Hate or Love?愛と嘘とにまみれた世界の片隅で

戦えない。


逃げろ。


分かってるのに、動けない。


金縛りにあったように、動かなかった。


男の手があたしへ伸びてくる。


その手にはハンカチが握られていた。


薬品を嗅がされる─。


危険を感じ、抵抗しようと我に返ったときにはもう遅かった。


口と鼻を塞がれ、ツンと鼻腔を刺激される。


バサ…


傘が落ちる音とどしゃ降りの雨の音を最後に、あたしの意識は消えていった。
「い……っ」


目が覚めたら、猛烈な頭痛が襲ってきた。


きっと薬品のせいだろう。


「…何ここ」


薄暗く、灰色の冷たいコンクリート壁に囲われてる部屋に転がされているあたし。


その腕に痛みを感じ、動かそうとしたが、動かない。


手枷のようなもので頭上に固定されている。


コンクリートの床が冷たい。


鉄格子付きのはめ込み窓の外には、どしゃ降りの雨が見える。


外はまだ暗い。


「よぉ」


真上から覗き込むように、金髪の男が姿を現した。


気配を感じなかっただけで、ずっと居たのかもしれない。


拉致される前もだけど、この男は本当に気配を感じさせない。
「思う存分遊ばせてもらおうか」


気持ちの悪い笑みを浮かべ、男はあたしの上へ跨がる。


「…やめて」


手を拘束されているあたしにできる抵抗なんてたかが知れてる。


男を睨み付けることくらいしか術がないんだ。


「いいねぇ。もっと抵抗しろよ」


男の右手には冷たい色のナイフ。


そのナイフを器用に回し、あたしの恐怖を煽ってくる。


あたしなんて所詮武器がなければ何もできないんだ。


だったら抵抗するのはやめよう。


コイツの望み通り抵抗するのは癪だ。


「…好き勝手遊べば。あたしは構わない」


経験人数で言えばコイツなんて何十分の一にすぎない。


それがレイプだっただけ。


別にあたしはすでに汚れてるからもういいんだ。
「…あ?なんだてめぇ」


あたしの発言が想定外だったのか、ナイフを回す手を止め、射るような視線であたしを見下ろしてくる。


「だから、別にあたしで遊んでいいっつってんの」


抵抗なんてしない。


コイツの筋書き通り動いてたまるか。


どのみち犯されるんだから。


「チッ。変な女だな」


男はそう言ってナイフをあたしの頭スレスレにぶっ刺す。


そして、強引に唇を奪ってくる。


「…んっ…」


女慣れしすぎてる。


それがすぐに分かるようなキス。


…あぁ。


あたしはこのキスが嫌いじゃない。


酔ってしまいそうで、とろけてしまいそうで。


ナオ、ごめんね。


ナオ以外の男に抱かれて、初めて気持ちいいと思ってしまった。


ごめんなさい…ナオ…。

**

久しぶりにあたしがあたしじゃなくなった。


ナオですらあたしをこうすることなんてできない。


なのに、この男には…狂わせられるんだ。


全身がこの男を欲しがって、心ではあり得ないって思ってるのにこの男を求めてる。


…こんなの、あたしじゃない。


「お前、名前は?」


行為が終わり、グッタリしたあたしに男が話しかけてくる。


「…汐美玲香」


気がつけば外の雨は止み、太陽の光が射し込んできていた。


一夜だけの関係の男の名前なんて興味ない。


ナオは今どこにいるんだろう。


「汐美玲香…。琴吹組か」


……。


琴吹組の末端でしかないあたしの名前まで把握してるなんて。
「琴吹組の人間ならこのまま逃がしてやってもいいぜ。お前は見ちゃいけない光景を見たんだからな」


…見ちゃいけない光景?


あの集団暴行のことだろうか。


あんなのどこにでもあるケンカだと思ってたけど、違うのか。


「こっから逃げたいか?」


男はナイフを弄びながらあたしに尋ねてくる。


その目は刃以上に冷たい色をしていた。


ゾクッと背中に悪寒が走る。


「逃げたいなら今日からお前は俺の奴隷だ」


奴隷…。


奴隷と聞いて真っ先に浮かぶのは制裁を下された組の人間たち。


あんな風にはなりたくない。


けど、こんなところにずっと居るのも御免だ。


いっそのこと隙をついてこの男を殺してしまおうか。
「逃げるか逃げない。どっちか選べ。今すぐに」


男はそう言ってあたしの喉元にナイフを突き付ける。


少しでも動けば鮮明な赤が噴き出すだろう。


「…逃げるに決まってるでしょ」


こんなところにずっと居たいわけがない。


それに、あたしはこんな男の奴隷になるつもりなんてない。


「じゃあお前は俺の奴隷だな」


そう言ってあたしのスマホを勝手に操作し始める男。


「勝手に触らないで」


見られたらヤバいやり取りだってたくさんある。


特に、ナオとのやり取りを見られてしまったらあたしたちは終わりだ。


「俺の連絡先追加しといたから」


冷たい瞳を光らせ、用なしとなったスマホをあたしに投げてくる。
手枷も外してもらい、何時間かぶりに自由の身になったあたしは、投げられたスマホを確認する。


すると、新しく追加された連絡先に聞き覚えのある名前が登録されていたんだ。


「宮瀬聖…」


こんな偶然があっていいんだろうか。


神様があたしたちを巡り会わせたのか、それとも貫田さんの怨念だろうか。


何か強いものの力を感じずにはいられない偶然に、思わず身震いする。


「よろしくな、玲香」


宮瀬聖は、どう猛で炯々とした目付きであたしを見下ろした。


その、ナイフよりも遥かに鋭い瞳を見て確信した。


あたしに彼は殺せない、と。


この眼光を浴びせられるとあたしはもう動けなくなる。


あたしのすべてが、彼に呑み込まれてしまうんだ。

**

宮瀬聖から解放され、家に帰ってきたあたし。


だけど、そこにナオの姿はなかった。


1度帰ってきた痕跡もない。


未だにメッセージに既読が付かない。


時刻は午前9:00過ぎ。


ナオが昨日家を出てから24時間以上が経っていることになる。


学校なんて行ってる場合じゃない。


当然のようにサボり、ひたすらナオの帰りを待つ。


今日の空は晴天だ。


昨夜、あたしが見た集団暴行は何だったんだろうか。


宮瀬聖はそれを隠したがっていた。


琴吹組と西条組の抗争だったのかもしれない。


だとしたら、暴行を加えられていた方が西条組で、宮瀬聖の指示か何かで宮瀬の部下が暴れてたんだろう。


…やられたのは神龍連合の人間か…。