■第一章■
〈薄汚れた街〉


 愛染明王

梵名(サンスクリット語)をラーガ・ラージャと言う。

「ラージャ」は王であり、「ラーガ」とは赤、愛欲貪染の意味を持ち、愛欲煩悩がそのまま悟りにつながるものであることを表している。

又、一面六臂に弓矢をつがえた愛の仏(神)であり、その弓矢で人の心と心を結びつけると言われ、ギリシャ神話の『エロス』に通ずる面もある。










―――――ペンキ屋



『カーナビって使った事あるか?・・・あぁイイよ!!イイよ!!無理に答えなくても』



俺には分かっている。

この男の身なりを見れば分かる。

どう考えても、この男は車を運転する機会は無いだろう。

決まった時間までに、アノ運転手が家の前まで来て、帰りも決まった時間にお迎えにやってくる。

いかにも出来の良さそうな運転手だったし、おそらくはこの男が愛人に会いに行く日も、ちゃんとスケジュールに組んでいた事だろう。

そんな運転手が居る以上、この男には車を運転する必要は無い。

つまりは、俺の質問は愚問って訳だ。



 『・・・まぁいい、取り敢えず、あんたが分かろうと分かるまいと関係ねぇが話すぜ。そのカーナビなんだがよ、更新って言うの?まっその更新が必要なんだよ!これがっ!!・・・それで、その更新を・・・ん?苦しいか?よし、ちょっと外してやるか』


俺は男の口に、猿轡代わりに突っ込んでいた携帯電話と、押さえにしていたネクタイを外してやった。


「・・・だ・頼む!!助けてくれ!!金ならある!!倍出す!!だから頼むっ!!」


『おいおい・・・俺がカーナビの話してんだよぉ。 それにアンタ程じゃ無えが、俺もちゃんとカーナビ付の車に乗れるんだから、金に困っちゃいねぇよ。あぁ~でもアンタみてぇに愛人囲える程じゃぁねぇかなぁ・・・運転手も居ねぇし』


「そうだ!!運転手の今村に言ってくれ!!あいつに言えばすぐにでも、金を用意する!!・・・キャッシュだ!!言い値でいい!!」


『あぁ・・アノ運転手今村って言うんだぁ・・・悪いが無理だよオッサン』


「へっ?」



男の拍子抜けした表情がなんとも言えなかった。

男には悪いが『今村』も『愛人』も、もう居ない。

この男も現状に気付いた様だし、俺も男の会話に飽きてきたので、俺は引き金を引いた。



銃声が狭い部屋に響いた。

 
 飛び散った男の後頭部を軽く集めてビニール袋に入れる。

そして床に敷いたビニールの上の血を、新聞紙で吸って、それを同じビニール袋に入れる。

俺は床を汚すのが嫌いだ。

だからいつもビニールを敷いて、テープを使って丁寧に養生する。

そして仕事を終えるとビニールを剥がし、それに死体を包み片付ける。

俺が仕事を終えると壁だけに血痕が残る。

いつ頃からか俺は『ペンキ屋』と言われる様になった。

俺はこの呼び名が気に入っている。


『まあ・・もっとも俺の塗るペンキは、赤一色だけだが・・』


俺にとって本名は、いつ頃からか意味を持たなくなった。


『ただ・・・この街の中では俺の名前など端から意味も無いが』


 ビニールに包んだ男を抱えて、俺はビルの外に出た。

いつの間にか外は明るくなっていた。

俺は自分のアメリカ製の大きなバンのトランクを開けて、愛人と今村のビニール包みの上に、ビニール包みの男を投げ込む。

 路肩で酔っ払いがゲロを路上に吐き付けていた。

 野良犬がゴミ置き場の袋を荒らし、カラス共がこぼれた生ゴミをあさっている。

 朝帰りのホステスがふらつきながら眠そうに歩き、酔っ払いのゲロを踏んで不快な顔をしている。


『実にドブ臭くて汚ねぇ街だ。』


 だが俺はこの『愛染堂』と言う街が気に入っている。


 この街だけが俺を受け入れてくれる。


俺はタバコに火を点けながらエンジンを掛ける。

役に立たないカーナビが連動して作動する。

俺はそんなカーナビを軽くこつき、車を走らせ始める。

カラス共が俺の車を除けて散っていく。

―――――中島



「中島さんは平気なんですか?」


 若造が無粋な質問で俺の眠りを妨げる。

若いと言うだけで何でも許される訳じゃ無いが、俺には怒る理由が見当たらなかった。


『・・・何が?』


「中島さんは元々は公安に居たって聞きました」


『・・・で?』


「で?じゃないですよ!!この街を見ても何も感じないんですか?」


『・・・別に』


 俺はそう言って煙草に火を点ける。

この手の駆け出しは本当に困る。

この街では正しい考えは命取りだ。

俺は若造の情熱を無視して、また助手席のシートに身を沈める。

若造も諦めて、黙って運転を始めた。

 朝方の繁華街は不健康な感じがする。

俺はパトカーのシートに深く身を沈め、再度眠りに就いた。


『・・・そんなに正しい事がしたいなら、あの白いバンに職質掛けてみろ』


取り敢えず、あと数時間もすれば当直も終わる。

署に戻る前の退屈しのぎに、俺は若造をかまってやる事にした。


「ま・えだ・・・前田塗装店・・・ただの塗装屋のバンですよ」


『あぁ』


「塗装屋のバンに何の職質を掛けるんです?」


『いいか若造、ここは愛染堂だ。 叩いてホコリの出ねぇ人間が居ると思うか?・・・こんな朝から律儀に仕事してるだけでも、不審者としては十分だ・・・それに野郎が出てきたビルは、もう何年もテナントの入らねえ廃ビルだ。 ・・・そんなビルに塗装は必要か?』


「・・・はい」


 若造は不満気に白いバンの後ろに車を寄せる。

白いバンの中の男は、エンジンを掛けて車を走らせ出した。


 さっきも言ったが、この街で汚れてねぇ人間は少ない。

このバンの男も大方、物取りかジャンキーだろう。

情熱を前面に押し出す、ケツの青いガキにとっては良い経験になるし、俺も当直が終わるまでの退屈をしのげる。


『まぁ、しっかりやりな』


俺がそう言うと、若造はパトカーのサイレンを一鳴り鳴らし、男が此方を振り向いた。

―――――アサガオ



『今日も客にキャンセルされた』


だけどアタシは、客のキャンセルにはもう慣れている。

最近じゃ『断る理由は何だろう?』と、客の部屋に着く前に考える様になっていた。

ちなみに今日は「それじゃ満足なサービスは無理だろう?」だった。

 結局の所、私の容姿に原因がある事もアタシはちゃんと分かっているし、アタシは自分の容姿に同情して貰おうとは思っていない。

アタシは太ってもいないし、ガリガリでも無い。

客を満足させるには十分な体をしてるし、満足させる武器も持っている。


『ただ、アタシには左手が無い』


たまに興味本位でアタシを抱く男も居るが、大体は断られるか諦めてアタシを抱く。


 アタシの左手は最初から無かった訳じゃない。

昔付き合った男に、プレス機で潰された。

理由は些細な事だったと思う。

どんな理由か思い出すと、自分が馬鹿らしくなる程くだらない事だったと思う。

何せ男はくだらない事で怒るから、いちいち覚えていられない。


『ホントに男はくだらない』


だけどアタシは、今はそんな男に抱かれて金を貰って生きている。



この街で

 
『―――とにかく眠い』


 このまま、目を閉じれば立ったままで眠れそう。

もうくだらない男共の事を考えるのは無駄。

お腹も空いているし、月のモノも近いし、イライラしてくる。

あの汚いアパートに戻って早く寝たい。

そしてくだらない客に、くだらない理由で断られた事や、空腹を忘れたい。


 ミュールの底に嫌な感触が伝わってきた。

居眠りに近い様な状態で歩いていたアタシは、その感触に寒気がして、一瞬で目が冴える。


『うわ・・・』



 本当に今日はついてない。



アタシはゲロを踏んだ。

電柱にもたれ掛かり崩れかけている、サラリーマン風の男の吐いた物だろう。

物凄く不愉快な気持ちになり、この男の顔を蹴り上げてやりたくなった。

だけど踏んだのはアタシで、気付かなかったのもアタシ。

それに、今更この男の顔を蹴り上げたところで解決する訳じゃないし、今のアタシには眠くてそんな気力もない。

アタシは早く帰って眠り忘れる事にした。



 道の向う側の、白いバンに乗った男と目があった。

男は、アタシがゲロを踏んで、不愉快な顔をしているのを、哀れむ様にうすら笑いを浮かべていた。

その男の白いバンの後ろからパトカーが近付いていた。

パトカーは走り出した男のバンの真後ろまで車を寄せ、サイレンを鳴らした。



『・・・ざまあみろ』