「それだけでは、帰せないと思います。彼女が来たのは事故ですから。この世界とは別の世界がいくつあるのかも分からないですし、もしもいくつか存在しているとしたら、一体どこの世界に帰せば良いのでしょう? 失敗すれば次元の狭間に彼女は取り残されてしまうかも知れません。確実な方法はないのです」
「本当にそうか?」
毛利の声音は、いつものように抑揚のないものではなかった。疑念に満ちた口調で、風間を見据える。
しかし、風間もまた毅然とした態度を崩さなかった。
「ええ。残念ながら」
「そうか……」
毛利は呟いたが、疑いの色は消さなかった。風間はにこりと愛想良く笑う。二人の間に漂った微妙な空気を消すように、黒田が声を上げた。
「ってゆうかさぁ、毛利さんはあの子帰しちゃって良いわけ?」
軽い口調だったが、どこか責めるように聞こえるのは、黒田が侮蔑しているからだろう。
「せっかくの魔王を手に入れなくていいの? 能面みたいな顔して、本当は優しいんだね」
「口を慎めよ」
無表情だと思えないほど、毛利からは怒気が溢れていた。口調も淡白であり、あいかわらず抑揚がなかったが、誰が見ても明らかに怒っているとわかるほどだ。だが、雪村だけは、ただの言い合いだと思ったらしく、のほほんとかまえている。
黒田はにやりと口の端を持ち上げた。
「残念ながら、慎む口は持ってないんだ。ぼく」
(噂に違わぬ男だな)
ふっと毛利は鼻で笑った。それが分かる者はいなかったが、怒りはあの一瞬で治まったらしい。
「でぇ、肝心な魔王の話なんだけどさぁ。どうする?」
飄々と黒田が話を続けたので、場の空気は和らいだ。
「魔王は彼女の中に入っちゃってるわけだろ。死体だったらぼくらが戦って、勝ったやつがその死体プラス魔王を手に入れるって話がついてたわけだけど、彼女生きてるもんねぇ……どうする?」
「ったってなぁ……」
花野井は、困ったようすで頭を描く。
「いっそ殺しちゃう? その方が手っ取り早いでしょ」
こともなげに言ってのける黒田に、雪村が勢い良く反論した。
「そんなのダメだ! 絶対ダメだ! そんなの、可哀想だろ!」
「俺もその提案には乗れねぇな」
花野井は軽く殺気を発したが、黒田はふっと薄く笑った。
「まあ、アンタ達が反対しようがぼくはどうでも良いけどね」
したいようにするからさ――と続く言葉を飲み込み、どいつもこいつも甘いんだよと、芽生えている怒りを隠した。そこに、
「当然、方法はあるんだろう。風間」
突然、確信的な声音がふってきた。言ったのは毛利で、話題をふられた風間は、にっこりとしていた笑みを解いた。真剣な眼差しで、一同を見やる。
「彼女のことは不可抗力ではありましたが、たしかに毛利様のおっしゃるように、我々のうち誰かが魔王を手に出来る可能性はあります」
「どうやって?」
怪訝に花野井が眉を顰める。
「彼女を、恋に落とすのです」
「はあ!?」
あからさまに驚いたのは黒田だ。
「ちょっと待ってよ。なんでそうなるんだよ!」
「彼女を絶望の底へ突き落とす必要があるからです」
風間は穏やかに笑んだ。
「たしかに、黒田様の言うように殺してしまえば手っ取り早いのかも知れません。しかし、元々死体に魔王を宿すのではなく、生きている肉体に宿ってしまっているので、もしかしたらそのまま殺してしまっては魔王は操れないかも知れないのです。今際の際に本人が無意識に魔王を体内に封印してしまう可能性だって無きにしも非ずではありませんか」
「たしかにその可能性はなくはないかも知れないけどさ」
黒田は渋々頷く。
何せ前例がない。何が起こるかはわからないのだ。
「彼女の心が絶望に飲み込まれ、何も考えられなくなったとき、付け入る隙がきっとやってきます。心が空になった状態で、雪村様がお書きになった相手を操る呪符を体内へ入れれば、彼女は我々の言うがままの操り人形と化すでしょう。殺す前に試してみても良いではないですか」
風間はにっこりと微笑む。
言っていることと表情が合わない、と、黒田は不信感をあらわにしたが、試してみるのも悪くはないと思った。
その奥で、名が出た雪村は渋面をつくる。
そんなことに協力したくないと本心では思ったが、口には出さなかった。呪符はもう描かれ、風間が所持していたからだ。それに、風間のすることはいつも正しいと信頼を抱いていた。言い換えるなら、それは強い依頼心だともいえる。そして僅かな劣等感だ。
「だけど、それでなんで恋愛になるんだよ」
そこは納得がいかないのか、黒田は風間を軽く睨みつける。
「黒田様、人を深く愛した経験はございますか?」
「は?」
黒田はイラついた調子の声を上げる。
「人を深く愛する。その人を、心底信頼する。その人に、ある日突然手酷く裏切られれば、傷つかない人間などいないでしょう。ましてや、彼女は異世界から来た身です。たったひとりで、見知らぬ土地どころか、見た事もない世界で、優しく接してくれた人間以外になにをたよりましょう」
「つまり、我らは絶好の好機の最中にいるというわけだ。見知らぬ世界で、寄る辺もなく、頼る人間などいるはずがない。そこに現れた俺達には恋愛感情を持ち易い……と?」
「そういうことになりますね」
風間は少し困ったように笑う。それは、能面のような無表情に隠された含みを感じ取ったからかも知れない。
「なるほどね」
黒田は面白そうに顎を引いた。
「でもぼく、タイプじゃないんだよなぁ」
「んじゃ、降りるか?」
めんどうそうに呟くと、花野井がからかうような声を上げた。黒田は、あからさまにムッとした表情をした。
「降りるわけないだろ。ぼくは当初の予定通り、力で勝負しても良いんだけどね、おっさん。ライバル減らした方が得策でしょ?」
挑発するように口の端を上げた黒田を、花野井は笑い飛ばした。
「ハッハッハ! 良いぜぇ、やるか小僧?」
黒田の髪をフードの上からわしゃわしゃと撫でる。黒田はその手を強く弾いた。
「魔王召還のために、協力しただけだって忘れないでくれる? 馴れ馴れしいんだよ」
鋭い目つきで花野井を睨んで、威嚇するように低い声で吐き捨てた。
「あ? ガキがイキがるんじゃねぇぞ」
「ガキをなめんなよおっさん。ぶっ飛ばして恥じかかせてあげようか?」
「ああ!?」
ピリッとした、一触即発の空気が流れる。
毛利は馬鹿げていると冷眼視していたが、そこに咎めるような声がした。
「花野井さんは良いの? 生きた人間を使うの反対してたじゃん。女の子を利用するようなことして良いのかよ?」
雪村だ。
「俺は生きた人間に憑依させるのは、死ぬリスクが高すぎるから反対してたんだ。お嬢ちゃんは無事憑依完了してるみたいだから問題はねぇだろ。それに、生きてりゃ操られてたとしたって慰めることも出来るからな」
「……ヤラシイ」
にやりと笑った花野井に対し、黒田が軽蔑を込めて言う。
「ああ? ヤラシイって思うって事はヤラシイ想像したんだな小僧」
「うるさいな!」
やいやいと言い合いを始めた二人を、雪村は複雑な表情で見やる。それを、風間が咎める瞳で見ていた。
客観的に様子を見ていた毛利は密かに笑み、提案を口にした。
「では、小娘を落とした者が〝魔王〟の力を手にするという事で異論はないな?」
一同は互いに見合って、静かに頷いた。
(冗談じゃない! 早く逃げなくちゃ! 変な宗教なんか入りたくないわ!)
部屋を出た私は、さっきの部屋へ戻るふりをして、間隔的に縁側に置いてあった下駄を拝借して庭に出た。
庭の低木や中木を縫うように抜けると、すぐに門があった。
お寺にあるような立派な門だったけど、色が特殊で全体がかすんだ青色だった。門の柱には龍の彫刻が施されている。
私は、かんぬきを外して木戸を押した。瞬間、ぱんっと弾ける音が小さく聞こえた気がしたけど、辺りを見回しても特に何もない。
(遠くで風船が割れたのかも)
誰にするでもなく頷いて、私は屋敷の外へ出た。坂の上にあったらしい屋敷の下には深そうな森が広がっている。
ちょっとだけ緊張と不安が襲ってきたけど、私は首を振って坂を下り始めた。
* * *
「日本にこんな森があったなんて……」
鬱蒼とした森だった。
森に入る前までは空に一転の曇りもなかったはずなのに、森の中は曇天のように薄暗い。今にも夜がやってきそうなほど、静かで不気味だ。
私は空を見上げた。
木々の葉が密集していて、それが日の光を遮ってる。葉の隙間からはたしかに青空が窺えた。
「それにしても、どこ行ったら良いんだろう?」
森へ続いていた坂道は、大きな湖につきあたり、そこで道が途絶えてしまっていた。私はしょうがなく、とりあえず横道に続く獣道のようなところを通ってきたんだけど……。
辺りを見まわす。
見渡す限り、木と芝生と藪しか見えない。獣道もいつの間にかなくなってしまって、私はとりあえず藪は避けて進んでいたんだけど、もうそろそろそれも限界かも知れない。
戻ろうにも、どこをどう通ったのかわからない。
「完全に、迷子だぁ!」
私は泣きたい気分で叫んだ。
このまま遭難しちゃったらどうしよう。熊とかでる森だったらどうしよう。ひとたまりもないよ、私なんか。
それどころか、食べ物もないし、水もない……。
「これって、かなりヤバイ状態なんじゃない?」
青ざめながら、思わずぽつりと呟いた。
「スマホがあれば、助けを呼べるのに。私の鞄、どこ行っちゃったんだろう?」
あの白い空間ではたしかに持ってたのに……。空から落ちた時に落としたんだ。いやいや、ちょっと待って、そんなことあるはずないってば。あれは夢なんだから。
ダメだな。パニっくって変なこと考えてるよ。
「グギャア! グギャア!」
「きゃあああ! ――わわっ!」
奇怪な鳴き声が森に響き、慣れない下駄に思わず足を滑らせた。
豪快に尻餅をつく。
「うう……痛い。もう、最悪!」
お尻を擦りながら体を起こす。
するとその先、大きな木の根元に、見慣れた黒い塊があった。
「あれって――」
期待に胸が躍る。私は駆け出した。
「鞄だぁ!」
木に引っ掛けたのか、破けたり傷ついたりもしてるけど、まぎれもなく私の鞄だ。
「スマホ、スマホは無事!?」
ガサゴソと鞄を漁ると、水色の皮に蝶々の絵柄がプリントされている手帳型ケースが現われた。急いで開いてみる。
「すごい! 奇跡じゃん、壊れてない!」
壊れた様子はどこにもなかった。それどころか傷一つない。
「やった! これで助かる! えっと、とりあえず家に……いや、警察のほうが良いかも」
浮かれ気分で番号を押した。プップップップ――と、音がする。
(早く繋がって!)
祈ったときだ。
『電波の届かないところにおられるか、電源が入っていないためかかりません』
「え!? うそでしょ? 警察だよ!?」
私は慌ててモバイルデータの確認をした。モバイルデータはたしかにONになってる。
「ってことは、もしかして圏外?」
私は思わず膝をついた。
(うそでしょお!? 最低、最悪っ!)
「グギャア! グギャア!」
また変な鳴き声がして、びくっと身を竦めた。立ち上がって不気味な森を見回す。
なんだろう。気のせいかな、鳴き声がさっきより近い気がする。
「グギャア! グギャア!」
「!」
気のせいじゃない!
さっきより、絶対近い。
「グギャア! グ……!」
奇妙な鳴き声が、背後の草むらで止ったのを感じる。自然と冷や汗が流れ出す。なんなの? もしかして、熊?
(でも、待って。落ち着いて、もしかしたら安全な生き物かも知れないじゃない。熊とかじゃなくて、う、うさぎ……はないか。鳥! ただの大きな鳥かも! 鳴き声は鳥っぽいし、きっとめずらしい鳥よ!)
「グルルル……」
「……っ!」
唸り声が響いた瞬間、私は駆け出していた。
違う! 絶対、鳥じゃない! 熊? 狼? 野良犬? そんなのどうでも良い! とにかく、逃げなきゃ!
駆け出した私の背後から、大きな羽音が聞こえてきた。
(え? 鳥? なんだ、結局鳥かぁ。じゃあ、逃げなくても――)
速度を緩めようとした瞬間、羽音にまざって重いものが落ちる音がした。
――バサ! ドスン! バサ! ドスン! ガガッ!
地面を強く蹴るような音も響いてくる。
(なんなのぉ!?)
私はさらにスピードを上げ、反射的に振り返った。
「……は?」
自分がアホみたいに、あんぐりと口を開けたのがわかった。脳が、一瞬停止したのを感じる。
「いや、ちょっと、待ってよ」
思わず呟いていた。
オレンジ色の爬虫類のような表皮、蝙蝠のような羽、鋭い牙に、二メートル近くある大きな体。その巨体を羽ばたかせながら、地面を蹴っている。
それは、いるはずのない生物だった。
「ドラゴン?」
そう、あれは、まぎれもなくドラゴンだ。ゲームとか、映画で見るみたいな……。違うのは、派手な表皮だけ。
「うそでしょ……そんなことあるはずない」
一瞬立ち止まった足を、我に帰って動かし始める。だけど、足が震えて思うように走れない。小石に躓いて、つんのめる。転んじゃダメだ! 必死に踏ん張って、体勢を整えるけど、やっぱり足が思うように動かない。
「誰か、誰か、助けて!」
「ギャアアア――!」
私が叫んだ瞬間、背後から不気味な悲鳴が響いた。
思わず振り返る。その瞬間、私を追いかけていたドラゴンの首と胴体が、真っ二つになって地面へ落ちたのが見えた。
「え、え?」
数メートル、多分、五メートルくらい先に巨体が横たわる。首の切り口から大量に血が流れていた。
「うっ」
吐き気がやってきて、私は顔を背けた。
「無事か?」
人の声がして、勢い良く顔を上げると、ドラゴンの影から毛利さんが出てきた。血の着いた日本刀を懐から取り出した布で拭く。
(もう、何がなんだかわかんない)
けど、私はほっとして、助かったことと、人に会えたのが心底嬉しくて、その場にへたりこんでしまった。
「うっう……」
涙が頬を伝う。
「う、ぐすっ、ひっく」
(ああ、恥ずかしい。けど、止まんないよぉ)