言葉と受け取っておく。とにかく、座れ」
って言われ、傷の消毒と、やけどには軟膏を塗ってくれる。
そういえば医者だったのね。
「ありがとうございました」
「これからどうする?」
「戻って仕事を」
「怪我してるのに?」
「でも、締め切りが・・・」
「俺も武広に届けさせるから、君もそうしろ」
「でも・・・」
考えてみれば良い案かも。
今頃の病院は電子カルテ化が進んでいて、その分個人情報の管理も厳しい。
データの院外持ち出しなんてもってのほかだし、外部リンクとの接続も制限されている。
できるのは専用USBを持っているドクターと課長以上の管理職のみ。
よし、今日は病院の外で仕事が進められる。来週までの仕事も一晩あれば終わるかも・・・
なんだか急に明るい未来が見えてきた。
こういう時の希望的観測って、往々にして外れることを私は忘れていた。
「何か食うか?」
「いえ。でも、買い物に行ってきます。一緒に買ってきましょうか?」
焼け残った荷物は後日連絡をくれるって言っていたけれど、今夜の着替えを調達しないと。
会社のロッカーに着替え用の服が2着ほど置いてあるから仕事はそれを着るとして、店が開いているうちに着替えと下着くらいは欲しい。
「一緒に行くよ」
「ええ?」
ここは、街の一等地、店はすぐにありそうだし。
「迷子になられては困る。それに、下着と着替えくらいなら、来客用においているのがあるぞ」
はあ?一体どんな生活よ。
「仕方ないから、武広に食いもんも頼むか」
「はあ」
何か、ここでの夕飯が決定している。
ピンポン。
玄関のチャイム。
ボスが出て行き、一緒に課長が入ってきた。
「大変だったね」
「ご迷惑かけてすみません」
「そんなこと、気になくていいから」
課長はいつも通り優しい。
「これ、パンと、弁当と、つまみに、デザートとビール」
うわ、すべて高級スーパーの物。
「多めに買ったから、好きなものを食べて。で、今夜はここに泊るの?」
「いえ、近くのホテルを・・」
「泊める。怪我もしているし」
それって私が決めることでは・・・
「でも、女の子なんだから」
「大丈夫だ。なあ?」
って聞かれれば、
「はい」としか答えられないじゃない。
「僕も泊ろうか」
課長が気を遣っている。
「大丈夫です。お部屋もたくさんあるみたいですし、仕事も届けてもらったし」
「本当に、いいの?」
「はい」
実は、仕事をこなせるのが密かにうれしい。
課長が帰り、夕食まで部屋を借りて仕事をこなした。
キリの良いところでキッチンへ行き、まずはサラダとおつまみでワンプレートに。
「あれ、何してるの?」
「夕食の用意です」
「用意って、武広が買ってきただろう?」
「ええ。お皿に移してるんです。もう、食べますか?」
「ああ」
じゃあと、ダイニングに料理を運び、
「ビール飲みます?」
「うん」
「今ご飯持ってきますから、先に食べていてください」
「ああ」
とっても、不思議そうな顔。
「うん、うまい」
サラダのドレッシングには隠し味のわさびを足してみた。
口に合って良かった。
課長が買ってきてくれたお弁当はワンプレートに。
「ご飯は温めて梅としらすを和えて、一口おにぎりにしています。デザートのプリンはグラニュー糖をこがして、ブリュレ風にしました」
「すごい、ご馳走だな。うーん、うまい。お前って、料理得意なんだな」
「これを料理とは言いません」
「意外だなあ」
料理を口に運びながら、ブツブツと言っている。
ボスのマンションは本当に良い環境で、仕事がはかどった。
順調に進みすぎて、つい朝方まで仕事をしてしまった。
トントン。
いきなりドアがノックされ、
「はい」
思わず開けた。
怖い顔をして、睨んでいるボス。
「まさかと思うが、徹夜か?」
「いえ、今から寝ます」
「4時だぞ」
やっぱりまずかったかあ。
「副院長こそ。こんな時間に、」
「俺はトイレ」
はー。
「ちょっと来い」
ああ、また叱られる。