「だから、おまえがさっき言ったとおり、ゲームなのさ」川島が言った。「奴はからかっているのさ、俺たちのことを」
「解けました」チャンが叫ぶ。「【A LAY JUDGE】日本語で裁判員の意味です」
男はゆっくりと立ち上がると、エレベーターへと向かい、歩き出した。
「あの、私知り合いにお医者さんがいるんです」愛は言った。「とってもいい人で、腕も確かです。よかったら、病院行ってみませんか? すぐ近くですから」
「嫌だ」
彼は言った。
「え? でも」
「嫌だ。病院には行きたくない」
男はそう言うと、逃げ出すようにエレベーターへと乗り込んだ。
「あ、待ってください」
愛は後を追った。
瞳とチャンの二人が乗る黒塗りの捜査車両、V36スカイラインは今、横浜市立病院に向かっている。
「裁判所の公判記録を調べたら、やはり被害者たちは同じ裁判を担当した裁判員でした。今、向かっている現場の被害者である田辺和史さんの名前もありました」
ハンドルをきりながら、チャンが言った。
「裁判官三人と裁判員六人の、合わせて九人。やっぱりホシは彼らすべてをターゲットにしていると考えるべきなのよね?」
「それですが、あの例の謎の英単語と九という数字でネットを調べたら、エニアグラムというのがありました」
「エニアグラム?」
彼女が首をかしげる。
「僕も初めて聞いた言葉です。エニアというのがギリシア語の九で、グラムが図を表すようです」
「九つの図?」
「いえ、なんか円周を九等分して作る図形らしいです」
「なんだか、むずかしいわね」
「はい、確かに。で、エニアグラムの意味は真の自己を理解し、本来の自分自身へと至る道だそうです」
「ますますわからないわ」
彼女は苦笑した。
「元は宇宙の原理を説明するために生まれたものだとか、その起源については色々と説があるようですが、今は人間の性格を九種類に分類した性格論というのに使われているそうです」
「九つの性格? ああ、それが“改革者”とか“支援者”とかカードに記されていた英単語の本当の意味なのね。それなら、理解できるわ」
「はい。一時はカードが表す性格と被害者の性格とが必ずしも一致するわけではなかったので、困惑しましたが、当然ですよね。ホシは初めから、このエニアグラムで被害者は全部で九人になると、そのことを示していたのですから」
「となると、残りの三人は裁判官。彼らの保護が必要ね」
「それなら、すでに警官を送ってあります」
「さすがね」彼女は言った。「それにしても、あの暗号文といい、なんだか私たちが無能だとでも言いたいのかしらね」
「それより、警部。次の問題はなぜホシが裁判員となった彼らをターゲットにしているのか? そこだと思うんですけど」
「それは彼らが担当した裁判の事件に関係しているんじゃないかしら」
「僕もそう考えていました。彼らが担当した事件、日本在住のアメリカ人、マイケル・アーロンが引き起こした連続殺人事件、いわゆる“ナンバーズ・マーダーズ事件”答えはおそらく、そこにあるはずです。考えてみればあの事件も殺害現場にカードを残してゆくという共通点がありました。ま、この種の事件は他にも結構ありますが、それにあちらの場合、カードに記されていたのはただの数字でしたからね。言い訳ですけど」
二人を乗せた車が病院に到着した。
殺害現場となった病室は入院患者専用の、広さは十六平米ほどの個室で、シャワーユニット、トイレや洗面所などが備え付けてあり、
そのほぼ中央に置かれたベッドの上にはロープのようなもので絞殺された被害者の遺体がぶらさがっている。
瞳とチャンが臨場すると、ベッドの周辺を鑑識員が特製のブラシに付着させたアルミパウダーを振り掛けるようになぞりながら指紋の採取をしていた。
「つまり、夜中の二時に原因不明の停電が起こり、本来なら働いているはずのセキュリティーセンサーやカメラがまったく役に立たなかったというわけね」
瞳が言った。
「はい。予備電源にも切り替わらなかったそうです。今、鑑識が調べていますが、おそらくホシが何か細工したのだと思われます」
先に来ていた石本が答えた。
「警備員は何していたんだろう?」
チャンが首をかしげる。
「停電の対応に追われて、てんてこ舞いだったらしい」
「川さん、カードは予想通りでしたか?」
瞳が訊いた。
「ああ。確かに【Scanner】の文字だった」
「これで間違いありませんね。やはり、エニアグラムです」
チャンが言った。
刑事たちの後ろで、鑑識員が二人掛かりで、ベッドの上の亡骸を遺体袋へと収納する作業に取り掛かった。瞳は少しの間、それを黙って見つめていたが、唇を少し噛んでから、静かに口を開いた。
「残りは三人。彼らはもう身元が明らかなのだから、絶対にこれ以上の犠牲者は出させないわよ」
愛は男を追いかけ、九龍ビルを出た。
「あの、さっきはごめんなさい」男は振り返ると言った。「でも、僕は本当に病院には行きたくないから」
「私こそ、ごめんなさい。余計なこと言っちゃって」
彼女は頭を下げた。
「僕、怖いんです。自分が何者なのか知るのが。それに自分が信じられないのに、他の誰のことも信じられない気がして。でも、本当は誰かに助けてもらいたくて」
男はそう言うと、またしてもよろめいて倒れそうになり、愛に寄りかかってしまう。
「大丈夫ですか? どこかで少し休みましょう。そうだ、おなかは空いていませんか? ちょっと歩くけど、私の知り合いの中華料理の店へ行ってみませんか?」
「そう言えば、しばらく何も食べていなかった気がします」
「なんだ、そうだったんだ。おなかが空いていちゃ何もできませんよ。さあ、行きましょう」
愛はそう言って、男の腕を自分の肩に回すと身体を支えながら、歩き出した。
「すみません」
彼の言葉に、彼女は微笑み返すが、あまりの顔の近さに照れて顔が赤くなってしまい、慌てて下を向いた。男はそれを見て、やさしく微笑んだ。
二人の後を少し離れて、ハンチング帽に、黒いサングラスをかけた中年の男が尾行している。
昼時ということもあり、愛華楼はたくさんの客であふれかえっていた。愛たちはホールの一番奥の席についた。男はテーブルに料理が並ぶと、もくもくと食べ始めた。
「本当におなかが空いていたんですね」
愛が笑顔で言った。
「すいません。一人でがっついちゃって」
「いえいえ、どうぞ遠慮なくたくさん食べてください。どうですか? ここの料理おいしいでしょう」
「はい。すごくおいしいです」
「よかった」彼女はそう言うと、ふと厨房に目をやり、手招きする金太郎に気がついた。「あの、ちょっと失礼します。ゆっくり食べていてくださいね」
彼女は男を残し、席を立った。
「じゃあ、事件を目撃したって?」厨房脇の廊下で、金太郎は愛に詰め寄るように言った。「でも、警察発表じゃ目撃者はいないって事だったろう」
「うん。けど、記憶を失くしているみたいなの」
「怪しいな。愛ちゃん、あんな得体の知れない奴連れて、どうするつもりなんだ? 事件に関わっているかもしれないんだぞ。警察にまかせた方がいいんじゃないのか?」
「でも、悪い人じゃなさそうだし。あの人、やさしい目をしているから」
「何言っているんだよ、また。すぐそんな風に人を信用して」
「でもでも、あの人たぶん独りぼっちだから」
「え?」
「記憶を失くして、自分のことが誰かもわからなくなって、誰も頼る人がいなくて。私にはなんとなくその気持ちが理解できるの」
「愛ちゃん……」
「私には金ちゃんや牧師さん、頼れる人がたくさんいるけど、あの人にはそういう人がいないの。だから、私が力になってあげたいと思ったの」
「けど……」
「ね、わかって金ちゃん。それにあの人といたら、何かお姉ちゃんのことがわかるかもしれないし」
「危険すぎるよ」
「警察は当てにならない。でもあの人は何かを知っている。だけど、ひどく怖がっているの。だから、私があの人のことを支えてあげれば心を開いてくれると思うの」
「けどな」
「大丈夫、金ちゃん。私を信じて。きっとあの人が答えを知っている」
人を信じる強い心が彼女の真っ直ぐな瞳に表れていた。
少女が自室で勉強机に向かい、高校入試のための数学の問題集を解いている。
部屋の電気は消され、薄暗い部屋にデスクライトだけが、まるで最後の希望とでもいうような、か細い光を放ち、彼女をやわらかく包み込んでいる。
深夜の静まり返った家の中に、突然、階段のきしむ音が響き始める。
少女の顔に緊張が走り、こわばってゆく。
小さく震える彼女の背中越しに、ドアのノブが静かに回される音がする。
「おねえちゃん、助けて」
彼女はフォトスタンドに手をのばし、微笑む双子の姉との写真にそっと触れた。今夜もあの鬼畜に汚されるのだ。彼女は覚悟を決め、服を脱ぎ始めた。
――裸の少女をベッドに残し、養父が部屋を出て行くと彼女は目を覚ました。またいつものように、服を脱いでからの記憶が無かった。彼女は姉に礼を言った。そして、起き上がると再び、机の上の写真に目をやった。姉の最後の記憶は養護施設から、姉が養子縁組をしたやさしそうな養親とともに、去って行った日のことだ。彼女はまだ六歳だったが、その日のことは鮮明に覚えている。姉はどこにいても、離れていても二人は一緒だと言った。事実、離れてからもいつもそばにいるような感覚を感じることはあった。しかし、それから二年後、彼女も養女となり、鬼畜の養父から性的暴行を受けるようになると、彼女は姉に心の中でSOSを発したが、助けには来てくれなかった。次第に、一人だけ幸せな家庭に引き取られ、自分のことも忘れてしまったのだろうと姉を恨むようになり、この苦しみを自分に代わって味わうべきだと考えるようになった。すると、ある日心の中に姉の言葉が聞こえ、彼女を助けてくれると言った。それ以来、彼女は養父の相手をしなければならない時、姉に助けを求めると、彼女の中に姉が現れるようになった。そしていつしか、他の家で養女になった姉はこの世から消え、彼女と一体になったと本気で信じるようになっていた。
養女になって、十一年。高二の夏。姉が助けてくれるとはいえ、彼女の身体には生傷が絶えることはなく、思春期を迎え、やはり精神的にもかなりきつくなっていた。そんな時、運命は急展開を迎えた。養父である鬼畜男が殺されたのだ。
彼女にとって大恩人であり、心のヒーローとなった犯人は当時、殺害現場に数字の書かれたカードを残していくことから、“ナンバーズ・キラー”と呼ばれ、世間を騒がせていた連続殺人犯のマイケル・アーロンだった。彼は事件から一年後の夏に捕まったが、最終的には九人もの人が彼の犠牲となった。
彼女は彼の虜になり、彼の裁判には足繁く通い、彼の姿を目に焼き付け、彼の発する言葉をすべて頭の中に刻み込み、彼の生い立ちから、起こした事件の詳細にいたるまでをノートに書き込み、“ナンバーズ・マーダーズ事件”と呼ばれたこの事件を取り上げた新聞記事や雑誌をすべてスクラップして記録した。
裁判官は彼に死刑の判決を下した。これには彼女は到底、納得がいかなかった。彼女ははげしい怒りを覚え、どうにかしたかったが、結局は何もできなかった。
それから数年後、彼の死刑が執行された時には彼女にはある計画が生まれていた。さらに数年後、それを実行に移すための準備を終えると、彼女はマイケルの魂を受け継ぎ、ナンバーズ・マーダーズ模倣事件を開始した。厳密には完全なる模倣ではなく、敬意を払いつつもより進化した形で。具体的には、マイケルは現場に残すカードにはただの数字を利用したが、彼女はエニアグラムの性格論からなる九罪(九種類の倫理上の罪)を記すことにした。それと自分の中に消えたはずの姉が再び目の前に現れて、力を貸してくれるとなぜか彼女は強く信じていた――完璧だ。彼女に迷いはなかった。
誰もいない深夜の駅のホームに電車がすべりこんでくる。停車した電車から出てきたのはスーツ姿で白髪交じりの恰幅のいい、五十代の男一人。
「やあ、待った?」
無人の改札をぬけながら、スーツ姿の男が言った。
「ううん。全然」
パープルのヨットパーカーのフードで顔を覆うように隠し、黒いサングラスをかけた彼女が微笑んだ。
JR横須賀線逗子駅。深夜零時を過ぎた駅には彼女と男の他には誰もいなかった。
「しかし、こんなところ来るなんて初めてだよ。こんな夜中に一人で電車乗ったのも初めてだけど」
彼は笑いながら言った。
「ごめんね。仕事終わりで疲れているでしょう」
「いやいや、私の仕事柄、こういうことは人目についちゃいけないのだから。絶好の隠れ場所だよ。実は今、仕事に関連してなんだけど、警察の保護下に置かれていて、いや別に私が何かしたというわけではないよ」彼は笑った。「とにかくそういうわけで、彼らの目を盗んで抜け出してくるのも結構、大変だったんだ。でもまさか、君との約束を反故にしたくはなかったからね」
「奥さんには?」
「研修だと言ってある。そもそも、私のことに何の関心も無いから、そんな嘘つく必要もないぐらいさ」彼はまた笑った。「しかし、逗子に別荘とは君は一体……。いや、それは聞かない約束だったな。お互いのことを深く知り過ぎるのはよくない」
駅から徒歩十五分くらいの場所――閑静な住宅街で、近くに披露山公園がある。
その家はあった。鉄筋コンクリート造りのメゾネットタイプのマンションで壁は白塗り、専用の庭と一台分の駐車場がついている。両隣に建売の新築の家が並んでいるが、どちらもまだ入居者はいない。
「本当にすばらしいね。こんな素敵な別荘があるなんて、うらやましい限りだよ」
部屋に入ると、男は感嘆の声を上げた。
「私も同感だわ。こんな家が欲しいもの」
彼の背後で彼女が言った。
「え?」男が後ろを振り返ろうとすると、突然、首にロープを巻かれ、きつく締めつけられる。「ハルコ、何をする……」
彼はロープを外そうと激しく抵抗するが、ロープは無情にもさらにきつく首に食い込んでいき、やがて力つきて、絶命した。
「残りあと二人、もうすぐあなたの偉業に近づける」
彼女は周りの壁や家具の指紋を拭き取ると、男の死体の上に【Motivator】と記されたカードを置いた。
食事を終え、山下公園へとやってきた愛と記憶を失くした男は中央入口に近いベンチに腰をおろした。目の前には噴水があり、そこに建つ女神像は今まさに噴出する水の中から、姿を現したばかりといったたたずまいだ。
「ごちそうさまでした。生き返った気分です。本当においしかったです。愛さんの、お知り合いのあのコックさんにもちゃんとお礼を言いたかったのですが、なんかお忙しそうだったみたいなので」
「ああ、いいんです。気を使っていただかなくて。金ちゃんは私にとって兄貴みたいなものですから」
と。
微笑む愛の目の前にどこからかサッカーボールが飛んでくる。
「すいません。ボール返してもらっていいですか?」
背後から、少年たちの叫ぶ声が聞こえる。
「行くよ」
彼女はそう言うと、サッカーボールを少年たちの方へと蹴り返した。するとボールはあらぬ方へとカーブして飛んで行った。
「あ――」
少年たちが声をあげる。
「ごめんなさ――い」
愛は大きな声で言った。
「キャッ、キャッ」と少年たちの楽しげな声が遠く響いている。彼女は微笑みながら、しばらくその様子を目で追った。すると、少年たちのさらに向こう側の木立の陰からハンチング帽に黒いサングラスの男がこちらを見ているような気がした。男は彼女の視線を感じると、あわてて顔をそらし、姿を消した。
「なんなの?」
彼女はそう言って、思い出したようにベンチに目をやると、記憶喪失の男は座ったまま眠っていた。
彼女は彼の隣に座り直すと、もうすぐ夕暮れ時を迎える静かな海に浮かぶ、氷川丸の雄大な姿を眺め、小さく微笑んだ。
男は夢を見ていた――彼は誰もいない港で一人、海を見つめていた。
突然、耳元で女の声がした。
「ハルコ」
その囁くような声にギョッとして、彼は後ろを振り返るが、誰もいない――次の瞬間、目の前に胸をナイフで刺され、大量の血を流す女が現れる。彼女は首を前に倒し、長い黒髪に覆われ顔が見えない。
「ハルコ」
彼女は再び、そう囁くと両手で彼の首を絞め始めた。
「うう」うめき声を洩らす彼の目の前で、彼女がいきなり顔を上げた。彼は恐怖のあまり、息を呑んだ。長い黒髪の間に見えた――それはまぎれもなく、彼自身の顔だった。彼は彼女の手を振りほどき、絶叫した。
「ああ――」
男は叫び声とともに、目を覚ました。
「大丈夫ですか?」心配そうに愛が彼の顔を覗き込んだ。「悪い夢でも見たんですね。うなされていましたよ」
「あ、いや。すいません。知らないうちに寝てしまって」
彼は取り繕うように言った。
「きっと疲れているんですよ。色々と引きずり回しちゃって、ごめんなさい」
「いや、そんなことないです。とても楽しかったです。僕、記憶を失くして自分が誰なのかもわからなくて。すごく怖くて、心細くて。でもあなたに会えて、救われたような気持ちなんです」
「そんな」
彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「お姉さんのこと、すいません。力になってあげたいんですけど、怖くて。僕はひょっとして、事件に何か関わっているんじゃないか、そう思うと――」
「そんなことないですよ。あなたは悪い人じゃない。絶対に。もし、事件に関わっているとしたら、それはあなたが目撃者だということですよ」
「では僕はお姉さんのことを見殺しにしてしまったんでしょうか?」
「え? 違いますよ。あなたは事件を見たショックで記憶を失くしてしまったんですよ。きっと、そうだわ」
「あの、変なこと言うようですが、お姉さんの知り合いにハルコという女性はいませんでしたか?」
「ハルコ? いや、そういう名前の知り合いはいなかったと思いますけど。何か思い出したんですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。あの、お姉さんの事件について詳しく聞かせてもらえませんか?」
前を防弾ガラス使用の黒のセルシオ、後ろを同じく黒塗りのランドクルーザープラドに挟まれて走る銀色の公用車、Y51フーガハイブリッドに裁判官である鶴見啓一を警護しながら、川島と石本の二人が同乗している。
「しかし、少し大仰過ぎやしないかね」
五十代半ばの痩せた男は不平をもらした。
「いや、検事。犯人は絶対に現れます」川島は言った。「恥ずかしながら、この事件の担当者として、ここまで犯人を野放しにしてしまった責任が我々にはあります。ですが、必ず検事のことはお守りしてみせま――」
信号十字路で公用車が右折したところに横から猛スピードで白の2トン車、エルフが突っ込んできた。車体の後方に衝突され、弾き飛ばされた銀色の車体は交差点の真ん中で他の車にぶつかりながら、円を描いた。続けて、トラックにはすぐ後ろを走っていた警護車がぶつかり、辺りは騒然となった。
ようやく回転が収まった車内で川島が検事の無事を確認すると、少しクラクラする頭を押さえながら、車を飛び出し、すぐさま銃を構え、石本と二人で今にも爆発炎上しそうな軽トラックにゆっくりと近づいた。彼らがペチャンコに潰れた運転席の中を慎重に確認すると、そこに人はいなかった。
「まずい」
ハンドルとアクセルに取り付けられた配線に気がついた川島がそう叫ぶと、背後で銃声が聞こえた。
信号手前の歩道橋の上からワイヤーにぶら下がり現れた、黒のヘルメットに黒のレザースーツ姿の殺人鬼は、車の後部座席で座ったままの姿勢で絶命した裁判官の死体の上にカードを投げつけた。
川島と石本は移動して、歩道脇に停めてある車の陰から犯人に向かい、発砲しようと銃を構えたが、そこへ先頭を走っていたセルシオが戻り、目の前を遮った。そして次の瞬間トラックが爆発した。間隙をぬって、黒ずくめの犯人はワイヤーを使い、歩道橋の上へと舞い戻った。両刑事は黒い煙と炎が舞い上がる、まるで戦場のようなその交差点をぬけ、犯人を追いかけた。
歩道橋の上からバイク――赤のVTR250で反対側の道路へと、階段を下り始めた犯人の左肩を川島の放った銃弾がかすめた。続けざまに二人の刑事は発砲したが、犯人はそれを見事なドライビング・テクニックでかわし、逃げ去っていった。
催眠ガスで眠らされていた公用車の運転手の介抱をしていた石本が、犯人が残していった【Driver】と記されたカードを眺め、ため息をついた。
「犯人を目の前にして、みすみすそれを取り逃がしてしまうとは。しかも、マルタイを守りきれなかったんですから。自分たち、本当にヤバイですね。こうなったら、最後のマルタイだけでも死守しないと。早速、警部たちに合流しましょう」
「ああ」
気のない返事を返す川島。
「川さん、大丈夫ですか? 話、聞いていました?」
「どこかで、見たことがあるような……」
彼はつぶやいた。
「は? 何のことですか?」
「確かに同じものだったと思うが」
そう言って、遠い目をした彼の頭の中には今、犯人の破れた袖に露わになったトライアングルに位置するホクロのことが浮かんでいた。
日が暮れて辺りが暗くなってくると、愛たちの目の前で氷川丸のライトアップが点灯し始めた。船体のシルエットを縁取るように飾られた電球が闇の中で星座のように輝いている。
「姉は連続殺人犯の犠牲になったんです」
愛は言った。
「え」
男は驚きの表情をみせた。
「警察はなかなか捜査の進展状況や、その内容について教えてはくれなかったんですけど、ある時、私が事件のことを調べていることを知った、とある新聞社の記者の方が、事件に関する色々な情報を教えてくれたんです。それでわかったんですけど、この事件の犯人は必ず、被害者のそばにカードを残していくみたいなんです」
男の身体に緊張が走る。
「カ、カード?」
彼は震える声で言った。
「はい。アルファベットの文字が記された……なんて書かれていたのかはさすがに記者さんもわからなかったようですけど……」
「ああ――」
彼女の声を遮るように、彼は叫び声をあげ、突然、その場から走り出していった。
「え、どうしたの?」
彼女はとまどいの表情を見せながらも、すぐに後を追いかけた。
男は公園前の道路で信号待ちをしていた中型のバイクを、乗っていた男から奪い、それに飛び乗ると、本牧埠頭の方へと走り出した。
少し遅れて、公園を出た愛の目の前に黒のスカイラインが現れる。
「乗れ、早くしろ。見失ってしまう」
窓が開き、中からハンチング帽の男が叫ぶ。
京浜東北線、東神奈川駅のホームで白のハンチング帽に水色のポロシャツ、白のスラックス姿――そのファッションが持つ柔軟さとは裏腹に筋骨隆々とした肉体が無骨なシルエットを見せる三十代半ばの男が麦わら帽子にピンクのタンクトップ、デニムの短パン姿の小学校低学年くらいの少女を連れて電車を待っている。
「どこ行きたい?」
男は言った。
「妹のところ」
「え」彼は困った表情をみせた。「でも、お母さんとの約束であそこには行っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「おじちゃんが内緒にしていてくれたら、お母さんにはバレないよ」
彼女はすがるような目で見上げ、彼の手を強く握りしめた。
「でも、おじちゃんはお父さんと同じでお巡りさんだから、嘘はついちゃいけないんだよ」
「黙っていればいいの。何も言わなければ嘘をつかなくてもいいでしょ?」
「でも、お父さんはおじちゃんより偉くて、もし、バレたらものすごく怒られちゃうからなあ」
「お父さんやお母さんには、おじちゃんに遊んでもらってとても楽しかったって、それだけ言えば嘘にならないでしょ?」
「施設の人がお父さんたちに話しちゃうかも」
「遠くから顔を見るだけでいいの。ねえ、お願い」
「仕方ないな。ちょっとだけだよ」
「うん」
本牧元町にある『光学園』と呼ばれる児童養護施設は補強コンクリートのRC造で、いくつかの棟に分かれていた。
二人は道路を挟んで、向かいの駐車場に停めてある車の陰から中の様子を窺った。目の前には玄関のある中央棟があり――船のへさきのような形をしていた。そこから、視線を少し左に移動すると中庭が見えた。職員と思われる女性二人と十人前後のこどもたちが遊んでいる。男はすぐに自分が連れている少女と同じ格好をしている女の子を見つけた。
「晴子ちゃん……」少女は一年ぶりで妹を見た。彼女の頬に一粒の涙がすべり落ちた。「ごめんね」
少女が晴子ちゃんと呼ぶ、その子は数人の仲間とサッカーをして遊んでいて、誰かが蹴ったボールが道路沿いのフェンスの方へ飛ぶと、彼女がそれを拾いにやって来た。二人は慌てて車の後方へと身を隠した。意外にその距離は短かったので、危うく見つかりそうになった。妹は何かを感じたのか、こちらの方を少し見ていたが、仲間の呼ぶ声に戻っていった。男がトランクの陰から覗くと、走り去る彼女の左肩にトライアングルの頂点のような三つのホクロが見えた。
「もう、帰ろう」
少女が言った。
「いいのかい?」
「うん。晴子ちゃん、元気にしていたから」
「そうか。よし、帰ろう」
「今日はありがとう。川島のおじちゃん」
「いや、瞳ちゃんのお役に立ててなによりだよ」
『光学園』の応接室の革張りのソファアに向かい合う学園長と川島。
「それでは、当時の資料はもう一つも残ってはいないのですか?」
川島が言った。
「はい。なぜか、八十年代後半から九十年代前半までの資料だけが見当たらないのです。なぜなのかはわかりませんが」
「当時の職員の方は?」
「ええ。一人、相沢というのがおります」
応接室のドアがノックされると、四十代の眼鏡をかけた細身の女性が現れた。
「相沢です」
彼女が言った。
「ああ、どうも川島です」席を立ち、軽く会釈した。「さっそくなんですが、九十年代前半の頃、当時ここにいた晴子という少女がどこへ引き取られていったか覚えていませんか?」
「晴子ちゃん? ああ、覚えています。私の担当ではなかったのですが。確か座間市の山田さんという方のところへ養子縁組されたと記憶しています。そういえば、何年か前、彼女も大人になってからですけど、養親はお二人ともお亡くなりになられたと、風の噂に聞いたような気がします」
「そのあとの彼女については何か知りませんか?」
「さあ、そこまでは」
「そうですか。ありがとうございました」
養護施設を後にした川島は座間市の市役所に向かった。
再び合流した川島と石本を乗せた黒のセルシオが本牧へと移動していた。
「川さん、どこ行ってきたんですか?」
運転しながら、石本が尋ねた。
「……」
助手席で口を閉じたまま、窓の外を見つめている川島。
「川さん、聴こえてます?」
顔を覗きこむように横を向く石本。
「ちゃんと前見て運転しろ」
「はい……」納得いかない表情で、ルームミラー越しに川島の顔を睨む石本。目の前に東京湾を臨む港の倉庫街が見えてくる。「あ、着きました。ここです」
最後のマルタイである風見洋子、六十八歳はもうすでに裁判官は退官して、今は去年亡くなった夫の会社、風見貿易の社長の座に収まっていた。彼女はその年齢を忘れさせてしまうほど精力的な女性で、ひと時も身体を休めることはなく、とにかく動き続けていた。その姿は、動きを止めれば死んでしまう回遊魚を連想させた。
瞳とチャンが挨拶すると、
「私が最後の一人ですって。あなたたち、それでもプロなの。全然安心できないじゃない」洋子は歯に衣着せぬタイプの女性だ。
「出掛けるわよ。あんたたち、ちゃんと守りなさいよ」
本牧埠頭の商港区にある風見貿易の倉庫内には商品である家庭用品の詰まった段ボールが山積みされており、その間を縫うように通路が巨大迷路のように広がっていた。その中を洋子は担当者とぐるぐるとめまぐるしく移動しながら、何やら打ち合わせをしている。
倉庫の入り口で、チャンが合流してきた川島と石本を出迎えた。
「瞳ちゃんはどこだ?」
開口一番、川島が尋ねる。
「え? あ、今倉庫の方に……」そう言って、チャンが倉庫を振り返ると、
「キャアー―」
洋子の悲鳴が庫内に響き渡った。
駆け出す、川島。あっけにとられながらも、後を追いかける二人。
段ボールの通路を抜け、いくつかの角を曲がると、少し開けた場所に出た。そこには洋子と社員の男が血だらけの姿で倒れていた。
川島はそれを横目に通路を先へ進む。遅れてきたチャンと石本が倒れる二人の脈を取るが洋子の方はすでに息絶えている。社員の男の方は気絶しているだけのようだ。彼に付着している血はマルタイのものと思われる。チャンは携帯で鑑識と救急の手配をする。
「待て、待つんだ、瞳ちゃん」
通路の先に川島の声が響く。駆け出す刑事たち。
二人が通路の切れ目を曲がると、そこは工場の裏口で、ドアが開いていた。外へ出ると、目の前には東京湾が広がっている。その手前の草むらに覆われた空き地の少し先で川島が何かに向かって叫んでいる。二人が近づいていくと、さらに、その先で海へと猛スピードで突っ込んでゆく、一台の車が見える。銃を構える川島。
「止まれ、止まるんだ、瞳……」
その瞬間、車はダイブし、そのまま海へと一気に飲み込まれていった――
「その後、車は引き揚げられたが、そこに瞳ちゃんの遺体はなかった」
黒のスカイラインを運転するハンチング帽の男が言った。
「その女刑事さんが……私たちが追いかけているあの彼だというんですか? そんな嘘みたいな話、信じられません」
助手席の愛が眉をひそめ、不服そうに言った。
「私にも信じられないさ……。ただ彼女はDID、すなわち乖離性同一性障害、平たく言えば多重人格者だったんだ。今は性転換して、あのとおり男の姿をしているが。」
「多重人格……? まさか、そんな……」
「ただし、彼女は本当の瞳ちゃんではない」
「え? どういうことですか?」
「彼女には晴子という双子の妹がいたんだ……」
「ハルコ……?」
「彼女の姿を最後に見たあの日から、半年経った今でもまだ事件は解決していない。私は今年で定年退職だ。もし、このままで終えたなら、私は自分の刑事人生に何の価値も見出せなくなってしまうだろう。それに、幼い時から知っている瞳ちゃんのことを私はずっと娘のように思ってきた。もちろん、今でも……だからなんとしても彼女を救いたいんだ」
「そうだったんですか……刑事さんは瞳さんとハルコが入れ替わっていると、瞳さんはどこかに囚われていると考えているんですね」
「そうだ」
頷く川島。
「あの、刑事さんって、川島さんですよね。私、覚えてます。とにかく姉の事件の真相が知りたくて、私がしつこく捜査のこと聞いて回っていた時に他の刑事さんたちは事件に首を突っ込むなって感じだったけれど、川島さんだけは自分の納得いくまで、調べてみればいいと言ってくれました」
「私も覚えていたよ」男はサングラスを外し、ハンチング帽を脱いだ。「この事件の解決は君にとっても大切なことだったね」
「でも私にはどうしても、彼がそんな事件を起こしたとは思えないんです……」
そのとき、前を行く記憶喪失の男が乗るバイクが視界に入った。
「奴だ。追いついたぞ。私の勘が正しければ、今の奴は君の知っている男じゃない」
バイクは首都高と一部並走する国道357号線を高速出口前の信号を右に折れ、西へと向かい、本牧元町へと入っていった。
「やはり、あそこへ向かうのか……」
男の後を追いかける川島が呟くように言った。
バイクは交差点で、左へ曲がりそれから少し走ると、光学園が見えてきた。次の瞬間、薄暗い闇の中、目の前に猫が飛び出してきた。男はそれを避けようとして、急なハンドルを切り、バランスを崩し、バイクから、身体が放り出された。倒れて滑るように対向車線に入っていったバイクは向かってきた車にぶつかって大破した。そこから、玉突き事故が発生し、辺りは騒然となった。
なんとか事故に巻き込まれることなく済んだ黒のスカイラインは離れた場所に停車した。
川島はすぐに車を降りると、どこからともなく現れたやじうまの群れをかき分けながら、男の元へと駆け寄った。愛も後を追った。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ」
光学園の敷地内、ヨーロッパの街路灯を模した室外灯が照らす芝生の上に倒れる男を川島が抱き上げる。
「う……」
男がうめき声をもらす。
「救急車」
川島が叫ぶ。
愛が慌てて、携帯をバッグから取り出そうと中を覗きこんだそのとき、頭の向こうで銃声がした。「え?」驚き、顔を上げると、目の前には腹から血を流しながら倒れる川島と一瞬で立場が逆転し、それを見下ろす男が立っていた。
「お前、晴子だろ……」川島は脇腹のホルスターから銃を奪い、自分を撃ったその男を見上げた。「お前は養父母が死んだ後、こつ然と姿を消した……ありとあらゆる記録からお前の情報がすっぽりと消えていた……瞳ちゃんに成りすましたお前がその立場を利用して、色々と画策したんだろう? 瞳ちゃんをどうした?」
「へえ。分かるんだ、私のこと。すごいじゃない。でも、それなら本当はもう知ってるんじゃないの? 瞳ちゃんがどうなったのか。たぶん、あんたの予想どおりだと思うけど、当然、私にぶっ殺されたわよ」
「貴様……」
立ち上がることができずに倒れたままで、ハルコを睨みつける川島。
「そしてあんたもここで私にぶっ殺されるというわけね」
川島に銃を向ける、ハルコ。
「やめて」
テーザーガンを彼女に向ける愛。
「そんなおもちゃで本物の銃と勝負しようっていうの? あんた、マジ?」
向き直ると、不敵な笑みを浮かべたハルコが今度は愛に銃を向けた。
「あなた……あなたは自分が誰なのかわからなくて……ひどくおびえていたわ……でも、それでも……自分がそんな状態だっていうのに、私のことを心配してくれた。力になりたいって言ってくれた」
「何を言っているの? もしかしてあいつのこと? あのダメダメ君のことを言っているのかしら? 自分の悪さを認めたくないものだから、記憶喪失なんて都合のいいキャラ作っちゃってさ、いわゆるジョン・ドゥってやつね。笑える。あんなの私じゃない。私の中に良心なんてものがあるわけがない。ニセモノの人格よ。あのとき……パトカーで海へ突っ込んだ時、軽く頭をぶつけちゃったせいで急に生まれてきた、ちょっとしたイレギュラーってやつよ。もう消えたわ。二度と現れることもないわ」
「嘘だ……」
川島が言った。
「ああん? 何か言った?」
ハルコが川島の顔を踏みつける。
「やめて」
愛が叫ぶ。
「お前は……瞳ちゃんを……姉さんのことを本当は憧れていた……だから、彼女に成りすましたんだろう?」ハルコに顔を蹴られながらも、川島は話を続ける。「あのトイレの小瓶……あの暗号もお前だろう? お前がヒントくれたんだろう? 認めようが認めまいが、お前の中の瞳ちゃんへの憧れが、良心を持つその人格を生み出したんだ。お前は新しく生まれ変わろうとしたんじゃないのか? もちろんそれで罪が消えるわけじゃないが……一旦はハルコという人格を自らに封じ込めたんじゃないのか」
「人の人生、勝手にドラマチックに語ってるんじゃねえよ」
「解けました」チャンが叫ぶ。「【A LAY JUDGE】日本語で裁判員の意味です」
男はゆっくりと立ち上がると、エレベーターへと向かい、歩き出した。
「あの、私知り合いにお医者さんがいるんです」愛は言った。「とってもいい人で、腕も確かです。よかったら、病院行ってみませんか? すぐ近くですから」
「嫌だ」
彼は言った。
「え? でも」
「嫌だ。病院には行きたくない」
男はそう言うと、逃げ出すようにエレベーターへと乗り込んだ。
「あ、待ってください」
愛は後を追った。
瞳とチャンの二人が乗る黒塗りの捜査車両、V36スカイラインは今、横浜市立病院に向かっている。
「裁判所の公判記録を調べたら、やはり被害者たちは同じ裁判を担当した裁判員でした。今、向かっている現場の被害者である田辺和史さんの名前もありました」
ハンドルをきりながら、チャンが言った。
「裁判官三人と裁判員六人の、合わせて九人。やっぱりホシは彼らすべてをターゲットにしていると考えるべきなのよね?」
「それですが、あの例の謎の英単語と九という数字でネットを調べたら、エニアグラムというのがありました」
「エニアグラム?」
彼女が首をかしげる。
「僕も初めて聞いた言葉です。エニアというのがギリシア語の九で、グラムが図を表すようです」
「九つの図?」
「いえ、なんか円周を九等分して作る図形らしいです」
「なんだか、むずかしいわね」
「はい、確かに。で、エニアグラムの意味は真の自己を理解し、本来の自分自身へと至る道だそうです」
「ますますわからないわ」
彼女は苦笑した。
「元は宇宙の原理を説明するために生まれたものだとか、その起源については色々と説があるようですが、今は人間の性格を九種類に分類した性格論というのに使われているそうです」
「九つの性格? ああ、それが“改革者”とか“支援者”とかカードに記されていた英単語の本当の意味なのね。それなら、理解できるわ」
「はい。一時はカードが表す性格と被害者の性格とが必ずしも一致するわけではなかったので、困惑しましたが、当然ですよね。ホシは初めから、このエニアグラムで被害者は全部で九人になると、そのことを示していたのですから」
「となると、残りの三人は裁判官。彼らの保護が必要ね」
「それなら、すでに警官を送ってあります」
「さすがね」彼女は言った。「それにしても、あの暗号文といい、なんだか私たちが無能だとでも言いたいのかしらね」
「それより、警部。次の問題はなぜホシが裁判員となった彼らをターゲットにしているのか? そこだと思うんですけど」
「それは彼らが担当した裁判の事件に関係しているんじゃないかしら」
「僕もそう考えていました。彼らが担当した事件、日本在住のアメリカ人、マイケル・アーロンが引き起こした連続殺人事件、いわゆる“ナンバーズ・マーダーズ事件”答えはおそらく、そこにあるはずです。考えてみればあの事件も殺害現場にカードを残してゆくという共通点がありました。ま、この種の事件は他にも結構ありますが、それにあちらの場合、カードに記されていたのはただの数字でしたからね。言い訳ですけど」
二人を乗せた車が病院に到着した。
殺害現場となった病室は入院患者専用の、広さは十六平米ほどの個室で、シャワーユニット、トイレや洗面所などが備え付けてあり、
そのほぼ中央に置かれたベッドの上にはロープのようなもので絞殺された被害者の遺体がぶらさがっている。
瞳とチャンが臨場すると、ベッドの周辺を鑑識員が特製のブラシに付着させたアルミパウダーを振り掛けるようになぞりながら指紋の採取をしていた。
「つまり、夜中の二時に原因不明の停電が起こり、本来なら働いているはずのセキュリティーセンサーやカメラがまったく役に立たなかったというわけね」
瞳が言った。
「はい。予備電源にも切り替わらなかったそうです。今、鑑識が調べていますが、おそらくホシが何か細工したのだと思われます」
先に来ていた石本が答えた。
「警備員は何していたんだろう?」
チャンが首をかしげる。
「停電の対応に追われて、てんてこ舞いだったらしい」
「川さん、カードは予想通りでしたか?」
瞳が訊いた。
「ああ。確かに【Scanner】の文字だった」
「これで間違いありませんね。やはり、エニアグラムです」
チャンが言った。
刑事たちの後ろで、鑑識員が二人掛かりで、ベッドの上の亡骸を遺体袋へと収納する作業に取り掛かった。瞳は少しの間、それを黙って見つめていたが、唇を少し噛んでから、静かに口を開いた。
「残りは三人。彼らはもう身元が明らかなのだから、絶対にこれ以上の犠牲者は出させないわよ」
愛は男を追いかけ、九龍ビルを出た。
「あの、さっきはごめんなさい」男は振り返ると言った。「でも、僕は本当に病院には行きたくないから」
「私こそ、ごめんなさい。余計なこと言っちゃって」
彼女は頭を下げた。
「僕、怖いんです。自分が何者なのか知るのが。それに自分が信じられないのに、他の誰のことも信じられない気がして。でも、本当は誰かに助けてもらいたくて」
男はそう言うと、またしてもよろめいて倒れそうになり、愛に寄りかかってしまう。
「大丈夫ですか? どこかで少し休みましょう。そうだ、おなかは空いていませんか? ちょっと歩くけど、私の知り合いの中華料理の店へ行ってみませんか?」
「そう言えば、しばらく何も食べていなかった気がします」
「なんだ、そうだったんだ。おなかが空いていちゃ何もできませんよ。さあ、行きましょう」
愛はそう言って、男の腕を自分の肩に回すと身体を支えながら、歩き出した。
「すみません」
彼の言葉に、彼女は微笑み返すが、あまりの顔の近さに照れて顔が赤くなってしまい、慌てて下を向いた。男はそれを見て、やさしく微笑んだ。
二人の後を少し離れて、ハンチング帽に、黒いサングラスをかけた中年の男が尾行している。
昼時ということもあり、愛華楼はたくさんの客であふれかえっていた。愛たちはホールの一番奥の席についた。男はテーブルに料理が並ぶと、もくもくと食べ始めた。
「本当におなかが空いていたんですね」
愛が笑顔で言った。
「すいません。一人でがっついちゃって」
「いえいえ、どうぞ遠慮なくたくさん食べてください。どうですか? ここの料理おいしいでしょう」
「はい。すごくおいしいです」
「よかった」彼女はそう言うと、ふと厨房に目をやり、手招きする金太郎に気がついた。「あの、ちょっと失礼します。ゆっくり食べていてくださいね」
彼女は男を残し、席を立った。
「じゃあ、事件を目撃したって?」厨房脇の廊下で、金太郎は愛に詰め寄るように言った。「でも、警察発表じゃ目撃者はいないって事だったろう」
「うん。けど、記憶を失くしているみたいなの」
「怪しいな。愛ちゃん、あんな得体の知れない奴連れて、どうするつもりなんだ? 事件に関わっているかもしれないんだぞ。警察にまかせた方がいいんじゃないのか?」
「でも、悪い人じゃなさそうだし。あの人、やさしい目をしているから」
「何言っているんだよ、また。すぐそんな風に人を信用して」
「でもでも、あの人たぶん独りぼっちだから」
「え?」
「記憶を失くして、自分のことが誰かもわからなくなって、誰も頼る人がいなくて。私にはなんとなくその気持ちが理解できるの」
「愛ちゃん……」
「私には金ちゃんや牧師さん、頼れる人がたくさんいるけど、あの人にはそういう人がいないの。だから、私が力になってあげたいと思ったの」
「けど……」
「ね、わかって金ちゃん。それにあの人といたら、何かお姉ちゃんのことがわかるかもしれないし」
「危険すぎるよ」
「警察は当てにならない。でもあの人は何かを知っている。だけど、ひどく怖がっているの。だから、私があの人のことを支えてあげれば心を開いてくれると思うの」
「けどな」
「大丈夫、金ちゃん。私を信じて。きっとあの人が答えを知っている」
人を信じる強い心が彼女の真っ直ぐな瞳に表れていた。
少女が自室で勉強机に向かい、高校入試のための数学の問題集を解いている。
部屋の電気は消され、薄暗い部屋にデスクライトだけが、まるで最後の希望とでもいうような、か細い光を放ち、彼女をやわらかく包み込んでいる。
深夜の静まり返った家の中に、突然、階段のきしむ音が響き始める。
少女の顔に緊張が走り、こわばってゆく。
小さく震える彼女の背中越しに、ドアのノブが静かに回される音がする。
「おねえちゃん、助けて」
彼女はフォトスタンドに手をのばし、微笑む双子の姉との写真にそっと触れた。今夜もあの鬼畜に汚されるのだ。彼女は覚悟を決め、服を脱ぎ始めた。
――裸の少女をベッドに残し、養父が部屋を出て行くと彼女は目を覚ました。またいつものように、服を脱いでからの記憶が無かった。彼女は姉に礼を言った。そして、起き上がると再び、机の上の写真に目をやった。姉の最後の記憶は養護施設から、姉が養子縁組をしたやさしそうな養親とともに、去って行った日のことだ。彼女はまだ六歳だったが、その日のことは鮮明に覚えている。姉はどこにいても、離れていても二人は一緒だと言った。事実、離れてからもいつもそばにいるような感覚を感じることはあった。しかし、それから二年後、彼女も養女となり、鬼畜の養父から性的暴行を受けるようになると、彼女は姉に心の中でSOSを発したが、助けには来てくれなかった。次第に、一人だけ幸せな家庭に引き取られ、自分のことも忘れてしまったのだろうと姉を恨むようになり、この苦しみを自分に代わって味わうべきだと考えるようになった。すると、ある日心の中に姉の言葉が聞こえ、彼女を助けてくれると言った。それ以来、彼女は養父の相手をしなければならない時、姉に助けを求めると、彼女の中に姉が現れるようになった。そしていつしか、他の家で養女になった姉はこの世から消え、彼女と一体になったと本気で信じるようになっていた。
養女になって、十一年。高二の夏。姉が助けてくれるとはいえ、彼女の身体には生傷が絶えることはなく、思春期を迎え、やはり精神的にもかなりきつくなっていた。そんな時、運命は急展開を迎えた。養父である鬼畜男が殺されたのだ。
彼女にとって大恩人であり、心のヒーローとなった犯人は当時、殺害現場に数字の書かれたカードを残していくことから、“ナンバーズ・キラー”と呼ばれ、世間を騒がせていた連続殺人犯のマイケル・アーロンだった。彼は事件から一年後の夏に捕まったが、最終的には九人もの人が彼の犠牲となった。
彼女は彼の虜になり、彼の裁判には足繁く通い、彼の姿を目に焼き付け、彼の発する言葉をすべて頭の中に刻み込み、彼の生い立ちから、起こした事件の詳細にいたるまでをノートに書き込み、“ナンバーズ・マーダーズ事件”と呼ばれたこの事件を取り上げた新聞記事や雑誌をすべてスクラップして記録した。
裁判官は彼に死刑の判決を下した。これには彼女は到底、納得がいかなかった。彼女ははげしい怒りを覚え、どうにかしたかったが、結局は何もできなかった。
それから数年後、彼の死刑が執行された時には彼女にはある計画が生まれていた。さらに数年後、それを実行に移すための準備を終えると、彼女はマイケルの魂を受け継ぎ、ナンバーズ・マーダーズ模倣事件を開始した。厳密には完全なる模倣ではなく、敬意を払いつつもより進化した形で。具体的には、マイケルは現場に残すカードにはただの数字を利用したが、彼女はエニアグラムの性格論からなる九罪(九種類の倫理上の罪)を記すことにした。それと自分の中に消えたはずの姉が再び目の前に現れて、力を貸してくれるとなぜか彼女は強く信じていた――完璧だ。彼女に迷いはなかった。
誰もいない深夜の駅のホームに電車がすべりこんでくる。停車した電車から出てきたのはスーツ姿で白髪交じりの恰幅のいい、五十代の男一人。
「やあ、待った?」
無人の改札をぬけながら、スーツ姿の男が言った。
「ううん。全然」
パープルのヨットパーカーのフードで顔を覆うように隠し、黒いサングラスをかけた彼女が微笑んだ。
JR横須賀線逗子駅。深夜零時を過ぎた駅には彼女と男の他には誰もいなかった。
「しかし、こんなところ来るなんて初めてだよ。こんな夜中に一人で電車乗ったのも初めてだけど」
彼は笑いながら言った。
「ごめんね。仕事終わりで疲れているでしょう」
「いやいや、私の仕事柄、こういうことは人目についちゃいけないのだから。絶好の隠れ場所だよ。実は今、仕事に関連してなんだけど、警察の保護下に置かれていて、いや別に私が何かしたというわけではないよ」彼は笑った。「とにかくそういうわけで、彼らの目を盗んで抜け出してくるのも結構、大変だったんだ。でもまさか、君との約束を反故にしたくはなかったからね」
「奥さんには?」
「研修だと言ってある。そもそも、私のことに何の関心も無いから、そんな嘘つく必要もないぐらいさ」彼はまた笑った。「しかし、逗子に別荘とは君は一体……。いや、それは聞かない約束だったな。お互いのことを深く知り過ぎるのはよくない」
駅から徒歩十五分くらいの場所――閑静な住宅街で、近くに披露山公園がある。
その家はあった。鉄筋コンクリート造りのメゾネットタイプのマンションで壁は白塗り、専用の庭と一台分の駐車場がついている。両隣に建売の新築の家が並んでいるが、どちらもまだ入居者はいない。
「本当にすばらしいね。こんな素敵な別荘があるなんて、うらやましい限りだよ」
部屋に入ると、男は感嘆の声を上げた。
「私も同感だわ。こんな家が欲しいもの」
彼の背後で彼女が言った。
「え?」男が後ろを振り返ろうとすると、突然、首にロープを巻かれ、きつく締めつけられる。「ハルコ、何をする……」
彼はロープを外そうと激しく抵抗するが、ロープは無情にもさらにきつく首に食い込んでいき、やがて力つきて、絶命した。
「残りあと二人、もうすぐあなたの偉業に近づける」
彼女は周りの壁や家具の指紋を拭き取ると、男の死体の上に【Motivator】と記されたカードを置いた。
食事を終え、山下公園へとやってきた愛と記憶を失くした男は中央入口に近いベンチに腰をおろした。目の前には噴水があり、そこに建つ女神像は今まさに噴出する水の中から、姿を現したばかりといったたたずまいだ。
「ごちそうさまでした。生き返った気分です。本当においしかったです。愛さんの、お知り合いのあのコックさんにもちゃんとお礼を言いたかったのですが、なんかお忙しそうだったみたいなので」
「ああ、いいんです。気を使っていただかなくて。金ちゃんは私にとって兄貴みたいなものですから」
と。
微笑む愛の目の前にどこからかサッカーボールが飛んでくる。
「すいません。ボール返してもらっていいですか?」
背後から、少年たちの叫ぶ声が聞こえる。
「行くよ」
彼女はそう言うと、サッカーボールを少年たちの方へと蹴り返した。するとボールはあらぬ方へとカーブして飛んで行った。
「あ――」
少年たちが声をあげる。
「ごめんなさ――い」
愛は大きな声で言った。
「キャッ、キャッ」と少年たちの楽しげな声が遠く響いている。彼女は微笑みながら、しばらくその様子を目で追った。すると、少年たちのさらに向こう側の木立の陰からハンチング帽に黒いサングラスの男がこちらを見ているような気がした。男は彼女の視線を感じると、あわてて顔をそらし、姿を消した。
「なんなの?」
彼女はそう言って、思い出したようにベンチに目をやると、記憶喪失の男は座ったまま眠っていた。
彼女は彼の隣に座り直すと、もうすぐ夕暮れ時を迎える静かな海に浮かぶ、氷川丸の雄大な姿を眺め、小さく微笑んだ。
男は夢を見ていた――彼は誰もいない港で一人、海を見つめていた。
突然、耳元で女の声がした。
「ハルコ」
その囁くような声にギョッとして、彼は後ろを振り返るが、誰もいない――次の瞬間、目の前に胸をナイフで刺され、大量の血を流す女が現れる。彼女は首を前に倒し、長い黒髪に覆われ顔が見えない。
「ハルコ」
彼女は再び、そう囁くと両手で彼の首を絞め始めた。
「うう」うめき声を洩らす彼の目の前で、彼女がいきなり顔を上げた。彼は恐怖のあまり、息を呑んだ。長い黒髪の間に見えた――それはまぎれもなく、彼自身の顔だった。彼は彼女の手を振りほどき、絶叫した。
「ああ――」
男は叫び声とともに、目を覚ました。
「大丈夫ですか?」心配そうに愛が彼の顔を覗き込んだ。「悪い夢でも見たんですね。うなされていましたよ」
「あ、いや。すいません。知らないうちに寝てしまって」
彼は取り繕うように言った。
「きっと疲れているんですよ。色々と引きずり回しちゃって、ごめんなさい」
「いや、そんなことないです。とても楽しかったです。僕、記憶を失くして自分が誰なのかもわからなくて。すごく怖くて、心細くて。でもあなたに会えて、救われたような気持ちなんです」
「そんな」
彼女は照れくさそうに微笑んだ。
「お姉さんのこと、すいません。力になってあげたいんですけど、怖くて。僕はひょっとして、事件に何か関わっているんじゃないか、そう思うと――」
「そんなことないですよ。あなたは悪い人じゃない。絶対に。もし、事件に関わっているとしたら、それはあなたが目撃者だということですよ」
「では僕はお姉さんのことを見殺しにしてしまったんでしょうか?」
「え? 違いますよ。あなたは事件を見たショックで記憶を失くしてしまったんですよ。きっと、そうだわ」
「あの、変なこと言うようですが、お姉さんの知り合いにハルコという女性はいませんでしたか?」
「ハルコ? いや、そういう名前の知り合いはいなかったと思いますけど。何か思い出したんですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど。あの、お姉さんの事件について詳しく聞かせてもらえませんか?」
前を防弾ガラス使用の黒のセルシオ、後ろを同じく黒塗りのランドクルーザープラドに挟まれて走る銀色の公用車、Y51フーガハイブリッドに裁判官である鶴見啓一を警護しながら、川島と石本の二人が同乗している。
「しかし、少し大仰過ぎやしないかね」
五十代半ばの痩せた男は不平をもらした。
「いや、検事。犯人は絶対に現れます」川島は言った。「恥ずかしながら、この事件の担当者として、ここまで犯人を野放しにしてしまった責任が我々にはあります。ですが、必ず検事のことはお守りしてみせま――」
信号十字路で公用車が右折したところに横から猛スピードで白の2トン車、エルフが突っ込んできた。車体の後方に衝突され、弾き飛ばされた銀色の車体は交差点の真ん中で他の車にぶつかりながら、円を描いた。続けて、トラックにはすぐ後ろを走っていた警護車がぶつかり、辺りは騒然となった。
ようやく回転が収まった車内で川島が検事の無事を確認すると、少しクラクラする頭を押さえながら、車を飛び出し、すぐさま銃を構え、石本と二人で今にも爆発炎上しそうな軽トラックにゆっくりと近づいた。彼らがペチャンコに潰れた運転席の中を慎重に確認すると、そこに人はいなかった。
「まずい」
ハンドルとアクセルに取り付けられた配線に気がついた川島がそう叫ぶと、背後で銃声が聞こえた。
信号手前の歩道橋の上からワイヤーにぶら下がり現れた、黒のヘルメットに黒のレザースーツ姿の殺人鬼は、車の後部座席で座ったままの姿勢で絶命した裁判官の死体の上にカードを投げつけた。
川島と石本は移動して、歩道脇に停めてある車の陰から犯人に向かい、発砲しようと銃を構えたが、そこへ先頭を走っていたセルシオが戻り、目の前を遮った。そして次の瞬間トラックが爆発した。間隙をぬって、黒ずくめの犯人はワイヤーを使い、歩道橋の上へと舞い戻った。両刑事は黒い煙と炎が舞い上がる、まるで戦場のようなその交差点をぬけ、犯人を追いかけた。
歩道橋の上からバイク――赤のVTR250で反対側の道路へと、階段を下り始めた犯人の左肩を川島の放った銃弾がかすめた。続けざまに二人の刑事は発砲したが、犯人はそれを見事なドライビング・テクニックでかわし、逃げ去っていった。
催眠ガスで眠らされていた公用車の運転手の介抱をしていた石本が、犯人が残していった【Driver】と記されたカードを眺め、ため息をついた。
「犯人を目の前にして、みすみすそれを取り逃がしてしまうとは。しかも、マルタイを守りきれなかったんですから。自分たち、本当にヤバイですね。こうなったら、最後のマルタイだけでも死守しないと。早速、警部たちに合流しましょう」
「ああ」
気のない返事を返す川島。
「川さん、大丈夫ですか? 話、聞いていました?」
「どこかで、見たことがあるような……」
彼はつぶやいた。
「は? 何のことですか?」
「確かに同じものだったと思うが」
そう言って、遠い目をした彼の頭の中には今、犯人の破れた袖に露わになったトライアングルに位置するホクロのことが浮かんでいた。
日が暮れて辺りが暗くなってくると、愛たちの目の前で氷川丸のライトアップが点灯し始めた。船体のシルエットを縁取るように飾られた電球が闇の中で星座のように輝いている。
「姉は連続殺人犯の犠牲になったんです」
愛は言った。
「え」
男は驚きの表情をみせた。
「警察はなかなか捜査の進展状況や、その内容について教えてはくれなかったんですけど、ある時、私が事件のことを調べていることを知った、とある新聞社の記者の方が、事件に関する色々な情報を教えてくれたんです。それでわかったんですけど、この事件の犯人は必ず、被害者のそばにカードを残していくみたいなんです」
男の身体に緊張が走る。
「カ、カード?」
彼は震える声で言った。
「はい。アルファベットの文字が記された……なんて書かれていたのかはさすがに記者さんもわからなかったようですけど……」
「ああ――」
彼女の声を遮るように、彼は叫び声をあげ、突然、その場から走り出していった。
「え、どうしたの?」
彼女はとまどいの表情を見せながらも、すぐに後を追いかけた。
男は公園前の道路で信号待ちをしていた中型のバイクを、乗っていた男から奪い、それに飛び乗ると、本牧埠頭の方へと走り出した。
少し遅れて、公園を出た愛の目の前に黒のスカイラインが現れる。
「乗れ、早くしろ。見失ってしまう」
窓が開き、中からハンチング帽の男が叫ぶ。
京浜東北線、東神奈川駅のホームで白のハンチング帽に水色のポロシャツ、白のスラックス姿――そのファッションが持つ柔軟さとは裏腹に筋骨隆々とした肉体が無骨なシルエットを見せる三十代半ばの男が麦わら帽子にピンクのタンクトップ、デニムの短パン姿の小学校低学年くらいの少女を連れて電車を待っている。
「どこ行きたい?」
男は言った。
「妹のところ」
「え」彼は困った表情をみせた。「でも、お母さんとの約束であそこには行っちゃいけないんじゃなかったっけ?」
「おじちゃんが内緒にしていてくれたら、お母さんにはバレないよ」
彼女はすがるような目で見上げ、彼の手を強く握りしめた。
「でも、おじちゃんはお父さんと同じでお巡りさんだから、嘘はついちゃいけないんだよ」
「黙っていればいいの。何も言わなければ嘘をつかなくてもいいでしょ?」
「でも、お父さんはおじちゃんより偉くて、もし、バレたらものすごく怒られちゃうからなあ」
「お父さんやお母さんには、おじちゃんに遊んでもらってとても楽しかったって、それだけ言えば嘘にならないでしょ?」
「施設の人がお父さんたちに話しちゃうかも」
「遠くから顔を見るだけでいいの。ねえ、お願い」
「仕方ないな。ちょっとだけだよ」
「うん」
本牧元町にある『光学園』と呼ばれる児童養護施設は補強コンクリートのRC造で、いくつかの棟に分かれていた。
二人は道路を挟んで、向かいの駐車場に停めてある車の陰から中の様子を窺った。目の前には玄関のある中央棟があり――船のへさきのような形をしていた。そこから、視線を少し左に移動すると中庭が見えた。職員と思われる女性二人と十人前後のこどもたちが遊んでいる。男はすぐに自分が連れている少女と同じ格好をしている女の子を見つけた。
「晴子ちゃん……」少女は一年ぶりで妹を見た。彼女の頬に一粒の涙がすべり落ちた。「ごめんね」
少女が晴子ちゃんと呼ぶ、その子は数人の仲間とサッカーをして遊んでいて、誰かが蹴ったボールが道路沿いのフェンスの方へ飛ぶと、彼女がそれを拾いにやって来た。二人は慌てて車の後方へと身を隠した。意外にその距離は短かったので、危うく見つかりそうになった。妹は何かを感じたのか、こちらの方を少し見ていたが、仲間の呼ぶ声に戻っていった。男がトランクの陰から覗くと、走り去る彼女の左肩にトライアングルの頂点のような三つのホクロが見えた。
「もう、帰ろう」
少女が言った。
「いいのかい?」
「うん。晴子ちゃん、元気にしていたから」
「そうか。よし、帰ろう」
「今日はありがとう。川島のおじちゃん」
「いや、瞳ちゃんのお役に立ててなによりだよ」
『光学園』の応接室の革張りのソファアに向かい合う学園長と川島。
「それでは、当時の資料はもう一つも残ってはいないのですか?」
川島が言った。
「はい。なぜか、八十年代後半から九十年代前半までの資料だけが見当たらないのです。なぜなのかはわかりませんが」
「当時の職員の方は?」
「ええ。一人、相沢というのがおります」
応接室のドアがノックされると、四十代の眼鏡をかけた細身の女性が現れた。
「相沢です」
彼女が言った。
「ああ、どうも川島です」席を立ち、軽く会釈した。「さっそくなんですが、九十年代前半の頃、当時ここにいた晴子という少女がどこへ引き取られていったか覚えていませんか?」
「晴子ちゃん? ああ、覚えています。私の担当ではなかったのですが。確か座間市の山田さんという方のところへ養子縁組されたと記憶しています。そういえば、何年か前、彼女も大人になってからですけど、養親はお二人ともお亡くなりになられたと、風の噂に聞いたような気がします」
「そのあとの彼女については何か知りませんか?」
「さあ、そこまでは」
「そうですか。ありがとうございました」
養護施設を後にした川島は座間市の市役所に向かった。
再び合流した川島と石本を乗せた黒のセルシオが本牧へと移動していた。
「川さん、どこ行ってきたんですか?」
運転しながら、石本が尋ねた。
「……」
助手席で口を閉じたまま、窓の外を見つめている川島。
「川さん、聴こえてます?」
顔を覗きこむように横を向く石本。
「ちゃんと前見て運転しろ」
「はい……」納得いかない表情で、ルームミラー越しに川島の顔を睨む石本。目の前に東京湾を臨む港の倉庫街が見えてくる。「あ、着きました。ここです」
最後のマルタイである風見洋子、六十八歳はもうすでに裁判官は退官して、今は去年亡くなった夫の会社、風見貿易の社長の座に収まっていた。彼女はその年齢を忘れさせてしまうほど精力的な女性で、ひと時も身体を休めることはなく、とにかく動き続けていた。その姿は、動きを止めれば死んでしまう回遊魚を連想させた。
瞳とチャンが挨拶すると、
「私が最後の一人ですって。あなたたち、それでもプロなの。全然安心できないじゃない」洋子は歯に衣着せぬタイプの女性だ。
「出掛けるわよ。あんたたち、ちゃんと守りなさいよ」
本牧埠頭の商港区にある風見貿易の倉庫内には商品である家庭用品の詰まった段ボールが山積みされており、その間を縫うように通路が巨大迷路のように広がっていた。その中を洋子は担当者とぐるぐるとめまぐるしく移動しながら、何やら打ち合わせをしている。
倉庫の入り口で、チャンが合流してきた川島と石本を出迎えた。
「瞳ちゃんはどこだ?」
開口一番、川島が尋ねる。
「え? あ、今倉庫の方に……」そう言って、チャンが倉庫を振り返ると、
「キャアー―」
洋子の悲鳴が庫内に響き渡った。
駆け出す、川島。あっけにとられながらも、後を追いかける二人。
段ボールの通路を抜け、いくつかの角を曲がると、少し開けた場所に出た。そこには洋子と社員の男が血だらけの姿で倒れていた。
川島はそれを横目に通路を先へ進む。遅れてきたチャンと石本が倒れる二人の脈を取るが洋子の方はすでに息絶えている。社員の男の方は気絶しているだけのようだ。彼に付着している血はマルタイのものと思われる。チャンは携帯で鑑識と救急の手配をする。
「待て、待つんだ、瞳ちゃん」
通路の先に川島の声が響く。駆け出す刑事たち。
二人が通路の切れ目を曲がると、そこは工場の裏口で、ドアが開いていた。外へ出ると、目の前には東京湾が広がっている。その手前の草むらに覆われた空き地の少し先で川島が何かに向かって叫んでいる。二人が近づいていくと、さらに、その先で海へと猛スピードで突っ込んでゆく、一台の車が見える。銃を構える川島。
「止まれ、止まるんだ、瞳……」
その瞬間、車はダイブし、そのまま海へと一気に飲み込まれていった――
「その後、車は引き揚げられたが、そこに瞳ちゃんの遺体はなかった」
黒のスカイラインを運転するハンチング帽の男が言った。
「その女刑事さんが……私たちが追いかけているあの彼だというんですか? そんな嘘みたいな話、信じられません」
助手席の愛が眉をひそめ、不服そうに言った。
「私にも信じられないさ……。ただ彼女はDID、すなわち乖離性同一性障害、平たく言えば多重人格者だったんだ。今は性転換して、あのとおり男の姿をしているが。」
「多重人格……? まさか、そんな……」
「ただし、彼女は本当の瞳ちゃんではない」
「え? どういうことですか?」
「彼女には晴子という双子の妹がいたんだ……」
「ハルコ……?」
「彼女の姿を最後に見たあの日から、半年経った今でもまだ事件は解決していない。私は今年で定年退職だ。もし、このままで終えたなら、私は自分の刑事人生に何の価値も見出せなくなってしまうだろう。それに、幼い時から知っている瞳ちゃんのことを私はずっと娘のように思ってきた。もちろん、今でも……だからなんとしても彼女を救いたいんだ」
「そうだったんですか……刑事さんは瞳さんとハルコが入れ替わっていると、瞳さんはどこかに囚われていると考えているんですね」
「そうだ」
頷く川島。
「あの、刑事さんって、川島さんですよね。私、覚えてます。とにかく姉の事件の真相が知りたくて、私がしつこく捜査のこと聞いて回っていた時に他の刑事さんたちは事件に首を突っ込むなって感じだったけれど、川島さんだけは自分の納得いくまで、調べてみればいいと言ってくれました」
「私も覚えていたよ」男はサングラスを外し、ハンチング帽を脱いだ。「この事件の解決は君にとっても大切なことだったね」
「でも私にはどうしても、彼がそんな事件を起こしたとは思えないんです……」
そのとき、前を行く記憶喪失の男が乗るバイクが視界に入った。
「奴だ。追いついたぞ。私の勘が正しければ、今の奴は君の知っている男じゃない」
バイクは首都高と一部並走する国道357号線を高速出口前の信号を右に折れ、西へと向かい、本牧元町へと入っていった。
「やはり、あそこへ向かうのか……」
男の後を追いかける川島が呟くように言った。
バイクは交差点で、左へ曲がりそれから少し走ると、光学園が見えてきた。次の瞬間、薄暗い闇の中、目の前に猫が飛び出してきた。男はそれを避けようとして、急なハンドルを切り、バランスを崩し、バイクから、身体が放り出された。倒れて滑るように対向車線に入っていったバイクは向かってきた車にぶつかって大破した。そこから、玉突き事故が発生し、辺りは騒然となった。
なんとか事故に巻き込まれることなく済んだ黒のスカイラインは離れた場所に停車した。
川島はすぐに車を降りると、どこからともなく現れたやじうまの群れをかき分けながら、男の元へと駆け寄った。愛も後を追った。
「おい、大丈夫か? しっかりしろ」
光学園の敷地内、ヨーロッパの街路灯を模した室外灯が照らす芝生の上に倒れる男を川島が抱き上げる。
「う……」
男がうめき声をもらす。
「救急車」
川島が叫ぶ。
愛が慌てて、携帯をバッグから取り出そうと中を覗きこんだそのとき、頭の向こうで銃声がした。「え?」驚き、顔を上げると、目の前には腹から血を流しながら倒れる川島と一瞬で立場が逆転し、それを見下ろす男が立っていた。
「お前、晴子だろ……」川島は脇腹のホルスターから銃を奪い、自分を撃ったその男を見上げた。「お前は養父母が死んだ後、こつ然と姿を消した……ありとあらゆる記録からお前の情報がすっぽりと消えていた……瞳ちゃんに成りすましたお前がその立場を利用して、色々と画策したんだろう? 瞳ちゃんをどうした?」
「へえ。分かるんだ、私のこと。すごいじゃない。でも、それなら本当はもう知ってるんじゃないの? 瞳ちゃんがどうなったのか。たぶん、あんたの予想どおりだと思うけど、当然、私にぶっ殺されたわよ」
「貴様……」
立ち上がることができずに倒れたままで、ハルコを睨みつける川島。
「そしてあんたもここで私にぶっ殺されるというわけね」
川島に銃を向ける、ハルコ。
「やめて」
テーザーガンを彼女に向ける愛。
「そんなおもちゃで本物の銃と勝負しようっていうの? あんた、マジ?」
向き直ると、不敵な笑みを浮かべたハルコが今度は愛に銃を向けた。
「あなた……あなたは自分が誰なのかわからなくて……ひどくおびえていたわ……でも、それでも……自分がそんな状態だっていうのに、私のことを心配してくれた。力になりたいって言ってくれた」
「何を言っているの? もしかしてあいつのこと? あのダメダメ君のことを言っているのかしら? 自分の悪さを認めたくないものだから、記憶喪失なんて都合のいいキャラ作っちゃってさ、いわゆるジョン・ドゥってやつね。笑える。あんなの私じゃない。私の中に良心なんてものがあるわけがない。ニセモノの人格よ。あのとき……パトカーで海へ突っ込んだ時、軽く頭をぶつけちゃったせいで急に生まれてきた、ちょっとしたイレギュラーってやつよ。もう消えたわ。二度と現れることもないわ」
「嘘だ……」
川島が言った。
「ああん? 何か言った?」
ハルコが川島の顔を踏みつける。
「やめて」
愛が叫ぶ。
「お前は……瞳ちゃんを……姉さんのことを本当は憧れていた……だから、彼女に成りすましたんだろう?」ハルコに顔を蹴られながらも、川島は話を続ける。「あのトイレの小瓶……あの暗号もお前だろう? お前がヒントくれたんだろう? 認めようが認めまいが、お前の中の瞳ちゃんへの憧れが、良心を持つその人格を生み出したんだ。お前は新しく生まれ変わろうとしたんじゃないのか? もちろんそれで罪が消えるわけじゃないが……一旦はハルコという人格を自らに封じ込めたんじゃないのか」
「人の人生、勝手にドラマチックに語ってるんじゃねえよ」