私の中におっさん(魔王)がいる。


 * * *


 大きな満月が、野原のように広がる庭の芝を照らしていた。塀沿いに植えられた松と紅葉に似た低木。その内堀を埋めるように様々な木々や、花が彩っている。十メートル先あたりに屋敷の正面玄関が見える。かなり年月が経った印象があるが、朽ちてはいない。誰かが定期的に管理しているようだった。
 その庭の中心で、毛利達は何かを囲んで立っていた。それは、銀の鎧を纏い紅色(くれないいろ)のマントを羽織って横たわる中年の男だった。

「これが例の死体か」
「ええ、そうです」

 静かに目を閉じている男の顔は蒼白だったが、死人のようには見えない。
 毛利は、表情も変えずに円の中心に寝そべる男を見やる。風間は相変わらず、にこやかにしていた。状況と口調、表情の違いに違和感を感じずにはいられない。
 黒田はその空気に少し笑いを覚えた。

「死んでから、数ヶ月も経ってるとは思えねぇな」

 感慨深げに、そしてどことなく嫌悪感を滲ませて、花野井が顎を掻く。

「そう見えるだけですよ。結界を施しておりますので」
「魔王が宿る死体が朽ちてたら、コトだもんなぁ」
「そうですね」

 にやりと笑みを浮かべ、両手を顔の正面で振る花野井に風間はやわらかい笑みを浮かべる。雪村は、風間の隣でこっそりと両手を合わせた。
 それを見て、黒田が嘲笑的に口の端を持ち上げた。

「で、これ誰なの?」
「とある方とだけ。――さて、皆様。始めましょう」

 黒田は追及したい気もしたが、風間の指示に従う。彼にとっては、誰がどう死のうとどうでも良かったからだ。

「雪村様」

 風間に促された雪村は、渋々といった感じで長方形の呪符を取り出した。緑色の紙に青色の文字が描かれている。

「ちょっと離れてて」

 さっと皆が距離を取ると、雪村は横たわる男に正拳突きを食らわせた。その瞬間、男の周りの空気がたわんだように見えた。雪村の腕が見えない結界を突き抜け、正拳突きをしたはずの拳が札ごと男の体に埋まっている。だが、雪村が腕を引き抜くと、男の肉体も身に纏っている鎧も傷一がついていなかった。

「これで、準備は整いました。では、魔王の結界を解きます。これには、皆様のお力が必要です」

 言って風間はナイフを取り出した。

「一滴でよろしいので、血液を頂戴いたします」
「そんなの必要ないよ」

 黒田はにやりと笑うと、親指の皮を噛み切った。流れ出た血液は地面には落ちず、まるで生き物のようにうねりながら、物凄いスピードで毛利らに向った。

「おっと!」

 花野井は軽々と避けたが、彼以外は反応しきれず、うねった血の刃を受けた。

「うわぁ! びっくりしたぁ!」
「大丈夫ですか? 雪村様!」

 目を丸くした雪村に、駆け寄った風間は心配そうに彼の手の甲を凝視する。

「良かった……」

 ほっと息をつく。自分の頬と同じく、薄皮を切られただけだ。

「超過保護」

 悪びれなく、嫌味たっぷりに笑った黒田を風間は鋭く睨み付けた。

「黒田様。これは一体なんのおつもりで?」
「なにって、手間を省いただけだよ。みんな薄皮切るに留めてあるんだから、そんなに騒がないでよ。それとも、心臓貫いた方が良かった?」
「……ご冗談を」

 風間は乾いた笑みを浮かべ、黒田は面白そうに頬をニタリと持ち上げる。そこに、

「お~い。もう切ったぜ」

 いつの間にか指先を赤く塗らした花野井が声をかけた。

「早くしてくれよ。じゃねぇと、傷すぐに塞がっちまうからな。俺は」
「では、早速」

 風間は各々の血を、ジャケットの内ポケットから取り出した呪符につけて回った。呪符は先ほどの物とは違い薄紅色だった。
 風間はそれを、屋敷に程近いところにぽつんとあった庭石の上に置いた。淡い桜色のようにも見える白い庭石は、漬物石くらいの大きさしかない。近くで見ようと毛利らは、風間に近寄る。その時だった。

 突如屋敷の半分を割るように光が立ち上がった。赤い光は屋敷から庭を走り、完全に彼らを取り囲んだ。

「なんだ?」

 ぽつりと毛利が呟いた瞬間、光はいっそう輝きを増し、呪符を置いた庭石が弾け飛んだ。その直後、毛利達は激しい痛みと脱力感に襲われた。

 項垂れるように膝を突くと、目に映った自分の影が濃くなっている。夜だというのに、昼のように明るい。混乱の中、必死に顔を上げると、頭上で白銀の光が降り注いでいた。小さな、太陽のように眩い光の塊。

(これは、ヤバイ)

 直感したのは黒田だけではなかった。
 このまま自分の中の〝何か〟をあの白い太陽に奪われ続ければ、間違いなく死ぬだろう。命、魂、そういうものを削り取られ、白い太陽に吸い出されている。そんな確信が、彼らにはあった。
 
 激しい苦痛の中で黒田は辺りを見回すと、一同が一様に苦悶の表情を浮かべていた。あの毛利でさえもだ。表情のある毛利を、どことなく可笑しく感じる。
 
(ハッ! ぼくってまだ余裕あるじゃん!?)

 などと強がってみた黒田だったが、目の前が白く滲んで行くのがわかった。

(ああ、最悪。これまでかぁ……)

 一瞬、死が過ぎる。
 だが、黒田はそれを撥ねつけた。

(ざけんなよ! ぼくはここで死ねないんだよ! あいつらを根絶やしにするまでは!)

 憤怒の感情が湧き出した瞬間、激しい苦痛が終わりを告げた。
 身体が途端に軽くなる。しかし、それは一瞬で過ぎ去り、すぐに脱力感が襲ってきた。息が荒くなる。
 膝をつきそうになる体をぐっと堪えた。

 他国の者の前で醜態をさらすわけにはいかなかった。
 残りの者も膝をつき、倒れこみたい衝動に駆られたが、黒田同様に意地でもそれをするわけにはいかない。
 プライドがそうさせなかった。

 だが、やはりというべきか、雪村だけは膝を突き、あー疲れた! と言わんばかりに豪快に仰向けに寝そべった。

「……死体、死体は?」

 驚いた声音を上げたのは花野井だった。彼は窺うような視線で一同を見回す。囲んだはずの死体が跡形もなく消えていた。

「――どういうことだ?」

 毛利は静かに、抑揚のない詰問を風間に向ける。風間は静かに瞳を閉じた。

「おそらく、魔王の許へ行ったのでしょう。帰ってこなければ失敗。――帰ってきた時は、成功です」


 * * *


 月に照らされて、待つこと数分が経過した。
 失敗したのではないかという消沈と苛立ちが漂い始める。

 何か言いたげな瞳を風間に向けた毛利は、組んでいた腕を解いて風間に歩み寄った。風間はちらりとそれを見た。警戒の色が僅かに滲む。そこに、静かに風が吹き抜けてきた。
 何かおかしいような気がして、五人はそれぞれ周囲を見回す。

 風に混じって、何か異様な空気が運ばれているような、そんな気がしてならない。
 遥か上空から、何かが降ってくる――そんな気がした。

 彼らは導かれるように上空を見上げた。
 すると月の中に黒い点が見え初めた。それは序所に大きくなる。――人だ。
 
 人が降ってきているのだと気づいた。そして、はたと閃いた。
――あれは器か、と。

 落下してくる人物はくるりと身を翻した。
 その途端、上空からの凄烈な突風が頭上で弾けた。

(結界か……!)

 毛利は勢いよく振り返る。視線の先にはやわらかに笑まれた口元とは正反対の、強い瞳の風間がいた。確信犯的な表情に、毛利の風間への疑念がさらに強まる。

 屋敷周辺に張られた結界に、次々に突風が襲いかかる。結界は揺れ、歪み、地響きにも似た轟音が響いた。
 凄烈な風が結界を叩きつけ、ついには結界を穿いた。

 結界は音もなく瓦解し、猛烈な突風が下にいる者を襲った。
 木々は薙ぎ倒され、草も根から飛び散る。
 折れた幹が屋敷へと叩きつけられたが、屋敷そのものにも結界が施されていたのか、跳ね返され、屋敷にはいっさい傷はつかなかった。

 しかし庭にいる彼らはそうはいかない。
 身を屈め、飛ばされないようにするしか成す術がない。だが、いまだに続く突風に、一番身体の軽い黒田はとうとう身が浮きかけた。
 身体がふわりと風に持っていかれたところで、突如、黒田の体は重力を取り戻した。

「うわ!」

 急に重くなった体の感覚によろけ、転びそうになった。
 黒田は一瞬なにが起きたのかわからなかった。

 あんなに激しかった風がなくなり、辺りは静寂に包まれている。
 なにが起きたのか把握したのは、堪えた体勢を整え、顔を上げた時だった。

 自分達の周りに、薄い膜ができている。
 その膜の外は相変わらず風が猛威を振るっていた。

 結界の中にいるんだ。
 黒田はそう悟り、ふと見ると、真剣な顔をした雪村が印を結んで気を張っていた。

(こんな、坊ちゃんに助けられた……)

 黒田の中に悔しさがこみ上げる。
 他の者も異変に気がつき、雪村に視線を向けた。
 すると途端に風が和らいだ。
 いつの間にか、頭上に影が降り立ったていた。

 ゆっくり、ゆっくりと、風に体を預けながら、ふわふわと少女が降りてきた。少女の瞳は、虚ろに闇を写していた。
 
 息を呑む声が聴こえる。
 それが自分だけのものではないと黒田はすぐに気がついた。
 その場にいる全員が、言葉を失っていた。

 恐れか、敬意か、魅了か、それはわからない。
 だが、その場にいる全員が圧倒されたのだけはわかった。

 少女は虚ろな瞳をしたまま、地面へと降り立つと、膝を折り、倒れこんだ。
 一同がはっとして駆け寄ると、少女はすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。
 あれほど圧倒的な力を使いながら、彼らを圧倒しておきながら寝ている……。寝ている姿を見る限り、さっきの少女と同じ人物だとは思えなかった。
 そして思わず、毛利が切るように吐き捨てた。

「なんだこの小娘は」



「なんでもっと早く起こしてくれないの!?」

 半べそをかきながら、私は家を飛び出した。車に乗り込む途中のお母さんに八つ当たりすると、お母さんは呆れながら、

「何回も起こしたわよ!」
 と、口調を強めた。

「気をつけて行くのよ!」
「うるさいなぁ! 分かってるよ! 行ってきまーす! お母さんも気をつけてね」

 走りながら手を振ると、お母さんは笑って手を振りかえした。
 お母さんは私が高校に入学した年に仕事に復帰した。ってことは、もう一年前になるのか……。バリバリのキャリアウーマンだったらしいお母さんは、今も結構会社に頼りにされてるみたい。もちろん結婚前とは別の会社だけど。
 私はそれがわりと誇らしかったりしちゃうんだなぁ。言わないけどね。

「うわああ……。それにしても、また遅刻だよぉ!」

 全速力で足を動かす。それこそ、死に物狂い。
 私、なんでこんなに寝るのが好きなんだろう。あとが大変って分かってるのに、中々目覚ましどおりに起きれない。この寝坊癖だけは、一生治りそうもない。

「ゆり! まぁた遅刻か?」

 突然背後から、からかう声が響いた。振り返りざまに自転車が通り過ぎて行く。
 自転車を漕いでいたのは、ショートカットの少女。大島かなこだ。私の、親友。っていうか、悪友?
 二人でくだらないことばかりしてる。というよりは、かなこが悪ふざけをして、私が止めて。それを漫才みたいだって、他の友達が周りで爆笑してる。そういう間柄だ。
 
「自分だって、遅刻ギリギリのくせにー!」

 私が声高に言い返すと、かなこは高らかに笑いながら自転車を猛ダッシュで漕いだ。
「ハーッハッハハ! 一足早く、学校で待ってるぞ! さらばだゆりよ!」
「いつの時代の人なの!」
 
 私が突っ込むと、かなこはまた高笑いしながら豆粒みたいに小さくなっていった。

「まったく、もう!」

 私は誰にするでもなく怒って見せて、そのあとすぐにふと笑みがこぼれた。かなこって、本当に面白い。こっちまで元気になっちゃうんだよなぁ。

「おはよう。谷中さん」

 可憐な声がして、春の季節にぴったりの桜色の自転車が通り過ぎる。振り返って微笑んだ彼女の薄紅色の頬を、長くてやわらかそうな茶色の髪がなでる。
 沢辺さんだ。

「がんばって」

 小さくガッツポーズをして、沢辺さんは手を振った。私は反射的に手を振り替えしたけど、小さくなってしまった。
 前を向き直り、走り去る沢辺さんを見送る。

「相変わらず、すっごい可愛いなぁ」

 沢辺さんはクラスどころか、学校の人気者。美人なのに気取ってなくて、気さくで、優しくて、男子はもちろん女子にも好かれてる。
 幸いなことに(?)同じクラスだし、女の子同士で遊びに行ったこともあるけど、どうしても憧れが先行しちゃって友達って感じにはなれない。世界が違うって思っちゃう。だって、女優さんみたいにキラキラしてるんだもん。

「私は必死こいて走ってて、あっちは自転車ですいすいだし?」

 誰に言うでもない自嘲ジョークで苦笑いして、私はまたスピードを上げた。そのとき、

「~~~~~」
「え?」

 耳元で、誰かが何かを言った気がした。びっくりして振り返るけど、そこには誰の姿もない。
 家が規則正しく建ち並び、真っ直ぐに伸びた道路があるだけ。
 車は通る気配すらない。まさしく閑静な住宅街ってやつ。

「なんだろう、今の?」

 朝起きてすぐに走ったからかな? でもいつもは空耳なんてないのに。男とも、女ともつかない声音だった。

「変なの!」

 私がそう吐き捨てた瞬間だった。
 前方から、アスファルトの地面が急に黒く暗く染まっていった。

「なに!?」

 驚いた私を、前から歩いてきていたスーツ姿の男性が不審な目で見た。
(いやいや、地面、変ですよね!?)
 きょろきょろする私を、男性はさらに怪しげに見て通り過ぎてしまう。

「なんで!?」

 思わず叫んだ私を、ちらりと振り返り、男性は首を傾げて歩調を速めた。

「完全におかしいやつだと思われた……でも、」

 明らかにおかしい。
 前方どころか、真っ直ぐに続く後方もすでに真っ黒な地面になってるのに、男性はまるで気にしてない。そのまま住宅の角を曲がっていってしまった。

「……私にしか、見えてないの? 幻覚?」

 不安に押しつぶされそうになった瞬間、あっという間に闇は横に広がり、それまでもが黒く塗りつぶされた。

「やだ……なんなの?」

 恐怖ですくんだ私の足を、何かが掴んだ。

「キャア!」

 地面の闇が蠢く影のようになり、私の足に絡みついてくる。

「いやぁー! 助けて!」

 叫んだ途端、影に全身を捕まれてしまった。


 * * *

 頭がぼうっとする。
 まるで、眠ってる途中で起こされたみたい。

「う、ん」

 まだ寝てたいんだってば。
 私は、寝返りをうとうとして、ハッとした。私、立ってる。寝転んでるわけじゃない。
 ばっと目を開けると、そこは真っ白な空間だった。
 あたり一面、真っ白な世界。どこまでもどこまでも、白が続いている。

「まるで、果てがないみたい……」

 ぽつりと口にして、ぞっとした。

「ここ、どこ? どういうこと?」

 混乱して、辺りを見回す。振向いた瞬間、思わず悲鳴を上げた。目の前に、顔があったから。

「キャアア!」

 目を強く閉じて、後退した途端、腰が抜けた。尻餅をつく。バクバクと音をたてる心臓。騒ぎ出したい唇を両手で押さえつけて、パニックなまま、目を開けた。

 恐る恐る見上げた目の前の誰かは、男だった。
 銀色の鎧、中世のフランスだかイギリスだかの人が着ていたような鎧に、真っ赤なマントを羽織った中年の男性。

 少し細めの鎧兜からは、口髭を蓄えた、どこにでもいそうなおじさんの顔。西洋の鎧だからといって、外国人なわけではなさそうだった。

(コスプレ?)

 心の中で呟いて、私は震える足で立ち上がった。まだ、心臓がバクバクしてる……。

「あ、あの……こんにちは」
「……」

 おじさんから反応はない。虚ろな瞳で遠くを見ている。
 あいさつくらい返してよ。内心、ちょっと拗ねながら、私はもう一度話しかけた。

「あの、ここってどこかご存知ですか? 私、いつの間にかここにいて」
「……」
「あの……? すいません……?」
「……」

 やっぱり返事はない。

(なんなの……)

 おじさんをじろじろと見た。

「あれ?」

 妙な違和感が芽生えた。
 おじさん、さっきから瞬きを一度もしない。それに、息を吸ったり吐いたりしてる様子が微塵もない。

「え……もしかして、死んでる?」

 そんなわけない! 否定しながらも、不安が胸を過ぎる。そういえば、血色も物凄く悪い。まるで、血が一滴も血管を巡ってない見たい。

「いやいや、そんな! 気のせい気のせい!」
(でも、普通、これだけ目の前で騒いでたら何か反応するよね?)

 私は唾を飲み込んで、改めておじさんをちゃんと見る。そして、意を決して話しかけた。

「こんにちは!」

 お願い! 反応して!
 だけど、おじさんは微動だにしなかった。虚ろな目は、何も映してないみたい。

「どうしよう……やっぱ死んでる。――そうだ! 救急車! 警察!」

 慌ててガサゴソと鞄を探る。その時だった。ゆらりと、おじさんの体が動いた。

「へ?」

 顔を上げると同時におじさんが私に向って倒れこんでくる。髭が目の前に迫る。

「わわわっ! ちょっと!」

 いやぁ! ――ぶつかる! 

「死体のおっさんとぶつかるなんてヤダァ!」

 思わず叫んで、強く目を瞑った。でも、いつまで経っても体に衝撃が来ない。

「……あれ?」

 目を開けると、白い空間が現れた。おじさんが、いない。

「え? なに、どういうこと?」

 白い空間には誰もいない。目が眩む白だけが広がる。そこに、私ひとりだけ……。急に、不安がどっと押し寄せてきた。
 こんなとこで、私、たった一人で、どうしたら良いの?

「誰か、誰か、いませんか!」

 叫び声は白い空間に吸い込まれ、反響すらしない。反響しないってことは、跳ね返るものがないってことで……。
 ぞっと背筋が凍る。
 ここ、どこまで続いてるの? 本当に、果てがないの?
 泣き出しそうになって、私は叫んだ。

「助けて! 助けてください!」

 さっきのおじさんでも良いから、出てきてよ! いや、でも、死体は嫌だけどっ!

「誰かい――」

 ――ませんか。
 口にしたつもりの言葉は、胸が痞えて出なかった。ずるりと足元を何かが這ったから。ぎゅっとした緊張が走る。

 ただ白いだけだった空間、地面は確かにアスファルトみたいに硬かった。なのに、今は煙が立ち昇り、どこかに向って動いている。足元が波打ち際の砂の上みたいに揺れる。
 まるで、生きてるみたい。

 あっという間に煙は渦を巻き始めた。そして、白い渦は私の目の前でぴたっと止まる。嫌な予感がして、私はやっと、足を後退させる。振り返って、呼吸が止まった。後ろの空間もすでに白い渦となって、私のほうを向いていた。
 気がつくと、左右も同じだ。

「なに、なに、なに、なに――」

 パニックった瞬間、白い渦が私に向って突進してきた。

「キャアア!」

 悲鳴と同時に四方の白い渦は、私に体当たりした。
 あっという間だった。瞬く間もなかった。全ての渦は私の身体に〝侵入〟した。次ぎの瞬間、目の前が急に真っ暗になった。

(え? 気絶した?)

 一瞬、混乱が頭を支配した。

(……違う)

 きらっと何かが光ったと思うと、のっぺりとした巨大な月が私の真横に現れた。

(月? 夜? だって、朝じゃ……)

 月は、どんどん遠ざかっていく。それでやっと、叩きつける強風が意識の中に入ってきた。猛烈な風が頬を引き上げて行く。髪が月に向かって昇ってる。
 どういうこと?

(――え、私、落ちてる!?)

 私は自分が空から落下していることに、やっと気がついた。

「キャアアアアア!」

 発狂した途端、ぐるりと世界が回った。見上げていた月がいなくなり、代わりに真っ暗な景色が目に飛び込む。目を凝らしてよく見ると、それは広大な森だ。

 叫ぼうとして、息が詰まる。風が喉に侵入してくる。苦しい。叫べない。

(どうしよう、どうしよう、どうしたら良い!? このままじゃ、死んじゃう!)

 涙が、零れるそばから天に舞う。

(誰か、神様、助けて!)

 祈ったとき、何かが地面できらきらと光った。

(なんだろう)

 私はぐんぐんそれに近づいていく。

(あれ、あれは……)

 気づいたときには、絶望が胸を占めていた。
 それは、月明かりに照らされた瓦屋根だった。

 神社かお寺か、日本風の広い屋敷。広大な庭。それらを囲む石垣。暗闇の中で、はっきりと見える。私は、そこに向かって落ちている。

 もう、地面は目前だ。

(いや、死にたくない! 神様でも、悪魔でも、魔王でも、何でもいい、助けて!)

 助けて!