そしてあれから五年の月日が流れた。
今では自分に刃向う敵は誰もいなくなった。
短いようで長い月日の中で膨大な力を半ば強引に周りに見せつけてきた。
私の力を認めさせる為に。
自分の力を知らしめる為に。
早く彼女を自分の元に取り戻す為に。
逆らう事を許さない。
絶対的な力。
力でねじ伏せる圧倒的な力。
奪われた者は我が手で奪い返す。
大切な者をもう一度我が手に。
断固として、揺るがない願い。
誰にも反抗をさせる意志さえ与えない。
絶大な力を見せつけ、反論を許さない存在。
今では恐怖し、私の前で話をする者さえいなくなった。
みんな私の目を見ず、恐怖に脅え萎縮する者たち。
それでいい。
反論する事は許さない。
彼女さえ私の側に帰ってくるのなら。
彼女のあの光輝く笑顔を独り占めできるのなら。
私はその日の為に生きてきたのだから。
龍の理性を保たせているもの。
それは人間の遺伝子、血の存在。
野生の力だけでは龍族は滅んでいただろう。
それを繋ぎとめたのは、人間の豊かな感情。
表情豊かな、暖かな想い。
理性を力を得る為に、本能のまま昔から龍は巫女に子供を産ませていた。
か弱き者に宿る命。
それは種を絶やさない為の行為。
今の龍族の中で子供を宿す事の出来る異性はいない。
彼女は子孫を残す為、人間から生贄として選ばれた巫女の家系だった。
そしてその変わりに人間は龍族から守られる事となる。
龍王の子供を産むだけの存在。
龍族と巫女との間には稀にしか女は産まれない。
人間をただの生き物としてしかみていない貴族たち。
その目的の為だけに、自由を束縛された巫女たち。
龍の国では、巫女たちの扱いは酷い物だった。
前の龍王である父は、巫女を奴隷の様に使い、何人もの巫女たちが命を落とした。
しかし。
・・・私は父とは違う・・・
彼女を酷い目に合わせるなどと出来るわけがない。
そしてやっと彼女に逢える!!
私の身体の全てが熱く、激しく高鳴っていた。
この日をどんなに待ち望んでいたか。
どんなに待ち焦がれ、願ってきたか。
そして今日。
待ちに待ったこの日がやって来た。
どんなに待ち望んだ事か。
彼女を半ば監禁していた者たち。
あの頃とは逆の立場。
逆らえないほどの絶大な力を持った私の命令。
とうとう彼女を解放したのだった。
彼女を戻さなければどうなるか?
逆らえば死を意味するという事実。
自分の命と彼女では、答えは明白だった。
人々が騒ぎ始める。
やっと到着したようだ。
大広間。
少し落ち着いた色合いの朱い絨毯。
龍の鱗を真似た模様が幾重にを織り込まれている。
その上にそれとよく似た朱い色の細長い絨毯が道を作るように、部屋の奥まで続いている。
左右に、たくさんの家臣たちが行儀よく並ぶ。
その先に一段と高い場所、細長い絨毯の行き着く先。
龍の頭が形造られた豪華な金色の椅子に静かに龍王が座っている。
そこにいるだけで、強い力を誇示している龍王の存在感。
座っているだけなのに、この威圧感。
今か今かと、じっと入り口を見ていた。
ドアが大きく開かれた。
自分の目の前に彼女と一人の男が現れた。
大きな布をすっぽりかぶり、金色の刺繍が施された紐を後ろに結んでいる。
口には豊かな髭が綺麗に切り添えられていた。
隣の彼女は、同じく大きな白い布を頭からかぶっていた。
そして腰には鮮やか組み紐で結ばれていた。
長い髪を後ろで結いあげた姿。。
少し大人になった彼女は、女性としての美しさをも感じさせた。
想像していた以上に綺麗に、成長した姿。
彼女は少し伏し目がちに歩く。
連れてきた男に、強引に引っられる様に連れて来られた。
歩くたびに靴についた小さな鈴が響く。
目の前まで来ると、男に無理やり床に頭を擦りつける形で頭を押さえつけられる。
「約束通り連れてきました。」
なすがままの彼女。
悲鳴一つもあげる事はない。
あんなに力強く引っ張られて痛いだろうに。
そしてあの傲慢な男の態度。
私は男を睨み、それ以上の言葉を黙らせる。
私は自ら椅子から降り、彼女の側に近づく。
その行動にどよめく者たち。
私はそれを人睨みで沈黙させる。
恐怖で顔色を失う者。
龍王の逆鱗に触れない様に皆一応に頭を下げた。
人の気配を感じた彼女が顔を上げた。
久しぶりに目があった瞬間、何も宿していない目に驚く。
光のない死んだような淀んだ瞳。
自分を映していない感情のない表情。
あの頃の光輝く笑顔はなく、まるで別人のようになってしまっていた。
一体何があったというんだ。
五年という月日は、彼女をこんなにも変えてしまうものなのか。
会えなかった時間に、翡翠の身に何かあったに違いない。
あんなに待ち望んでいた笑顔は今はもうない。
数百年、長ければ数千年は生きるといわれている龍族。
龍族にとっては、たかが五年という短い時間の流れ。
しかし人間にとっては、長い刻の流れ。
「スー」
耳元で彼女にそう呼んでみる。
昔みんなからその愛称で呼ばれていた。
少しは反応してくれる事を願いを込めて。
しかし全く反応はなく、自分の事を呼ばれているのさえ分からない。
自分を映し出すでもなく、遠くを見つめる瞳。
何かに魂を囚われた瞳。
「返事をしなさい!」
連れて来た男は私のすぐ横で、無謀にも乱暴に彼女に手をあげようとした。
いつもそうやって日常茶飯事に暴力を奮っていたのだろう。
振り上げた手に何の躊躇もない。
彼女に危害を加えようとする、この男に怒りを感じた。
私はすかさず振り上げた腕を掴み、いとも簡単に身体もろとも放り投げる。
男の身体は大きく飛ばされ壁に激突した。
激痛で動けない男。
私はそれには全く興味を示さず、彼女を軽々と抱きかかえた。
彼女の暖かな体温が抱えた腕に伝わってくる。
触れられた事の喜びで、先ほどの男の行動などすっかり忘れてしまった。
やっとこの腕に戻ってきた。
ただただその喜びだけで、身体が震えた。
私はそのまま自室へと向かった。
自室に戻った私は、抱きかかえたままベッドの上に座った。
その間、嫌がる事も寄り添う事もなく腕の中にいた彼女。
私は両手で彼女の頬に触れ自分の方へ向かせる。
光のない目を見つめる私。
「ひすい、翡翠。私がわかる?」
この上なく優しく、問いかける。
だが同じく、何も反応してくれない。
翡翠。
彼女の本当の名前。
命の名前。
本来本当の名前は知られてはいけないもの。
名付けた親にのみが知っているもので、兄弟さえも知らされる事はない。
また名付けた者がそれを悪用すれば、その魂は呪いに囚われ命を落とす。
本当の名前で命令されれば、呪によって知られたものに支配されるからだ。
彼女の様子からして、名前で支配されている事が想像できた。
普通なら命の名前と命令は組してひとつ。
命の名前を言った時点で呪は解け、その命令は崩れるもの。
だが本来の名前を呼んでも反応がない。
この呪を解く為には、名前の他に言の葉が混じっているようだ。
強い術師が本来の呪の他に違う言葉も混ぜてしまったようだ。
命の名前と2つの言の葉。
それほどまでにして、翡翠にどんな命令をしたんだ。
言の葉が分からない以上、今はどうしてやる事も出来ない。
私は優しく翡翠を抱きよせた。
抱き返す事もないが今の私には、こうしてあげる事が精一杯だった。
その日から私は片時も翡翠を離さなかった。
離れていた時間を少しでもうめたい。
翡翠に近づきたい。
今まで私がこんなにも何かに執着する事なかった。
周りの貴族たちは、みんな驚いていたが意見をする者は一人もいなった。
私は色々な言の葉で問いかけてみた。
しかし全く反応を示してくれない。
それでも翡翠の側にいれるだけで満ち足りた時間だった。
数か月が過ぎても好転する気配はなかった。
さして私は気にとめる事もしなかった。
しかしさすがに黙認してきた者たちから意見が出始める。
会議中も、いつものように翡翠は私の膝の上で静かに座っていた。
一言も話さず、じっと聞いていた龍王。
それをいい事に調子にのったのか、ポツリポツリと本音が飛び交う。
他の巫女と交代した方がいいのではないか?
何かに取りつかれた様な巫女では気味が悪い。
もっと他に巫女はいるだろう。
あの巫女でなくてもいいだろう。
翡翠を非難する言葉が聞こえてきた。
・・・こいつらは、なにを勝手なことばかり!!・・・
・・・私の巫女は翡翠だけだ!!・・・
怒りをそいつらにぶつけようと身を乗り出した時、いつもと違う事に気付いた。
何かが私の袖を軽く引っ張る感触を感じた。
その方を見ると、驚いたことに翡翠が私の袖を掴んでいたのだ。
自ら何か行動を示したのは初めての事だった。
私は翡翠を見つめ返す。
「どうしたの?」
翡翠を驚かせないように、優しく言葉をかけた。
その穏やかな龍王の表情に周りの者たちは、驚いていた。
無表情。冷酷無比な龍王が笑っている?!
それを無視して、翡翠に笑いかける。
「こ・こに・・いたい。」
久しぶりに聞く翡翠の声。
他の者には聞こえない。
小さいが確かに聞こえた。
絞り出すような擦れた声。
少し舌足らずの口調。
ゆっくりとしたリズム。
「周りの者が巫女の交代の話をしたから、不安になったの?」
瞳は変わらず淀んだままだったが、翡翠の首が小さく頷いた。
「またどこかに連れて行かれると思って不安になった?」
また頷く。
今までにない、反応。
呪は解かれてはいないが、それを抗うほどの意志。
翡翠の精一杯の抵抗。
私は人目もはばからず強く翡翠を抱きしめ、腕の中に閉じ込めた。
翡翠のとても小さな身体はすっぽりと私に包まれる。
なんと愛らしい事か。
何も心配はいらないというのに。
「心配しないで、ずっとここにいていいんだよ。」
袖を握っている手の上から優しく包み込む様に握る手。
小さな手が私の手で隠れて見えなくなった。
なんと小さな身体、か弱き人であることか。
少し力を強くすれば、いとも簡単に砕け散るだろう。
どれぐらいそうしていただろうか?
私の腕の中で安心したように、いつの間にか眠ってしまった翡翠。
その寝顔を穏やかな気持ちで見つめる。
やっと自分の腕に戻ってきた。
待ち望んだ希望がこの腕の中にある。
全身全霊をかけて守ってみせる。
翡翠という存在そのものを。
誰にも傷つけさせはしない。
青龍の国に行く!!
呪からの解放。
その手がかりを掴むため、翡翠が監禁されていた国、青龍の国に行く事を決意する。
力のある龍は普段、好んで人の姿で過ごす。
その姿をどれだけ維持する事ができるか。
それによって自分の力を誇示していた。
石造りの重厚な建物たち。
同じ大きさと形の石を積み上げ、幾重にも積み重ねた建物。
その重みのある重圧感で、そびえ立つ巨大な建造物。
龍の力を強く持つものだけが住む事を許された宮殿。
その周りに広がる街並み。
宮殿の近くに住む程、力ある者とされた。
その宮殿の一番上。
たくさん並ぶ建物の中で、ひときわ高い塔の天辺。
龍王は今、飛び立とうとしていた。
ゴォーッッッ
凄まじい轟音。
そして同時に眩い光の塊の出現。
私は久しぶりにその力を解放し、本当の姿に戻った。
青龍の国に飛んで移動する為だ。
大きな羽を思い切り広げてみる。
朝の光を浴びて光る翼。
黒に近い藍色の身体。
羽も同じ色ではあるが、先端が金色に光って見える。
ニ、三度羽ばたかせ、風を感じた。
青龍の国はここから北東の方角。
深い森に覆われた場所にあった。
その方向に目をやる。
遠い遥か先に微かに緑の群生した色彩を捕らえた。
ここからだと、太陽が頂上に登りきる前には着くだろう。
気持ちのいい風がそよいでいく。
私の少し後ろでじっと立ちつくす翡翠。
龍の姿になっても、驚く事もなくじっと何も映らない瞳でこちらを見ていた。
私の羽毛と一緒に翡翠の黒髪が風になびいていく。
翡翠は自ら、ゆっくりと私に近づいてきた。
そして手が触れられる距離まで来ると歩みを止める。
ニ人の間には風の音だけが聞こえた。
私が意を決して出発の言葉を言おうとした。
その空気を察したように、言葉を止める。
不意に翡翠の手が私の首辺りに触れた。
「もう・・ひとりは・・いや。」
心なしか声が泣いている様な気がした。
「これから青龍の国に行くんだよ。
また嫌な思いをするかもしれない。
ここで待ってて。」
だが翡翠はそれを拒むように、一層触れた手に力が入る。
「いっしょ・・に」
いつにない強い意志が伝わってくる。
初めて言葉を発したあの日。
あの日から声を出して気持ちを伝えてくるようになった。
少しづつ、本当に微かだが、確かに人としての感情が戻ってきているようだ。
私はそれが堪らなく嬉しかった。
いつかは、あの笑顔を見る事が出来るだろう。
私の願いが叶う時がくるだろう。
曇りのない彼女の笑顔。
それが私の願い。
「掴まってて。」
大きなごつごつした手が、翡翠の身体を掴む。
私は長く尖った爪で傷つけないように、優しく包み込んだ。
翡翠は一緒に行く事が分かって安心したのか、静かに身を委ねた。
私はもう一度翡翠を確認すると、大きく羽を広げ塔から飛び出した。
風が私に味方する。
追い風でスピードが増していく。
久しぶりの飛行は、本能を駆り立てた。
もっと飛びたい。思いのままに。
だが今は、大事なものがここにある。
私の手の中。
ほのかな温もりを感じながら青龍の国を目指す。
眼下に見下ろすは広い砂漠だった。
途方もなく続く砂の大地。
同じ景色がしばらく続く。
時折、きらきらと輝く湖が光に反射している場所。
その場所の周りだけは、命の育みを主張するかのように緑を色濃く映す。
オアシスと言われる場所。
それもすぐに後方へと通り過ぎていく。
先程まで微かに見えていた緑色の色彩が近づいてきた。
時折見えていたオアシスの比ではない。
緑豊かな地。
たくさんの命育む地。
生命の源、水満たされし国。
海に面して青龍の国はあった。
ここ青龍の国は他の龍族の中で一番早く龍王に仕えた国である。
その為、昔から巫女はここで選ばれ育てられてきた。
伝統を守る事にプライドを持っている国。
人間界との行き来が出来るのは、ここだけだった。
私は手に掴んでいる翡翠に目をやる。
翡翠は私の羽を風よけにして隠れていた。
身体の一部だけが見える。
このまま私の一部になればいいのにとさえ思ってしまう。
翡翠の事になると言い知れぬ想いが胸を熱くする。
狂おしいほどの独占欲が私の心を占める。
ゆっくり下降していく。
青龍の国の街並みがはっきりと見えてきた。
深い青を基調とした建物が並ぶ。
その建物の一番高い塔の上。
ゆっくりと旋回して、静かに降り立つ。
と、同時に眩い閃光。
私は人の形に戻った。
出迎えたのは青龍の王とその息子蒼龍(そうりゅう)だった。
堂々とした雰囲気に、強い意志を感じさせる瞳。
プライド高い気品に満ちた表情。
蒼龍からも同じく、若いながら力強さと満ち溢れる生命力を感じた。
「よくいらっしゃいました龍王。」
王は深々と頭を下げる。
蒼龍も同じく頭を下げようとして、ふと龍王の腕の中に人がいる事に気付く。
「スー!」
蒼龍は思わず叫ぶ。
翡翠に全く反応はない。
「スーに何かあったのですか?」
心配そうに問いかける蒼龍に、私は少し不機嫌に答える。
「たやすく呼ぶな。
スーは私のものだ。」
恐怖に下げかけていた頭を再び下げる蒼龍。
「どうぞこちらへ。」
王がそれを助けるように建物の中へと促す。
通された部屋。
青を基調とした色合いの落ちついた空間。
さぼど広くはないが、ゆっくり話を聞くには丁度いい。
私が座るのを確認すると、ニ人も座った。
スーはじっと私の服を掴んだまま、じっと下を向いていた。
何か我慢している様にも見える。
私は安心させる為に肩を抱いて、自分に近づける。
そして耳元で小さく・・・大丈夫・・・とささやく。
するとスーの掴んだ手が、より一層強くなる。
柔らかい微笑みを見せる龍王。
その様子を見た王と蒼龍は、驚いた顔で見つめた。
優しい雰囲気、人間の様な柔らかい笑顔。
あれがあの冷酷で無関心な龍王なのか?
龍王に何があったのか?
「今日はどういった御要件で、自らこちらにお越しになられたのですか?」
王は話しを切り出した。
確かにいつもなら配下の者が動くのが常識。
わざわざ龍王自ら、動く事は考えられない。
しかし今回は自ら本来の姿に戻ってまで、ここに来ている。
これは前例のない異例な事。
「スーを知っているのか?」
王の問いには答えず、龍王は蒼龍に問いかける。
「はい、スーは私の巫女にと思っていた人です。」
自分の巫女にだと?
つまり蒼龍はスーに好意をもっていた事になる。
蒼龍の先ほどの恐怖に強張る表情とは違う、堂々とした物腰と言動。
素直に答えた言葉の中に、翡翠への気持ちがうかがい知れる。
私は強い苛立ちを感じた。
そしてスーを見るその真剣な目が、私の心の中を苛立たせる。
きっとこの男はまだ翡翠を諦めてはいない。
「今日はどういった御要件で、自らこちらにお越しになられたのですか?」
王がもう一度、問いかけて来た。
苛立った私はその言葉でふと我にかえった。
ここに来た本来の目的。
翡翠の呪を解く手掛かりを得る事。
忌まわしき呪で苦しんでいる翡翠を早く助けてあげたい。
その為にここに来たのだ。
翡翠はさっきからじっと下を向いて、私の服を握りしめている。
私は翡翠の抱く腕を強くする。
本来の目的を忘れる所だった。
私は翡翠の事になると気持ちの制御が出来なくなるようだ。
どうしても我を忘れてしまう。
私は王を見据えてここに来た目的を話し始めた。
「スーは強い呪をかけられている。
それを解く為にここに来た。」
逆らう事を許さない言葉の威圧。
そしてさらに、命令の言葉。
「この国に呪をかけた者がいる筈だ。
すぐに探して連れて来い。」
強い意志のこもった凛とした声が2人の耳に響いた。
「分かりました。
早速捜させます。
しばらく間、お待ちください。」
そう言うと王はその場を離れた。
ふと視線を感じた。
私の向かい側には蒼龍。
蒼龍は何も言わず、じっと翡翠の様子をうかがっていた。
「スーはいつからこんな抜け殻になってしまったのですか?」
怒りを抑えた少し早口な声。
この男、私に怒り向けるなどと。
すぐにでも殺してやろうか。
そして何よりも、翡翠を見る目が気にくわない。
「私の下に戻ってきた時には、すでに呪に囚われていた。
大方、この国の者が私への腹いせにかけたのだろう?
そんな事の出来る呪術師はここにしかいないからな。」
吐き捨てる様な恐怖を含んだ声。
しかし怯む事はなく、蒼龍はなおも挑戦的な目が私を見ている。
「この国を出る前は、いつものスーだった。
こんな人形のようなスーではなかったのに。」
悔しさで自分の手を強く握り、震えるほど怒っている仕草を見せる。
この男は私の下に来るまでの間の、翡翠を知っている。
悔しい事だがそれは事実。
私の力のなさがそうさせてしまった事実。
あの空白の五年間、翡翠はここでどんな暮らしをしていたのだろうか?
「スーはここでどんな暮らしをしていたんだ?」
私はどうしてもそれを聞きたくなった。
私の知らない翡翠がある事が許せない。
スーの事を全て知りたい。
どんな事でも、それを全て自分の物にしたい。
蒼龍は私の問いに答える為、怒りを大きなため息で飲み込んだ。
男はスーの身の上を淡々と話し始めた。
「スーの自分の親族からも周りの誰からも、酷い扱いを受けていました。」
酷い扱い?
「スーは自分の父親と再婚した義理の母親と、その連れ子の妹との4人暮らしでした。
スーの家は代々巫女の家系で、父親は数少ない純粋な呪術師の家系。
スーの亡くなった母親と父親が結ばれる事は皆の必然でした。
その間に産まれたスーは、今までにないほどの巫女の血を色濃く宿して産まれました。
祝福されて産まれてはきました。
でもみんなが欲しかったのはスー自身ではありませんでした。
その濃い血だけが、みんなが望むもの。
考えてみれば、顔合わせで龍王の下にいたあの1年ほどの時間。
あれがスーにとっては、一番幸せな時間だったのかもしれません。
人間界に戻ってきたスーを巡っての争いは、後を絶ちませんでした。
そんな中、スーを助け出そうとして母が亡くなったのです。」
龍は肉親が亡くなった時でさえ、気持ちを動かす事はない。
無関心で孤独で残酷な種族である。
だが人間は反対に感情豊かな生き物。
さぞ翡翠は心を痛めただろう。
それも自分のせいで亡くなったともなれば、なおさらだ。
「それから父親はスーに辛くあたる様になりました。
お前のせいで亡くなったのだと。
お前がいなければ、お前が産まれてこなければこんな事にはならなかったと。
まだ小さかったスーを責めました。
生きている事さえも否定されてしまったのです。
それからは前にも増して、違う者から狙われ奪われました。
そして何度も何度も、たくさんの龍や人の間を行ききしていたようです。」
翡翠も私同様、周りから自分自身を必要とされてこなかったのだな。
死なないように生かせれる。
そんな中にスーもただ存在していた。
ここ青龍の国は格式や身分を重んじる国。
私は幼き頃から、この国の歴史、学問、事細かに分かれた身分制度の仕組み。
そんな形式ばかりを覚え込まされて育った。
それをまた不満に思った事もなかった。
これが自分にする事。
やるべき事と教え込まれてきたのだから。
疑うことさえ知らなかったある日。
一人の人間の少女に出会う。
この青い龍の国には特別に大きな役割があった。
それは人間界と龍の国にまたがり、秩序を守るという仕事。
私はいつもの様に人間界の有力者の取り締まりをしていた。
そしてある事件で現場を抑える為に踏み込んだ先。
地下の牢で囚われの少女を見つけて保護した。
薄汚れて全身傷だらけの少女。
それがスーだった。
私はその少女と目を合わせた瞬間。
身体が今までに感じた事のない、熱を感じた。
そしてとっさに手を握っていた。
か弱きその人間の中にある、どんな者にも屈しない強さ。
その熱が私に伝染したかの様だった。
療養の為、病院に入院する事になった少女。
少女の事が気になって仕方がなかった。
だから仕事の合間の僅かな時間の全てをその少女と過ごした。
自分の存在の否定。
どこまでも追い詰められてしまった翡翠。
「初めてスーに会った時、抜け殻の様な姿でした。
それでも生きる為に生きようとしている瞳。
懸命に自分の運命に抗おうとする姿に魅了されました。
傷だらけの少女は、始めは警戒して言葉少なでした。
しかし慣れるに連れて、自分の事も少しずつ話してくれるようになりました。
感情を表してくれるようになったある日。
調べ上げられたその少女の悲惨過ぎる身の上。
感情というものがなかった私にも、変化が現れ始めました。
少女が笑えば自分の心は、ほんのりと暖かくなった。
少女が悲しそうに涙を浮かべれば、自分の心は苦しく痛く感じた。
ほんの一月、傷が癒えるまで一緒に過ごしました。
日に日に元気になっていくスー。
次第に本来の魅力を取り戻していきました。
最初は人間というだけで、毛嫌いしていた龍たち。
それがいつしかスーの笑顔に癒され、優しさに心穏やかにしました。
伝統や格式にがんじがらめの日々。
スーに会って、スーと話し、接する時間。
私にも心地よい安らぎを与えてくれました。
私に人間の様な優しい感情を教えてくれました。
いつしか私はスーに好意をもち始めていました。
・・・この少女と出来るならずっと一緒にいたい・・・
いつしか私はスーを自分の巫女にと考えるようになっていきました。
そして傷もすっかり治ったある日。
スーは父の呼び出しに促されて、家へ帰る事を告げられました。
自分が帰らないと家族が龍族に何をされるか分からないからと。
次に行く場所は何処なのか?
それさえもはっきりしないまま、一旦家族の下に戻される事になったのです。
スーの存在が人間たちだけでなく、龍族同士の間にまで広がった争奪戦。
自分一人の思いだけで、この国を争いに巻き込む訳にはいかなかった。
だからあの時大きな力を持つ龍族と、事を荒立てる事は出来なかった。
秩序を守るといいながら、結局は力ある者には従うしかなかった。
結局私はスーに何もしてあげれなかった。
そしてその想いも告げる事も出来なかった。
短い間だったが私に感情という、大事な物を心地よさを教えてくれた。
いつしか私にとってかけがえのない存在となっていた。
しかし現実はその大切な存在さえ守れない自分。
怒るという感情。
その熱すぎる感情。
これもスーが教えてくれた初めての感情だった。
あの時は本当に悔しかった。
私にもっと力があればと。
どんなに悔やんだ事か。
蒼龍はぐっと唇に力を入れた。
蒼龍も私と同じ思いをしたのだな。
力がものを言う龍族の世界。
蒼龍にとっても覆せない力の足りなさ。
自分の弱さを悔いたのだろう。
大切な者を守れない自分の愚かさに悔いたのだろう。
「家へ帰る前日。
ここで暮らす最後の日。
別れの挨拶に来たスーは、心の奥底にずっと大切にしまっている思い。
生きる為の理由を教えてくれました。
これまでどんな事をされても、生きたいと思った理由。
それはあなたとの約束でした。
龍王が迎えに来てくれる事を。
その日の為に生きているのだと教えてくれました。
泣きながら、笑いながらスーは本当の気持ちを話してくれました。
巫女の血に翻弄されるスーが唯一見つけた希望。
それがあなたとの約束だったのです。
そしてこの場所を去った数日後。
スーの次の行き先が龍王の所だと報告を受けました。
龍族たちは、スーをあなたとの交渉の駒に使ったのです。
私はその時どんなに安心したか。
やっとスーに幸せが訪れたんだと思い喜びました。
スーが笑ってくれるなら、それでいいと。」
突然蒼龍の言葉が静かになる。
そして今まで我慢していた、先ほど抑え込んだ怒りが息を吹き返す。
「なのになぜ?
約束が叶ったのに、なぜ?
あなたの下に帰る事ができたのに。
どうして笑っていないんですか!!
スーの目はなぜあの時の様に、何も映さないでいるんですか!!
なぜ幸せになっていないんだ!!!!」
長い話しの最後。
蒼龍は私に怒りを想いのたけをぶつけてきた。
真剣に向き合うからこその言葉。
久しぶりに私を前にして、ぶつかってくる蒼龍を見た。
そしていつもなら込み上げる怒りの感情。
しかし今は、なぜか嬉しさを感じた。
孤独なこんな場所でも、翡翠には1人でも味方がいてくれた事。
それが嬉しかった。
龍王である私に真っ向から意見をしてくる蒼龍の姿。
他の者なら私の声を聞いただけで、震えあがって声さえも出せなくなる筈だ。
とても意見する事などありえない。
しかしそれを跳ね除ける、翡翠への真剣で真っ直ぐな気持ち。
辺りの空気を震わす程に伝わってくる強い怒り。
そして・・・。
何よりも。
スーが私との約束をずっと忘れずにいてくれていた事。
待っていてくれていた事に嬉しさを隠し切れなかった。
少なからずも翡翠は私に好意を持ってくれていた。
それが、私が求める気持ちなのかはまだ分からないが。
私の存在が翡翠の想いの深い所にある事が分かって嬉しかった。
怒りを露わにしても動じない私を見た蒼龍。
はっと急に気が付いた様に頭を下げた。
言い過ぎたと思ったのだろう。
怒りで我を忘れた事を後悔しているようだ。
蒼龍の真っ直ぐ気持ちは理解した。
しかしそれを認めるかは別の話しだ。
「スーは私の者だ。」
地を這うような低い声。
一声で頭を上げる事さえ出来ない。
反論を許さない力を見せつける。
その言葉の意味するもの。
ニ人の間に誰も立ち入る事を許さない。
断固とした意志が伝わってくる。
やっと取り戻したスー。
この為に、他の龍たちに力を誇示してきた。
力がものをいう世界。
だからこそ力で抵抗する考えさえも失くすほどの圧倒的な力。
私はそれを欲した。
誰もが恐怖で近づかず、孤独になってもその想いは変わらなかった。
肌が触れる感触。
自分の下にいる事を感じた。
腕の中に確かな温もりがある。
翡翠が自分の下にいる事に心から安堵する。
・・・誰にも渡しはしない。
・・・翡翠は永遠に私のものだ。
私は蒼龍に見せつけるように、額に一つ口付けをする。
これは独占欲と牽制。
私の者だという事実を認めさせる為の行動。
一言も発する事も身動ぐ事も出来ない状況。
力の差を見せ付ける。
次に青龍の国の王が現れたのは、蒼龍の話しが終わってすぐの事だった。
「もうしばらく時間を頂けないでしょうか。
明日には必ず、ご報告申しあげる事が出来ると思いますので。」
国王は恐る恐る、そう申し出てきた。
深く深く頭を下げ、許しを請う。
龍王の機嫌を損ねる事こそが恐怖。
その気になれば、国王程の龍でも一瞬で瞬殺出来る。
興味なさげに国王の言葉に耳を傾ける。
そんな事よりも今龍王の心を占めている思い。
いつでも、どんな時でも思いの先は翡翠の事。
それは服を掴んだままの翡翠。
身動き一つしない翡翠が気になった。
・・・何かあったの?・・・
早くその不安を取り除いてあげたい。
その為その日は、この国にとどまる事を承諾した。
案内された部屋。
やはりここも青で統一されていた。
派手差はなく、抑えた色調の家具や調度品。
それが部屋を落ちついた雰囲気にしてくれる。
私は大きな椅子にゆっくりと座った。
翡翠も静かに横に座ってきた。
ただ手はずっと私の服を掴んだままだ。
あの場所で蒼龍が話した自分の身の上話。
それを黙って聞いていた。
頷くでもなく、悲しむでもない。
ただ静かに下を向く。
なんの反応もせず、ただただじっと。
しかしニ人きりになってすぐに、翡翠は顔を上げ私を見つめてきた。
呪に抗いながら、それでも伝えようと必死に言葉を放つ。
私はそれを聞き逃すまいと、意識を向ける。
「きらい・・に・・ならな・いで。」
無表情な筈の顔が、なぜか今は泣きそうに見える。
絶対に嫌いになる訳がないのに。
自分の生い立ちを聞いた私が、心変わりをすると思ったのだろう。
今の翡翠はとても不安気に見える。
私は安心させる為に、優しく翡翠の頭を撫でる。
「私は何があってもこれから先、翡翠を手放す気はないよ。」
耳元でゆっくりと話す気持ち。
自分の思いがちゃんと伝わるようにと、一音一音思いを込めて。
そして柔らかな表情で包み込む様に抱きしめた。
すると今度は、無表情な筈の翡翠が微かに笑った様な気がした。
・・えがお・・?
途端に私の心に途轍もない、大きな安らぎが生まれた。
そうだ、もっとその笑顔がみたい。
翡翠の本当の笑顔が。
しかしそんな私の小さな願いさえを打ち砕く音がした。
終止符を告げる音。
トントントン。
静かな部屋にドアを叩く音。
開いたドアから入って来たニ人。
それを見た翡翠の身体が小さく震えた気がした。
確かあの男。
あの時翡翠を連れてきた男だ。
翡翠に対する酷い態度、手を上げようとした事を思いだした。
がっちりとした、無駄を省いた筋肉質の男。
黒い着物の様な簡単な簡素な服を着たその男。
異様に開けられ瞳、気味の悪い笑顔でそこにいた。
もう一人は女。
妖艶な顔つき、男が好きそうな色香が漂ってくる。
他の男なら欲望に取り憑かれそう体付き。
それを狙ってか、生の身体の影が見え隠れする服を身に付けている。
顔は綺麗に化粧され、上辺だけの笑みを浮かべている。
しかし目だけは笑ってはいない。
何よりもその気味の悪い目。
あれは何かを誘うような欲を含んだ目だ。
あの女から危険な匂いがした。
「お久しぶりでございます。
あの時は挨拶もなく失礼いたしました。
私はその子の父親で呪術師の長をしております海(かい)と申します。
そしてこの子は鈴(りん)。
スーの義理の妹になります。
この度は不肖な娘が自分の立場をわきまえず、龍王様の巫女などと。
あの子はあなたには相応しくないと存じます。
こちらの手違いで本当に申し訳ない事をしました。
変わりに鈴をあなた様の巫女にお召しいただきたくお願いにきました。」
気持ちの悪い笑顔を見せながら話す男。
龍王である私の前でも、上から見下すような雰囲気。
余裕のある態度。
この男はなんだ!!!
何を企んでいる?
それに翡翠の変わりにこの女だと。
何を勝手なことばかり。
私の巫女は翡翠だけだ。
腕の中で怯えている翡翠は身体を小さくした。
「スーが私の巫女に相応しくないと言いたいのか?」
鋭い目で見返す。
その場が一気に殺気だった。
「その言葉の通りでございます。
この子は呪術師の長の私よりも、強い力を持っています。
私には分かるのです。
今は存在意識の中ですが、恐ろしい程の力を持っています。
私の立場を脅かす存在
その種は今のうちに摘み取らければなりません。」
自分の言い分を勝手に押し付ける強引な言葉。
私は怒りで身体が熱い思いが込み上げて来るのを感じた。
「何が言いたい!」
「これで最後なると思いますので全てお話しましょう。
私はスーの存在を消してほしかったのです。
私にとって呪術師の中での1番を不動の物にする為には、スーは邪魔な存在なのです。
散々他の者に奪い奪われる中、命を落とす事を願いました。
しかしみな、命までは取らなかった。
そして最後にはこともあろうか、あなた様はスーに執着された。
これでは殺す事は出来ません。
だからその変わりに、あなた様の下に行く日に呪をかけたのです。
それも解ける事のない様にニつの言の葉で。」
なんと呪をかけたのは実の父親だったのか。
だから翡翠の本当の名前を知っていたんだ。
命の名前を知っていたんだ。
「だがそんな事をすればお前もただでは済まない筈。」
「その通りです。
名付けた者が命の名前を使って、邪な目的で使えば同じだけ自分にも返ってくる。
それは承知しています。
しかしその事よりも、私は私よりも強い力を持っているスーが憎い。
呪術師の中で一番強いのは、私なのです。
私が1番強くなければならないのです。
しかしなぜか厳重にかけていた、その呪も解けかけている。
だからもう1度かけ直す必要があるのです。」
なんと傲慢な考え。
狂っている。
自分の子どもに、こんなむごい事をするとは。
人間の親は子供を愛おしむ者ではないのか?
大事な存在ではないのか!!!
「スーの呪の言の葉を教えてもらおうか!」
だが私にはお前の狂った理屈など関係ない。
私が心を動かすのは翡翠の事だけだ。
・・・誘!!
・・・心言!!!
私の発した言葉と殺気に身体が硬直する。
これは、短時間だけの簡易的な催眠術。
本格的にこの類の力を使わなくても、今はこれで充分だろう。
身体が抵抗しようとも、知らぬ間に言葉が勝手にこぼれ出る。
翡翠を縛っていた言の葉。
それは。
・・・ひすい・・・
命の名前に命じる。
・・・すべてにあらがうな・・・
どんなものからも抵抗する事を許さない。
・・・あいしている・・・
心からこの言の葉を告げられるまでは、お前は永遠にうつろいの中。
最後の呪に込められた言葉。
自分の子どもの幸せを否定しているとしか思えない。
翡翠を愛するものがこの先現れないと思ったか。
翡翠は人に愛される事はないとでも。
なんと馬鹿げた考えだ。
翡翠はお前が思っている以上に優しく強い。
周りに愛されるに値する人間だ。
もうお前は翡翠には必要ない。
私がいる。
親に愛されなくても、その分それ以上の愛をもっと与えてやる。
私が翡翠の全てを受け入れてやる。
身体の硬直が解けた男。
余裕の表情のまま、にやりと笑いを浮かべた。
それはこれから始める事への合図。
「今度は私の番ですね。」
ん?!
何かを仕掛けてくるつもりか!
今まで以上に挑戦的な態度をとる。
「私から簡単にスーを奪う事が出来ると思っているのか!!」
声を荒げる私に男はやはり、余裕の笑みで答える。
「簡単になどと思ってはいません。」
男は1度目を閉じると大きな声で叫んだ。
空気が淀む。
闇の力が近づく気配。
「解!」
すると男の身体が異様に赤く光りはじめた。
服から出ている肌の部分から得体の知れない文字が浮かび上がっていた。
自らの身体に呪をかけているのか。
なんだこの異様な赤い文字は!
「それなりのリスクがないとあなたには敵わないでしょうから。
どうせスーに命の名前を悪用して呪を使った呪いで、老い先短い身です。
自分の寿命と引き換えに時間稼ぎをさせてもらいます。」
そう言うと突然、男は立ち上がり私に突撃してきた。
不意を付かれ一瞬、身体に触れられる。
次の瞬間。
否!
なに!!
動かない!!!
身体が動かない!!
私の身体を少しの間でも拘束する程の力。
この力は一体なんだ?
その隙に私の腕からするりと、翡翠を奪い取った。
言葉さえ発せない。
・・・翡翠にどこへ連れ行く!!!・・・
心の叫び、絶叫は声にならず消えた。
男はスーを連れて素早くそのまま出ていってしまった。
残ったのは翡翠の義理の妹、鈴と名乗る女。
翡翠の妹だというその女はさも嬉しそうだった。
こいつも狂っている一人か。
慣れなれしくも、私の腕に自分の腕を絡めてきた。
・・・私に触るな!・・・
よほど自分の身体に自信があるらしい。
くねくねと身体を摺り寄せてくる。
・・・止めろ!・・・
色仕掛けなど私には通用しない。
・・・俺に触れていいのは翡翠だけだ・・・
ただ気持ちが悪い行為。
同じ女だというのに、嫌悪感しか感じない。
吐き気をもよおすだけだ。
しばらくすると何とか言葉は発っせられるようになってきた。
「スー・・はど・こだ。」
私はその女を睨みつけて言った。
「スーを・・どこ・へやった!」
身も凍るような低い低い声。
女は父の呪術の力をよほど信用しているようだ。
私の言葉にも余裕な態度を崩さない。
そしてなお、俺の怒りを逆なでする事を言ってきた。
「スーは大丈夫ですよ。
紅龍様がスーをかわいがってくれるそうですから。」
何?
紅龍だと!!!
「スーよりも私の方が満足させられると思いますよ。」
身体が動けないのをいい事に、さらに触れてくる。
最初は遠慮がちに触っていた手が積極さを増してきた。
頬、首筋、唇、肩、背中と大胆に唇で舌で舐めていく。
今度は頬を両手で支えられ無理やり口付けしてきた。
気持ち悪い感触。
ねっとりとしたものが余計に不快感を与える。
ぞわぞわとする狂おしい憎悪。
得体の知れない怒りの塊が身体の奥底から湧き出てくる。
私を浸食するように舌が口の中に入ってきた。
まるで私の欲望を駆り立てるかの様に。
だが私にとっては反対におぞましいだけだった。
私に触れていいのは翡翠だけだ。
なおも女は妖艶に笑い私を誘う。
そしてその手がもっと先へと伸ばした頃、私の怒りは頂点に達した。
パキン!!!
何かが弾けるような大きな音が聞こえた。
それはあの男にかけられた不愉快な術を破った音。
「どけ!!汚い手で私に触るな!!」
私は自由になった腕で女の身体を思い切り払い落とす。
女は強く床に叩きつけられた。
女の身体は一瞬で遥か遠くに吹き飛ばされた
かなりの衝撃で動く様子もない。
瀕死もしくは事切れたようだ。
あの戦いしか興味を示さない龍が、なぜ翡翠を欲しがる?
完全に身体の自由を取り戻した龍王。
外に出ると本来の姿、龍に戻った。
日の光を浴びて神々しく輝く身体が見えた。
まるでこの世界を照らす光を独り占めしているように。
それは眩しく光輝く。
見据える先は翡翠が連れ去られた紅龍のいる赤龍の国。
ゴオー!!!
ゴオォー!!!!
震える空気。
尋常じゃない程の振動と熱。
空気中のわずかばかりの水分さえもその熱で蒸発し燃え上がる。
大地が、空が、大気が、全てが怒りに満ち満ちていた。
怒りで目を真っ赤に染め、ピリピリした振動で身体全体が震えていた。
怒りを身体にまとった龍王。
今は誰の言葉も聞こえない。
思いはただ1つ、優しいスーという存在。
龍王は凄まじい勢いで飛びだした。
地面が揺れ、建物が壊れるような嫌な音がした。
城の中の人たちと蒼龍は驚いたように外に飛び出した。
龍王の腕にスーがいない事に気が付く。
そして本来の姿で荒れ狂う姿。
どうなっているんだ。
先程どうしても娘に会いたいと、スーの父親が訪ねてきた。
不信に思ったが。
龍王が一緒だから下手な真似は出来ないだろうと判断した。
しかしそれがあの父親の思うつぼだった。
あの男がまたスーに何かしたに違いない。
あれ程までに怒りを露わにする龍王を見るのは始めての事だった。
あれがスーの為だけに見せる、剥き出しの激しい感情。
きっとスーの身に何か起こったんだ。
龍王の側にスーの姿はなかったのが何よりの証拠。
なぜあの時、自分も一緒に同席しなかったんだ!
これは安易な考えで会わせてしまった自分の判断ミスだ。
龍王がいるからと、高をくくっていた。
あそこまでスーの対して、酷い事をするあの男。
龍王に対し、何か手立てを考えていないわけがないのに。
何かを企んでスーに会いに事ぐらい予想できた筈。
あの時私は他の件で仕事をしていた。
私は愚かだった。
その間スーが、連れされて事さえ知らなかった。
スーの事を一番に考えるべきだったんだ。
今更、後悔してももう遅い。
スーは連れ去られてしまった。
自分の過ちに項垂れる。
落ち込みかけたその時、凄い勢いで飛び出していった龍王の姿を思い出す。
龍王はスーの行き先を知っている?
きっとそうなんだ。
私はこんな所で何を落ち込んでいるんだ!
自分が犯した判断ミスで、スーは連れ去られてしまった。
でも龍王は諦めてはいない。
そうだ、自分も諦めない!
スーは必ずこの手で救いだす!!
私は弱気な思いを吹き飛ばした。
失敗は自らの手で取り返す!
決意のこもった瞳。
今しがた、龍王が飛びたった方を見据える。
そこには、今にも視界から消えそうなくらい遠くに。
砂の一粒ほどに小さくなった龍王の姿を見つけた。
蒼龍も龍王の後を追って空へと飛び出した。
赤龍の国の龍たちは、いつも強いものを追い求めていた。
何よりも強いものが美しい事とされ、尊敬され、尊ばれてきた。
そのせいで国は、戦いが毎日のように起こり荒れ果てていた。
赤龍の国の王、紅龍(あかりゅう)。
紅龍は龍の中で一番強い龍王の本当の強さが見てみたかった。
ただ何者にも屈しない純粋な強さに憧れていた。
凄まじい破壊力と破滅的な力。
反抗する気持ちさえ起こさせぬ程の巨大な力。
恐怖さえ超越した強さを、本能が求める。
紅龍はどの赤龍よりも、その本能に正直で真っ直ぐな龍だった。
闘ってみたい!!
その強さを一度でいいから、自分の身体で感じてみたい。
身をよじるほどの渇望。
だからこそ、固執するスーを奪いわざと怒らせたのだ。
紅龍の愚かな願いの為に。
ただその目的の為だけに。
噂では人間の女を巫女を欲していると聞く。
その巫女の為だけに今の破壊的な力を手に入れたとも聞く。
だからこそ、巫女を憎んでいる父親に接触した。
そして自らの血を与えた。
男はより強力な術を発動させる為に。
紅龍は本当の強さを見たいという願望の為に。
それぞれの思惑の中、二人は手を結んだ。
龍の血と巫女程ではないが、それ相当の力を持つ男の血。
それが混じり合うと呪や術を増幅する事が出来る。
巫女である翡翠の血ともなれば、それは飛躍的な増幅が期待できる。
だからこそ、スーはここまで様々な者から狙われているのだ。
まさに生かさぬように殺さぬように。
蒼龍は龍王を追って飛び続け、先を急いでいた。
龍王の巨大な力は遠く離れたここからでも、すぐに認識できた。
怒りに身を任せた殺気。
我を忘れている。
怒りでスーを見つけて取り返す目的。
その本来の目的さえも今は、見えていない。
強い憎悪と怒りの思いに囚われている。
あれはなんだ?
得体の知れない物が動いている。
遥か右前方、何かが移動して行く。
何もない砂塵の中、明らかに自力で移動する物を見つける。
そして・・・。
この感じ、この優しい気配。
これは間違いなくスーの気配だ。
一足遅れて飛びたった蒼龍。
龍王を追う途中で眼下に連れ去られたスーの姿を捕らえた。
縛られたスーは大きな男に肩を掴まれたまま、大きな動物に乗り移動していた。
角が頭の上に一本ある、大きな身体のこの動物。
棒(ぼう)と呼ばれる動物。
怒ると尻尾が棒の様に長く伸びる所から名が付けられた。
比較的どこにでもいる動物で、大人しい性格。
どっしりした安定感もあり、移動手段としてよく用いられる。
私はすぐに降下する。
そして行く手をさえぎり降り立つ。
龍の姿のまま突然現れた私の姿に、恐れおののく男。
急に移動を止めた。
そしてそのまま、固まったように動けない。
見開いたままの血走った目。
眩い閃光。
思わず閉じられる目が再び開けられた時。
目の前に人の形に姿を変えた蒼龍の姿があった。
男の身体から尋常ではない程の汗を吹き出す。
「お前はスーの父親だったな。
スーをどこへ連れて行こうとしている?!」
恐怖で顔の色がおかしい。
いや、顔だけではない。
身体全体が異様に赤い?
なんだ、これは?
この男は、自分の身体に何をした?
狂気が私を見つめる。
逃げ道はないと悟った男。
やはり狂った事を言い始める。
「スーは差し上げます。
どうかどうか私の命だけはお助けてください!」
は?
命乞いだと!
自分の娘を庇うどころか、自分が助かる為に差し出そうというのか。
なんと醜い男だ。
とてもスーの父親には思えない。
心優しいスーと血の繋がりがあるとは到底思えないこの男の言動。
俺はふつふつと怒りが込みあげてきた。
「差し出すなどと!!!
スーはお前の人形ではない!!」
私はその男を叩き落そうと手を挙げた。
すると今まで静かだった肩に担がれていたスー。
激しく身体を動かせた。
男は急な動きに驚き、掴んでいた腕の力が緩む。
するとそれを幸いに、私と男の間に入り込む。
スーは男を身を挺して庇おうとしたのだ。
振り上げた手を寸前で止めた私。
言葉は発していないが、私を見つめる瞳が大きく揺れた。
そして・・・。
・・・止めて!・・・
と言っている様に感じた。
こんな男でも庇おうというのか?
ここまで酷い仕打ちをされても、助けたいと思うのか?
私からしたら、この男がどうなっても構わない。
しかし命懸けで庇うスーの気持ちは裏切れない。
私は軽々とスーを奪い取り、抱え上げる。
触れた肌の柔らかな温もり。
途轍もない程の安心感が私の中に入ってきた。
私のせいで一度は、汚い男の手に連れ去られた。
しかし今は無事に、私の手の中に戻ってきた。
・・・よかった!・・・
喜びの感情に身体が満たされる。
いつしか男への怒りは、何処かに飛んでいってしまった。
もうこの男に用はない。
「目障りだ!!
早く立ち去れ!!!」
その言葉を聞いた男。
一度大きく身体を震わす。
そして直ぐさま棒に乗って、さっさと行ってしまった。
その後ろ姿を目で追うスー。
一度も振り向かない男の姿を、小さくなるまで見つめ続けた。
今までと変わらない表情。
しかし瞳だけが、泣いているように潤んで見えた。
視界から完全に消えた後、今度は私に顔を向けた。
そして。
「・・あ・り・がとう・・・」と
必死で感謝の気持ちを言葉で伝えてきた。
それはそれは小さな声。
でもそれは大きな強い気持ち。
あんなに酷い事をされても、命がけで父親を庇ったスーの優しさ。
父親から拒絶されても、スーは優しさを変わらなかった。
なんという、いたわり、優しく強く大きな心なんだ。
その心に触れ、言い知れぬ愛おしさが心を占める。
そして私の巫女にしたいという思いを一層強くする。
「俺を覚えているだろうか?」
「そう・・り・ゅう。」
苦しいながらも私の名前を呼んでくれたスー。
俺はそっと抱き寄せる。
別れる最後の日。
自分の思いを伝える事はなかった。
スーの龍王への気持ちを知ったから。
抱きしめたスーの温かさ。
触れてしまったスーの柔らかな肌。
それを感じながら、諦めきれないと思いが押し寄せる
やっぱり私はスーが好きだ。
胸の中が締め付けられる痛み。
これは切なさという感情。
「わたし・・を・りゅうおうの・・ところ・へ。
おね・・が・・い」
だがスーが求める者は自分ではない。
スーの求める者。
それは龍王の存在。
自分がどんなに求めても報われない思い。
それならいっそ、このまま逃げてしまおうかとも思う。
ニ人だけの場所でスーを閉じ込めてしまおうか。
龍王の事だけを思い、龍王の事で心をいっぱいにしているスーの瞳。
そんな眼で見ないでほしい。
・・・今目の前にいるのは、龍王ではないんだよ・・・
・・・今だけは自分だけを見てて・・・
・・・今だけでいいから・・・
叶わない愛への欲望。
激しい独占力。
波打つような感情の高まり。
私の中にもそんな激しさがあったんだと驚く。
俺は一度ぎゅっとスーを包み込む。
スーは心配そうに、私を覗き込む。
スーの匂いと穏やかな優しさ。
触れた肌から心地良く伝わってきた。
愛おしスー。
お前の願いは私の願いだ。
俺は決心する様に腕からスーを離し、少し遠ざかる。
ゴォオォオ!!!!!!!!
轟音と共に龍の姿に戻った私。
スーを左手で優しく握ると大きく飛び上がる。
スーの願い。
それは龍王の下へ。
その願いは叶えてあげる。
私は龍王のいる方に飛び立った。
紅龍は砂漠の真ん中にいた。
ここで龍王を待ち構えていたのだ。
名前の通り、紅の身体。
あちこちに泥と血の塊がこびり付いている。
数え切れない程の大小様々な傷。
古いものから新しいものまで見うけられる。
よく鍛えられた筋肉。
翼は他の龍族よりも小さめだ。
だが急な身体の移動、機敏さが望まれる日々の戦いの中。
その小回りの効く小さな翼の方が有利といえた。
もうすぐ龍王と本当の力で戦える!!
近づいてくる龍王の気。
空気が大地が怒りのため震えていた。
龍王の怒りが悲しみが伝わってくる。
猛烈な殺意の塊が真っ直ぐ向かってくる。
我を忘れる程の怒りに囚われ、暴走は激しさを増すばかりだ。
それと正反対に紅龍の顔は喜びで溢れていた。
じわじわと迫りくる高揚感。
来る!
もうすぐ来る!!
今か今かと待ちわびる。
そしてとうとうその姿を目で捕らえた。
・・・これが龍王・・・
龍王の周りには凄まじい風。
そして稲光りを伴う気迫。
大地が大気が空が龍王の怒りに同調して嵐を連れて来た。
龍王の気によって天候をも味方に付ける力。
凄まじい破壊力。
これだ!!
これを待っていた!!!
その怒り狂った龍王の見て、さも嬉しそうに高笑いをする。
龍王のありったけの殺意に満ちた怒り。
・・・素晴らしい力・・・
・・・これぞ究極の強さ・・・
・・・敵うはずがない絶対的な力の差・・・
それは最初から理解っていた事。
俺は赤龍の国で強さの頂点、皇帝の座に就いた。
もう国内では、だれも相手になる者はいない。
自分をも超える存在。
後はこの世にただ一人。
それは龍王のみ。
だからこそ身体全てでそれを感じたかった。
この瞬間をどんなに待ち望んだ事か。
自分の望みが、叶った瞬間だった。
龍王は紅龍を見つけると躊躇なく突撃してきた。
紅龍の身体が大きく傾く。
旋回した龍王が急速に近づく。
怒りに身を任せ赤いオーラが荒々しく燃え上がる。
二度目の突撃。
しかしそれを、紅龍はすれすれの所で何とか交わす。
どうも頭に血が上り正常な判断が出来ないようだ。
突撃だけの単調な攻撃が続く。
だから旋回するまでに、間があると思って油断した。
次の突撃は体勢を立て直す事なくやって来た。
真後ろからの突撃。
紅龍は反撃する間もなく吹き飛ばされた。
力の差は歴然だった。
紅龍の大きな身体はこの葉の様に大きく宙を舞った。
そして受け身も出来ずに、真っ逆さまに地上に激突した。
たった三度の短い交戦の中、気が付かない程に深手を負っていた。
全身が痺れて使いものにならない。
龍王に触れる事さえ、かすり傷さえ与える事は出来なかった。
圧倒的な力の差。
勝負は呆気ないものだった。
これが現実。
それでも紅龍は満足だった。
肌に感じる、心臓を伝わるびりびりとした龍王の力。
自分よりも強い力を見せつけられた高揚感。
満足感だけが紅龍の心を占める。
そして、しばし目を閉じる。
戦いは終わった筈だった。
しかし、怒りで我を忘れた龍王
抑制の無くなった力の暴走。
理性を失くし、辺りを憎悪と憤怒が充満する。
こうなったら誰もこの暴走を止める事は出来ない。
怒りが憎悪が膨らみ続けていく。
なぜ怒っているかさえ忘れて、ただ怒る好意のみが取り残される。
空が空気が震えていた。
大地が裂け、幾重にも亀裂がはしる。
いなびかりが光る。
龍王の有り余る膨大なる力。
今にも爆発しそうな勢いで、その力は抑えを失って広がり続ける。
2匹の龍の戦いを遠い場所から見守っていた翡翠。
蒼龍と共にその行く末を見守っていた。
しかし戦いが終わっても、一向に止む事のない龍王の暴走。
苦しそうに、ただ理性を忘れて暴走し続ける。
・・・龍王!!!・・・
・・・全てを忘れてしまったの?・・・
身体が、心が辛そうに咆哮を続ける龍王。
止める術を失くした姿。
もはや自分では感情を制御できないでいた。
・・・助けてあげたい。・・・
・・・助けなければ!!・・・
・・・止めなければ・・・
・・・龍王自身が傷ついてしまう!!!・・・
・・・戦いは終わったんだよ。・・・
・・・私はここにいるよ。・・・
大きな壁、重い何かに押しつぶされそうな苦痛に耐える。
呪に抗う事への代償。
感情の波が来るたびに激痛が襲ってくる。
しかし龍王の存在が。
縛られた身動きの出来ない筈の私の本能を揺さぶらせる。
呪に抗い激痛に耐えてもなお、私の感情は龍王を助けたいと願う。
翡翠は歩み始める。
それに気付く蒼龍。
「近づいたら危険だ!」
しかし翡翠の顔を見て蒼龍は、止めようとした手が止まった。
真剣な瞳の奥のもっと奥。
呪で抑え込まれている筈の感情をも覆す強い気持ち。
見据える先。
いま見えている者は龍王のみ。
小さな身体にどこからこんな強さが出てくるんだ。
ちっぽけな弱い人間の筈なのに。
翡翠の気迫にただ立ち尽くす。
今の蒼龍にはには見守る事しか出来なかった。
翡翠と龍王の間に立ち入る事の出来ない聖域。
・・・行くな・・・
静止の言葉をぐっと飲み込む。
見守る蒼龍は、熱い思いと拳を握りしめる。
それともう1つ。
じっと見つめる視線。
紅龍は、翡翠の動向にくぎ付けにされていた。
そして龍王との戦いの高揚感が一気に冷めていくのを感じた。
翡翠を見た途端、崩れ去るもの。
それは自分の今まで望んできた強さへの形。
見せつけられる衝撃的な事実と現実。
今まで思っていた純粋なる力による強さ。
だが、それは間違っていたというのか?
それ以上の強さが目の前にある。
ずっと変わる事のない強さ。
変化する強さとは違うもの。
今までの考えを根本的に覆すもの。
長い間追い求めていた強さへの憧れ。
それが今ここにある。
紅龍は動けない身体を自力で何とか動かし、翡翠の姿を目で追う。
龍王の攻撃する光の玉が容赦なく雨の様に降り注ぐ。
凄まじい音と熱風。
飛び散る石の破片が砂となり凶器になる。
しかし不思議な事に、翡翠に直接当たる事はない。
どれも寸前の所を避けて後方へと消えていく。
まるで光の玉の1つ1つがまるで生きているかの様だ。
翡翠のすぐ横をかすめていく。
怖くない。
怖くはない。
龍王は全ての感情を忘れている訳ではない。
荒れ狂うこの場所。
龍王と翡翠の長い離れた距離。
例え離れていても龍王は、翡翠を認めている。
それは龍王の攻撃が直接当たらない事がその証拠。
これは龍王の意志。
我を忘れても心のどこか、僅かにも翡翠への想いがそうさせている。
傷つけたくないという、本能が働いているしか思えなかった。
しかし吹き抜ける凄まじい風の刃。
直接攻撃は当たらないがそれ以外の衝撃には防ぐ術はない。
人間という生き物のこれは弱さ。
いつしか容赦なく小さな傷を翡翠の身体に与えていた。
翡翠の身体から血がいたる所から流れだす。
血液が外へと流れすぎて、気を遠くなる。
それでも前へ前へ。
爆風によろけながらも、龍王の下に近づいていく。
スーはすでに全身に多数の傷を負っていた。
重い身体を引きずり今にも倒れそうな姿。
それでも諦めずにただ前に進んでいく翡翠。
傷だらけの小さな身体。
服は最初から朱い色だったかの様に全身真っ赤に染められていた。
呪に抗いながら、傷の激痛に耐えながら。
それでも前へ前へ少しでも前へ。
それを悲痛な面持ちで見守る青龍。
何度も止めようとしたか。
大声を出して追いかけようとしたか。
引き留めようと考えたか。
それを止めたのは、スーの想いを考えての事。
スーが今望む事。
スーの願い。
それは全て龍王に繋がっている。
俺はぐっと奥歯を噛みしめ、力いっぱい拳を握る。
その姿。
その懸命さ。
小さいはずの翡翠の身体がとても大きく見えた。
たかが人間の娘、か弱き人の子の筈なのに。
翡翠の強さ、内面の強さ。
何ものにも囚われない、勇気。
龍王を助けたいというとてつもなく大きく、強い心。
強い器の持ち主。
何なんだ。これは。
これぞ本当の強さ。
力ではない。
心の強さ。
誰にも覆せない強い想い。
紅龍は認めざる得ないと思った。
根本から自分の考えが間違っている事に気付いた。
今まで見た事も考えさえも及ばなかった事。
俺の知らない世界にはこんな強さがあった。
強欲なまでの強さへの探究心。
・・・もっとあの女の事を知りたい。・・・
翡翠の中に、自分が追い求めていもの。
求めて止まなかった理想の強さ。
本当の強さを見た。
そしてやっとたどり着いた。
龍王の翼も全身も心も全てを擦り減らした姿。
すでに声さえ出なくなっていた。
ただ膨大な力を放出するだけの機械のような存在。
目は見開かれたまま私を見つめる。
見ているけど、捕らえない瞳。
固まったまま反応がない。
私は手を思い切り伸ばし龍王の耳元に触れる。
「もう・・やめ・・て。
わたし・ここ・・・にいる・よ。
煌(コウ)!!!」
・・・煌・・・龍王の本当の名前・・・
翡翠は強い風に飛ばされないようにしがみつく。
そして鼻先を優しく抱きしめた。
・・・ひ・す・い・・・
よかった!
龍王が反応してくれた。
消滅!!!
瞬なる出来事。
今までの凄まじい負の力は一瞬のうちに消滅した。
激しい憎悪と怒り。
辺りに充満していた恐怖の塊が消えた。
急に辺りは何もなかったかの様に、静寂を取り戻した。
今までとは一転、優しい気が辺りを包む。
荒んだ心に傷ついた身体に安らぎを与えていく。
翡翠が存在するだけで、こんなにも周りが穏やかになっていく。
癒させていく空気。
癒されていく心。
だが龍王は本当の姿のまま動かなかった。
いや動けなかったのだ。
力を出し尽くした龍王には、人の形になる力さえ残されてはいなかった。
私の呪に抗ってまでも止める事の出来ない、龍王への感情。
真っ直ぐな想い。
その想いを込めて口づける。
龍王の眼が光を取り戻す。
戻っていく感情。
包み込まれる優しさ。
翡翠は耳元で囁く。
「煌・・こう・・・わたし・・はここ・に・・いる・よ。」
煌。こう。龍王の本当の名前。
大切な命の名前。
龍王もまた翡翠にその名前を教えていた。
命さえも捧げる程の存在。
命以上のかけがえない存在。
翡翠は龍王にとって、それほど大切な存在だった。
翡翠は自分の腕から流れ出る血を自分の口に含む。
自分だけでは飲み込む力さえ残されてはいない。
だから自分の口から直接、龍王の口の中に流し込む。
何度も口移しで血を含ませていく行為。
・・・生きて欲しい・・・
翡翠の涙と共に流し込まれる血液。
巫女の血。
呪われたこの血。
呪術師の長である父と、濃い巫女の血を持っていた母の間に産まれた私。
強い血を作る為にこの世に産まれてきた。
私のこの血のせいで、今まで幾つもの争いを呼んできた。
自分の存在は戦いしか呼ばない。
いっそ・・死さえ望んだ事もあった。
その中で出会った龍王との出逢い。
私の悲しみさえ、包んでくれた大きさ。
不器用だけれど、決して裏切る事がないと感じさせてくれた。
ずっと側においてくれた。
何も言わず、手を握っていてくれた。
私は嬉しかった。
孤独だと思っていた。
寂しいとさえ言えなかった。
そんな私を包み込み、安らぎをくれた。
居場所を与えてくれた。
今だけは、自分の血に感謝する。
自分の血が龍王の中で混じり合い力となる。
それだけで嬉しかった。
龍王の為なら私の血を全部あげても構わない。
この身の全てを捧げても構わない。
口の中にとても温かい物が流れ込んできた。
一口飲み込むごとに力が戻っていくのがわかる。
満たされていく力。
癒されていく心。
徐々に覚醒していく。
味覚が嗅覚が、身体の機能が目覚めていく。
この口の中に流れ込むもの。
これは血??。
誰の?
それも甘くて柔らかくて優しい味。
私はゆっくりと眼を開ける。
そこには、身体中傷だらけの弱弱しいの翡翠の姿があった。
スーは自分の血を私に口移しで与えてくれていたのだ。
あの女の気持ち悪い口づけとは、まったく違う感触。
もっと、もっとと切望、欲望が叫ぶ。
与えられるだけのなすがままの俺の身体。
スーを確認すると本能が動き出す。
スーの血を身体を心を全てを食べつくしたい。
俺はいつの間にか、むさぼる様にスーの唇を吸い尽くしていた。
スーの血の驚くべき力。
私は人の姿になれる程に回復をした。
と同時に翡翠の身体が力を失う。
とっさに倒れ込んだ身体を支える。
「すぐに呪から解放してあげるからね。」
私は手を翡翠の頭に軽くのせる。
「龍王の名においてここに命じる。
命名翡翠の呪の言の葉。
””あらがうな”” 自由な意志の解放
””あいすること”” 翡翠へのわが命とともに歩む未来
嘘偽りない愛。
変わる事の愛をここに誓おう。
これまでの囚われたことわりより全てを消滅せよ
全てを解放せよ」
一度だけ翡翠の身体は大きく震えた。
支える腕の中で、翡翠が弱々しくも眼を開けた。
その眼には今までとは違う光が差し込んでいた。
翡翠の眼の中に久しぶりに、自分の姿が映し出せれた。
嬉しさで喜びが身体の底から湧き出てくる。
欲望のままに今度は私から口づける。
全てを食い尽くす様に。
長い長い口づけ。
想いを移し込むように。
こんなに愛おしい想いを今だかつて知らない。
自分自身にも分からないこの熱い想い。
翡翠にだけに向けられる感情。
私はやっと自分を取り戻した。
城に戻った龍王と翡翠。
それになぜだか蒼龍と紅龍まで付いてきた。
2人の目的は同じく翡翠の事のようだった。
蒼龍は異性としての特別な感情。
紅龍は理想の強さに惹かれていた。
龍王の機嫌はすこぶる悪かった。
ニ人はほとんどの時間を、翡翠の寝ている部屋で過ごしていたからだ。
身体を動かす事の出来ないスーを、公務でいない間ニ人は看病していた。
翡翠の警護の事を考えれば、ニ人の強さは申し分のない事。
だが龍王には面白くなかった。
あれから何度か目を開けては、弱々しい笑顔を向けてくれた。
心配かけまいとしているのだろう。
その気遣いが堪らなく愛おしい。
私がつけた傷は思いのほか深いものだった。
その為、高熱を出し、幾日もそれは続いた。
龍王は公務が終わるとすぐに帰ってきて看病した。
そして甲斐甲斐しく翡翠の世話を焼く。
そして何度も何度も謝った。
謝るという行動。
自分の否を認める行為。
こんな事をするのは始めての事だった。
きっとあの龍王に、頭を下げさせる人間は翡翠ぐらいだろう。
翡翠はその度、首を横に振った。
「もう自分を責めないで、ね、お願い。」
高熱で呼吸が荒い。
そして真っ赤な顔。
苦しい息の中、優しい言葉を紡ぐ。
私は優しく頭を撫でた。
触れた場所から、まだかなり熱が高い事がわかる。
これ以上、気を使わせたくはない。
「分かった。」
私は翡翠の熱った小さな手を、包み込むように握りしめた。
「ありがとう。」
そう言うとその言葉に安心したのか、また眠ってしまった。
翡翠は私の後悔という感情を、そのまま包んで癒してくれた。
一週間ほどするとやっと翡翠の熱が下がり始めた。
意識がはっきりしてきたある日。
紅龍と二人の時間。
別人のように優しい表情をみせる紅龍に翡翠は戸惑っていた。
そんな翡翠に紅龍は、今までの事を聞かせた。
本当の強さについて。
その為にやってきた事実を。
自分のしてきた事全てを包み隠さず話した。
「俺は産まれた時から強いものに憧れ続けてきた。
その為にはお前からしたら、惨忍で冷酷な事を数えられないほどやってきた。
これから先もその気持ちは変える事はない。」
翡翠の父親を利用し、龍王の力を引き出そうとした。
自分の都合で傷つけた事実は重くのしかかる。
俯きじっと話しを聞く姿の翡翠。
震える肩。
泣いているように見える。
その時一滴の水滴が、落ちる
それを見た瞬間。
今まで感じた事のない感情が押し寄せる。
それは後悔という感情。
今までの自分がしてきた事に対しての。
そして、一番深い後悔。
それは翡翠を直接ではないにしろ、傷つけてしまった事。
「すまない事をした。」
紅龍から自然と出てくる謝罪の言葉。
その言葉に反応して顔を上げる。
その目からニ粒目の水滴が溢れる。
「もういいです。
本当の事話してくれて・・・あの・。
それに謝ってくれましたから。
人に謝るのは勇気のいる事だと思うから・・だから。
もう、自分を責めないでください。」
赤い目のまま弱々しくも笑ってくれた翡翠。
人を許す事の出来る強さ。
あれだけ酷い目にあったというのに。
恨まれても仕方のない事をしたというのに。
翡翠はそれを許してくれると言った。
紅龍は興味以上の感情が芽生えるのを感じた。
そしてそれは恋するという思い。
また一つ新しい感情の誕生。
それは心の芯が熱くなる感覚。
今日も翡翠の部屋には蒼龍と紅龍の姿があった。
「いい加減に帰ったらどうだ?」
龍王は2人に向かって言った。
「私はスーの本当の笑顔を見るまで、帰るつもりはありません。」
力強い口調、蒼龍の気持ちが伝わってくる。
「俺はスーに興味があるから、帰るつもりはない。
それに俺たちが帰ったら、龍王の仕事の間は誰がスーを守るんだ?」
偉そうに反論してくるが、その言葉に押し黙る。
確かに今の状況、病気の翡翠を連れ回すわけにはいかない。
だが一人にしておくのは危険すぎる。
仕方がないが翡翠が回復するまではこのままの方が良さそうだ。
だが・・・気に食わない。
ニ人の返答に龍王は眉をしかめる。
三人が話している中、目を覚ます翡翠。
張り詰めた空気。
不機嫌な龍王の気が部屋の中を覆い尽くしていた。
「龍王、そんな怖い顔してどうしたの?」
翡翠の優しい声。
その一言で穏やかで優しい空気に変わる。
そしてみんな一瞬で笑顔になる。
みんな翡翠に近づいた。
「なんでもないよ。」
龍王は安心させるように手を握る。
「龍王はスーを独り占め出来ないのが気にくわないみたい。」
そこにすかさず蒼龍が言う。
「そんな心の狭いやつはほっとけばいい。」
と、紅龍も牽制する。
言葉は荒いが本当に言い合っている訳ではない。
なぜか温かい感情になるのはなぜだろう。
本当に怒っているなら、ニ人共ただでは済まないだろう。
冷酷で非情な龍王。
他に何も関心を示さない。
無表情な顔で刃向うものには容赦はない。
そんな噂を聞いていた。
それがどうだろう。
今俺の前にいる龍王は別人のように思われた。
この優しい表情。
翡翠の前では人間に程遠いものの、感情が分かりやすい。
蒼龍は思っていた。
まだ本当に龍王を信じたわけではない。
だが龍王スーに向ける表情や、言葉使い、態度。
どれをとっても本当に大切にしている事が伝わってくる。
そして何よりスーがそれを受け入れている。
それは嬉しい事であり、又寂しい事でもあった。
だがスーの幸せを守る。
どんな事があっても、その笑顔だけは。
この先このスーへの想いが通じなくとも、この決意がぶれる事はない。
紅龍は今まで感じた事のない感情に戸惑っていた。
今まで強い力に魅入られてきた。
自分以外の者を排除する力。
強い力こそが俺が追い求めるもの。
物心ついた頃から、戦いの中にいて己の強さのみで生きてきた。
それが全てであり、それ以外を知らなかった。
しかしあの時、龍王を助けようとするスーの姿を見て愕然とした。
小さな身体、人間という儚き人種、弱気もの。
どれを考えても強さに比例するものはなかった。
しかしあの姿を見たとき、今までに感じた事のない大きな本当の強さを感じた。
これこそが、追い求めてきた本当の強さ。
力の強さではない、心の魂の強さ。
スーの中に俺の求める強さを見た。
それはスー自身への興味に通じていた。
この気持ちの名前を紅龍はまだ知らない。
ゆっくりと流れる時間、空間。
スーは随分と元気を取り戻していた。
しかしまだ連れまわすまでは回復していない翡翠。
部屋に残して仕事部屋へと歩く。
翡翠の温もりを側に感じない虚無感。
なくてはならない存在である事を実感する。
少し前なら、翡翠がどんな状態だろうが離れる事はしなかっただろう。
しかし今はあのニ人がいる。
あのニ人は翡翠を絶対に傷つけたりはしないだろう。
なぜかそれだけは信頼できた。
穏やかな昼さがり。
昼食を終えたみんなは、翡翠の部屋でくつろいでいた。
「身体はもうすっかりいいの?」
「うん。
蒼龍も紅龍も龍王もたくさん心配かけてごめんね。
私はもう大丈夫だよ。」
蒼龍の問いに笑顔で答える翡翠。
その笑顔を見て三人は照れ隠しに下を向く。
この笑顔だ。
見たくて見たくて仕方がなかったもの。
それが今日も目の前で見れた。
手を伸ばせば触れる事の出来る距離。
・・・他のニ人に見せるのは勿体無い・・・
・・・まあ私のいない間、寂しい思いをさせずにすんだ・・・
・・・仕方がない・・・
・・・今日だけは、いい思いをさせてやろう・・・
そしてこの時間が心地良いものだと思えていた。
翡翠と紅龍と蒼龍。
この者たちといるこの時間、空間。
これほど長く翡翠の他に、身近に関わってくる者は久しくいなかった。
翡翠を自分の下へ戻す為、手にいれたこの破壊的な力。
余りにも持ちすぎた強力な力のため、容易く近寄る者などいなかった。
それを寂しいとは思った事もないが、ただ話す者もいない孤独感は感じていた。
孤独は嫌なものだという感情。
これも翡翠が教えてくれた感情。
翡翠が連れ去られ、戻るまでの時間。
孤独は冷たく嫌なもの。
翡翠がいない時間が、孤独というものを不快なものだと認識させた。
そして翡翠が戻った今、他の龍たちが近くにいる。
孤独ではないという実感。
それだけでなぜか心は明るく、温かく感じた。
これも翡翠が連れてきてれた感情。
翡翠がいなければ、ここに蒼龍も紅龍もいなかったのだから。
腹を探り合う貴族たち。
隙を見せればいつ寝返るか分からない。
地位を力を狙おうとする貴族たち。
今は巨大な力故に反論、反抗しない、そうまでして守りたい者。
少し前は全く自分の位など、地位など全く興味がなかった私。
その私が今までの考えを覆してまでも、欲しかった者。
翡翠はそんな、だれにも変わる事の出来ない存在。
かけがえのない存在だった。
私が力を失くした時、翡翠はまた違う者の下へ連れ去られる事だろう。
そんな事は絶対にさせない。
翡翠は誰にも渡さない。
今日もくだらない会議が終わり翡翠のいる部屋に戻ってきた。
ドアを開けると同時に聞こえる優しい声。
「おかえりなさい。」
私はその声で一瞬で気分が浮上する。
「ただいま。」
そう答えると、いつもの様にすっぽりと翡翠を腕の中に納める。
翡翠の体温、匂い、柔らかさ、どれもが私に癒しを与えてくれるもの。
腕を緩めると恥ずかしそうに笑う翡翠。
そしていつもの様に甘い口づけをする。
身体を気を使いながら、本当に優しく唇に触れる。
このうえなく心地よく、安らかで優しい時間。
愛に包まれた幸せな時間。
こんな時間が永く続く事はない事は分かっている。
人間である翡翠と龍である私では時間の流れが違う事。
いつかは別れがくる事は分かっている。
それならばその時までは、共に同じ時間を歩んで行きたい。
同じ時間を刻んでいきたい。
この時間を何よりも大切にしていきたいと思う。
呪から解放され、身体の傷も随分回復した。
龍王のおかげで、長い暗闇からやっと抜け出す事が出来た。
私を抱き枕のようにして眠る龍王。
ゆっくりとした寝息と鼓動。
龍王のおかげで私はここに生きている。
親からも周りの人からも受け入れられずにいた私を、救い上げてくれた。
安らぎをくれた。
居場所をくれた。
この心地よい感覚。
いつまでも、この幸せの中にいたい。
あい?
愛するという事。
愛おしいという感情。
龍王が初めて教えてくれた。
この切なくて胸がきゅうっとなる気持ち。
激しくなる鼓動。
泣きたくなるほどの幸せ。
全部龍王が教えてくれたこと。
暖かな腕の中、綺麗な顔。
私はそっと頬に触れる。
いつも怒った様な表情だけど、私を見つめる時には瞳の奥は優しくなる。
不器用な笑顔になる。
そんな不器用な笑顔がたまらなく好き。
すき。
好き。
愛おしい。
大好き。
止まらない想い。
いつしかまた幸せに包まれながら、夢の中に落ちていく。
数日後。
宮殿の中が慌ただしさを感じた。
いつもとどこかが違う。
宮殿で働く人たちがいつもより、早く動いている様に感じられた。
何かが今までとは違う予感。
優しくてどこまでの甘い時間は夢となって色褪せる。
夕食時、いつものように食卓には翡翠の他に蒼龍と紅龍の姿があった。
そこで龍王が、明日来客がくる事を告げた。
空気が怒りを含んでピリピリと痛い。
いつもより機嫌が悪いような気がする。
ここまで龍王を苛立たせる客とは誰だ?
「誰が来るんだ?」
紅龍はすぐに聞いた。
「白龍だ。」
「白龍ってたしか龍王の随分前の婚約者だろ?
同族で唯一の女。
病気でずっと寝たきりだと聞いたが。」
婚約者?
龍族の中で唯一の女性?。
「龍族にはなかなか女性が産まれないんだ。
今龍族の中で女性は白龍だけなんだ。
だから白龍は龍族にとっては貴重な存在なんだよ。
スーと会う前。
龍王との結婚話があったんだけど、かなり重い病気にかかったらしくてね。
その話も無くなったんだ。」
蒼龍が説明してくれた。
始めて聞く話し。
大きな不安が押し寄せる。
でも今さらなぜ?
今になって何故ここへ?
その不安は次の日に現実のものとなる。
次の日。
白龍はたくさんのお付きの者を連れて宮殿に現れた。
圧倒的な生まれ持つ威圧感。
その気品に満ちた表情。
余裕の表情で笑う笑顔は、大人の魅力を感じさせた。
色白で人形のように整った顔。
それはそれは、とても綺麗な女性だった。
美貌、容姿、上品な雰囲気。
どれもかなう所が見つからない。
自信に満ちたオーラが、一瞬でその場を占領する。
出迎えた龍王。
並んだ姿は本当にお似合いの二人だった。
「白龍さまこそ、龍王さまに相応しい。」
取り巻きの貴族たちはこぞって噂する。
龍王の隣を歩く白龍。
まさに絵になるニ人だった。
私はというと出迎えの人たちの一番後ろ。
人の波に押され、いつしかその場所に追いやられていた。
ここからはかなり離れた場所。
そこからニ人の様子をじっと見ていた。
歓迎ムード一式に包まれる場所。
誰からも祝福されたニ人。
自分だけが、違う世界にいるようだった。
周りは龍たちばかり、人間は自分だけという現実。
それを嫌でも突きつけられた。
いつもは龍王が側にいる事で感じる事はなかった事。
改めて守られていた事を実感する。
強い疎外感。
孤独という闇が、私の心を蝕んでいく。
もう私は必要ない?
白龍の存在が自分の存在を消し去っていく。
私の居場所が無くなっていく。
自分自身が消えて失くなる感覚。
周りの龍たちから興奮した話し声が聞こえる。
それは誰もが嬉しそう。
そして口々に。
「2人が結ばれることこそ、龍族の繁栄の象徴。」
あ!
そうか。
そうなんだ。
反する言葉が見当たらない。
龍王の相手は私なんかよりも、同じ龍族の女性の方が正しいんだ。
その人々の言葉はまるで麻薬のよう。
身体に心に静かに、そして深く沈み込んでいく。
人間の私よりも・・・。
弱く短命な私よりも。
ずっとずっとお似合いなんだ。
傷付いて心の痛みは時間を追う毎に強く激しくなっていく。
そして深い闇へと落ちていく。
龍王に相応しい相手の存在は白龍。
それほどまでにニ人の並んだ姿は輝いて見えた。
しかしその感情とは反対の気持ちを抱いていた。
安心する気持ちも同時に大きくしていた。
・・・私はもうすぐこの世界から消える!!!・・・
私はもうすぐこの世からいなくなるのだから。
消えてしまうのだから。
跡形もなく消滅してしまうのだから。
これは誰にも言えない事実。
そして哀しい現実。
連れ去れた時、父は私にもう一つの術をかけた。
呪が解かれたと同時に発動する術。
命の消滅。
魂の消失。
そこまで私の存在を疎ましく感じていた父。
最後まで父から否定されてしまった。
子どもとして見てはくれなかった。
欲しかった親としての愛と温もりはくれなかった。
諦めきった心。
それでもなぜだか涙は流れ落ちた。
諦めた筈のなのに何故?
溢れ出る涙は止めるすべを知らなかった。
親さえ見捨てたこんな私を、受け入れてくれた龍王。
今まで、本当にありがとう。
感謝してもしきれないものを沢山くれた。
幸せという感覚を感じさせてくれた。
龍王には幸せになってほしいから。
龍王はこれで大丈夫。
私がいなくなっても。
龍王の側には白龍がいる。
みんなが認める存在。
一人ではない。
もう孤独になる事はない。
もう孤独を感じる事はない。
孤独を感じる中、孤独から抜け出した龍王を見つめた。
そこに歩み続ける二人の明るい未来を見た気がした。
それは眩しすぎる光。
私には望めない光。
龍王は辺りを見回す仕草を見せた。
もしかして私を捜してくれているの?
急にいなくなったから心配してくれているの?
でも・・・。
この状況で私が出て行く勇気はない。
どう考えても私の場所はここにはない。
今すぐ消えて無くなりたい気持ちになった。
私はなぜか、とっさに建物の影に隠れた。
その場の人々に押されるようにして移動し始める。
遠ざかっていくニ人。
そして大勢の人たちと、共に大広間に入って行った。
白龍は龍王の住まう本殿のすぐ隣。
いつもは来賓用に使う、その建物に住むようになった。
龍王が公務から終わる頃に現れ、何かと世話を焼く白龍。
何か理由をつけては、龍王の部屋に入り込み時間を過ごす。
そんな日々がしばらく続いた。
そして囁き始める言葉。
周りの貴族たちは白龍との結婚を進めてくるようになっていった。
龍族にとってはこの上ない、申し分のない結びつき。
誰も反対する者などいる筈はなかった。
龍王は白龍の性格を良く知っていた。
自分が無視すれば、矛先は翡翠に向けられるだろう。
どんな手段で翡翠の身が危険にさらされるか分からない。
蒼龍と紅龍が側についてはいるが、それも安心できない。
それほど白龍の性格は危険な龍だった。
白龍が来て以来、翡翠に会えない日々が続く日々。
苛立ちは積もるばかりだ。
もう少し白龍の方が落ち着くまで待つしかない。
普段は何も無関心な龍族。
だが、一旦気に入り執着するとそれを覆す事は難しい。
白龍の私に対する私への執着は激しいものだった。
今はその攻撃が翡翠に向かない為に、それなりの態度を取り続けるしかない。
いつも不器用で、言葉の少ない龍王のこの行動。
それがこの後、深刻な誤解を招くとは知らずに。
宮殿の大広間から明るい音楽が流れてきた。
あれから白龍を迎えての歓迎パーティーが毎日のように行われた。
翡翠は部屋のバルコニーからそれを見つめていた。
白龍が来てからパタリと姿を見せなくなった龍王。
翡翠は少し遠い場所、高い場所から見下ろす。
そこは、気付かれる事なく大広間が見渡せる場所。
ここから龍王の姿を捜す。
たくさんの貴族たちが音楽に合わせてダンスをしていた。
大広間の中央、2人が踊る姿が見えた。
龍王・・・。
白龍の腰を抱き踊る龍王は、まるで別人に思えた。
龍王は龍族を統べる存在。
私は・・・・。
私はただの人間。
私はか弱き人間の巫女でしかない。
龍王との遠い距離。
この数日でこんなにも遠くなってしまった。
今まで感じていた、近くでずっと側にいて感じていた温もり。
今は寒く、凍える心は、身体は震えていた。
暖かさを知ってしまった私の身体は龍王を恋しがった。
抱きしめてほしいと震えていた。
しかし今はその温もりはない。
ただ自分の身体を小さく丸める事しかできなかった。
「こんな所で何をしている?
人使いの荒い龍王が様子を見てこいと・・ん?」
様子がおかしい事に気付いた紅龍。
ぐいっと肩を両手で掴み、自分の方に身体を向かせる。
しばらく私を見ていた紅龍が眉をしかめて言った。
「お前から死の匂いがする。」
驚いた表情のスー。
なぜ、分かったの?
私は誰にも言ってないのに。
「何かを隠しているだろう?」
「何もありません。」
明らかに動揺した様子。
「俺の国の龍たちは好戦的な種族だ。
いつも死と隣合わせに生きてきた。
死の匂いを嗅ぎ分けられる。
だから隠しても分かる。
本能的に身についた俺の感が教えている。
何か隠してる事があるだろう。」
確信に触れられ言葉を失う。
俯く翡翠。
すると優しい声が聞こえてきた。
「これでも俺はお前を気に入っている。
俺はお前の中の強さに憧れている。
好意をもってる。
お前の事が気になって仕方がない。」
告白にも似た言葉。
真剣な声。
今の紅龍には嘘は通用しない。
「お願いだ。
話してくれ。」
柔らかな口調から、翡翠を本当に心配している事が理解できた。
紅龍の真っ直ぐ気持ち。
それが翡翠が隠していた事実を、言葉にする勇気をくれた。
私は観念したように、ぽつりぽつりと話し始めた。
もうすぐ迎える死について。
それに対する経緯。
最後まで子どもとして愛してくれなかった父の事。
そして、龍王と白龍の未来。
龍族にとっての未来。
最後に、龍王に対する溢れんばかりの気持ち。
紅龍は静かに佇み、話しを聞いていた。
「私の願いはただ一つ。
龍王の幸せ。
それだけです。
それだけなんです。」
不意に包まれる温もり。
これは紅龍の温かい体温。
翡翠は紅龍に抱きしめられていた。
龍王ではない匂い、温もり。
温もりを欲する身体と心。
紅龍の腕の中で戸惑う翡翠。
「俺と来るか?」
頭の上から先程よりも、もっと優しい声。
真剣な目が私を捕らえる。
「ここにいたら辛いんだろう?
俺が連れ出してやろうか?」
ここから離れる?
龍王から離れる?
その方がいいの?
揺れ動く気持ち。
さっきまではニ人が幸せになってほしいと思ってた。
でも本当に龍王から離れる事になったら・・・?
紅龍なら私をここから連れ出す事が出来るかもしれない。
紅龍に付いていけば龍王は幸せになる?
色々な想いが交ざり合い混乱する心。
何も言えずに立ち尽くす。
涙だけが溢れでる。
別れを決断する事がこんなにも苦しいなんて。
身体が心が全ての感情が、痛いという感覚に集約されていく。
「泣くな。
そんなに泣くくらい辛いなら、なぜ龍王に話さない。」
「白龍がここに来てから、龍王はここに姿を現してくれなくなりました。
私はもう必要ない存在なんだと思います。
あれからニ人の並んだ姿を見てずっと思っていました。
龍王には白龍の方が相応しい相手だと。
ニ人が結ばれる事が龍族にとっては喜ばしい事。」
そして翡翠の思いは悲しいまでに真っ直ぐに。
いつでも龍王だけに向いている。
心変わりとも取れる龍王の態度。
それをそのまま受け入れても、なお。思い続ける。
「私はもうすぐいなくなる。
いらない心配はかけたくないのです。
龍王の幸せが私の幸せなの。」
温かいものが唇に感じた。
紅龍からの口づけ。
翡翠の健気さに思わず理性を失った。
生まれて初めての執着心。
紅龍にとっての初めての感情。
翡翠に会ってからずっと持っていた、名前のない感情。
それは知らぬ間に少しずつ膨らみ続け、そして爆発した。
・・・スーを自分の者にしたい・・・
・・・自分だけの巫女にしたい・・・
翡翠の中にある強さへの憧れ。
それが日増しに大きくなる。
それはやがて翡翠そのものへの好奇心に変わった。
翡翠が自分以外の異性に対して涙する姿。
それを見た時、抑えきれなくなくなった感情。
俺の剥き出し独占欲。
それが身体を無意識に動かした。
気が付いた時には自分の唇を押し当てていた。
俺を見てほしい。
俺だけを見てほしい。
他の男の事でそんな悲しむな。
そんな辛い顔をするな。
俺なら、そんな思いはさせない。
ずっと腕の中に閉じ込めておくのに。
悲しい涙は流させない。
そして誰も触れさせはしない。
少し乱暴な口付け。
だが、その時の翡翠の不安定な心はそれを受け入れていた。
目の前の優しさに甘えたかった。
何かにすがりたかった。
この底知れぬ恐怖を少しでも忘れたかった。
迫りくる死への恐怖。
迫りくる未来のない現実。
その後も流れる涙に何度も口づけをする紅龍。
少しでも不安を取り除く為に。
紅龍の優しさが素直に嬉しかった。
!!!!!
その時木陰から突然現れた龍王。
ニ人の様子を見ていたのか、凄い形相で翡翠に近づく。
「スーは紅龍の方がいいのか!!?」
いつもと違い乱暴に肩を掴む。
「私よりも紅龍を選ぶのか?」
怒りを含んだ態度。
口調。
何もかもが遠い昔に、父親や周りの人たちから受けていた恐怖が蘇る。
怖い。怖い。怖い。
龍王から初めて恐怖を感じた。
怖くて何も言えない私。
身体が固まって動く事も声を発する事も出来ない。
しかしその沈黙が、また龍王の誤解を生む。
しびれを切らした龍王。
「もうわかった!
これからはもう勝手にするがいい。
私はもうお前を解放してやる、どこへでもいくがいい。
もうニ度と私の前に顔を見せるな!!」
少し離れた所に白龍の姿があった。
「白龍いくぞ!!
夜は長い。
たくさん愛してやる。」
朱く染まる顔で俯く白龍。
白龍と共に視界から消える龍王。
もう二度と振り向く事はなかった。
「待て!!」
追いかけようとする紅龍の服を掴み止める翡翠。
涙に潤んだ目。
しかしその目の奥には強い意志があった。
それは紅龍の翡翠が惹かれた心の強さだった。
翡翠は首を横に振る姿。
それは何も言わないでという意味での仕草。
紅龍はそれ以上何も言えなくなってしまった。
・・・これでいいんだ・・・
・・・私よりも同族である白龍と結ばれた方がいい・・・
・・・その方が龍王は幸せになれる・・・
・・・こんなか弱い人間なんかよりも・・・
・・・同じ時間を過ごして行ける白龍・・・
・・・私を暗い闇から救い出してくれた龍王・・・
・・・龍王の幸せが明るい未来が、私の幸せ・・・
・・・たとえ龍王の隣が私でなくても・・・。
・・・これで大丈夫・・・
・・・もう私でなくても大丈夫・・・
完全に二人の姿の見えなくなった。
途端、翡翠の身体は力を失いゆっくりと後ろに倒れていく。
それを支える影。
気を失いそうな翡翠を、後ろから支えてくれる人影が現れた。
「なぜ言わないんだスー。
こんなになるまで我慢して。
ずっと泣いていたんだね。
気が付いてやれなくてごめんね。」
「蒼龍?」
「紅龍のすぐ後から来ていたんだけどね。
なんか出ていくタイミングを逃してね。
話しは後ろの方で全部聞いてた。」
そうか。
蒼龍にも知られてしまったんだね。
「心配ぐらいさせてくれないか。
何も知らない方がもっと辛い。」
「ごめんね。
私ね、もうすぐ消えちゃうの。」
無理して笑う顔が痛々しかった。
今度は蒼龍が抱き寄せた。
翡翠の幸せは透明な涙と共に、こぼれ落ちていくようだった。
いくつもいくつもそれは地面に落ちては吸い込まれては消えた。
まるでこの先の姿を予見するかように。
それは跡形もなく、静かに消えていった。
紅龍の腕で泣いていた翡翠。
泣きながら口づけを受け入れていた姿。
それを見た時の驚き。
狂おしいばかりの嫉妬。
激しい怒りが私の全身を駆け抜けた。
私がこんな愛しているのに。
私がこんなに大事にしているのに。
白龍から危害がないように監視する目的。
その為に私が我慢してまで白龍についていたのに。
これは全部翡翠の為だ。
私が自ら動くのはいつでも翡翠に繋がっている。
なのに、どうして!!
どうしてだ!!!
お前は私よりも他のやつを選ぶのか。
嫉妬。
報われない愛。
もどかしさ。
憎悪。
それが今の龍王の心を激しく占めるもの。
白龍を抱きしめながら、何も言わず立ち尽くしていた翡翠の事を思い出していた。
泣いているでも、笑っているでもない表情。
あれは初めて会った頃、時々見せていた諦めた表情だった。
じっと自分の気持ちを押し殺した無表情な顔。
しかしその時冷静さを失っていた龍王には全く見えていなかった。
ただ翡翠が側いるだけで全てが満たされた。
男の欲望などはどこかに飛んでいた。
触れるだけで、口づけだけで、心から癒された。
やっと手に入れた翡翠。
大事にしたかった。
自分の汚れた欲求だけで、翡翠を抱きたくはなかった。
身体は一度も繋がってはいないが、心は繋がっていると安心していた。
翡翠も自分と同じ思いでいると信じていた。
それなのに!!!!
龍王は嫉妬という熱すぎる感情から冷静さを失わせた。
そしていつもの判断力を完全に失くしていた。
白龍。
白龍は婚約者として、龍王の横に立つべき龍だった。
たった一人の女性の龍。
強い子孫を残す為、強い男に惹かれるのも自然の摂理。
白龍は一目見て、龍王の中に潜在的な強さに気付いた。
それ故に執着し、婚約者と言う立場に固執した。
しかしその後、かなり重い病気になったと聞く。
そして同時に婚約者の話も無くなった。
それは白龍という種族からの一方的な申し入れ。
詳しい事は分からない。
子供の産めなくなった白龍は、永い闘病生活を送る事になる。
白龍は龍王と言う地位と強さに惹かれたのだ。
龍王はすぐに忘れてしまったが、白龍は忘れる事は出来なかった。
もう一度、龍王の横に立ちたい。
身体の全てで龍王を感じたい。
誰にも譲りたくない。
歪んだ愛が時間をかけて加速していった。
そしてやっと、ある事を引き換えにして完治する事となる。
そしてその頃には、人間の巫女の存在がある事を知った。
・・・龍王は私の物よ・・・
・・・人間の分際で横に立とうとは・・・
・・・許さない!!!・・・
そして白龍は龍王の下にやってきた。
自分の居場所を取り返す為に。
白龍は嬉しそうに龍王にすり寄る。
白龍とは肌を重ねる今の行為。
身体の欲求は満たされていく。
白龍の甘い声。
動くたびに声は高くなっていく。
しかし何度果てても、心は満たされる事は決してなかった。
心だけは置き去りのまま。
私の心をも満たしてくれるのは、やはり翡翠だけだ。
分かっていながら身体は、また次の欲望を生み出す。
狂おしい嫉妬が龍王の未来を曇らせた。
それが、この先さらに哀しい事実が待っていようとは思ってもいなかった。
暗い闇の中。
一つに溶けあった影。
龍王と白龍の熱い吐息が溶けていく。
あれから一ヶ月ほどの時間が流れた。
紅龍と蒼龍はあの時、そのまま翡翠を連れ出した。
そして宮殿から一番離れた別宅に移り住んだ。
本当は宮殿から外へと連れ出そうと思っていた。
しかし数日後、翡翠が倒れたのだ。
その為やむなく、ここに移動してきた。
ここは本殿からかなり離れている。
龍王や貴族たちと極力会わない場所。
翡翠の体調を考えると、あまり動かせたくはない。
翡翠の身体と心は限界にきていた。
死んだように眠り続ける翡翠。
それを心配そうに見守り続けるニ人。
毎日毎日、ずっと側で回復を願った。
ただただ眠り続けるスー。
眠る事で現実から避けているのかもしれない。
龍族からしたら白龍との繋がりの方が望まれる事だろう。
起きていたら、嫌な噂も嫌な思いをする事になるだろう。
そして見る事になるだろう。
龍王の隣にいる白龍の姿を。
「・・ぉう・・」
時折苦しそうに紡ぐ言葉は名前だった。
無意識に心から望む温もりは、心から求める存在は龍王。
自分から龍王の、龍族の幸せを願い離れた翡翠。
人の幸せばかりを願う翡翠。
・・・一体スー自身の幸せはなんだろう?・・・
優し過ぎる心。
相手を想いやる心。
そしてそれを貫き通す強さ。
龍王の幸せだけを願う。
自分の犠牲さえもいとわない強さ。
どれだけ我慢をしてきた事だろう。
自分の本当の気持ちに蓋をして。
不安で心細くて仕方がない筈だ。
今一番に側にいてほしいだろうに。
肝心なその龍王は白龍と共にいた。
ただ眠り続けるしかないのだろうか。
それは龍王の幸せの為。
龍族の未来の為。
このまま消えてしまうつもりなのかもしれない。
このまま消滅するつもりなのかもしれない。
「これでいいのか!!!
スーのこの思いを無いものとしていいのか?
いや、そんな事は駄目だ。」
と紅龍が叫ぶ。
「そんな思いを抱いたまま哀しく、寂しい思いをさせたまま。
消えさせてはいけない。
消えさせたくはない!!!」
と蒼龍も言葉にだす。
「もうすぐ消えてしまうのなら。
最後ぐらいはスーの我儘を叶えてもいいだろう。」
「そうだ。
このままなんてあんまりだ。」
素直の心のままに、変わらない思いのままに。
ニ人は龍王に話に行く決意をする。
スーの思いを無視する事になるが、これ以上は耐えられない。
スーには笑っていてほしいから。
スーの笑顔の為。
かけがえのないスーの本当の気持ちを龍王に伝えたい。
ふと自分の人間らしい考えに驚くニ人。
俺たちはスーから沢山の新しい感情を教えてもらった。
それはとても心地よいものばかりだった。
これまでの冷え切った心に暖かさを教えてくれた。
温もりを教えてくれた。
ニ人とも同じ考えだったようだ。
言葉を交わさずして頷く。
眠っているスーを確認すると龍王のいる、本殿へと足を進めた。
本殿の龍王の部屋。
白龍は自分の部屋のようにくつろいでいた。
龍王は無関心に瞳を闇を移したまま窓の外を見ていた。
見つめる先は、翡翠が移り住んだ別宅の方だった。
私は日に日に何をするにも、やる気を失くしていった。
龍王としてこの力。
地位を維持する為に嫌な王としての責務を果たしてきた。
力を見せつける事で、翡翠を守ってきた。
私を動かすものは、全て翡翠に関係する事だった。
私の原動力は全て翡翠の繋がっていた。
翡翠の事以外で自分が自ら動いた事はなかった。
距離と時間が経過した今。
嫉妬で熱くなっていた気持ちは静寂を取り戻していた。
そして思い出すのはやはり翡翠の事だった。
怒りにまかせて詰め寄った時の翡翠。
恐怖で固まっていた表情。
何の感情もなく接する他の者たちが自分に見せる、恐怖心からくる震え。
脅えた身体。
あの時私から初めて、恐怖心を感じていたようだった。
あんな顔で私を見てほしくない。
他の物からならともかく、翡翠からはあの瞳で見られたくはなかった。
そして嫉妬心から翡翠に酷い事を言ってしまった。
深い後悔の念が気持ちを沈ませる。
ただ怒りに任せて出た言葉。
深く傷つけてしまった。
そして何よりも私自身が恐怖を与えてしまった。
あれから何も言ってこない翡翠。
龍王はあの自分への恐怖心から、避けられていると思っていた。
だから自分から近づく事を躊躇した。
また怖い思いをさせたくない。
そしてそれ以上に紅龍との関係。
自分ではない者を受け入れていた翡翠にショックを受けていた。
そして今でも、紅龍と口付けを交わす場面が頭に焼き付いている。
しかしそれを見た今でも、翡翠への気持ちは変わる事はなかった。
私の気持ちはぶれる事なく翡翠に向いている。
この想いだけは、この先変わる事はない。
翡翠が側にいなくなって、触れる事が出来ない時間。
この時間がなんて色のない空しい、意味のない時間なのか。
私がどんなに翡翠を必要としているか。
私がどんなに翡翠に執着しているか。
どんなに愛しているか。
離れている時間が、私の中の翡翠の存在の大きさを思い知らされた。
だからこそ、またそんな場面を見てしまったら。
次はどうなるかわからない。
自分自身を保っていられるかどうかさえ分からない。
「龍王さま?
いつ私を皆さまに花嫁として公表していただけますの?」
私が座っているソファの横に擦りより甘い声で話かける白龍。
当たり前のようにそんな事を言いだす。
聞こえている筈なのにその問いの答えは聞こえない。
その時、ドアを叩く音がした。
「誰だ?」
ドアの向こうで声がする。
「紅龍だ。」
「蒼龍だ。スーの事で話がある。」
了解も得ずに開けられたドア。
ニ人の龍が勢いよく入ってきた。
ニ人は同様に龍王にすり寄る白龍を見て、怒りの表情を見せる。
「昼間からお盛んなようだな。」
紅龍は初めから交戦的な態度だった。
「お前こそ、スーと毎日している事だろう?」
龍王も一歩も引く気はない。
「何か誤解しているようだから、スーの名誉の為に言っておく。
スーの気持ちに迷いはない。
今もお前だけを思って眠っている。」
ねむる?
「どういう事だ?。
スーはお前を選んだのではないのか?」
紅龍を受け入れていた涙の口づけ。
ではあれは何だと言うんだ。
「俺はスーに好意を持っている。
俺がスーの隙をついただけだ。
弱くなったスーに付け入っただけだ。」
何を言っている?
「スーって人間は紅龍さまを選んだのでしょ?
だったら私と龍王様の仲を邪魔しないでいただけます?」
少し怒った様な顔をする白龍。
綺麗な顔が少し険しくなった。
いつもいるお付きの者なら、すぐにでもご機嫌をとっていただろう。
顔色を伺い、謝り続けていただろう。
産まれた時から欲しいは全て与えられてきた。
周りの者から大切に育てられてきた。
病気をしていた事も踏まえても白龍の言う事。
行動を止める者などいなかった。
だれもがまるで腫れ物でも扱うように、大事にされてきた。
自分を否定する者などこの世には存在しないとさえ思える程に。
どこまでも傲慢な白龍。
急に会話に入ってきた白龍に、そこにいた三人。
黙れと言わんばかりに、一様に睨みつける。
「なぜそんな顔を私に見せるの?
私は白龍なのよ。
龍族で唯一の女性。
貴重な存在。
大切な存在なのよ。
なのに、なに、なんなのよ!!
みんなして私にそんな顔して、のけ者あつかいして!
もう知らないから、どうなっても知らないから!!!!」
泣きながら部屋を飛びだす白龍。
我慢して付き合って来たが、今は白龍に気にかけている暇はない。
龍王は白龍を目で追う事もなく俺たちの言葉を待つ。
そして蒼龍も何事もなかったかのように話しを始める。
「スーの命が消えようとしている。」
そして衝撃的な事実を知る。
消える?
「どういうことだ?」
「スーの父親に連れ去られた時にかけられたらしい。
呪が解けた瞬間から発動する術。
少しずつ、命が、魂が消滅していく術。」
翡翠がいなくなる?
消滅?
翡翠が死ぬ!!!!?
いなくなる?
嘘だ!
そんなのは嘘だ!!
「スーは龍王の為に、龍族の為に身を引いたんだよ。」
「考えてみろよ。
誰から見ても、同族である白龍と結ばれる事が望ましいと考えるだろう?。
スーはこれは龍王の未来の為だと。
同じ時間を過ごす事の出来る白龍の方が、相応しいと思ったそうだ。」
明かされる真実。
なんだ、それは。
私は龍族だとか、龍王だとか周りの意見なんて関係ない。
龍王という立場や地位など、翡翠の存在に比べたらないも等しい事。
翡翠だけの為に私はここにいるだけだ。
翡翠は私の物だと誰もに知らしめる為にここにいるだけだ。
翡翠がいなければ、何も意味を持たない。
なおも蒼龍が翡翠の気持ちを話す。
「スーは怖かったんだそうだよ。
消えていく自分の未来がね。
怖くて、寂しくて、不安だったって。
龍王からせっかく助けてもらった命。
それが消えていくのが辛いって。
そしてそんな姿は見せたくないって。」
攻撃的な口調で今度は紅龍が言葉を続ける。
「俺がスーにした行為を謝るつもりはない。
そしてスーに対する気持ちを隠すつもりもない。
俺は俺がしたいようにしたまでだ。
スーがお前の事で弱くなった心につけいった。
本気でお前から奪うつもりで。」
「なに!!!」
「スーの心は不安でいっぱいだった。
それなのに、お前の薄汚れた嫉妬心でスーの本当の気持ちを疑った。
信じる事をしなかった。
突き放した。
スーがどんなに傷ついたか!
お前にはわかるか?
それでもお前の幸せだけを願い。
龍族の事を思い。
何も言わず身を引いたんだ。」
興奮した赤い顔。
紅龍の元々赤い顔は一段と赤みを増していた。
今度は蒼龍が静かに話す。
「スーはあの後すぐに倒れたんだ。
それからずっと眠っている。
時々苦しそうに龍王の名前を呼んでいるよ。
私たちでは駄目なんだ。
悔しいけど私たちの力ではどうする事も出来ない。
スーが心から望んでいるのは龍王なのだから。
会いに来てあげて。
嫉妬とか周りの龍族の事とか全部、取り払って・・・。」
蒼龍にとっても自分の巫女にとまで想った人だ。
スーの事を想えばこそ、大事だと思えばこそ。
今はスーの気持ちを一番に考えてあげたいのだろう。
今は自分の幸せよりもスーの笑顔を取り戻したい。
蒼龍の悲痛な叫びにも似た言葉が胸に響いた。
私は蒼龍の言葉を全て聞き終わる前に部屋から飛び出した。
翡翠。
ひすい。
ひ・す・い!!
頭の中は翡翠の事でいっぱいだった。
龍王として地位だの、龍族が、紅龍との事、嫉妬。
そんな事は全部関係ない。
翡翠を手に入れて側に置いて、安心し過ぎていた。
もうすべて自分の物だと過信していた。
絶対に私から離れる事はないと勝手に思っていた。
人のことばかり考える。
いつも周りの事、私の事ばかりに気を使い行動する翡翠。
酷い言葉を言った、あの時。
翡翠が私を諦めたように見ていた瞳。
あの瞳に全て答えがあったのに、私はずっと一緒にいて何をしていたんだ。
何も感じないような表情をさせてしまったのは私だ。
不安にさせ、あんな酷い言葉まで浴びせてしまった。
なんて事をしてしまったんだ。
私が嫉妬に怒り狂っている間、翡翠は深い恐怖と不安と闘っていたんだ。
翡翠はまた私を受け入れてくれるだろうか?
こんなに酷いことをした私を。
走るその間、ずっと翡翠の無表情な顔を思い浮かべていた。