「だから、身分の高い方は少し苦手なのよ。イートン伯爵がお優しいのはわかっているんだけど。……あ、あなたも男爵令嬢なのよね。ごめんなさい。でもなんだかあなたが相手だと安心しちゃって」
「私は田舎育ちですから。最近まで平民のふりをして下働きもしてましたし」
「まあ、ふふ。私たち仲良くやれそうね」
「だと嬉しいです」
カイラと打ち解けることが出来て嬉しいロザリーは、安心してゆったりと眠りにつく。
しかし、物音がしてふいに目を開けた。
辺りは暗い。まだ真夜中だ。
「……なんでしょう、この音」
ドン、ドンと扉をたたくような音がする。
不思議に思ったロザリーはそろそろと部屋の外に出た。……と、廊下には最初に案内してくれた年配の侍女が、厳しい顔をして音のする扉をじっと見つめていた。
彼女はロザリーに気づくと、ふっと顔を緩めた。
「ああ、……申し訳ありません。最初にお伝えしておくのを忘れていました。カイラ様には夢遊病の症状があるんです。そのため、夜間は外から鍵をかけているのです」
「カイラ様……なんですか? 中で扉を叩いているの」
「ええ。でも起きたときに尋ねれば記憶にないとおっしゃいます。鍵をかける前は、庭に出てしまって足を怪我されたりいろいろトラブルもあったもので、今は施錠しています。ですが、中で何かあっても困りますので、こうして外で様子を窺っているのです」
ロザリーはここに来る前に呼んだ書物を思い出した。
夢遊病は深い眠りのときに起こり、頭は眠ったままなのに、体が起きてしまう状態なのだそうだ。
長くても一時間で収まることから、敢えて治療する必要はないとされていた。
「鍵……開けては駄目ですか?」
「ですが」
「カイラ様は暴力をふるったりするわけではないんですよね」
「ただ歩き回るだけです。夢を見ておられるようで」
「少し話しかけてみたいんです。いいですか?」
侍女は迷ったようだが、鍵を開けた。すると、ギイと軋んだ音を立てて扉が開き、カイラが出てきた。
彼女の目は、誰もいない空間を眺めている。そのまま、体を揺らしながら歩いていこうとする。
「カイラ様。まだお休みの時間ですよ。一緒にベッドに行きましょう?」
ロザリーが言ったが、彼女には届いていない。
「アイザック……。……ナサニエル様。待って」
カイラはブツブツとつぶやき続けているが、目はうつろで、廊下を行ったり来たりしている。
「カイラ様。こちらですよ」
ロザリーはできるだけ穏やかに言い、彼女の横にぴったりついて歩いた。
なおもつぶやき続ける彼女は、やがて方向を変え、自らのベッドに向かう。
「寝ましょう。ね。明日はきっといい日になります」
笑顔でそう言うと、ぼんやりとしていたカイラはふっと表情を緩め、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。
「……眠った……かな」
「大丈夫そうですね。お嬢様も怪我がなく何よりです」
侍女はホッとしたようにカイラを見下ろし、揃って部屋を出た後、侍女はためらいがちにもう一度鍵を下ろした。
「念のため、鍵はかけておきますね」
侍女には疲労の色が見られる。
深夜にこんなことが度々起こるのであれば、ゆっくり熟睡などできないのだろう。
「ずっとこんな感じなんですか?」
「毎日ではありませんが、時折起こりますね。今みたいに、アイザック様や国王様の名前を呼び続けていることが多いです。……お寂しいのでしょうね。国王様とも、とても仲睦まじかったんですが、気弱なカイラ様は貴族と渡り合っていくのには向いていないのでしょう」
「……そうなんですね」
ロザリーは再び自室のベッドに入り、丸くなって目をつぶった。
季節を問わず、心休ませるような庭園。
昔はよく髪を結っていたと、笑ったカイラ様。
母親に語り掛けるザックは、よそよそしい敬語を使っていた。
「眠れない……」
なにかがすっきりしない。
みんなカイラ様を心配している。カイラ様もみんなを愛してる。
なのにどうしてうまくいかないのか。
もぞもぞとベッドを転がっていると、やがて体が温まってくる。
単純にもすぐにあくびが出てきて、ロザリーは体を仰向けにした。
「ザック様……おやすみなさい」
今日の笑顔を思い出して、ロザリーはホッとして眠りに落ちた。
*
それから、ロザリーはカイラの話し相手をしながら、日々を過ごしていた。
一応毒見として先に食事のチェックはしているが、特におかしなこともなく、イートン伯爵邸にいるときよりも穏やかで平和な日常を送っていた。
ザックとケネスは毎日のようにやって来る。とはいえ、彼らには執務もあり、訪れる時間は主に夕方から夜にかけてだ。
時間短縮も兼ね、一緒に夕食を取るということで調整してある。
ザックが来る前の一時間は、女性二人の身だしなみチェックだ。
ロザリーはカイラに習って、髪を結う練習をしている。
「どうですか? できてます?」
「少し曲がったかしら。でもこうすれば平気よ」
カイラは編み込んだ毛先をくるりと内側に丸め込み、引き出しから髪飾りを取り出し、つけてくれた。一気に華やかな印象になる。
「ほら、どう? 可愛いわ」
「ありがとうございます! カイラ様。髪飾りまで貸していただいて」
「いいのよ。あなたを可愛くしておくとアイザックが喜ぶんだもの。……ちょっとホッとしているの。あなたといるときのアイザックは、昔みたいに素直で穏やかで。あなたのような素朴な子を選んでくれて、嬉しかった。でもその反面心配もしているのよ。あなたは私のように、王宮になじめないんじゃないかと思って」
「私がですか?」
カイラは目を伏せ、苦笑を浮かべる。唇に添えられた指が、小さく震えていた。
「ええ。あそこは怖いわ。腹の探り合いに足の引っ張り合い……。表面上仲良くしている人たちも、常にあら捜しをしてる。……せっかく王妃にと望まれたけれど、私には向いていなかったのね。結局陛下を困らせてしまっただけ」
「カイラ様……」
「ごめんなさいね。今から不安にさせるようなことを言って」
カイラの夢遊病は、毎日起こるわけではなかった。
ザックが毎日顔を見せるようになり、少し治まったのでは、というのは侍女の談だ。
それに、ロザリーに昔の自分を重ね見ているのか、少しずつ心情を吐露してくれるようになったのも、いい効果を生み出しているように思う。
「カイラ様、ザック様がお越しです」
侍女が呼びに来て、ふたりはもう一度身だしなみチェックをしてから、食堂に向かう。
いつものように先に案内されていたザックとケネスは、ふたりを迎えるために立ったまま待っていてくれた。
「今日はお土産がありますよ。うちの料理人のレイモンドに作らせたデザートです」
「レイモンドさんのですか? やったぁ!」
思わず両手を上げて喜ぶと、カイラにすっとたしなめられた。
「ロザリンドさん、はしたないですよ」
「あ、すみません」
慌てて口を押さえるロザリーを、カイラも本気で叱っているわけではない。すぐにくすっと笑って、「座りましょうか」と場を仕切った。
前菜から順番に出てくる食事を、食べ始める。この夕食はロザリーにマナーを教える場でもあるので、王城の作法にのっとったやり方が、カイラとザックから教えられるのだ。
「ところでロザリー、オルコット邸に行く日が決まったんだ。ディラン教授の都合で三日後になった。朝に迎えに来るから、ロザリーは用意して待っていてくれ」
「分かりました」
ディラン先生とオルコット家との調停に動いていたのはケネスらしく、「子爵はなかなかガードが堅い人なんだよね。オードリーと直接話させてもらおうと思ったんだけど、結局ここまで話せずじまいだったんだ。俺でさえこうなんだから、レイモンドが会えないのも頷けるな」
ヤキモキしているだろうレイモンドのことを思うととても気の毒だ。
早く幸せになってほしいのに。
会話するロザリーたちを穏やかに眺めていたカイラに、ふいにザックが問いかける。
「そういえば、……母上は最近、父上と会ったことはありますか?」
「いいえ?」
「最近、離宮に通っているようだな……と珍しく声をかけられまして。……べつに内緒にしているわけでもありませんが、言いふらしているわけでもないので、なぜ知られているのか気になりましてね」
「陛下が、気にしてらしたの?」
「ええ。最近政務にも興味がない様子なのに珍しいなと思いましてね」
最後のは嫌味だ。ザックとしては、父親に対しては不信感が強い。
ふたりの王妃がいがみ合うのも、重臣たちが勝手に動き出すのも、すべては国王である父に覇気が足りないからだと思っている。
会話はななんとなくそのまま途切れ、ザックとケネスは三日後の約束をして帰って行った。
常であればその後入浴の時間になるのだが、この日のカイラはテラスから望める庭の方へとふらふらと向かっていったので、ロザリーはついていくことにした。
「カイラ様、何かはおらないと寒いです」
ガウンをもって追いかけると、カイラは力なく微笑んだ。
「ありがとう」
「風邪を引いたら心配されます」
「誰に? 私を必要としてくれる人なんてもういないわ。アイザックだって、陛下だって」
「そんなこと……」
ないです。とロザリーは思う。同情とか慰めじゃなくて本気でだ。
少なくともここ最近のザックは、ずいぶんとリラックスしている。母親と過ごす時間を楽しんでいるように、ロザリーには見えるのだ。
だけど、それは、カイラが信じてくれなければ、嘘にしかならないのだ。
彼女が目で見て実感しなければ、黒だって白になる。他の誰が違うと言ったって意味なんかない。
だとしたら伝えられるのは自分の気持ちだけだ。
「私は心配です。カイラ様」
「ロザリンドさん」
「私、カイラ様が好きです。母を亡くしているので、こうして女同士の話ができるの、楽しくて仕方ありません。それに、他の人では教えてくれないことをいっぱい教えてくれるじゃないですか」
「でも、……すぐにひとりでできるようになっちゃうでしょう? アイザックだって、そうだったわ」
「できるようになっても、一緒が楽しかった時は無くなりませんよ、カイラ様。私、この離宮での日々をきっと一生覚えてます。カイラ様とだから、楽しかったんですもん」
カイラはきょとんとして、ロザリーをじっと見つめた後、彼女の頬をふにふにと触ったり伸ばしたりした。
「ふわっ、なにするんふえすか」
「……ふふっ」
つぎの瞬間、ロザリーはカイラに抱きしめられる。
「アイザックがあなたを選んだの、何となくわかるわ」
「え? え? なんでですか?」
実はロザリーは分からないのだ。どうしてあんな眉目秀麗の王子様に気に入ってもらえたのか。
「私達はきっと、……本当は愛を信じたいんだわ。自分の損得で付き合い方を変えるような、常に善意と便宜を秤にかけるようなそんな人ばかりじゃないって。……あなたはそう、信じさせてくれる人だからよ」
「え、えっと」
単純なロザリーには、彼女の言ってることは理解できない。
気持ちに正直に生きれば、誰だって自分のようになるはずだと信じて疑っていない。
「つまり、カイラ様は私の言うことは信じられるけれど、ザック様の言葉は信じられないとおっしゃってます?」
「あら? そういうことになるかしら。……でもそうね。あの子には私の手はもう必要ないでしょう。むしろ私がいるせいで、あの子が軽んじられる原因になってしまう。本当は邪魔なだけの母親なんじゃないかしらって思ってしまうのよ」
「違いますよ。証明できます、私。……初めて会ったときからずっと、ザック様は独特な香りがするんです。凄く近づかないと分からないくらい微かなんですが」
ロザリーはにこりと笑うと、カイラに向けて両手を伸ばした。
「その香り、カイラ様からもします。香っていたのは白檀の香木だったんです。一度ザック様が落として、届けたことがあります。そのとき、大事なものだと言っていました。母からもらったものだ……と」
「え?」
「ザック様は、カイラ様のことちゃんと思っています。元気になってほしくて、守れるようになりたくて、勉強も執務も頑張ってこられたんです。どうか信じてあげてください。ザック様は、カイラ様のことを、とても大切に思ってるんです」
カイラは半信半疑なようで、おびえたようなまなざしをロザリーに向ける。
「ザック様が甘えなくなってしまったのは、早くカイラ様を守れる大人になりたかったからですよ。カイラ様は寂しかったかもしれませんが、ザック様の気持ち、わかってあげて欲しいんです」
言うだけ言った。そう思ってロザリーは黙る。
カイラはぼんやりと歩き出し、クレマチスの花の前に立った。