花街に行ったあの日は、一時間ぐらいお喋りをして、アニキを待たずに解散となった。それから数日、アニキからあの日の出来事を切り出されることはなかった。

 やっぱり、寝ぼけてただけで、覚えてないみたい。
 ほっとした一方で、拗ねたような思いも私の中で存在していた。(だって、あんなことしておいて忘れるなんて……!)

 そんなある日、鉄次さんと月鵬さんと中庭でお茶を啜っていると、ざわざわと慌てるような気配が漂ってきた。
 メイドさんが廊下を走り回る姿に、「あら? 何かしら?」と、鉄次さんが首を傾げる。

「なんでしょうね?」
 私が返すと、月鵬さんがゆっくりと立ち上がった。
「見てきますね」
「あら! あたしも行くわよ! なんか、面白そうじゃない! ほら、ゆりちゃんも!」

 鉄次さんに急かされて、慌てて立ち上がる。三人でざわめきの中心に行ってみると、そこは応接間だった。

「なんの騒ぎなの?」
 鉄次さんが、廊下から応接間を覗いているメイドさん達に話しかけると、メイドさん達は振り返って、どことなく気まずそうに視線を泳がせた。
 そこに、

「客人だって?」
 アニキが玄関の方から歩いてきた。

 今日は軍令会議があると言っていたけど、ちょうど終わって帰ってきたみたい。
 アニキの姿を見て、メイドさん達は一斉に会釈をし、蜘蛛の子を散らすように去っていき、残ったメイドさん――鈴音さんが、少し慌てたようすで髪を耳にかけた。

「あの、奥様がお見えです」
「……何人だ?」
「お一人です。彩(さい)様にございます」
(お、奥さん? ――って、元の!?)

 私達三人は顔を見合わせた。
 鉄次さんはあからさまに面白そうな顔をし、月鵬さんは驚きつつも、興味津々といった表情をした。

 私は心の底の方で、沈んでいく何かを感じた。
 そしてそれは、錘が水底にぶち当たり、砂を巻き上がるように、ぶわっと焦燥感を湧かせた。

「彩か」
 アニキは呟いて、応接間へと入って行く。足を踏み入れる寸前で、私と目が合った。アニキはどこか自嘲気味にフッと笑った。
 私はなんだか、納得いかない気持ちで、下唇を軽く噛んだ。
 
 パタンと戸が閉まる音がして、応接間は締め切られてしまった。
 すると、突然鉄次さんが戸に耳を当て出した。唖然としていると、数秒遅れて月鵬さんまで戸に耳を押し当てた。

「ちょと、なにしてるんですか?」
 小声で近づくと、鉄次さんが手招きをした。

「だって、なんで今更現れたか気になるじゃないの! ねえ、月鵬?」 
「気になりますとも。参謀ですし」
(それ関係ないんじゃないかな?)

 鉄次さんと月鵬さんが私達を手招きした。私と鈴音さんは、顔を見合す。鈴音さんは苦笑し、次の瞬間、素早く戸に耳を当てに行った。

(お前もかいーっ!)

 でも、気になるものは、気になるもんね。私はうんとひとりで頷いて、戸に耳を押し当てた。
 ぼそぼそと声が聞こえ始める。

「久しぶりだな」
「そうね。四ヶ月ぶりってとこかしら?」

 アニキの声がくぐもって聞こえ、それに次いで、大人の女というような少し低めでセクシーな声が聞こえた。

「今日はなんのようだ?」
「用がなきゃ、寄っちゃダメかしら?」
「そんな事はねぇが……」
「今日泊めてもらえない? 私、この先の町まで行くんだけど、宿屋が気に入るところが見つからないのよね。部屋は十分にあるんだし、良いでしょ?」
「……分かった。用意させる」

 一瞬の間があいて、アニキが答えた。
 その声音からは、どんな感情なのかは窺えなかった。

(泊めちゃうんだ)

 何故か胸がざわつく。
 視線を落とすと、かがんでいる鉄次さんと目が合った。
 鉄次さんは、少しだけ驚いたような顔をして、それから気まずそうに、にこっと笑んだ。

(なんだろ?)

 疑問符が浮かびながら笑み返す。同時に戸に近づく足音が響き始めた。私達は慌てて、戸から離れ、一目散に小走りでその場を離れた。

「あちゃぁ、よりによって彩さんなのねぇ」
「あの、いけ好かない女ね」

 鉄次さんの独り言に、月鵬さんが苦々しく相槌を打った。
「彩さんって、どんな方なんですか?」
 私が質問すると、鉄次さんと月鵬さんと鈴音さんは、互いに顔を見合わせて眉を顰めた。

「どんなって、そうねぇ……色気ムンムンの――」
「それでもって、高飛車な――」
「使用人全てを下女、下僕のようにあつかう方――でした」

 三人の言葉に、なんとなく高笑いするお嬢様が思い浮かぶ。

「なんであんな女とカシラ、結婚したのかしら」
「そりゃ、あんた、カラダの相性が良かったんでしょ!」
(カ、カラダって!)

 赤面しそうになった途端、小馬鹿にするように月鵬さんが鼻を鳴らした。

「ハッ! ま、そうでしょうね。どうせ、〝結婚して将軍♪〟 なんて言われたんでしょうよ。ベッドでね!」
「あら、やだ。月鵬妬いてんの?」

「冗談止めて下さい。カシラの趣味の悪さを再認識してるだけです」
 不快な心情を隠そうともせず、月鵬さんはこれでもかと表情に出した。
「そうよねぇ。月鵬の好きな人は、他にいるものねぇ」
「え!? 誰!? 誰ですか?」
「それはねぇ――」
「バ――! あんた、言ったら殺すわよ! 鉄次!」
 月鵬さんが珍しく慌てて、鉄次さんに掴みかかった。
「え~? 教えて下さいよ!」

 私がせがむと、月鵬さんは照れからか、眉間にシワを寄せて頬を紅潮させた。鉄次さんが目で促すように、方眉を上げてにやりと笑う。

「ああ! もう、分かったわよ!」
「やった!」
「そうこなくっちゃねぇ!」

 私達が喜ぶと、月鵬さんは顔を真っ赤にした。
 クールな印象の月鵬さんがこんなに恥ずかしがってるなんて、なんか可愛い。恋は乙女を変えるのね~なんてね。
 月鵬さんは、言い辛そうに眉間にシワを寄せながら、切り出した。

「……亮よ」
――え?
「ええ!? よりによって――」

 言いかけて私は口を塞いだ。
 月鵬さんが私を軽く睨む。
 人の好きな人のことを悪く言っちゃいけないよね、やっぱ。でも、亮さんかぁ……どこが良いんだろ? 年がら年中イライラしてそうだけど。
 だけど、まあ、私にはあんな態度だけど、他の人には優しいのかも知れない。

「亮さんですか」
「意外?」
 訊いてきたのは、鉄次さんだ。

「はい。ぶっちゃけ意外です」
「そうよねぇ。私も亮のどこが良いのか分からないわ!」

 鉄次さんがあっけらかんと言って、明るく笑う。
 それを聞いて月鵬さんは、
「なによ! あれで結構良いとこもあるのよ!」
 と、反論した。

 やっぱ好きなんだなぁ……。
 私は密かにうんうんと頷いた。
 月鵬さんの恋が実ると良いなぁ。

 月鵬さんと鉄次さんの言い合いを見つめながら、ほんわかした気持ちでいると、ふと鈴音さんが視界に映った。
 鈴音さんは、誰の話も訊いている様子がなく、どこか沈んだ表情をしていた。

(感じの悪い主(彩さん)が戻って、憂鬱なのかな?)
 私は首を傾げながら、そんな風に思っていたけど、残念ながら、彼女の憂鬱はそんなもんじゃなかった。
 そして、彼女の憂鬱によって、私は、生まれて初めての経験をしたんだ。