人はいつから夜空を見上げなくなったのだろう。
人工の光は夜の闇を追い出したけど、
夜空の星々までも見えなくしてしまった。
本当はそこに無限の宇宙が広がっているのに。
星のきらめきは、天から地への祈り。
人とあやかしと神さまが、共に同じ歌を歌っていたときの祈り。
星降り温泉はすべてを受け入れ、すべてを癒やす場所。
だって、就職活動二百連敗の私をも受け入れてくれたのですから。
人とあやかしと神さまと、共に同じ温泉で癒やされる場所。
藤原静姫、「いざなぎ旅館」の新米仲居。
陰陽師の大旦那、鬼の番頭さん、めったに笑わない教育係たちに囲まれて、
一生懸命働いています。
当旅館の温泉の効能は、美肌、疲労回復、運勢好転に霊力回復。
どうか、今回のご宿泊がお客さまの大切な時間となりますように。
藤原静姫、就職浪人確定――。
私はスマートフォンを握りしめながら、大学の中庭のレンガに膝から崩れ落ちた。
まだ冬の寒さを含んだ風がセミロングの私の髪をなぶる。
なぜ? どうして――?
いま立て続けに来た五本のメールを何度も読み返した。どれもこれもお祈りメール。私の未来を祈るより、私に未来を頂戴……。
私は大学英文学部の四年生。明日は卒業式を控えている。大学の単位はクリア済み。しかし、私にはひとつも内定がなかった。
自分で言うのも何だけど、学業成績は悪くない。
性格だって、これも自分で言うのはあれかもしれないけど、真面目なつもり。明るい印象にするために大学二年生のときにメガネをやめてコンタクトにした。髪は少しだけ茶色いがこれは地毛だ。就職試験では、あまりにも美人過ぎるとかえって落とされるとまことしやかにゼミの先生に聞かされたけど、私に限って言えばその心配はない。色白の肌と切れ長でまつげの長い瞳はかすかな自慢だったけど、夜の町よりは昼間の保育園の保母さんの方が私には似合っていると思う。
しかし、ダメだった。
私はのろのろと立ち上がり、そばのベンチに腰を下ろす。お尻からベンチの冷たさがしんしんと沁みてくる。
思わず天を仰いだ。まだ新芽しか見えない大学構内の木の枝が、空に伸びている。どんなに枝を伸ばしても空には届かない。いまの私みたいだと思った。
面接二百連敗。我ながら嘘みたいだけど、本当の話だ。
大学三年生になって就職活動を始めた頃は余裕があった。このご時世、受けた就職面接がぜんぶ通るなんてことはない。友達もお祈りメールをもらっては、互いに慰め合い、励まし合った。
大学四年になってもこの調子で、かなり焦りが出てきた。
自己分析や自己PRに関する就職活動必勝本みたいな実用書は相当読み込んだのに……。
しかし、〝分かる〟と〝できる〟は違う。就職活動必勝本にもそんなことが書いてあったっけ。
「どの会社も見る目がないよね! 静姫に内定を出さないなんて!」
と、ゼミ仲間の明日花がレモンサワーを飲みながら、憤慨していた。
「ありがとう。でも、こればっかりはご縁とかもあるだろうし」ちなみに、私はただの烏龍茶です。
明日花は私以上に内定を出さない企業たちに怒り、一生懸命励ましてくれていた。大学四年の冬を過ぎても心を折らなかったのは、ひとえに彼女の励ましのおかげだった。
だけど――私には人に言えない秘密がある。
フライドポテトをつまみながら、ふと思い出したように明日花が指摘した。
「静姫ってさ、ときどき私の頭の上を見てしゃべるよね」
「え?」
ほんのり頬が赤くなった明日花が、自分の頭の上の空間を手でかき混ぜた。
「このへんを見ながらしゃべるでしょ。あと私の肩の上とか。そういうときの静姫って、何かこう、違うんだよね」
「〝違う〟……」
「うん。何か違う」
〝怖がっている〟とか、〝避けてる〟とか言わなかったのは、明日花の優しさだと思う。
いまも実は、ちょっと彼女の肩の上を見ている。
リクルートスーツの明日花の肩のところに、ひとつ目の小さな生き物が乗っているのが見えていた。明日花には見えない生き物だ。
大きさは文庫本くらいのサイズ。形としては、痩せ型で猫背の人間に近いけど腰巻きだけで半裸。生き物としての名前は分からないけど、禿げたひとつ目の小鬼、といえば何となくイメージできるだろうか。物珍しそうに私を見てけたけた笑ったり、明日花の頭の上に上ろうとしたりしている。明日花は気づいていない。気づいていたら、気味悪くて悲鳴を上げて卒倒するだろう。この小鬼のあやかしは初めて見るから、居酒屋の他のお客さんが連れてきていたものか、通りすがりのものかどちらかだろう。害を与えてこないようだけど、気持ちがいいものではない。もっとかわいいやつならいいのに。
飲み屋の他の誰かのところにいたのものが、明日花の肩に遊びに来たのかもしれない。何かもう、いろいろおかしい。そもそも目がひとつしかないという段階でおかしいでしょ。何もかもが尋常ではない。
何度目をこすっても、目をこらしても、いつものごとく見間違いではなかった。
それもそのはず、私にはこの世の人間には見えない〝あやかし〟たちが見えてしまうのだ。これが私の秘密だった。
生まれつき、普通の人の目に見えない、妖怪とか妖精とか、〝あやかし〟が見えた。
そいつらはどこにでもいる。
人の頭の上に乗っていることもあれば、空を飛んでいることもある。旅をしている者もいれば、いわゆる付喪神のように特定のモノに取り憑いている者もいた。
行動パターンは、これまで見てきた連中は野生の動物に限りなく近い。
私があやかしの見える人間だと分かれば、怖がって逃げていくものもいるし、逆にたちの悪いあやかしなら襲いかかってこようとしたり、悪戯してきたりするものもいる。
それに加えてあやかしだけではなく、死んだ人の霊も見えてしまう。
物心ついて、どうやらこれは普通ではないということを悟った。
けれど、悟ったところで、あやかしが見えなくなるわけではない。
このおかげで、いろいろと不自由してきた。小学校と中学校は公立でそのまま通ったけど、どちらも運の悪いことに近くに墓地や寺社があった。小学校の頃は学校帰りや大小さまざまな怖い顔のあやかしに話しかけられて追いかけ回された。中学になったらさすがに悲鳴を上げるような事態は少なくなったけど、友達としゃべっているといきなりあやかしが目の前を横切ったり、友達にダブって見えたりして、驚きや恐怖で硬直してしまった。おかげで、挙動不審に見られり、気味悪がられたことは数限りない。
高校と大学は事前に見学に行ってあやかしとあまり遭遇しなさそうなところを探した。具体的には、お寺や神社、お墓、古くからある森とかがないところだ。それでぜんぶが防げるわけではないけれども、小学生や中学生の頃に学んだささやかな防衛手段だった。
大学の専攻やゼミも、あやかしや霊と遭遇しなさそうかどうかで選んだ。学部に英文学部を選んだのは、英語の勉強中はなぜかあやかしと遭遇する率が低かったからだ。やっぱりあやかしにとって英語は難しいのかもしれない。同じように数学の勉強中もあやかしは寄ってこなかったけど、私の方も数学を苦手にしていた。
英文学部といってもいろんな研究がある。内容的に日本の民俗学的な研究をしているところは当然パスだったし、怒りっぽかったりわがままだったりする教授のところには割と似たような心のあやかしや悪霊みたいなものが寄ってきていたので、これもパスだった。
いま所属しているゼミだってあやかしと完全に無縁ではなかったが、頻度は低いし、何より出現するあやかしが無害な連中ばかりだったので選んだのだった。
ところが、問題は就職活動だった。
筆記も適性テストもパスして最終面接でそれは起こる。
どの業種もどの面接も、面接官の後ろにあやかしが見えてしまうのだ。
しかも、結構たちの悪そうな連中ばかり……。面接官の体中に蛇のあやかしが何匹も巻き付いていたこともあれば、結構大きくて明らかに私に害意を持って威嚇している者もいた。
あやかしも霊も、この世の存在ではないが、私を脅かすことはできるし、私が見えていると分かればもっと見て欲しいとばかりにうろちょろしてくることもある。巨大な力を持つものになれば物理的に殴ってきたり、ものを壊したり、誰かを怪我をさせたりすることくらいできるのだ。
そして何より、大体のあやかしは見た目が気持ち悪い。
そんなものを見たら、顔が引きつってしまう。どうしてまともに面接なんて受けられるのよ……?
それが二百社。すべて最終面接まで頑張って、時間もお金も労力もかけて二百社なんですよ、二百社。大学三年から約二年間。卒業前日のいままでかかって、この有様だった。
先程お祈りメールが送られてきた五社は、どこもまだまともに面接できた方だと思ってたんだけどなあ。
もう返事待ちのところもない。
藤原静姫、万策尽きました……。
時間を見ると午後五時。終業時間です。
私はなけなしの気合いを集めて立ち上がった。
つい数時間前、学食でゼミの教授に声をかけられたことを思い出す。「本当に大丈夫なんだよね」と深刻そうに尋ねてきた教授は退職間近。白髪で人が好い。私の就活状況を夏頃に知った教授は、自分の知り合いの勤め先や先輩の就職先を紹介しようかと何度か声をかけていただいたものだ。
しかし、教授の紹介で行った面接であやかしと遭遇してぶち壊しになったらと不安で、ずっと断っていたのだった。その結果がこれだった。かえって心配をおかけして申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そのときは笑顔で「多分」と答えたのだけど。ああ、結果を知らなかった数時間前に戻りたい……。
教授は、「信じてるけど、一応結果は教えてね。心配だから」と言っていた。だから、本当はもう家に帰って不貞寝したかったけど、教授への挨拶だけはしようと思った。
夕焼けの大学構内は、春も間近だというのにどんどん気温が落ちていく。
教授の研究室を訪ねた。軽くノックすると、「どうぞ」と声がする。
「教授、実は就職活動の方なのですが……最後の面接先もダメでした」
と、私が敗北宣言の挨拶をすると、教授は長い眉毛を八の字にしてため息をついた心の底から私の就活失敗を悲しんでくれているように見えて、私も鼻の奥が痛くなってきた。
コーヒーメーカーで作り置かれているコーヒーを、教授が私に淹れてくれた。少し煮詰まっていたが、ブラックで啜る。
「大変だったね」
「はい」
今回、このゼミを卒業する四年生は明日花や私を含めて十人。そのうち、就職が決まっていないのが私ひとりだけだった。
「明日卒業式だけど、その後はどうするの?」
「まだ何も。自宅生ですけど家で遊んでいるわけにもいかないので、何か仕事は探します」
市役所で働いている父親も、定年までそう何年もあるわけではなかった。母親も郵便局で働いているが、最近腰が痛いと言っている。要するに、私の両親もそろそろリタイアを考える時期で、四大英文学部卒の娘が無職でごろごろしている余裕はなかった。
私は、教授と話しながら、近所のスーパーのレジ打ちをしている自分を想像してみる。ちょっと悲しくなった。それしかないなら、それしかない。それしかないのだが、すぐにそうしようと切り替えられるほど、私は気持ちの整理がうまいわけでもなかった。コーヒーの酸味が妙に舌に残る。のぞき込めば、黒い液体の表面に自分の顔が奇妙に映っていた。まるで黒い鏡に映し出されているみたいだ。
同じくコーヒーカップを手にしていた教授が、何かを思い出した顔で、机の上からチラシのようなものを持ってきた。
「さっきお昼のあとにさ、就職課に寄ったらこんな紙を渡されたんだけど」
教授が見せてくれた紙には、「従業員募集!」の文字がでかでかと書かれていた。
――南信州星降り温泉「いざなぎ旅館」。
環境省が選んだ日本でいちばん星空の美しい温泉で働いていませんか。
学歴性別その他もろもろ不問。
先輩たちもとてもやさしくて、アットホームな職場です。
やる気のあるあなたを全力サポート!
社保その他、福利厚生も充実!
まず一晩泊まって疲れを癒やし、それから面接しましょう!
(このチラシをご持参いただいた方は一泊無料です)
……とても怪しい。
星空が売りのようで、天の川の写真が貼り付けてあるが、レイアウト的にはとってつけた感が満載だった。一行一行違うフォントを使っていて、大きさもまちまちで読みづらい。イメージキャラなのか、デフォルメされた鬼のイラストがあって、吹き出しに「待ってるよ」とセリフが書かれていた。
私はデザインの専門家でもないし、美術の成績が良かったわけでもないけれども、一見してなかなかすごいチラシだということは分かる。
じっくり見れば見るほど怪しい。
だが、信じがたいことだけど、ちゃんと学生課と就職課の印が押されていた。うちの大学はこのチラシを求人広告として承認したのか……。
あまりに怪しすぎて思わずじっくり見てしまう。求人広告として、注目させることが目的なら、その目的を達成しているから良い広告なのかもしれなかった。
しかし、これまでの就職活動の経験上、並んでいる文言は、昨今でいえば、〝うちはブラック企業です〟と宣言しているようなものではないか。
すると、私の戦慄をよそに教授が笑顔で告げた。
「アットホームで福利厚生が充実しているなら、悪くないと思うよ?」
「はあ……」
長くて白い眉毛がたれて、半分泣いているような笑顔になる教授には、そのように読み取れたらしい。
「それに星空がきれいな温泉宿なんていったら、女性は大好きだろうし、今後は外国人観光客も増えるんじゃない? そうしたら、大学で勉強した英語も生かせると思うんだ」
「そうですね……」
教授なりに考えてくれていたようだ。とはいえ、お昼に私と会ったあと、就職課であのチラシをもらってきたのだとしたら、私が就活大敗北を迎える可能性を考慮していたことになるわけで、教授、ひどい。
「とりあえずさ、そんな気分じゃないだろうけど、誰よりも就活頑張ったんだし、温泉で一服するだけでもいいんじゃないかな。ほら、ギターの弦みたいに、張り詰めすぎてちゃプチンと切れちゃうよ。それに行ってみたら意外にいい所かもしれないし……」
コーヒーをすすりながら教授が勧める。だんだん早口になってくる。これは授業やゼミで気持ちが乗ってきたときの教授の癖だった。
教授の不器用なやさしさが、少しずつ私の背中を押していた。
あやかしや霊が見える私にとって、このゼミで過ごした時間はすごく居心地が良かった。何しろ、ゼミに入ってからの二年間、教授があやかしや悪霊の類いを身体にまとわりつかせたりしていたことは先ほど触れた通り、ほとんどなかったからだ。教授の人柄がよかったからだろうと思っている。そんな教授に引かれてやってきたゼミ生たちもいい人ばかりで、あやかしがらみでひどい目には遭わなかった。
教授が、自分のカップにコーヒーをおかわりする。
「ずいぶん前に、藤原さんみたいな人がいたんだよ」
「私みたいな、ですか」就活にくじけた人だろうか。
すると、教授はカップを両手で持ってしばらく見つめてから、私に顔を向けた。
「きみ、何か〝見える〟んじゃないの?」
息が止まりそうになった。
「教授、それって……」
「いや、違っていたら悪いと思ってずっと黙っていたんだけど。違ってたかな?」
私の秘密を知って、みんなが気味悪がって離れていった小学校の頃の光景が頭をよぎった。心がずきりとする。だけど、教授の朴訥とした声を、私は信じた。
「――いいえ。違っていません。私、生まれつき、あやかしとか霊とかが見えるんです」
他人にそんな話をするのは十年以上ぶりだった。なぜか涙がこみ上げる。
教授は小さく何度も頷いてコーヒーを啜った。
「昔、このゼミにいた子もそうだった。けど、僕はそのとき何もしてやれなくてね。だから、せめてきみの助けになればと思ったんだけど。……声をかけるのが遅かったかな」
教授がまるで自分の責任のように申し訳なさそうな顔をしている。私は何度も首を横に振った。自分以外にも〝見える〟人がいる。初めて聞く話だった。
この教授が勧めているのだから、何か運命的なものがあるのかもしれない。
落ち着いて考えれば、星空のきれいな温泉なんて行ってみたいに決まってる。
「分かりました。卒業式の後で、連絡してみます」
半分破れかぶれであることは否めなかったけど、私はこの話に乗ってみることにした。
「うん。がんばってね」と、教授が泣いているのか笑っているのか分からない、いつもの笑顔になる。
ふと気になって尋ねてみた。
「昔、このゼミにいた〝見える〟方は、その後どうなったんですか?」
すると、なぜか教授が顔を赤らめた。
「やっぱり就職活動がうまくいかなかったんだけね。いろいろあって――いまはぼくの奥さんになっている」
教授がはにかみながら教えてくれた素敵な結末に、私は胸が熱くなる。よかった、と思った。
けれども、私はこのとき、まだ知らなかった。ご縁があったら就職させていただく、というくらいの気持ちで受け取ったこのチラシが、私の人生を大きく変えるほどの大きな力を持っていたということに――。
卒業式から三日後、私はあのチラシを手に星降り温泉へ向かった。三日後になったのは卒業式のあと、週末を挟んで先方の受け入れが厳しいとのことだったからだ。
おかげでゆっくり眠ることができたし、支度も落ち着いてできた。
星降り温泉は南信州、長野県の南の山村にある。
東京都から長野県へ行くのは初めてだった。地図上では近い印象を持っていたのだけど、実際に移動するとなると、車を持たない私にとっては結構大変だった。
まず、JR東京駅から山陽新幹線で名古屋へ行かなければいけない。名古屋なんて、長野を通り過ぎているのではないかと、スマートフォンのルート検索で何度も確認してしまった。しかし、見間違いではなかった。
名古屋駅で中央本線に乗り換えて金山駅へ行き、名鉄に乗り換えて名鉄名古屋へ。同じ名古屋駅なのにどうして一旦金山駅へ行かなければいけないのだろうか。あと、中央本線ってこんなところまで続いていたんだ……。
そのあと、さらにバスで一時間半。しかも一時間に一本しかない。このバス、絶対逃してはいけないやつだ。
ところが、ここで私はやってしまった。
慣れない駅名のせいで、時間感覚がずれてしまったのもある。ルート検索に勧められるままに特急に乗ってしまったせいで、席に座れてほっとしてしまったせいもある。電車のドアが閉まる音は聞いた記憶があったのに……。新幹線のなかでもずっと眠っていたはずなのに、私は居眠りをしてしまった。
どうやら二百連敗の披露は身体の深いところに食い込んでいたらしい。気がつけば見知らぬ駅を出るところだった。
「あれ? まだ着かないのかな」
スマートフォンによれば四分くらいの乗車時間のはずなのに。
時計を見れば十分以上乗っている。
「私……寝過ごした?」
血の気が引いた。
この電車、次はどこで止まるの?
それよりも、いつ止まるの?
冷静な振りをして窓ガラスに顔を近づけて進行方向を見るが、なかなか次の駅が見えてこない。
一瞬、本気で緊急停止ボタンを押そうかと考えてしまった。就活のときに逆方向の電車に乗ってしまって、説明会に間に合わなかったトラウマが頭をよぎる。
しばらくして停車した駅に急いで降り、逆方向の電車を探す。重いキャリーケースを抱えて反対ホームへ移動し、名鉄名古屋駅に戻る電車を待っていたら、なぜか別のホームに名鉄名古屋駅行きの急行が入ってきた。嘘でしょ。電光掲示板を確かめると、次の急行だけ臨時で別ホームに入ってくる。それがあれなの? 大急ぎで急行のホームへ走ることも考えたけど、多分間に合わない……。わたしは首を垂れた。
やっときた鈍行で名鉄名古屋駅に戻ったときには、日差しはすっかり西日になっていた。徒歩一分と書いてあるバス停を五分以上かかって探し出したときにはちょうど目的のバスが出発したばかりだった。
ここまで来たら大丈夫だろう。きっと、他にもいまくらいの時間に来る温泉客の方もいるだろうし。なんて、淡い期待を抱いていたが、バスが来てみたら乗客は私だけだった。
今度こそ寝てはいけないと自分を戒めるため、立ったり座ったりを私は繰り返した。ひとりぼっちのさみしさを紛らわせるためでもある。
バスが進むにつれて家がまばらになり、ついに何も見えなくなった。街灯もほとんどない。というより、まったくない。だからこそ、降るような星空が見られるのだろうけど、本能的にさみしくなるのはどうしようもなかった。
バスから降りたら辺りはもう真っ暗。
遠ざかるバスのテールランプが見えなくなると、本当に周りが見えなくなった。
夜って、こんなに暗かったんだ。どっちへ歩いたらいいのか考えていると、せっかく教授の素敵な話で上向いていた心が、だんだんとまた塞いでくる。
何やってんだろう、私。
東京を離れて、ひとりぼっちで。
ああ、でも、東京にいても就活に失敗した私に居場所はないか。
卒業式から今日まで、家でゆっくり休めたけど、それは両親が私のことを腫れ物が触るようにしていたからで。
何で私はこうなんだろ。あやかしが見えなかったら、人生変わってたのかな。
お父さんもお母さんも普通の人なのに、何で私だけがこんな不思議な力を持っているのかな。
さみしさと不安で瞳に涙がにじみ始めた、そのときだった。
――天を、見上げてご覧なさい。
「……へ?」
右を向いても左を向いても、真っ暗な夜の闇の中で、温かな女性の声が聞こえた気がした。何だか懐かしい気持ち。お母さんとは全然違う声なのに、とても落ちつく――。
私はその声を信じて、天を見上げた。
「うわぁぁ……」
本当に美しいものを見たとき、人間は自然と感嘆の声が出てしまうのだと、そのとき知った。
見上げた天には無数の星々がきらめいていた。
どこまで見上げても、のけぞるように後ろまで首を逸らしても、星が途切れることなく空一面を埋め尽くしている。天を斜めに横切るうっすらと白い光の流れが、天の川。生まれて初めて見た。
東京出身の私には、星空は月と木星と火星がほとんど。星座はカシオペア座と北斗七星、あとは冬のオリオン座くらいしか見たことがなかった。
いま私は本当の星空を見ている。
いや、〝宇宙〟を見ていた。
私はちっぽけだ、と思った。
人間がどれほどの文明を築こうとも、科学がどれほど発展しようとも、いま私が見ている大宇宙の神秘をすべて解き明かすことはできないだろう――そんな気持ちにさせる星空だった。
それにしても、星が多い。夜空にはこんなにもたくさんの星があったんだと呆れるほどだ。
視界の限りを埋め尽くす星々を見ていると、かえって星座の星の組み合わせが分からなくなってくる。昔の人はよく星座をつくることができたなと変な感心をしてしまった。
星降り温泉、というよりも、〝星に魂が吸われる温泉〟と言いたいほどの迫力だった。じっと夜空を見上げていると、星々と自分がひとつになっていく感覚がした。
ちっぽけだ、と感じた気持ちが、むしろたくさんの星々とつながっていくみたいな感覚に変わっていく。何かエネルギーのようなものをもらっているみたいだった。
流れ星が視界の隅を走った。
えっ、と思ったときにはもうない。流れ星ってあんなにすぐ消えるの? 願い事三回なんて無理だ。それすらも楽しい。
星空の美しさに気持ちが上向いてきたところに、異物のような声が割り込んできた。
「見つけた――」
低く、くぐもった声がした。私は慌ててスマートフォンを取り出し、ライトをつける。ライトは夜の闇をただ素通りするだけ。何も映さない。
しかし、私の目には大きな男の姿が見えていた。いや、正確には男と呼ぶべきではないだろう。二メートルは越えるだろう見上げるほどの体格に黒い羽。修験道の行者のような衣服。その顔は人間ではない。漆黒の羽毛とくちばしと目を持っていた。たとえるなら、烏――。
“あやかし”だ。
それも、これまで見たもののなかで考えると、危険なあやかし。
たぶん、烏天狗。友好的なものもいるが、いま私の前にいる烏天狗は違う。くちばしを大きく開けて私を威嚇していた。
まずい。逃げなくては――。
私はスマートフォンのライトで足下を照らしながら全力で駆け出した。
しかし、烏天狗も私を追ってくる。
知らない土地。知らない道。星明かり以外の光のない夜のなかを、ただ走るしかない。山のなかの温泉地だからとかかとの高くない靴を履いてきて良かった。
「はあ、はあ、はあ――」
逃げても逃げても、烏天狗は一定の距離で追ってくる。
まるで悪夢のなかを逃げているようだった。
バス停からチラシに書いてあった「いざなぎ旅館」はすぐ近くのはずなのに。
どこに行けばいいの――?
すると、目の前にぼんやりオレンジ色に光るものが現れた。私は無意識にその明かりに頼った。
息を切らせて走って行くと、そこには端正な作りなのにずいぶん物憂げな顔をした若い男の人が立っていた。たまたま居合わせたと言わんばかりのふらりとした立ち姿。なのに、不思議と様になっている。どういう仕組みかは分からないけど、全身がぼんやり光っている。あやかしのような、この世のものではない光とは違う。肩の辺りから、光がほのかに身体を包んでいるのだ。
その男は明らかに私を見て、言った。
「助けようか」
私は一瞬だけ迷った。本当に人間なのか。人間にあやかしの凶暴なあやかしができるのか。だけど、私はその〝光〟を信じて、告げた。
「助けてください」
そのままその男の横に足をもつれさせて滑り込み、倒れ込む。走るのも限界だった。膝に冷たい草の感触がする。男が立っているところが草の上で良かった。心臓が激しく鼓動を打ち、息もままならない。大学二年生で体育の授業を終えてから運動していなかったツケだ。
思い切り転んだ私には目もくれず、その男は懐から金色の細い棒を取り出した。目の前に烏天狗が迫る。男よりも烏天狗のほうが頭ひとつ大きかった。
しかし、動じる様子はない。
「本来は悪鬼(あっき)祓いの呪文だが、まあ効くだろう……天も感応、地も納受、御籤はさらさら」
男は呪文を唱えると飛び上がった。金色の棒を逆手に構える。烏天狗の脳天をそのまま殴りつける。ゴンっと鈍い音がして「ぎぐえぇぇぇ」と、烏天狗が絶叫した。夜の闇が震える。脳天を押さえる。よろめいて膝をついた。
強い――。
私が唖然としていると、男性は慇懃無礼(いんぎんぶれい)に烏天狗に言い放った。
「困りますね、お客さま。うちの宿で元気になったからって、帰りしなにさっそく人間に手を出されては。――去(い)ね」
男が柏手(かしわで)を打つ。烏天狗が柏手の音にのけぞる。悔しそうにもう一度叫び、烏天狗は黒いつむじ風となって去って行った。
烏天狗の気配がいなくなるのを待って、男が私を見た。
天の川を背景に、山間を流れる雪解け水のような怜悧(れいり)で白皙(はくせき)の顔をしていた。月明かりのように白く冴え冴えとした肌、星を宿したように美しい瞳だけど、どこか心を閉ざした寂しそうな印象だ。作務衣というのだろうか、黒っぽい服を着ている。
「日没になっても来やしねえから、見てこいって大旦那が言うんで来てみれば、とんだぼんくらが来やがったな」
澄んだきれいな声なのに、恐ろしく人を馬鹿にしたしゃべり方をしていた。もとが美形なぶん、よく切れるカミソリのように鋭利に耳を打つ。初対面の相手ながら、私はちょっとかちんときた。いいよね。あっちだって初対面の私に悪態をついたのだから。
しかし、この無礼な美形は敵意を持った烏天狗をただの一撃で撃退してしまったのだ。当たり前だけど、私と同じであやかしが見えるのだ。私以外にそういう力を持った人に実際に会ったのも初めてだけど、それを打ち負かすことができる人なんて見たことがなかった。私はあやかしも霊も見えて話ができても、他には何もできたりしないのだから。
いまこうしているときも、この男の身体はうっすらと光っている。
まさかと思うけれど、やはり本当は彼もあやかしなのだろうか……。
「あ、あの……」
スマートフォンのライトで足下を照らす。私がこの人との距離を測りかねていると、男性の方から舌打ちをしてきた。
「ちっ。助けてやったのに礼もなしか。まあいいけどな。『いざなぎ旅館』はこっちだ」