「紀子ちゃんは春迄高校生だったからこういう店は初めてじゃない?」

「ええ。素敵なお店ですよね」

「ありがとう。毎月赤字ばかりで、干上がってしまいそうやけどね」


 若いママを見ていて、エル・ドラドの凛子を思い出した。

 何と無く雰囲気が似ている。

 勝又と紀子の他には客は居なかった。

 とりとめの無い会話のやり取り……

しかし、紀子にとっては交す一つ一つの言葉に、他人には判らない新鮮な喜びがあった。


 淡い恋心……


 考えてみれば生まれてこの方、そういうものとは無縁であった。


 ときめき……


 ふと、昔読んだ恋愛小説の中の場面を思い出していた。

 気もそぞろに言葉を交し、グラスを傾ける。

 意味も無く笑顔が溢れた。

 三杯目の水割り迄は記憶があった。

 そこから先は……




 耳元に吐息を感じた。

 自分の体が重い。

 金縛りにでもあったかのように身動きが出来ない。

 むずがゆい感覚がする。

 突然、身体中に電気が走った。

 髪を振り乱しながら汗を流している勝又の顔が目の前にあった。


 夢?

 何?

 何なの?


「紀子、好きだ、一目見た時から……」


 ええ、あたしも……


 と言うつもりが、何故か声が出なかった。


 段々と感覚が鮮明になって来るとともに、脳髄の奥が痺れるような快感が訪れた。

 快感の高まりをはっきりと感じられた瞬間、自然と声が出た。


「あっ、ああ……」


 その後は声にならなかった。

 無我夢中で男の背中に爪を食い込ませていた。

 まだ完全に覚醒し切っていない紀子の意識は、思わずカツヤに抱かれた日々を思い出していた。





 紀子と勝又の仲が社内で噂になる事は無かった。

 課が違うから、最初の時の出会いみたいに、紀子が残業でもしない限りは社内で顔を会わす機会が滅多に無い為、それが幸いした。

 二人が会うのは、夜遅くなってからで、大概は『雅』で待ち合わせした。

 軽く飲んだ後は、決まって近くのラブホテルへ行く。

 一度、紀子が、


「普通のデートがしたいなあ」


 と言った事がある。

 紀子からすれば、何だか密会を続ける理由ありのカップルのように感じたからだ。

 せっかく新しい恋がスタートしたのだから、もっと世間一般的な恋人同士の日常を楽しみたいと思ったのだ。

 だが、勝又との逢瀬はその後も変わらなかった。

 会社が休みの日に、映画にでも行こうと誘ってみた事があったが、勝又は煮え切らない態度を取り続け、結局は何時もと同じ夜の密会で終わる。

 それも、決して朝まででは無い。

 そういえば、初めての夜もそうだった。

 勝又と付き合うようになって半年ばかり過ぎた頃、紀子は少しずつ疑念を抱き始めていた。

 勝又に女の匂いを感じたのである。

 証拠は無い。

 ベッドの中では、そういった気配を一切見せない勝又だが、紀子の直感がそう感じた。

 だがそれを口にする勇気は無い。

 たとえ僅かな逢瀬でも、勝又は女としての喜びを与えてくれた。

 今それを失いたくない。

 自分の不確かな妄想で、大切な恋を妙な形で崩したくはなかった。

 自分の勘違いであってくれと思いつつ、勝又との仲はそれから暫く続いた。





 自分は果たして勝又に恋人として認めて貰えているのだろうか?

 単に都合のいい手軽な女……


 女の影を感じたというのは、ひょっとしたらそういう部分でなのかも知れない。

 慌ただしく夏も過ぎ、街並の街路樹の葉が路上にちらほら舞いはじめだした頃になると、勝又と過ごす機会が減り始めて来た。

 会うには会ってはいる。

『雅』で軽く一杯飲んでそのまま別れるといった日が続く事が多くなった。

 時には待ち合わせをしておきながら、都合が悪くなったからと言って『雅』に一人ぽつんと取り残された事もある。

 それでいて紀子の都合は聞かない。

 何時も自分の都合で一方的に会えないかと言って来る。

 流石に一度その事で喧嘩をした事があった。


「毎日決まった時間に帰れる女子事務員さん達と違って、俺達営業マンは退社時間後も接待やら何やらで忙しいし、時には帰宅途中に電話で呼び出される事もあるんだ」


 感情を高ぶらせる訳ではなく、静かな物言いなのだが、寧ろそれが冷たさを感じさせる。


「ごめんなさい」


 そう謝る紀子に、


「判ればいい。特に今からの時期は余計忙しくなるから、決まった日に会うとか出来なくなると思う」


 感情の起伏が無い言葉の為か、紀子の不満は宙に浮いたまま、より不安を募らせる事になった。


「ねえ、一つだけ聞いてもかまへん?」


 無言のまま頷く勝又に、


「アタシの事、ほんまに好き?」


 そう言った。

 言った瞬間、紀子はしまったと思った。

 男というものは、女が愛情確認を迫ると疎ましく思う所がある。


「ああ、好きだよ」


 抑揚の無い言葉が、再び紀子の不安を煽った。






「こんばんは」

「あら、紀ちゃんいらっしゃい」


 一週間振りの『雅』だ。

 だが、今夜は勝又との待ち合わせでは無い。

 何だか真っ直ぐ自分の部屋に帰る気がしなかった。

 それに、ひょっとしたら勝又がやって来るかも知れないという淡い期待も少しはあった。


「何だかちょっと飲みたくなっちゃって……」


 自分の心の内を隠そうとする為に、言わいでもない言葉を口にしてしまった。

 雅子は全てを見透かしたかのように、


「紀ちゃんが好きそうなお酒があるんやけど、よかったら飲まへん?」

「はい」


 雅子が後ろの棚から一本のボトルを取り出した。

 紀子が見た事の無い銘柄のラベルがボトルに貼ってあった。


「これは?」

「ロンリコっていって、砂糖きびから作ったお酒。コーラで割ると美味しいのよ」


 琥珀色の液体をグラスに注ぎ、それをコーラで割った物を作ってくれた。

 雅子は割らずにロックグラスにロンリコを満たした。


「ほな、乾杯」


 女性の紀子が見ても魅力的だなと感じる笑顔を見せる雅子。

 同性でありながら、こうして二人切りでグラスを傾けていると、何だか妙にときめく。

 一人で『雅』に来てみたものの、何をどう話しをしていいのか判らず、ただ黙々とラムコークを飲み続けた。

 雅子は特に話し掛けて来るという訳ではなく、カウンターの奥で何かを作っている。


「でけた」


 紀子の方に顔を向けた雅子の笑顔が堪らなく無邪気で可愛かった。


「紀ちゃん、味見してみい。見よう見真似で初めて作ったんやけど、美味いはずや」

「これは?」

「なんて名前の料理か忘れた。」


 照れ笑いも魅力的だ。

 つられて紀子も笑った。

 トマトで肉を煮込んだ物のようだ。

 全体に粉チーズがまぶしてある。

フォークで一口食べてみた。


「美味しい!」

「な、美味いゆうたやろ」


 ラムコークの甘さと合う。

 雅子は手を腰に当て、ロックグラスを一息に煽った。



 本来紀子はそれほど飲める口ではない。

 エル·ドラドで働いていた時も、始めのうちは客に勧められるまま飲んだりしていたが、ある時死ぬ程具合が悪くなり、以来余り飲めなくなった。

 元々、体質的に合わないのかも知れない。

 甘口のラムコークとはいえ、元はかなり強い酒だ。

 一杯目でかなり酔いが回り始めて来た。

 けれど、今夜は気分がいい。


「おかわり下さい」

「おかわりなんて珍しいやないの。口におうたみたいやね」

「これならアタシでもいけるみたい」

「良かった。何時もは一杯だけやのに、勧めたかいがあったわ」


 二杯目のラムコークが出された。

 雅子は既に紀子の倍は飲んでいる。

 店内の淡い照明の下でも、彼女の頬がほんのりと赤みを帯びているのが判る。


「なあ紀ちゃん、もうミナミには戻らんの?」

「えっ!?」


 突然の雅子の言葉に紀子は動揺の色を隠せなかった。


 ミナミ……

 エル·ドラドの事を言っているのだろうか……


 紀子は、その事をこれ迄誰にも話した事は無い。

 沈黙の中、雅子の笑みが紀子の身体と心を膠着させた。


「内緒にしてたんやろうけど、この世界は広いようで狭いもんや。うちな、凜子の妹やねん」

「凜子さんの?」

「驚いた?」


 無言で頷く紀子。


「妹ゆうても、うちは連れ子やから血は繋がってへんけどな。でも仲はええんやで。しょっちゅう電話して来ては、仕事の愚痴ゆうとるけどな」


 懐かしい名前を耳にした。

 そういえば、エル·ドラドを辞めてからは凜子とは会っていない。


「葉山さつき……。エル·ドラドみたいな大箱のクラブで、それこそ年端も行かない若い女がずっとNo.1を守っていた。ミナミで噂にならん方がおかしいもんや」

「初めての日から気付いてはったんですか?」

「ううん、三回目位の時やろか。たまたま凜子姉ちゃんが、紀ちゃんと一緒に写ってる写真見てな、あっ、て思おうたんよ」


 そう言って雅子は煙草に火を点け、深く吸い込んだ。



「ちゃんと昼間の世界で生きてるんやね……」


 ぽつりと雅子が呟いた。


「心配しなくてもええよ。誰にも話しとらんから。勿論、亨君にもね」

「すいません、気を遣ってもろうて……」

「なぁんも、夜の世界で働くには、みんなそれぞれ何か理由がある訳やし……。うちにしたって今でこそこうして自分の店を出せるようになったから、多少は世間の見る目えは変わってきてるけど、まだまだ水商売の女だからっていう偏見は強いしね……」


 と言って雅子は言葉を区切り、少しばかり表情を曇らせながら次に言うべき言葉を探した。

 紀子はそれを敏感に感じ取り、目でそれとなく話しの続きを促した。

 半分程吸った煙草を揉み消し、


「なあ、紀ちゃん……ちょっと言いずらいんやけど、亨君の事な……」

「……」

「紀ちゃんが、彼の事をほんまに好いとるんなら、ちゃんと知っといた方がええかな思おうて言うんやけど……」


 何時もの歯切れの良い物言いの雅子からは見られない躊躇さに、紀子は大きな不安を感じた。


「ただの遊びで付きおうとるんやったら、うちもこんな事をわざわざ話すつもりはないねん。
 はっきり言うな。あの人、婚約者がおるんや」

「えっ!?」

「この店にも何度か連れて来た事があってな、尤も、最近は流石に紀ちゃんとだけしか来てへんけど、初めてあんたをここに連れて来た時には正直あの人の神経を疑ってしまったわ」


 突然の話しに紀子の動揺は隠し切れなかった。

 無言でじっと自分を見つめる紀子を見て、雅子は自戒の念に駆られた。


「ごめん……て、今更謝る位なら、こんな話し、しなきゃよかった」

「あのぉ、気にせんと、最後迄話しを聞かせて貰えませんか?」

「そやな、さわりだけ見せて店終いしたら蛇の生殺しやもんな。
 元々、亨君はうちがミナミで働いていた店での客やったんや……」


 雅子は新たに煙草に火を点け、煙をゆっくりと吐き出しながら勝又の事を話し始めた。



「その店にアキゆう源氏名の子がおって、よう、うちのヘルプでついてたんや。歳はうちよりちょい上やったんやけど、昼間は普通の会社勤めしとる子で、夜の世界はそん時が初めてだったんよ。
 せやから、客を手練手管で上手く転がすなんてでけへんから、すぐ客に入れ上げてしまっとった……」

「ひょっとして、その相手が?」

「そや。うちの指名客やった亨君にその子は本気で惚れてしまったんやけど、その子にしてみれば、自分はヘルプで、ついてる女の子の指名客を自分のものにするゆう事に罪悪感を感じたようなんや。ある日、突然店を辞める言い出して、マネージャーやら社長にその理由を問い質されても、一言も本当の理由を話さへんかった。
 店の誰もが、絶対引き抜きやっちゅうて勘繰ったんやけど、違っとったんよ。
もうその頃には亨君とええ仲になっとって、それでまあ婚約ゆう事になったんやけど、その子はうちにだけは本当の理由を話してくれてな、うちはうちで、なあんや寿やったらめでたい事やから、なあんも気にせんと、堂々としとればええのにって言うてあげた位やったんよ」

「婚約されたゆうてましたが、もうどれ位ならはるんですか?」

「もうなんやかんやいうて一年半近くになるやろか。結納をこの前上げたゆうっとったからな。住んどるマンションかて一緒やで。紀ちゃんと夜会っても、朝迄は付き合ったりはせえへんかったやろ?」


 紀子は今迄の勝又の行動を思い起こしてみた。

 雅子の話しを聞いてみると、それで全ての合点がゆく。


 アタシは何やったん……


 押し黙ってしまった紀子の顔を覗き込むようにしながら、雅子は顔を近付けて来た。


「紀ちゃんやなかったら、こんな話しせえへんかった……」

 独り言のように呟く雅子の声が、何処か涙声のようになっていた。



 泣くんならアタシやのに……


 そんな事を思いながら、紀子は自分の感情が思いの外、落ち込んでいない事に意外な感じがした。


 その程度にしかあの人の事を想ってなかったという事……?

 アタシもまだまだ青いなぁ……


 それより雅子の方だ。

 さめざめと泣いている。


「ママ?アタシの事を心配してくてるんやったら、大丈夫よ。
 なんか、思った程悲しい気持ちにはならへんから」

「そう?ならええんやけど……。」


 そう言って顔を上げた雅子の表情は一転して晴れやかになっていた。


「うちな、紀ちゃんの事を思ったら、なんや自分の事みたいに悲しくなって……。
 ごめんな、なんや反対に慰められとる」


 二人は互いに顔を見合わせ、しばし笑った。





 きっかけは何時の時もひょんな事から始まる。

 翌日から、『雅』のカウンターに紀子の姿が見られるようになった。

 元の素性を知っているのは雅子だけだし、その雅子からは、


「紀ちゃんは、やっぱりそうやってお客さん相手に仕事しとる方が様になってるわよ」


 と言われ、自分でもやっぱりと感じる部分があった。

 場末のスナックに毛の生えた程度の小さい店だが、そんな事は関係無かった。


 アタシはやっぱりこっちの水が合うんや……


 昼の仕事はそのまま続け、紀子は週に四日程のペースで『雅』を手伝った。

 当然、勝又は知る。

 だが、紀子は雅子から全てを知らされた日以来、彼との関係をきっぱりと断ち切った。

 勝又は物惜しみするかのように、紀子の態度が変わった事を訝しんだが、


「これでもミナミでは葉山さつきの名前でそこそこ売れた女です。
 その女が遊びじゃなく、本気で好きになったのに、その相手からはきちんとした真心を頂けませんでした。その事で恨んだりはしません。自分がアホやっただけですから。
 会社では課が違いますから余り顔を合わす事もないでしょうが、この店に来られたら、アタシはさつきという夜の女ですので、承知した上で飲みに来て下さい」


 笑顔でそう言った紀子に、勝又はただ呆けた顔をした。



 大阪の夏は思いの外暑い。

 その日も朝から蒸し暑かったのを紀子ははっきり覚えている。

 そして、その日の午後に掛かって来た電話が、自分の人生を大きく変える事になった事も……。


 三時の休憩時間中に会社へ電話が入った。


「紀子ちゃん、山崎さんて人から電話やけど」

「山崎さん……?誰やろ」

「私用の電話はあかんからね。要件が済んだらはよ切ってな」

「判ってます」


 同じ課の先輩事務員が嫌味たっぷりに言う。


「もしもし、お電話替わりましたが……」

(ノリちゃん、うちや、凜子や)

「なんや、凜子姉さん……ごめん、大きな声出してしもうた」

(雅子ちゃんにあんたの会社の電話番号聞いたんやけど、迷惑やった?)

「ううん。なあんも。ただ、余り長話しはでけへんから、仕事終わったら梅田辺りで会わへん?」

(そやな、電話で話すのも何やし、そうしよか)

「ほな、梅田の阪急前で」

(判った)


 一年半振りに聞く凜子の声に、紀子の心は浮足立った。


 雅子と姉妹とは聞いていたが、どういう訳か、これ迄再会の機会が無かった。

 雅子の話しによると、『エル·ドラド』の客と結婚したらしい。

 山崎と名乗っていたのは、今の姓なのだろう。

 五時の終業と同時に、紀子は急いで帰り仕度をした。

 皮肉たっぷりの嫌味を聞き流しながら、紀子は凜子との待ち合わせ場所へと急いだ。

 阪急デパートの正面入口の前に凜子は居た。

 少し痩せたせいか、優しかった面立ちが、キリッとした感じに変わっていた。


「凜子姉さん、ご無沙汰してました」

「ほんま、久し振りやね。雅子ちゃんからはいろいろ話しは聞いてたんやが、私もあの後暫くして店を辞めてな、今は東京におるんや」

「東京?」

「まあ、此処で立ち話もなんやから、お茶でも飲みながら話そ。積もる話しも山程あるし」


 二人は阪急デパートの中にある喫茶店に入った。