ノリちゃん、もうええやん

 あんた頑張ったやないの

 何も踊る場所は劇場だけやないやろ……


 えっ!?

 誰?

 あっ!雅子ママ……

 なんでママが?


 ノリちゃん、あん時あんたを騙したみたいで堪忍な……

 ほんとはな、うちもあんとき旦那に騙されてたんや……

 許してな……


 凛子姉さん?


 姿月さんのステージ、もっともっといっぱい観たいなあ……


 佐伯君?


 姿月ちゃん、何時もええステージ見せてもろうてありがとうな……

 次の劇場にも絶対観に行きますからね!


 何人もの声に混じり、ベルの音が遠くから聞こえて来る。


 電車が出る?

 違う……

 開演前の……

 緞帳が開く!

 早く舞台に出やな……


 ふん、何が『これがアタシのステージです!』や

 あんたはただの踊り子、黙って踊って裸になってりゃいいんや!

 どうせ観に来てる連中なんかあんたのあそこしか見てないんや!


 そんな事無い!

 アタシのステージを観て、良かったってゆうてくれてるお客さんかて沢山おるんや……

 舞台に、舞台に出るんや……


 ふん、誰がお前なんかを舞台に上げるか

 お前なんか田舎のしょんべん臭い小屋でまな板でもしときな!


 いややっ!

 ベルが、開演のベルが……


 耳元で携帯電話がけたたましく鳴っていた。

 うっすらと霞みがかった両目に飛び込んで来たのは、舞台の緞帳ではなく、時計だった。






「まだ姿月とは連絡取れないのか?」

「はい、本人の携帯だけじゃなく自宅の電話にも掛けてるんですが……」

「事務所には?」

「いえ、まだ……」

「バカヤロー!やっこさんの出番迄もう一時間も無いんだぞ!連絡出来る所全部に電話掛けろ!」


 小屋主に怒鳴られた従業員達は、急いで近くの電話を取り合った。

 何度かこの劇場に乗った事のある姿月だが、これ迄、ただの一度として開演時間に遅れた事は無い。

 それが、今回は開演時間が過ぎてもまだやって来ず、しかも電話の一本も無い。

 お盆興行で和歌山に来るというのは、もう何週間も前に決まっていたスケジュールだ。

 うっかり忘れたという事は考え難い。

 時間はもう昼を過ぎている。

 姿月がメインだ。

 どうでもいい踊り子が初日に間に合わなかったり、穴を開けたとしても、それ程影響は無い。

 しかし、メインの踊り子となると話しは違って来る。

 小屋主の焦る気持ちが従業員の皆にも伝わって行く。

 大阪の劇場事務所と連絡が取れ、姿月がまだ乗り込んでいない事を伝えると、本人のマンション迄行って確かめて来るとの事だった。

 いずれにしろ、一回目は姿月抜きで終わらせるしかない。

 代役を今から手配するといっても、当日に直ぐというのはなかなか難しい。


「あいつ、まさか男でも出来て飛んじまったか?」

「可能性あるかも知れませんよ」

「なんだお前、奴の事で何か知ってんのか?」

「いや、噂っすけどね、姿月ってよくあちこちの劇場で、そこの従業員と噂になってんじゃないすか」

「そうだな、前に大阪の劇場で一緒に働いていた芸人志望の従業員と出来ちまって、事務所のママに大目玉喰らってたっけな」

「その後だって結構あちこちでそういう噂上がってましたもん」

「じゃあ、今回はどっかで新しい男見つけて、それに入れ上げてドロンてやつか?」

「それか、ミナミ辺りの若いホストにでも……」

「そりゃあうちのナオミだろうが。」

「でした……。いずれにしても、大阪のママが若いもん飛ばして探してるようですから、直ぐ連絡が着くと思いますよ」

「見つからなくても構わないけどな」

「え?」

「大阪の事務所にこの分の穴埋めをきちんとさせりゃいい事さ。
 ここんとこ、やれ客の入りが悪いだのヘチマだのって煩いからな。あのママに貸しを作っとくのも良いかも知れない」

「成る程。あっ、社長、噂をすれば何とかで、大阪から電話っすよ」


 従業員から受話器を渡された小屋主は、初めのうちこそ大人しく頷いていたが、そのうちに、


「ママ、いい加減にして下さいよ。穴を開けたのはメインの姿月なんですよ。その穴埋めに寄越すタレントが三十過ぎの萎びた踊り子じゃ天秤が違い過ぎるってもんでしょ。系列の小屋なんだから、逆にこういう時は浅草にでも乗せられる位の若くてピチピチしたの寄越すのが筋じゃないんですか?
 てえ事で、後は四の五の言いませんから、宜しく頼みますよ」


 辺りを憚らず大声で受話器にまくし立てた小屋主は、電話を切ると、ニコリとほくそ笑んだ。


「ざまあねえや。こんだけ釘刺しときゃ今回はかなりの上玉を寄越してくれんだろう」

「姿月は見つからなかったんですか?」

「ああ、自宅のマンションも空だとよ」

「やっぱり男っすかね?」

「んな事はどっちでもいいさ。それより、姿月目当ての客も結構来てるだろうから、取り敢えず急病つう事にしてアナウンスしときな」

「判りました」


 姿月の急病がアナウンスされると、初日のステージを楽しみにしていた彼女のファンの何人かが、首を傾げながらそれぞれが携帯で電話をし始めた。

 姿月が和歌山の劇場を急遽休んだという話しは、あっという間に関係者やファンの間に広まった。

 そして、それが急病ではなく失踪したと知れ渡るのに、さほど時間は掛からなかった。




 微かに遠くから聞こえていたベルの音が段々と大きくなって来る。

 夢から現実へと引き戻したその音は、枕元に置いてあった携帯電話だった。

 画面に表示された番号は、和歌山の劇場からのものと、大阪の所属劇場からのもが羅列されていた。

 時計の針は昼の十二時を既に回っていた。


 間に合わへん……

 でも行かんと……


 少しずつ覚醒して行く意識の中で、何故か身体だけがピクリとも動いてくれようとしなかった。

 このままだと、間違いなく初日の一回目には出れない。

 ベッドからなかなか起き上がろうとしてくれない身体。

 時間ばかりが情け容赦無く過ぎて行く。

 姿月は、今までどんな場末の舞台でも踊るのが嫌だと思った事は無かった。

 そこに自分を優しく包んでくれる光りさえあれば、例え客が一人しかいなくても平気だった。

 それが、今は身体も心も踊る事を拒んでいる。

 姿月は、はっきりと感じた。


 拒絶する心に素直に従おう……

 その先にあるものはきっと荊の道やろうけれど、此処で自分に正直に生きやなどうする……


 姿月は、ベッドから跳ね起きると、急いで身支度をし、僅かな身の回り品だけを詰めたバックを手にしてマンションを出た。

 通りかかったタクシーに乗り込み、運転手に告げた行き先は、雅子のマンションであった。









「ママ、ご無沙汰してます。突然押しかけてごめんなさい」

「ええのよ、何も遠慮せんと。けど、暫く見んうちにノリちゃん随分とやつれたんちゃう?」


 姿月は今回の経緯をかい摘まんで話そうとしたが、雅子はそれを遮り、


「そんなんどうでもええやんか。事情なんてもんわな、その人本人しか判らんもんなんや。端から見ればくだらないと思える理由でも、本人にしたら生きるか死ぬかの問題の場合かて仰山あるやろ」


 笑顔でそう言ってくれた雅子に、姿月は心から感謝した。


「しかし何年振りやろ、ノリちゃんとこうして話すのって」

「ごめんなさい、あの時もいろいろとお世話になりながら、ずっとご無沙汰しちゃってて……」

「ええんよ。でもあれやな、ノリちゃんの話しを聞くと、その事務所って後々ヤクザでも使うて難癖付けて来るんちゃうやろか?」

「多分……」

「なら、うちら女だけじゃ勝ち目あらへんから、誰か頼りになる人さがさなあかんな。ちょっと何人か頼りなる人おるから、そん時は任しとき」

「ママにそんな迷惑は掛けられません。これは、アタシが自分で撒いた問題ですから、自分で何とかします」

「ノリちゃん、自分で何でも解決出来るかゆうたら、そうはいかへんのやで。あんたかて本当は判ってるんやろけど、うちに遠慮してそうゆうとるんやったら、それは間違いやで。
 こうして僅かな縁を頼ってうちに来てくれた、それが嬉しいから出来る限りあんたの力になって上げたいんよ。此処で遠慮されたら世話のしがいがなくなるっちゅうもんよ」

「はい……ママ、ほんまにありがとう」


 涙ぐみながら頭を下げる姿月。


「何も泣く事無いやんか。お腹、空いとるんやろ?
 ノリちゃんの好きなかやくご飯でもこしらえようか」


 姿月は、久し振りに自分が本名で呼ばれる事の温かみを感じていた。

 台所に立つ雅子の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、携帯が鳴った。

 ……五回、六回…十回。

 漸く携帯を手にし、番号を確認した姿月は、その番号を見て少しばかりホッとした。

 佐伯からだった。


(お疲れ様です)

「お疲れ……」

(そっちの初日はどうですか?)


 屈託の無い佐伯の声を聞き、昨日迄の事を思い出してしまう。

 どう言い繕っても、いずれ今日の事は知れてしまう。


「飛んでもうた……」


 努めて明るく振る舞おうとしたが、次の言葉が口に出るより先、涙が溢れて来た。


「アタシ……アタシ、もう舞台に戻れへん。皆に、皆にちゃんとサヨナラしてへんのに……」

(…………)

「こんな終わり方、絶対したくなかったのに……」


 台所で雅子が心配そうに見ている。

 啜り泣きだったのが、言葉を発する毎に号泣へと変わる。

 涙を流した事は一度や二度では無い。

 AVの撮影が辛くて泣いた事もある。

 恋に破れて泣いた事も……

 だが、この時程身体の奥底から絞り出すように涙を流した事は無かった。

 とめどなく……

 狂わんばかりに泣きじゃくり、携帯を切ると投げ捨てた。

 その携帯を雅子がそっと拾い、電源を切る。

何も言わず、姿月の横に座り、肩を抱いた。



 どれだけの時間そうしていたのだろう。

 気が付いたら雅子の膝の中で寝ていた。

「ノリちゃん、まるで赤ん坊みたいやなぁ」


 微笑む雅子につられて姿月も照れ臭そうに笑みを見せた。


「そんな事言うたかて夕べは一睡もしてへんかったんやもん」

「泣いて忘れられるもんは、とことん泣いたらええんや。うちなんか泣き方すら忘れてしもうた」

「どういう意味?」

「ええかノリちゃん、人の世はな喜びがあって悲しみがある、怒りや憤りがあって当たり前なんや。何も無くてただ平々凡々と人生が過ぎて行っても、生きて行くという事の調味料にはならへん。
 あんたの人生、まだまだやないの。何も今日で全てが終わった訳やないのやで。辛い事があった後は、必ず良い事があるもんよ。絶対にそうなってるんやから」

「ママ……」






「あんた、もう舞台に立たれへんとかゆうとったけど、何も劇場だけが踊る場所やないやろ?」

「せやけど……」

「あんたらの世界の事は、よう判らんけど、あんたがやりたいんは、裸になる事やなくて、踊って何かを表現する事とちゃうの?
 たまたまその表現の仕方が、自分の身体を使ってというだけやない」

「うん……」


 雅子の言葉で姿月は全てが救われて行くような気持ちになって行った。


「何でも、物事前向きに考えれば何とかなるもんよ」

「うん……」

「元々、前向きなんは、ノリちゃんの専売特許やろ。」

「そやね……」


 涙で濡れた姿月の顔に漸く笑顔が浮かんだ。


「散々泣いたからお腹空いたやろ?
 昔から、泣いた後はお腹が空くって相場が決まっとるんや」


 それ程歳の差が離れてる訳ではないのに、雅子がまるで母親のように思えて来た。


「ママ……」

「何?」

「此処に来て良かった……ありがとう」

「もう、そんな事言われたら照れるやろ。ご飯、ご飯」


 そう言って再び台所に立つ雅子の後ろ姿を見ながら、姿月は今言われた事をじっくりと考えてみた。


 アタシは舞台をやりたいんや……

 来年の五周年でストリップを引退する……


 前々からそう自分で決めてはいたが、それはストリップから身を引くという事で、何も踊る事迄やめる気は無かった。

 どういう方向に行くかという具体的な計画や進路は、何も決めてはいなかったが、確かな事は、自分はまだ舞台に立っていたいという気持ちがある事だ。

 そこのところは全然ぶれていない。


 表現する場所……

 それをこれから探して行けばいいやんか……


 惜しむらくは、ストリップの世界で、この四年近くの間、ストリッパー『姿月』を応援してくれていたファンに、きちんとサヨナラを言えずに去って行かなければならないという事だ。

 それだけが心残りと言える。

 新たな道へ進むにしても、これ迄の区切りだけはちゃんとしておきたかった。

 姿月は、荷物の中からノートパソコンを取り出し、自分のホームページに書き込みを始めた。





「佐伯さん、姿月さんが自分のホームページに引退の事を書いてたよ」


 常連客の一人が、わざわざプリントアウトしたものを僕に見せた。

 長い文章の始まりは、応援してくれたファンへのお詫びだった。

 そして、最後の舞台と認識せず、結果的に幕引きの舞台となったあの十一日間の事が書かれてあった。

 二度、三度と読み返した僕は、最後に書かれてあった、


『……一度観てみたいと思っていた本場のカルメンでも観に行こうかと思います。』


 の一文を読んで、


 いつか又、舞台に戻ってくれるんだ……


 と勝手に想像した。

 踊り子が出演予定の劇場に穴を開け、失踪したり、そのまま業界から消えて行くといった事は、別段珍しい事では無い。

 日常茶飯事的な出来事で、その時は大きく噂にはなっても、一ヶ月も経てば遠い過去の話しになってしまう。

 そういう業界なのだ。

 簡単に忘れ去られてしまう業界なのだ。

 真っ当に引退興行をし、多くのファンに見送られて舞台を去って行く踊り子の方が、寧ろ少ないかも知れない。

 自然消滅的に消えて行く者が多い中、彼女の引退はある意味、小さくない波紋を広げたのではないかと僕は感じていた。

 その一方で、観る側の者でさえ、良い踊り子のステージからはストリップを超越した何かを感じ取ってくれるくせに、感動を提供する側が、

 たかが裸踊り、若くて可愛い女が素っ裸になりゃあ客は喜ぶんだ。

 と、客を舐めている事実。

 プライドもへったくれも無い、踊り子をただの道具としか見ない劇場関係者。

 そして、悲しい事に舞台に立つ踊り子達の多くが、そういう考えを肯定している。

 安くない金を払って足を運んで来る客達が、たかが裸踊りと思う分には構わない。

 そう思っている彼等達に、そうじゃないんだと思わせるものを提供すれば、自ずと観る目が変わって行くものなのだ。

 現実に、あの十一日間でそういった出会いを体験出来た者が少なくなかった筈だ。

 そういった客達の間から、自分達で何とか姿月の引退興行をやれないだろうかという話しが出て来た。




 一人の踊り子の為に、ファンやその踊り子を慕う別な踊り子も含めて、何とかちゃんとした引退興行をやらせて上げたいという声が沸き上がる事自体、稀有なケースだ。

 いかに姿月のステージに魅せられた者が多いかが判る。

 だが残念な事に、これは実現しなかった。

 元の所属劇場との関係を考えて、わざわざ協力しようなどと言う業界関係者は一人も現れなかった。

 もう二度と姿月にライトを当てる事は無い……

 悔しさと悲しさが交錯し、気持ちの中に見えない空間が一つ出来た。

 新しい感動に出会えれば、それで多少は空いた隙間を埋める事が出来たかも知れないが、姿月の代わりは姿月以外には埋められない。

 彼女が与えてくれたものの大きさを僕らは失って初めて気付いた。

 あの十一日間の奇跡は、やはり奇跡だったのだ。

 真夏の夜の夢……

 いや、夢と呼ぶには余りにも鮮烈過ぎる時間だった。

 故に、十年以上経った今もそれは色褪せていない。

 これから先も褪せる事は無いだろう。


 そして、僕はあの時以上の感動を授かる事無く、姿月同様、ストリップの世界から身を引いた。