花の形が綻び、葉桜となった木々の下では新学期を迎えた高校生たちが憂鬱な顔、期待に充ちた顔など様々な面持ちで登校している。そんな日にはとても似つかわしくない森鴎外の『高瀬舟』を歩き読みしているのはこの春で高校2年生になった男子高校生、遊馬響人である。響人は騒がしく走って登校する同級生をよそに本に熱中していた。『高瀬舟』は医師である森鴎外が残した不朽の名作で、安楽死や殺人について己の倫理観や価値観を今一度考えさせられる作品だ。物語はちょうど華僑に差し掛かっていた。人の命や死のことを考えた時に沸き起こるゾクゾクとした感情、彼の大好きな感情をちょうど感じていた。その時。

「響人ーっ!おっはよー!!」

背後から甲高い声を飛ばして来たのは同級生で同じ高校に通う安斎智世である。今いいところだったのに、と心の中で舌打ちするも、響人は智世に微笑みかける。

「おはよう、智世。今日は朝練ないんだね。」
「流石に始業式の日はないよー、午後練はあるけど。」

智世は管弦楽部にヴィオラ奏者として所属している。この部自体がそこまで強豪というわけではないが、彼女は部内でもトップレベルで実力がある。音楽家志望ということなので、部活以外にも個別レッスンに通っていると以前から聞いていた。

それから智世と歩幅を合わせて登校する。おしゃべり好きな智世の話を右から左に聞き流しつつ、響人は先ほどの『高瀬舟』のことについて考えていた。命の重さとは何か。なぜ人は生きるのか。なぜ人は人だけを殺してはいけないのか。響人はそういった類のことに狂気的なほど興味があった。

そうなんだ。へえ、それから?と、要領よく智世の言葉の文末を捉え、話を聞き流す。普段、響人から智世に話しかけることはほとんどないが、なぜか智世はやたらと響人に話しかける。偽りで塗り固めた自分のどこがそんなにも面白いのか、と甚だ疑問に思っている響人は彼女を煩わしいと感じていた。
そんな智世に付き合っていると存外早く学校に到着した。校舎内に入ると、お互いが別クラスのため別れて各教室に向かった。

また新しい学級でつまらない生活が始まる。命や殺生とは無関係のつまらない日々が。響人は大きくため息をついた。