私の中におっさん(魔王)がいる。

  涙を見せないように俯いてると、ふと、ひんやりとした何かが頬を包んだ。思わず顔を上げると、目の前にフードに隠れたクロちゃんの顔がある。

 間近で見た彼の頬も、私の顔を包む手のひらも、透き通るように白く、薄っすらとそばかすが見える。フードの奥に隠れた瞳は、深い緑だった。きっと、明るいところで見たら、草原のように美しい。そんな風にぼんやりと思ったとき、クロちゃんの顔が近づいた。
 冷えた頬に、暖かくて、やわらかいものが微かな衝撃をあたえた。
 私は驚いて身を引いた。目を見開いて、頬に手を当てる。冷えていた体が瞬間的に熱くなった。

「い、今、ほっぺたに、キ、キス!」
「涙、ひっこんだでしょ?」

 クロちゃんは軽くウィンクした。

「へ?」

 たしかに、涙は止ってた。
 だからって、キスするなんて……! でも、クロちゃんってもしかして外国人? 肌が日本人とは違う感じだし。だったら、挨拶みたいなもんなのか。

「早速抜け駆けか」
「早いもん勝ちでしょ」

 毛利さんが淡々と言って、クロちゃんは得意げに笑みを返した。
 私は小首を傾げる。何の話?
 そこに声が飛んできた。

「お~い、無事か?」

 数メートル離れた木の陰から、花野井さんが手を振って走ってきた。

「おっ、無事か、良かったな!」

 花野井さんは私の前まで駆けてくると、頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

「きゃっ!」
(か、髪が乱れる)

 私は乱れた髪を直しながら、びっくりしていた。頭を撫でられたことにも驚いたけど、花野井さんの表情も意外だった。
 なんだかすごく心配してくれて、やっと見つけてすごく安心したみたいな。そんな笑みだった。

(やっぱり、良い人なんだ)

 アニキって呼びたい。私、一人っ子だからずっとお兄ちゃん欲しかったんだよね。花野井さんはお兄ちゃんっていうより、アニキって感じの方が似合う。
 そんなことを考えつつ、私はちらりと横たわるドラゴンらしき生物に目を向けた。

「あの……あの生物ってなんなんですか? ここって、日本ですよね?」

 クロちゃんと花野井さんはぽかんとした表情で顔を見合わせた。毛利さんはあいからず、能面みたいな表情だから何考えたのかはわからない。けど、なんだか嫌な予感がする。

「日本ってなんだ? それが嬢ちゃんの世界か?」
「だから、それやめてくださいってば。日本語話してるくせに、日本がわからないとかありえないじゃないですか。もう、そういう宗教の話はなしとして答えて欲しいんです」

 ちょっと強気に言ってみると、ふっとクロちゃんと花野井さんは笑った。

「やぁっぱ、そういう風にみてたか!」
「言っとくけど、ぼく無宗教だから。神様なんか微塵も信じてないよ」
「え……」

 じゃあ、どういう?

「とりあえず、さっきの質問に答えた方が良いかな?」
「え?」
「あの生物がなんなのか、だよ」

 クロちゃんは横たわる生物を指差した。
 私は複雑な気持ちで頷く。

「この生物は〝ゴンゴドーラ〟ドラゴンの一種だね」

 私はめをぱちくりとさせた。
(今、なんて言った?)
 クロちゃんは呆れたようにため息をついて、ゴンゴドーラとやらを見る。

「飛ぶのがへたくそで有名なんだよね~。全長は羽を広げると二~三メートルくらい。ドラゴンの中では小さい方だね。でも普段は群れでいるから、襲われたら普通の人は生きて帰ってこれないだろうね。よかったね、単独のゴンゴドーラで。ま、ぼくなら群れでも平気だけどね」

 クロちゃんは得意気に言ってウィンクしたけど、私はそれどころじゃない。説明もそこそこに、愕然としてしまった。

 本当に、本気で言ってるの? あれが伝説上の生物であるドラゴンだって? そんなバカな。――でも、じゃあ、他になんだっていうの?
 
「あ~っ! みつけたぁ!」

 突然大声がして、びくっと肩を震わせた。振向くと雪村くんと風間さんが走ってきていた。

「良かった。無事だったんだな! 青龍の門の結界が破られた気配がしたから、もしかしたらと思ってみんなで探してたんだよ。部屋にも居なかったし! この森危険な部族がいて危ないらしいからさぁ、心配したよ!」

 ほっと胸を撫で下ろした雪村くんは、私の顔を見てきょとんとした。後から来た風間さんが心配そうに眉根を寄せる。

「どうなさいました? 谷中様」
「え?」
「何か、ございましたか?」
「あの……そこの生物がドラゴンだって――」
「ええ。そうですね」

 風間さんは振り返って横たわる生物を見た。

「でも、ドラゴンは伝説上の、空想の生き物で」
「いいえ。実際に存在しております。めずらしくもありません。――この世界では」
「…………」

 私は呆然としながら、横たわる生物をじっと見つめる。
 口を開こうとして、唇が震えた。今から言う言葉を、どうか、否定しないで。お願いだから。

「ここは、日本ですよね?」
「いいえ。ここは倭和国の十青(じゅうせい)地方です」

 風間さんの毅然とした声音に、頭が真っ白になった。
 本当に、ここは日本じゃないの? ――私のいた世界じゃないの?


 私は俯いたまま、頭を上げられなかった。きっと私の顔は今、青ざめてる。
 鞄をぎゅっと握り締めた。
 握り締めたってなにが変わるわけじゃないけど、今は、私の世界の物はたったこれだけだ。
 ただ自分の世界の物に触れていたかった。

「嬢ちゃん、とりあえず屋敷に帰ろう。でなきゃ落ち着いて話も出来ねぇよ、な?」

 花野井さんが優しく言いながら、私の肩に触れた。

「……はい」

 頷くしかなかった。


 * * *


 先を急ぐということで、私は花野井さんにおんぶされることになった。
 急ぐにしたって、早足とか走るとか出来るのになんでおんぶされなきゃならないんだろうと不満に思ったけど、なんだかみんながぴりぴりしてる気がして、口に出せなかった。

 花野井さんの背中は広くて、大きくて、たくましい。
 緊張から、胸の高鳴りを押さえられなかった。
 男性におんぶされたことなんてないもん。

 ドキドキしながら、背中に密着する。だけど、不思議と胸の中心と背中がくっついた途端すごく落ち着いた。
 人の体温って、心地が良い。

「出発するぞぉ!」
「あ、はい」

 私が返事を返したと同時に、花野井さんは急加速した。

「えっ――キャアアア!」

 ぐんっと体が後ろへ引っ張られる。風圧が私をふるい落とそうと猛スピードでぶつかってくる。

(うそでしょ! 軽く五十キロは出てるよ!?)

 私は必死に花野井さんにしがみついた。

(なんなの!? とても人間業とは思えない! こんな人間いるはずないっ! やっぱり、ここは私の世界とは別の世界なんだぁあ!)

「おっ! 嬢ちゃん積極的だな! 背中に意識集中しちまうぜ」

(こんな時にセクハラかっ!)

 背中の密着を剥がそうにも、そんなことをすれば即座に振り落とされる。だけど、文句を言おうにも、口を開くだけで舌を噛みそうになって口も開けない。
 
(もうイヤァ! 吐く……吐くぅうっ!)

「おい、体力馬鹿。小娘が死にそうだぞ」
「え!?」

 何故か並走していた毛利さんが私のグロッキーに気づいたおかげで、私は花野井さんから降ろされた。


 * * *


「うえぇえ――おえっ!」

(最悪だ。よりによって、人前で吐くなんて……! 恥ずかしい! 死にたいっ!)

 大丈夫か? すまねぇなと背中を擦ってくれる花野井さんには申しわけないけど、毛利さんみたく離れていてくれるほうがありがたいわ。

(口周りを拭きたいけど、ティッシュもハンカチも鞄に入れてなかったんだよなぁ……。え~いっ! もう! セーターの裾で拭いちゃえ!)

 ごしごしと拭くと、紺色のセーターに薄黄色の液体がついた。
(なんか、すっごい惨めな気分……)

「もう大丈夫です。すみません」

 花野井さんにぺこりと頭を下げると、花野井さんは申し訳なさそうに眉根を寄せた。
 そこに、遅れて風間さん、雪村くん、クロちゃんが走ってきた。
ちらりと、風間さんが私を一瞥した。

「もうすぐ屋敷につきますから、私が谷中様をお連れしましょう」
「えっ、で、でも私――」

 吐いちゃって汚いから――言い終わる前に、風間さんは私の脇の下に腕を入れた。そして、抱き上げられる。
 これって、お姫様抱っこ――急に恥ずかしくなって、顔の温度が急上昇するのがわかった。
風間さんがくすっと笑った。

(ううっ! 笑われた。変な子と思われたかな……)

「可愛らしいですね。谷中様」
「へ!? あ、いやその……え!?」

 可愛いなんて、男子に言われたことないよ!
 まあ、百パーセントお世辞なんだろうけど。沢辺さんみたいな子にならともかく、私に可愛いなんてねぇ……。でも、嬉しいものは嬉しいんだなー!

 うきうき気分で少し顔を上げると、すぐそばに美しい顔がある。風間さんがにこっと微笑んだ。

(うっわああ!)

 頬が一気に紅潮する。
 やっぱ、恥ずかしいから下ろして欲しいっ! こんなにきれいな顔をこんな間近で見たらヤバイよ! 申し訳ないよっ!

「ちょっと待て、風間。俺が彼女を連れて行こう!」

 雪村くんがびしっと挙手しながら、スタスタと近づいてきた。

「しかし、雪村様――」
「良いから良いから!」
「きゃ!」

 どこか心配そうな風間さんを遮り、雪村くんは私を強引に下ろした。お姫様抱っこをする前に、雪村くんに腰をつかまれて宙に足が浮く。
 胸が彼の胸板にくっついた。

「ブフォ――!」
「えっ!」

 突然、雪村くんが鼻血を吹きだして倒れこんだ。私もそのまま雪村くんに引っ張られて、一緒に倒れこむ。

「きゃあ! ――痛ぁ!」

 雪村くんの上で起き上がると、彼は両鼻から鼻血をたらして白目をむいてた。

「大丈夫!?」
「だから言ったんですよ。雪村様」

 心配する私をよそに、風間さんは呆れたように言って、雪村くんを背負った。

「大丈夫ですよ。気絶しただけですから」

 風間さんはやんわりと笑った。

「あ~あ……めんどう増やしちゃって、これだから坊ちゃんはさ!」

 思い切り嫌味を言ったクロちゃんは、呆れ果てたように雪村くんを見ていた。

(気絶って、もしかして私、そんなに臭ったのかな?)

 汚物がついた袖口をくんっとかぐと、

「うえっ。すっぱい!」

(ごめんね、雪村くん)

 私は風間さんの背中で項垂れる雪村くんに手をあわせた。でも、なんか幸せそうな顔に見えるのはなんでだろう?


 * * *

 結局私は、走らないという条件つきの花野井さんにおんぶされて森を出た。
 お礼を言うと、花野井さんはにかっと笑って、俺も悪かったなぁと私の頭をまたぐしゃぐしゃと撫でた。
 本当、明るくて太陽みたいに笑う人だなぁ。アニキって呼び方がやっぱり一番しっくりしそう。
 私は歩き始めた花野井さんの大きな背中を見つめた。
(よし! やっぱり勝手にアニキって呼ぼう! 心の中だけだけど!)

 * * *

 森を抜けて坂道を上って行くと青色の門があった。私が通った門だ。私はてっきりその門を通って屋敷に戻るんだと思ったのに、彼らは迂回しようとした。
 
「あの、入らないんですか?」

 私が門を指差して聞くと、風間さんが後ろから答えてくれた。

「青龍の門は結界が一部破られてしまったので、先程雪村様が簡易の結界を張りました。簡易のものは通り抜けが出来ないため、そこから入るには簡易結界を破らなければならないのです」
「結界、ですか」

 この世界にはそんなものもあるんだ。でも、まだ異世界だなんて実感が湧かない。結界の話を聞いても、ちょっと疑っちゃう自分もいる。

「それにしても、やはり貴女には屋敷が見えるのですね」
「え?」
 私は塀の中に視線を移す。庭の木の葉がちらほら覗き、奥にある屋敷の瓦が僅かに見えた。普通に、見えるけどな。
「この青龍の門の結界を破ったのも谷中様なんですよ」
「……私、ですか?」

 そんな覚えないけど……。
 怪訝に風間さんを仰ぎ見たけど、風間さんは微笑んだだけで、何も答えてくれなかった。



 * * *

 そのまま迂回して、赤い色で塗られた門の前までやってきた。門はくすんだ赤い色で、柱には鳥の彫刻がほどこされていた。
 閉じられた門と塀の先には屋敷の屋根も見えなかったけど、庭木の赤い葉が覗いていた。
 
「雪村様、お願い致します」
「ふえ? えっなに?」

 風間さんが自分の背中を揺らして雪村くんを起こした。

「お願いします。雪村様」

 風間さんは少し強く言って、雪村くんを下ろす。

「え……え~と、なに?」
「結界です」
「ああ、はいはい。結界か!」

 雪村くんってちょっとにぶいのかな?
 不意に、私の隣でイラついた気配を感じた。ちらりと横目で見ると、クロちゃんが軽く舌打ちをしていた。
 私は苦笑しながら前に向き直る。
 クロちゃんって、見た目と違って短気っぽそう。まあ、フード被っててあんまり顔も良くわかんないけど。

 雪村くんはレザージャケットについていた前ポケットから札を取り出した。その紙には文字が書いてあって、まるで呪符みたい。
 その紙を人差し指と中指の間に挟んだ。

「一時解除許可(イリョカ)」
(――え?)
 
 雪村くんが言葉を発した瞬間、私の耳におかしなことが起こった。
『一時解除許可(いちじかいじょきょか)』と『イリョカ』という、二つの言葉が同時に聞こえた。

『イリョカ』は雪村くんの声で『一時解除許可』は、誰か、別人の声で……。
その声は、低く、渋い声だった。
(気のせいだよね)

 胸騒ぎがしたけど、私は首を振ってそれを払った。そのとき、何故か門がぼやけだした。その〝ぼやけ〟が門と塀と空の一部を覆う。
 まるで、巨大なシャボン玉にでも包まれていたみたい。
 
 門を覆っていたぼやけはものの数秒で晴れた。その途端、門の色が鮮やかに見え出した。
 さっきまでくすんでた門の赤色が、鮮明になる。
(なんで? 結界がなくなったから?)
 呆然としている私に、毛利さんが門を潜りながら声をかけた。

「早く入れ」
「あ、はい」

 私は気のない返事を返して門を潜った。
 潜り終えると同時に、シュン! と微かに音がして、門はまたくすんだ色へと変わった。


 * * *


 中に入ると、すぐに屋敷があるというわけではなかった。一面に広い芝生が広がっている。でも、少し様子がおかしい。

 庭木が風にあおられて折れたようになってたり、芝生が毟り取られたような状態だったり、芝の上に土や砂が被さったりしている。
 まるで、竜巻の被害にでも遭ったみたいだった。