「そっか。そっか。……辛かったんだね。よく、頑張ったね」
穂海ちゃんは、どこか遠くを見つめながら、ポロポロと涙をこぼした。
涙は次第に量が増え、終いには声を出して泣き始めてしまった。
俺は、穂海ちゃんに近付いて優しく背中を撫でた。
嫌がるかな?とも思ったけど、穂海ちゃんは素直にそれを受け止めてくれた。
「いま、思うこといっぱいあると思う。言いたくないこともいっぱいあるよね。…でも、言いたくなったら、言ってね?いつでも、相談に乗るから。大丈夫、大丈夫。」
穂海ちゃんは、それからしばらく泣き続けた後、疲れたのか、コテンとベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。
まだ目元にたくさん溜まっている涙を拭い、それからさっき出来なかった診察をすることにした。
心做しか、穂海ちゃんの顔がいつもより安心しているように見えた。
パソコンを持ち込み、しばらく穂海ちゃんの部屋で仕事をしていると、数時間して穂海ちゃんが目を覚ました。
「…………んぅ…」
「おはよう、穂海ちゃん。」
「…うん」
起きたばかりで、まだ少しぼーっとしているようだ。
穂海ちゃんは、辺りを見渡してから、眠たそうに目を擦った。
「気分はどう?体調悪いとかない?」
「…大丈夫。」
「なら、よかった。僕はもう少しここにいるけど、もう少しお話する?」
そう聞くと、穂海ちゃんは少し考えてから小さく首を振った。
「そう。じゃあ、普通にここにいるね。何か欲しいものとかあったら___」
そこまで言いかけて、俺は胸のざわつきを感じた。
そして、そのざわつきの正体はすぐに現れた。
「…………っ!!」
「穂海ちゃんっ!?」
穂海ちゃんは急に胸を押えて、うずくまった。
発作か……
昨日診断された病名、『大動脈弁逆流症』は、放っておくと、大きな発作で命を落としかねない危険な病気だ。
だから、近いうちに手術をしなければいけないって言ってたんだけど…
まさか、こんなに早く2回目の発作が来るとは思ってもいなかった。
「穂海ちゃん、1回体起こそうね、そしたら息は楽になるから、ゆっくりでいいから体起こすよ~」
ベッドを起こして、穂海ちゃんの背中をさする。
「ゆっくり息しててね、今清水先生呼ぶからね~」
俺は、穂海ちゃんの背中をさすりながら、もう一方の手でPHSで清水先生に電話をかける。
「はい、もしもし、小児科の清水です。」
「清水先生、穂海ちゃんまた発作を起こしました。」
「…まじか。……わかりました、今すぐ行きます。とりあえず今はパニックになられると厄介なので、落ち着かせること最優先でお願いします。」
「了解です」
発作は落ち着いたものの、穂海ちゃんはよくわからない苦痛に怯えているようで、ずっと布団に潜って出てきてくれない。
「清水先生、これ、もう説明した方がいいんじゃ……」
「うん。…でも、このことについては担当医である瀬川くんに説明してもらおうと思ってるから、もう少し待ってて」
「……はい。」
清水先生がさっきのうちに碧琉を呼んでおいてくれたようで、もうすぐ来るらしい。
そして、その後穂海ちゃんに病気の説明と手術の説明がされる。
数分待っているとコンコンッとドアがノックされた。
「失礼します」
そう言って、説明用のタブレット端末を持った碧琉が部屋へ入ってきた。
「穂海ちゃん、ちょっとお顔出せる?お話したいことがあるんだ。」
すると、少しモゾモゾと布団の中で動いてから、穂海ちゃんは少しだけ顔を出した。
「急でごめんね、さっきもまた苦しくなっちゃったでしょ?…それで、昨日検査した結果を説明しに来たんだ。」
「………………私、病気……なの?」
そう言って穂海ちゃんは、とても不安そうな顔になってしまう。
「……うん、それで、ちょっとお話聞いてもらってもいいかな?」
「………………うん…」
「まず、穂海ちゃんの胸が痛くなっちゃって苦しくなっちゃった理由を説明するね。」
持ってきたタブレット端末を操作して、資料を出す。
「これ、見てもらってもいい?これは、心臓の模型ね。普通、俺たちはこっちらからこっち向きに血液が流れてるの。…けど、穂海ちゃんの場合、たまに反対向きに血が流れちゃうの。だから、痛くなったり苦しくなっちゃったりするんだ。ここまでは大丈夫?」
「…………うん」
「それでね、今みたいにすぐに治まってくれたらいいんだけどね、治まってくれなくなったら大変なんだ。だから、その前に手術をして治したいんだ。」
「手術……?」
「うん。麻酔をして、穂海ちゃんを眠らせた状態で、ここを切って、この後心臓がまた変な動きをしないようにするんだ。それで、できることなら、二週間以内には手術したいんだけど……」
そこまで言ってから、穂海ちゃんの表情を伺う。
案の定、その表情は曇っていて、今にも泣き出しそうだ。
「ごめんね、急に言われたら怖いよね…」
「……それ、痛い?」
「…麻酔をするから、眠っている間は痛くないよ。……でも、麻酔の薬を入れるための注射だけは少し痛いかもしれない。」
「手術、受けてくれる?」
「わかんない……」
「…でも、早く決めてくれなきゃ、こっちも__」
途中まで言いかけたところで、兄貴に言葉を遮られる。
「そうだよね。急にいっぱい言われてもわからないよね。じゃあさ、今日一日、こいつここに居れるから、ゆっくりでいいから少し話し合ってみてくれないかな。不安なことでもいいし、何が怖いかでもいい。…普通に世間話でもいいよ。なんでもいいから、今日は2人でじっくり話してみて。」
「…………うん」
そう言うと、兄貴は俺の方をポンと叩いて
「じゃ、僕と清水先生は他の仕事あるから戻るね。」
そう言って、病室を出ていった。
残された二人の間に気不味い空気が流れる。
……何を話していいのかわからない。
…でも、空気的に、あんまり病気絡みのことは言わない方がいいのかな……
そうこう考えているうちに、少しの間沈黙が流れた。
「ねえ、、、」
そう言って、先に口を開いたのは穂海ちゃんの方だった。
「ん?なに?」
「……なんで、先生たちは私に構うの?」
「えっ…………」
唐突に来た予想の斜め上からの質問に驚く。
なんでって言われても…、そりゃあ
「そりゃあ、みんな穂海ちゃんを助けたいからだよ。」
「つい最近会ったばっかりなのに?ついこの間まで他人だったのに、なんで?」
「…なんでって言われても、辛そうにしてる人が居たら俺たちはその人を助けてあげたいんだ。辛そうにしてるのに、放っておけるわけないでしょ?」
そう言うと、穂海ちゃんは難しい顔をして、少し考えてからまた口を開いた。
「……だって、今までは私がどん目に会っていようと、誰も何もしてくれなかったよ?それが……普通、じゃないの?」
あぁ、そっか。
穂海ちゃんの育ってきた環境を考えれば、穂海ちゃんがなんでそんな質問をしたのかすぐわかった。
「…少なくとも、ここにいる人たちは違うよ。この病院にいる人たちは、みんな、誰かを助けたくてここにいるからさ。だから……俺たちだから、特別穂海ちゃんに構ってるんじゃないよ。俺ら以外の先生も看護師さんも、みんな穂海ちゃんが言えばいつでも助けてくれるし、来てくれる。大丈夫、誰も穂海ちゃんを無視する人はいないから。……今は不思議かもしれないけど、きっと、いつかそれが普通になるから。」
そう言うと、穂海ちゃんはまだ少し不思議そうな顔だったが、頷いてくれた。
「じゃあ、今度は俺から。…穂海ちゃんの好きなもの、教えて?趣味とかでもいいよ。」
「…好きなもの?…んー………………お布団…かな。」
これまた、予想外の答えが返ってきた。
「……なんで?」
「…お布団は、安心する。暖かくて、暗くて、私を守ってくれるから。」
それを聞いて、俺は自分の学習能力の無さに心底がっかりした。
言われてみれば、それもそうだ。
今までの行動を見てたら理由なんて一目瞭然だったのに。
……俺、まだまだ穂海ちゃんのことわかっていない…
「…趣味は?」
……ない とか?
そう言われたら、どう返せばいいだろう…
そう考えているうちに、これまた意外な答えが返ってきた。
「お絵描き…」
「えっ……穂海ちゃん、絵描けるの?」
「…うん。……全然、へたっぴだけど、絵描くのは昔から好きで、ずっと隠れて描いてた。」
「そっか。じゃあさ、今度描いてみせてよ。俺、穂海ちゃんの描く絵、見てみたい。」
そう言うと、少しだけ穂海ちゃんの顔が明るくなった。
「…うんっ……描く」
よっぽど好きみたい。
初めて、穂海ちゃんのこんなに嬉しそうな顔を見た。
よし、この調子。
それから、数時間俺たちは他愛もない話をして、時間を潰した。
少しずつ、お母さんの話とか病気の話を聞き出してみたけど、まだ核心部分には触れられていない。
でも、そろそろ聞き出してもいいよな…
「…穂海ちゃん、ひとつ質問いい?」
「いいよ」
「……穂海ちゃんはさ、なんで、手術いやなの?」
そう言うと、一瞬戸惑いの表情を見せてから、穂海ちゃんはゆっくりと口を開いた。
「…手術…………怖い。痛いのも怖いけど、何をされてるのかわからない所も怖い。……でも…」
そこまで言って、穂海ちゃんは俯いて口を閉ざしてしまう。
「……でも?」
「…でも………………一番、怖いのは……病気が治っちゃうこと……。」
「えっ」
「……だってさ、病気治っちゃったら、家、帰らなきゃいけないでしょ?…………いやだなあ。家、帰ったら………………また、…痛いこと……されちゃう………」
その声は、震えていて、今にも泣き出しそうだ。
「お母さんも、男の人も……きっと、怒ってる…………………今、家に帰ったら………なに、されるのかな…今度こそ、死んじゃったりしてね……ハハッ………………」
穂海ちゃんは、一言一言言葉を口にする度に、目に涙をため、体を強ばらせた。
……その姿が、あまりにも痛々しすぎて…………俺は、耐えられなかった。
耐えられず、穂海ちゃんを抱きしめた。
小さくて、やせ細った身体。
「大丈夫、大丈夫。絶対にそんな目に合わせない。もう、理不尽な痛みは経験させない。大丈夫、大丈夫だから。」
「でもっ、病気治ったら、帰らなくちゃ……!!」
「…家に帰って、穂海ちゃんが痛い思い、辛い思いするなら、ずっとここに居て。こんなこと、勝手に言ってるけど、でも穂海ちゃんに痛い思いして欲しくないのは、みんな同じだから。大丈夫。俺らが穂海ちゃんを守るよ。」
「………………っ」
そう言うと、穂海ちゃんは目にためていた大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「大丈夫、大丈夫。」
俺は、穂海ちゃんの背中を撫でながらずっとそう、言い続けた。
その日の夜、穂海ちゃんを寝かせたあと、俺は医局に戻って、清水先生に今日のことを報告することにした。
「清水先生、今お時間大丈夫ですか?」
「ん?あぁ、瀬川くんか。大丈夫だよ、どうだった?穂海ちゃんと上手く話せた?」
「……はい。穂海ちゃん、手術自体…というよりは、手術したあと、家に戻らないといけないのが怖いって。…それに、怯えていたみたいです。」
「んー、そうか。……でも、きっと家に帰ることはないね。」
「えっ」
思わず驚きの声が零れる。
「だって、警察も介入してきてるから。…きっと、児童相談所に保護されるか……親権が剥奪されて、児童養護施設に送られるか…だね。」
親権の剥奪……
上手くは言えないけど、それはいい事…なのかな。
いくら、酷いことをされてても、穂海ちゃんは、それを望んでいない気がする。
……というか、親権を剥奪した所で、穂海ちゃんに酷い暴力を振るった張本人の男の人はどうなるんだ?
穂海ちゃんの話を聞く限り、本当の父親ではないと思われる。
…………児童相談所か児童養護施設…、まだ完全に大人に対する恐怖が拭えていないのに、それもかなり酷じゃないか?
……それなら、うちにずっといてもらった方が…
「瀬川くん、色々思うところがあるのはわかる。……でも、ここでいつまでも匿ってあげるわけには行かないんだ。」
そんな……
「病気が治ったあと、穂海ちゃんがここに入院しておく必要はなくなる。……それに、児相に保護させているわけでも、養護施設に入っている訳でもない。…そしたら、入院費、治療費は誰が払うの?」
その言葉はいくらなんでもないんじゃないか?
穂海ちゃんを見放すってこと?
所詮、清水先生はそこまでしか考えてなかったってことかよ。
そうカッとなってつい言葉を荒らげてしまう
「し、清水先生は、穂海ちゃんのことより、お金の方が大切なんですか?」
「違う。俺だって、無償で穂海ちゃんを救えるのならいくらでも助けてあげたいし、ずっと入院しててもらっても構わない。……でも、心臓の手術っていくらかかるか知ってる?俺らは、医療行為を行う側だから分からないかもしれないけど、その高額な費用は誰が出す?…将来の穂海ちゃんが出さないといけなくなるんだよ。」
そう言われて、自分の考えが甘かったことにハッとさせられる。
「…………穂海ちゃんのことを悪く言うわけじゃないけど、中卒の子が就職に不利で、就職したあとも、大卒の人に比べたらお給料がかなり少ないのはわかるでしょ?その、少ないお給料で、穂海ちゃんは生きていかないといけないんだ。…だから、少しでも将来の穂海ちゃんが負担にならないように考えてやるのも、俺らの役目じゃないかな?」
「………………はい。俺の思考が、甘かったです。」
「ううん。大丈夫。大切な人には、盲目になるものだよ。…大切にしてあげたいのはわかる。でも、残酷だけど、現実を見なきゃ、夢だけ見て生きていけるほど、この世の中は甘くない。…俺らは、恵まれた環境で生まれて来れたから、こうやって医者になれた。医者になれたから、俺は朱鳥の治療費を払って上げられたし、養ってあげられている。本当に残念な話だけど、恵まれた環境に生まれて来れなかった子は、将来成功することが、人一倍難しいんだよ。」
胸が締め付けられる思いだ。
清水先生の言う通りだ。
俺らは、父さんと母さんが頑張って稼いでくれたおかげで大学に行けたし、何不自由なく暮らしてこれた。
…………けど、穂海ちゃんは違うんだ。
…でも…………でも……
あんな辛そうにしてる子を、見放したくない。
……非現実的なのは、わかってるけど…
穂海ちゃんを助けてあげたいんだ。
………………こんな苦しい気持ちになったのは初めてだ。
どうする?どうする俺……
考えろ…考えろ……
「悪いことは言わない、穂海ちゃんを養ってあげる自信と覚悟がないなら、期待させちゃダメだよ。それは、かえって穂海ちゃんを辛くさせる。…でも、もし、瀬川くんがどうしても穂海ちゃんを助けてあげたいなら、ちゃんと覚悟を持って、今の話と瀬川くんの気持ちを伝えな。」
そう言った清水先生は、今までにないくらい真剣な目をしていた。
きっと、前苑の件があったから、自分がその立場だったから言えることなんだろうな。
「わかりました。ありがとうございます。…明日、ちゃんともう1回話そうと思います。」
そう言って、お辞儀をしてから、俺は自分の席に戻った。