お宿の看板娘でしたが、王妃様の毒見係はじめます。


ロザリーへの手紙は、自室か執務室でしか書いていない。出すのはケネスに頼んでいるから、バレるはずはないと思っていた。
それが知られているとすれば、侍女か、たまに入ってくる文官の中の誰かが第一王妃へと情報を漏らしていることになる。

「分かりました。今後のことはケネスと相談します。……失礼します」

ザックは兄の寝室を出て、広い廊下を音を響かせながら歩いた。
ロザリーへの手紙はしばらくやめた方がいい。
もし自分が執心しているのが彼女だと分かれば、身柄を拘束するのは簡単な話だ。彼女は何の護衛もいない宿で、従業員として暮らしているのだから。

ザックは執務室に戻り、ケネス以外の人間を人払いした。
そしておもむろに手紙を書き始める。

「一体どうしたんだい」

止まらないペンを眺めながらケネスはザックに問いかけた。彼は、手を止めることなく、バイロンとのやり取りを語った。

「ふむ」

ケネスはしばらく黙って聞いていたが、「結局この毒入りクッキーのことはどうするんだい? せっかく証拠もあるところだけど」と問いかけた。

「これは内密にしておいた方がいいだろう。もし兄上が捕らえられたらことは大きくなる。まして俺に王位継承権が移ってきたら、動きづらくなるだけでなにもいいことが無い」

「まあ、そうかもね。でも警戒は強めておいた方がいいね。第一王妃は自身の子を盾にしてまでも君を殺そうとしていることはわかったわけだし」

「それと、ロザリーに手紙を出すのはしばらく止めようと思う」

ケネスの長いまつげがピクリと動く。

「なぜだい?」

「彼女に危険なことがあれば困る。しばらく連絡が取れなくなるという内容の手紙を書いたから、これを送ってくれないか」

封蝋が落とされた手紙を、ケネスは一瞥する。

「……俺は反対だな。むしろロザリー嬢を引き込むべきだ。うちで預かるよ。とっとと社交界デビューさせて、公式にお前と会う機会を作ったほうがいい」

「彼女になにかあったらどうする!」

執務机が強く叩かれ、羽ペンがインクツボの中で揺れた。
苦渋に満ちたザックの表情に、ケネスは唇をゆがませる。そこには、軽蔑に近い感情も入り混じっていた。

「俺は反対だね。守るために遠ざけるなんてナンセンスだよ」

「だが俺は王子だ。立場上ロザリーに引っ付いているわけにはいかないんだ。守り切れない!」

「君に守られるのを彼女が望んでるとは限らないだろう?」

「だが……!」

なおも言いつのろうとしたザックに、ケネスは呆れたため息を落とす。
ザックは怯んだように息を止めた。ふたりの間に、常にはない緊張が流れる。

「君はいつもそうだね。なぜ俺がアイビーヒルに逃げようと言ったのか、分かっていなんだろう。このままじゃせっかく取り戻したものがみんな駄目になる。……しばらく離れようか、ザック。今の君の側にいても、俺はなにも出来そうにない」

「……ケネス?」

「執務補佐は誰かを代わりに雇ってくれ。では失礼するよ」

「おい、ケネス!」

引き留める声も聴かず、ケネスは部屋を出て行った。ザックは信じられない気持ちで彼の消えた空間を見つめていた。


これが、ケネスがザックのもとを去るまでの一部始終だ。
ケンカ別れとはいえ、ケネスが自分のことを心配してくれていることくらい、ザックには理解できている。
ただ主張がかみ合っていないだけなのだ。
ザックはロザリーを守るために離れることを選び、ケネスは守りたいならそばに置けという。

それがかみ合う日が来るまで、ケネスと和解はできそうにない。
ザックは言葉を選びながら、心配顔の伯爵に笑顔を向けた。


「イートン伯爵が心配するようなことではありません。俺は今でもケネスを信用していますし、時が来たらまた側近として働いてもらいたいと思っています」

「そうかい。それならばいいけれど。私にとっては君たちは仲の良い兄弟のようなものだからね。ケンカされていると落ち着かないものでね」

「俺もです。早く、事態を収束させて落ち着きたいですね」

しかし、落ち着いた状態とは一体どの状態を指すのだろう。
一度はケネスに指摘されたそれが、今になって気になってくる。

ザックが最も望む状況は、王太子バイロンが健康になり、政治の舵を握ることだ。
けれど、この原因が病魔である以上、望みは薄い。

このままではおのずと王位が自分の手元に転がり落ちてくる。
そうなった場合、隣に立つ女性が安全である保障は一生訪れない。
ロザリーが立場の弱い男爵令嬢であることも不安の種だ。イートン伯爵が後ろ盾となってくれればそれなりの箔はつくが、アンスバッハ侯爵にかなうわけではない。
立場の弱い王妃がたどる苦難の道を、ザックは自分の母を見て知っている。ロザリーにそんな辛い思いをさせるのは本意ではない。

だが、そうしたら、自分は一生ロザリーを遠ざけておくつもりなのか。

それが現実的な策ではないことに、ザックは自分でも気づき始めていた。



ロザリーが令嬢教育に励んでいる間、レイモンドは何度もオルコット子爵家を訪れた。
が、結果はいつも同じ。「料理人ごときにオードリーを任せるわけにはいかない」と門前払いを食らっていた。
イートン伯爵の名を出せば、もしかしたら話くらいは聞いてもらえるかもしれない。が、レイモンドはそこまで図々しくもなれずにいた。
イートン伯爵領は、穏やかで伯爵の気質もあってそこまで身分差が気にならない。けれど、王都はやはり違うのだ。勝手にイートン伯爵の名を出すなど、使用人のすることではない。

「……クリス、寂しがってるだろうな」

オードリーにももちろんが会いたいし、会える日を待ち焦がれている。だが、オードリーは大人で、会えない事情も一番理解しているだろう。それを思えばクリスはまだ子供だ。今度は直ぐ会えるよ、と言って別れたのは、もう三ヵ月以上前になる。図らずもその言葉が嘘になってしまったことが、レイモンドには悔しかった。
他の男との子だとは言え、レイモンドにとっては、クリスは我が子のようなものなのだ。

「ちゃんと迎えに来るからな」

追い返されて、遠くから屋敷を見上げつつ、レイモンドはその意思を固くしていった。



「ほら、ロザリーさん、背筋が曲がっているわ」

「すみませんっ」

ケイティにぴしりと背中をたたかれて、ビクリと体を震わせると、向かいに座るクロエがくすくすと笑う。

「ロザリーは小動物みたいね。友達が飼っている猫を思い出すわ」

馬鹿にされているのか褒められているのか分からず、ロザリーはクロエを見上げた。

毎日、こんな感じでケイティとともに、令嬢教育が行われている。
お茶会の作法、夜会の作法。それからダンスレッスンに、会話術。多くの教師が呼ばれ、ロザリーは毎日頭がパンクする勢いで知識を詰め込まれている。
クロエはたまに冷やかしにやって来ては、一緒にお茶を飲んでくれる。

「うちの親戚筋は全部頭に入った?」

「なんとか」

「ならそろそろいいんじゃないの。お母様」

「そうね。国王様の謁見の許可もいただけそうなの。いよいよ、社交界デビューね」

意気込むケイティに、にやにやと笑うクロエ。

「デビュタントは必ず王族と挨拶をするの。国王様からお言葉をいただいて、初めて貴族令嬢として認められるわけ」

「本当ですか? が、がんばりますっ!」

ようやく王城にはいれるとあって、ロザリーもやる気満々だ。
叶うならば、ザックの姿を見ることができますように、とロザリーは手をギュッと握って祈った。


ザックは夜会の準備に追われていた。
あれから、ザックは内密に造幣局長サイラス・ウィストン伯爵について調べた。
かつて、ウィストン伯爵家は資産家として有名だったが、先代の浪費がたたって、サイラスが成人するころはかつかつの暮らしだったようだ。小太りの男で年は四十一歳。学術院時代の成績は中の下だ。
卒業からずっと造幣局でコツコツと働いていたが、今より十年ほど前から急に羽振りがよくなり、出世コースに乗りだした。局長に就任したのが五年前だ。

「為替レートが下がったのは彼が局長になってからなんだよな」

どうにもうさん臭さを感じて、ザックは報告書をみやる。
彼は派閥としては無党派層に属する。だが、多くの場合にアンスバッハ派の支持をしている。
この夜会で、アンスバッハ侯爵とサイラスのつながりに関して何か分かればとも思っていた。


そして、夜会当日がやってくる。
会場は城の大広間。すでに楽団は定位置につき、音楽を奏でている。定例の夜会ではあるが、貴族議員はおおむね参加していて、ザックのお目当てであるウィストン伯爵の姿もあった。調書によるとウィストン伯爵は妻を数年前に亡くしているらしく、ひとりでの出席しているようだ。

どう声をかけようかと考えあぐねているうちに、本日が社交界デビューだという令嬢たちが、国王への謁見を済ませて入ってくる。
皆一様に白いイブニングドレスに身を包み、同伴者である父親の手を取り、恥ずかしそうに微笑みを浮かべていた。
いつものようにさらりと視線を送ったザックは、その中に、ひときわ背の低い少女を見つけ、頭が真っ白になった。しかも、彼女のエスコート役はイートン伯爵だ。

「ロッ……」

ザックは息が止まった。本当に数秒は呼吸ができないくらいに驚いた。
デビュタントたちは、エスコートしてくれた同伴者と最初のダンスを踊る。ロザリーが小さい体ながらクルクルと踊るのを、ザックは息を詰めて見つめていた。

「うちの秘蔵っ子はどうだい」

いつの間にかケネスが隣に来ていて、にやにやと笑っている。

「お前……、よくもぬけぬけと」

「もともと、ルイス男爵には社交界デビューさせるとお約束していたからね。かわいいだろう? 小柄ながら運動神経は悪くない。化粧をするだけで印象はけた違いに変わる」

たしかに、そこにいたロザリーは相変わらずの小さい体だが、ちゃんと、本当に綺麗な女性なのだ。
ふわふわとしたかわいらしい雰囲気は残したまま、令嬢として不足のない所作をしっかり身に着けていた。ザックは今すぐにでもイートン伯爵からエスコート役を奪いたいくらいだった。

だが、自分が声をかけては目立つと口を真一文字に引き結んでいたが、踊りながら、ちらちらとロザリーがこちらを盗み見ている視線を感じる。
その顔にはとても心配していたのだと、書いてあった。
分かりやすく表情が豊かで、心根の優しいその少女は、やはりザックにとって癒しなのだ。ザックは戻ってからずっと抱え込んできた心の課題を、一瞬すっかり忘れてロザリーに見入っていた。

やがて一曲目が終わると、この場にいる唯一の王族ということでザックのもとに挨拶の列ができる。
大抵は父親の身分順であり、わりに早い段階でイートン伯爵は彼女を連れてザックの側へとやって来た。

「アイザック王子。我が家でお預かりしているロザリンド・ルイス男爵令嬢です。以後お見知りおきを」

イートン伯爵に紹介され、ザックは型通りに「可愛らしい令嬢ですね。はじめまして。アイザック・ボールドウィンです。以後よろしく」と挨拶をする。
これで初めて、ロザリーが口を開くことを許されるのだ。

「お目にかかれて嬉しく思います。ロザリンド・ルイスと申します。アイザック様におかれましては……」

震えていたロザリーの声が、やがて止まった。ザックは焦って彼女をのぞきこむと、その大きな瞳からポロリポロリと涙を落としている。

「え、あ。おい……」

ザックは思わず放心して、彼女に手を伸ばそうとする。

隣にいたイートン伯爵が気付き、彼女の背中に手をやる。

「ロザリンド嬢。どうした? ……どうやら緊張して感極まってしまったようです。申し訳ない、ザック様。またあとで」

声を出さずに泣きながらうなずくロザリーを連れて行くイートン伯爵。その後を追うように、ケネスが大広間から出て行った。
続いてあいさつにやって来た令嬢と対面しながらも、ザックはその令嬢の名前も顔も何ひとつ覚えられなかった。ただ、先ほどのロザリーの泣き顔が、頭から離れなかったのだ。

デビュタントの挨拶が終わり、王族としての役目をとりあえず終えたザックは急いで大広間を出た。
もちろん、ロザリーを探すためだ。

「君、イートン伯爵を見なかったか?」

「イートン伯爵ですか? 先ほどご子息と連れ立ってあちらの方へ向かわれましたが」

従僕が指し示した方向には、控室が並んでいる。休憩用や、少人数で密談をするときのために用意された部屋である。
本来、先客がいるときに入るのはマナー違反だが、そうも言っていられない。
何部屋かノックをし、聞きなれたイートン伯爵の声に「俺です。失礼します」と宣言し、返事を聞く前に中に入った。

中には、イートン伯爵とケネス、そして彼らの陰に隠れるようにロザリーがいた。
まず彼女がぱっと顔をあげ、「ザック様」と小さくつぶやく。その瞳にはまだ涙が盛り上がっていて、ザックは直ぐにでも彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、手を伸ばした。

「なっ……」

「はい、ストップ」

それを止めたのはケネスだった。
明らかにロザリーを社交界デビューさせた首謀者である彼に対し、ザックの怒りが沸騰する。

「おまえっ、俺があれだけ危険だから連れてくるなって言ったのに!」

「言ったねぇ。でも俺には今、君の指示を聞く義務はないし」

何食わん顔でそう言われて、今度はイートン伯爵に不満をぶつける。