けれど私は子供ながらに傷ついて。
なら名前を変えてしまえばいいって。
その日、私はお父さんの部屋から勝手に電子辞書を取っていった。
少し前にお父さんに使い方を見せてもらい、便利で感動したことを覚えていたから。
ただ問題は漢字がうまく書けないこと。
文字起こしがまだまだ苦手で。
特に静音の“静”や、涼雅の“雅”は随分後から習った記憶がある。
結局私は簡単なほうの“音”
すずくんは“涼”を選び。
ガタガタの文字を電子辞書に書き込めば、最初はなかなか読み取ってくれなかった。
三度目にしてようやく読み込んでくれ、あまり使い方がわかっていない電子辞書を眺めていたら───
私の漢字は“おと”、すずくんの漢字では“すずしい”とひらがな表記されていて。
これだと思った。
『今日から私は“おと”、涼雅くんは“すずくん”にしよう』って。
すずくんはすぐに気に入ってくれ、ふにゃっと嬉しそうに笑ってくれたのだ。
「強くなったね」
すっと手を伸ばし、雪夜の頬に触れる。
「───涼雅」
「……っ」
名前を呼べば、雪夜が目を逸らしてきた。
「今はあなたにぴったり。この名前。
雪夜涼雅って、本当に素敵だと思う」
ここまで私を魅了するのだ。
「お前、本当に何だよ」
ほんのり赤く染まる頬。
やっぱり慣れていない様子。
「……ふふ、いいもの見れた」
ああ、幸せ。
今は私、とても幸せだと。
「うるせぇ、お前のその口塞ぐぞ」
「“お前”呼びはやだよ涼雅」
私たち、少しは成長したんじゃないか。
お互い名前で呼ぶくらいは進展したんじゃないだろうか。
「いきなり甘えてきやがって」
「だって、涼雅にならいいかなって」
弱さを見せても。
もう十分見せているのだから。
「───静音」
わざとらしく耳元で囁くように私を呼んだ彼。
相変わらず私をドキドキさせるのが上手である。
「なに」
「静音がほしい」
そんなストレートに聞いて、わざと断れない状況を作る。
嘘でも首を横には振れない。
「じゃあ私にも涼雅の全部、ちょうだい。
過去の辛いことも楽しかったことも全部」
「何かっこつけたこと言ってんの」
「私がいないと寝れないくせによく言う」
「うるせぇ。関係ねぇよ」
ふたり視線を絡ませ、そして笑い合う。
幸せいっぱいの笑み。
彼がいれば本当に全部忘れることができそうだ。
「でもこれからは不眠症で悩まされる心配はねぇかも」
「私がいるから?」
「静音がいたら、何でも乗り越えられそう」
見た目がどれだけ大人びていようと。
大人がするようなことをしていたとしても。
私たちはまだまだ子供。
心は脆く、すぐ砕け散ってしまいそうなほど。
弱い弱い人間。
ひとりでは生きていけない。
もう今の私には彼なしで生きていけないかもしれない、なんて。
「……ん」
不意打ちのキス。
少しきつめの深い深いキス。
このキスは驚くほどに甘く、そして特別に思えた。
「静音、今日はいつもよりたくさん啼かせるかもしれねぇ」
今の彼はまるで獣に見えた。
理性の欠いた危険な獣。
「うん、いいよ。
涼雅で私の全部を侵してよ」
ただそんな彼を求めてしまう私もまた、理性を保てていないのかもしれない。
甘い声が部屋に響く、とろけるような時間。
酔いしれていた。
彼に溺れていた。
やっと心まで繋がれたような気がして、幸せいっぱいで。
これから先、ずっと幸せな日々を送れる───
そう信じていたけれど。
このような日々が崩れ始めたのはすぐだった。
その日から冬休みが終わるまで、私たちは何度も交わした。
幸せだった、何もかも。
心まで綺麗に浄化されていくようで。
涼雅のすべてに魅了され、クラクラして。
けれど冬休みが明ける前日に。
「じゃあ行ってくる」
「うん。無理して命を危険になんて晒さないでね」
明日から学校だというのに、緊急任務が入ったらしい涼雅。
そのため冬休み最終日はひとりで過ごすことが決定した。
「そんな簡単に死なねぇよ」
「死に急ぎそうだけどね」
「バカか。俺を舐めんな」
軽くチョップされたかと思うと、痛いと私が言う前に今度は唇を塞いできて。
「……っ」
結局私が照れてしまって終わる。
「じゃあな。
なるべく早く帰るから」
「べ、別に帰ってこなくてもいいから!」
ついムキになってそんなことを言ってしまったけれど。
笑って流され。
それでこの話が終わった、と思っていた。
だから誰も、涼雅が帰ってこないだなんて思ってすらいなくて───
1日目は別に良かった。
神田が『こういう時はザラにある』と言っていたから。
2日目だって何とか乗り越えられたけれど。
どんどん膨らんでいく不安は拭えなくて。
「静、最近元気ないけど大丈夫か?」
学校に着くなり、心配そうな顔をして祐樹に声をかけられたのが行方が途絶えた3日目のことである。
「……え」
「涼雅、何かあったのか?」
少し控えめに聞かれたけれど、うまく答えることができない。
“何かあった”と思いたくなかったからだ。
「わからない」
「……は?」
「わからないよ…」
半分泣きそうになりながら、祐樹に零す本音。
「涼雅に何かあったら、どうしよう…」
すると泣きそうになる私の腕を引いて、教室を後にしてしまう祐樹。
もうすぐで授業が始まるというのに、一体どこにいくのか。
「祐樹、どこに」
「保健室。静、寝不足だろ」
指摘されてギクッとなる。
確かにこの三日間、ろくに寝ていない。
「寝不足だと体調も良くないから、余計不安になるだろ。とりあえず寝よう」
いつになく真剣な表情の祐樹は、私のことを考えて動いてくれているのだ。
保健室に着き、先生には気分が悪いと嘘をついてベッドに行かせてもらう。
もうすぐ授業が始まるけれど、祐樹はまだ私のそばにいてくれて。
「祐樹、授業が…」
「いいから。静が寝るまで俺は動かない」
何とも強引な彼。
どうやら私は無理矢理でも寝ないといけないらしい。
「……祐樹」
「うん?」
「ありがとう」
いつも思う。
私にはもったいないくらい優しい幼なじみだって。
「バカ、お礼言うなら早く元気出せ。
涼雅にその顔見られたら笑われるぞ」
「うん、本当だ」
絶対バカにされる。
『俺を弱いもの扱いするな』って怒るかもしれない。
それでもいいから早く会いたいと思うのは、自然などだろうか。
祐樹がそばにいてくれたため、余計なことを考えずに済み。
眠気がやってくる中、ゆっくり目を閉じれば───
「涼雅は何やってんだよ」
少し怒りが含まれた声が聞こえたのを最後に、私の意識はそこで途切れた。
*
保健室ではゆっくり眠れたからだろうか。
心がいくつか軽くなった気がした。
涼雅は大丈夫だと、何とか自分に思い込ませる。
けれど今日もまた帰ってこなかったら?
さすがにそれは不安でならない。
スマホを見ても涼雅からの連絡はなくて。
実は女と戯れているのかもしれない、なんて。
無事ならばそれでもいいと思ってしまうほど、不安でならなかった。
別に浮気されたぐらい、怒れば済む話。
傷つくだろうけれど、涼雅に何かあるよりかはずっといいと思った。
「静、帰るぞ」
放課後もまた祐樹が私に声をかけてくれた。
帰る方向は違うというのに。
「え、でも…」
「駅までだからいいだろ別に」
戸惑う私に対し、祐樹はいつも通りの様子で私と接してきて。
断るほうが難しかった。
家に帰ればさらに不安を駆り立てられるのだ、駅までは心軽くいきたいと。
「……じゃ、一緒に行こう」
「よし来た」
明るい笑顔を浮かべられ、さらに何も言えなくなる私。
つられて笑みまでこぼれそうだ。
内心祐樹に感謝しながらふたりで並んで校舎を後にする。
いつものようにふざけながら、あえて涼雅の話題を避けてくれる祐樹。
今この時だけは余計なことを考えないでおこう。
そう思いながら門を抜け、駅へと目指せば───
「……あれ」
見慣れた車が一台、道路の脇に停まっているのが目に入った。
似たような車はあるかもしれないけれど、なんとなく覚えていた車のナンバーが一致していた。
ドクンと心臓が大きな音を立て、期待の念へと変わる
間違いない。
あの車は宮木さんが運転しているものなのだから。
「……っ」
「静?」
その時、助手席のドアが開けられ。
思わず期待してしまう。
任務終わりにすぐ、私に会いに来てくれたんじゃないかと───
「……っ、静音ちゃん!」
でも助手席から降りてきたのは涼雅ではなく。
どうして彼女がここにいるのだと驚きすらあった。
他でもない、相手は神田の彼女である未央ちゃんで。
制服姿の彼女は焦った様子で私に駆け寄ってきた。
「……未央、ちゃん?」
嫌な予感が増していく。
ドクドクと、脈打つ鼓動が速くなる。
「……あ、は、早く、行かないと…」
焦る様子の未央ちゃんは、言葉に詰まっているようで。
「御園様、今すぐ車にお乗りください。
今は時間がありません、とにかく渡辺様もご一緒に」
一度祐樹とも接触しているからだろう。
宮木さんは彼のことも覚えていたようで。
とにかくふたり、戸惑いながらも後部座席へと乗り込む。
車内はひどく暗い空気に包まれていた。
妙に緊張感が走っている。
聞きたい。
涼雅に何かあったのかと。
けれど容易に聞くことはできなかった。
「……御園様」
嫌な沈黙が流れる中、それを破ったのは宮木さんだった。
「はい」
少し緊張しながらも、返事をして反応を示す。
すると宮木さんはトーンを変えず、静かに話し始めた。
「まずはじめに言いますが、雪夜様は“無事”です」
涼雅は無事───
その言葉を聞いて安心した私は、全身の力が抜けた気がした。