その日のミーティングはとても順調だった。
課長が同席していることもあり、先輩たちが意地悪を言うこともなかった。
「では、各自申し送り事項は以上ですね。他に何かありますか?」
司会の問に、誰も何も言わない。
「じゃあ、私から」
課長が声を上げた。
え?
何?
小さな声が聞こえる。
「新人も慣れたことだし、そろそろ配置換えをしたいと思います。みんなそれぞれ希望を出してもらい、ドクターの意見や部署の声も聞いてから考えます」
「なぜ今なんですか?」
お局様が手を挙げた。
普通は年度初めの異動の時期に行われるから、この時期の配置換えは珍しい。
「それは、」
課長が、厳しい顔で皆を見回す。
「ドクターから秘書室へのクレームが出ています」
「「ええー」」
一斉に声が上がった。
「みんなそれぞれ言い分もあると思いますが、このままにするわけにもいきませんから全員を対象に異動を考えようと思います。各自今月中に希望を出してください」
「「はぁい」」
不満そうに、でもみんな返事をするしかなかった。
原因はきっとボス。
ってことは、私のせい。
いっそのこと、私もボスの下を離れようかなあ。
黙々とパソコンに迎えるようなところがいいな。文書作成の部門とか。
そうすれば先輩たちのやっかみもなくなるし、もう少し仕事しやすくなるかもしれない。
「お疲れ様でした」
ミーティングが終わったのは午後9時半。
先輩たちはそのまま飲みに行ってしまった。
きっとこの後、異動の話で盛り上がるんでしょうね。
当然、私は呼ばれない。
元凶だし。
「並木くん、ちょっといい?」
「はい」
ちょうど帰り支度をしているところを、課長に呼ばれた。
イヤだ、何言われるんだろう。
「副院長とはどうなの?」
いきなり、直球。
「同居解消に向けて、アパートを探そうと思っています」
「それは・・・ただの同居人だったってことかな」
「はい」
どうしてですか?
なぜ、そんなこと。
文句を言われるほど親しげな行動をした覚えはないけれど。
「副院長、最近すごく投げやりなんだよ」
「投げやりですか?」
「うん。今度外科にくる和田先生。彼女は高校からの同級生でね、俺もよく知っているんだけれど、前から彼女をうちに呼んでゆくゆくは副院長と一緒にさせたいって、院長は考えていたんだ」
「はあ」
やっぱりそういう人だったのね。
「でも、副院長が断り続けた。それが、先週になって急にそれでいいなんて言い出したから・・」
「はあ」
「君、何か知ってる?」
「いいえ」
そんなの知るわけ・・・ない。
知っていても、私のせいじゃないし。
「僕が見る限り、副院長には君が必要だと思うけれど」
「まさか。課長の気のせいです」
私がいるだけで、すぐに機嫌が悪くなるのに。
「君はどうなの?」
「私にとっては、仕事上の上司です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「本当に?」
「ええ」
「まあ、いいよ。プライベートにまで口を出す気はないから。でもね、仕事に影響が出るのは困る」
いつもは物腰やわらかで穏やかな課長なのに、いざとなるとやっぱり厳しい。
「大丈夫です。迷惑をかけるつもりはありませんし、公私混同もしません」
「そう、それなら何も言うことはないね。よろしくお願いします」
いつも以上にどっと疲れたミーティングは、やっと終わった。
その足で、私は病院を後にした。
これからは、仕事に徹しよう。
ボスの元を離れることになるにしても、このまま働くにしても、きちんと距離を保とう。
いつもより時間がかかったミーティングの後、課長に呼び止められ、結局10時過ぎに病院を後にした。
歩いて20分ほどのマンションへ向かう道。
街中だけあって明るくて治安が悪い場所ではないけれど、さすがにこの時間は人通りもない。
ん?
しばらく歩いたところで、後ろからついてくる足音に気づいた。
ヤダ、怖い。
それでも振り返ることができない。
少し早足になって、
ええ?
ついてくる足音も早くなった。
私は駆け出した。
このままマンションまで走ってしまおうか、
それとも、近くのコンビニへ、
まずはボスに電話を、
頭の中が混乱したまま、必死に走った。
このまま消えてくれるといいなとそれだけを思って。
しかし、
「待てよ」
急に背後から肩をつかまれた。
こ、この声を、私は知っている。
「久しぶりだな、茉穂」
お願いやめて。
思い出したくない。
「忘れたとは言わせないぞ」
薄ら笑いを含んだ、気持ち悪い声。
忘れるはずがない。
高校時代の、消してしまいたい記憶。
たった一度の過ち。
自分で自分が許せない過去。
その当時、私は友達にいじめられていた。
意地悪な集団のターゲットにされて、無視されたり、物を隠されたり、家からお金を持ち出せって言われたり、無理難題を押し付けられた。
そんなある日、罰ゲームって言われおじさんについて行かされた。
いわゆる援交。
気が付けばホテルの部屋にいて、そのまま逃げ出せなくなって、私の初めては奪われた。
その男が、目の前のこいつ。
その後、私は精神的におかしくなった。
手首を切り、3ヶ月の入院。
お陰で成績がおちて、狙っていた志望校の受験ができなかった。
悔やんでも悔やみきれない過去。
「えらくいい男捕まえたようだな」
「な、何を言ってるの」
「皆川総合病院の御曹司とはな」
「違う」
ボスは関係ない。
「隠したってダメだ。何度も見たんだから」
ニタニタと、いやらしい笑い顔を崩そうともしない。
ああ、そういえば。
今、男が着ている警備の制服。
マンションの駐車場にも時々警備会社が入っている。
そういうことかあ。
「なあ、ちょっと金貸せよ」
「お金なんてないわ」
「じゃあ、副院長にもらうか」
「やめてっ」
そんな関係じゃない。
私とボスはただの、
「別にいいさ。お前がくれないのなら、副院長にお前の過去を話して金をもらうだけだ」
ダメ。
それは絶対に。
そんなことされたら、私生きていけない。
「それにしても、大人になったなあ」
恐怖のあまり動けないでいる私に、男が歩み寄り腰に手をかけた。
無理。
お願い触らないで。
「今晩付き合えよ」
「やめてー」
男を突き飛ばし、私は走り出した。
マンションまでどうやって帰ったのかの記憶はない。
玄関を開けると、明かりはついているもののボスの姿はなく、私は自分の寝室へと直行した。
男に触られた恐怖と嫌悪で震えが止まらなかった。
だからといって、ボスに言うこともできない。
ガタガタと震える体を布団に潜り込ませ、私は眠れない夜を過ごした。
「どうしよう、どうしよう」
その言葉だけが、頭の中で回り続ける。
もうボスの側にはいられない。
病院にもいられない。
ボロボロと朝まで泣き続けた。
色々あったけれど、好きな職場だったのに・・・悔しい。
でも仕方ない。
逃げるしかない。
朝、夜明けよりも早く起きた。
当然、ボスはまだ眠っている。
なるべく静かに、部屋に置いていた荷物をまとめ、スーツケースとバックに詰め込んだ。
キッチンには昨日の夕食の残骸。
食器やグラスをかたずけて、簡単に朝食の支度もした。
これがボスに作ってあげられる最後の食事だから、本当はもっときちんとしたかったけれど、この状況ではどうしようもない。
リビングと洗濯物の片付けをし、お風呂場の掃除もした。
「短い間でしたが、お世話になりました」
玄関で深々と頭を下げ、私はマンションを後にした。
まだ夜も明けきらない道を、病院に向かう。
もしかして、またあの男に会うじゃないかとドキドキしたけれど、誰にも会うことはなかった。
まずは、ロッカーとデスクを片付け。
まだ務めて半年にしかならないけれど、ずいぶんと私物が増えてしまった。
不要なものは段ボールにまとめ、引継ぎの資料は引き出しの一番上に。
前任の方の資料がとってもきちんとしていたおかげで、私も今日まで何とかやってこれた。
私も同じように、引き継がないと。
一通り片付けが終わったところで、辞表を課長にデスクに。
ボスのデスクには頼まれていた書類の残りと、『お世話になりました、ありがとうございました』の手紙。
よし、これでいい。
最終指差し確認をして、私は副院長室を後にした。
「アレ?今、お帰りですか?」
守衛さんに声をかけられた。
こんな時間に出入りするのは、やっぱり怪しいわよね。
「大きな荷物ですね」
「ええ、急な事情で。今までありがとうございました」
何とか取り繕って、頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
不思議そうに、でも笑顔を向けてくれる。
毎朝ここを通るたびに挨拶を交わした守衛さん。
こうして言葉を交わすのも今日が最後なのね。
できることならこんな逃げ出すような辞め方はしたくなかった。
でも仕方ない。
私は後ろ髪を引かれる思いで病院を後にした。
「おーい・・・並木?・・・並木いないのか?・・・おーい」
リビング、キッチン、風呂場、仕事部屋、寝室。
マンションの中をグルグルと回っている30男。
誰にも見せられない姿だが、今はそんなこと言っていられない。
プープープー。
いくらかけても携帯はつながらない。
「一体どこに行ったんだ」
朝起きたら彼女がいなかった。
キッチンもリビングも、洗濯物も綺麗に片づいていた。
昨日は遅くなるとわかっていて、俺は先に寝室に入ってしまった。
先日、帰宅時間のことで言い合いになり「出ていきます」と宣言されてしまったからには、起きて待たれるのも嫌かもしれないと、俺なりに気を使ったつもりだった。
実際、10時半ごろに帰って来た時の音は確認した。
間違いなく帰っては来たんだ。
じゃあ、なんで・・・
おかしい、絶対に何かあった。
そういえば、昨日はミーティングだったはずだ。