無遅刻無欠席が取り柄の引っ込み思案の透明人間

 俺は家の前の坂道を走りながら下りた。 

 まてよ。この坂で俺がつまづく。下まで転げ落ちる。透明人間だから誰も気がつかない。動けないまま俺は死ぬ。 

 ヤバい。ヤバい。俺は少し慎重に坂を下りて行った。

 もしかしたらこの急な坂の下には、他の透明人間たちの墓場になっているかもしれない。

 坂をおりると私鉄の線路下の小さなトンネルをくぐり4車線の国道に出る。

 俺は人と接触しないように横断歩道の後ろの方で、信号が変わるのを待つ。

 誰かに後ろからぶつかられて、透明人間のまま車道に出ると大変なことになる。

 俺は急に不安になった。まさか、透明は一時的で、見えるようにならないだろうな。今の俺は、素っ裸の裸足だ。変質者になってしまう。

 信号が青に変わり、俺は他の通行人の流れに合わせて歩き出した。

 思ったより、朝の通勤通学の人たちの歩くスピードが早いことに気が付いた。

 体が見えるときは気が付かなかったが、朝の人々の歩くスピードに合わせると少し息が切れる。

 彼らの流れに乗らなければ、透明人間の俺は、後ろからぶつかられたり、前の人にぶつかったりしてしまう。

 少し汗ばんできた。透明人間、やっかいだぞと、俺は周りをキョロキョロ見渡した。

 他に透明人間がいれば、俺と同じく、一定の空間が人々の流れに合わせて移動しているはずだ。

 だが、透明人間の俺にも他の透明人間は見えなかった。当たり前のことだが。

 4車線の国道を渡ると、電車の駅のロータリーはすぐだ。ロータリー横の階段を上がると駅の改札口だ。

 いつもなら自然に人の流れに乗って歩いていたが、意識して人の歩く速度に合わせるのは、疲れる。

 上り用の階段と、下り用の階段は、それぞれ5メーターぐらいあり、ひろめの階段で、上り用と下り用との境には手すりがある。

 あろうことかサラリーマン風の男が、俺のいる上り階段をかけ下りてくる。手すりの向こうには、あんなに広い下り階段があるのに。

 結構急な階段なので俺はうつむき加減に階段を上っていたので、男に気づくのが遅れた。

 俺は立ち止まり、手すりを両手で、ぎゅっと握りしめた。

 サラリーマン風の男は、左手を手すりに軽く這わせ、かけ下りてきた!!

 透明人間の俺は、頭を前に低く出し、足を前後に踏ん張ったまま、ぶつかる衝撃に備えた!!

 ドスっと音がした。



 サラリーマン風の男は、しりもちをついた。

 俺はかろうじて階段を転がり落ちずにすんだ。 

 彼の目が丸くなっていたのは一瞬で、気を取り直したように、階段をかけ下りて行った。

 どうやら、サラリーマンの朝の出勤の方が、透明人間とぶつかったことより重要らしい。サラリーマン恐るべし。 

 俺は改札口で、定期券を出そうとしたが、あいにくカバンも家に置いてきたし、素っ裸なので今日は定期券はない。

 自動改札口の並びのパイプの柵を乗り越えた。

 改札口を通ると右手が上り方面ホームへの階段、真ん中にトイレ、左手は下り方面のホームだ。

 学校へは下り電車に乗って行くので、さほど混んではいない。

 座席もポツポツ空いてるのだが座る訳にはいかない。

 透明人間の俺の膝に誰かが座ったら大騒ぎになる。まして裸の俺の膝に女性が座ってしまえば、透明人間初の痴漢の烙印が押される。

 俺は車両と車両の間の連結のところに移動した。

 昨日は完全出席達成に意気込んでしまってよく眠れなかった。

 うかつにもこの大事な日に、車両の連結通路で、ドアにもたれてうとうとしてしまった。

 ここからでは外が見えない。今どの辺りを電車が走っているのか。

 俺は連結通路の扉を開け、乗ってきた車両に戻って、窓の外を見ようとした。

 想定外だった。いつもはガラガラの電車なのに、今は、小学生の低学年生でいっぱいになっていた。

 しかも教育なのかどうか座席は空いているのに、小学生は皆、立っていた。

 電車が駅に停車した。小学生のざわめきと、これが個性なのよ見せつけているような車掌のアナウンス。

 今どの駅に着いたのか判断できぬまま俺は少しかがんで、駅ホームの駅名の看板を見ようとした。

 右手でメガネのフレームを持ち上げようとしたが空振りした。

 俺は近視で、いつもはメガネをかけていた。だが今日は透明人間初日なので、裸眼の裸の裸足という出で立ちなのだ。

 この駅だ!俺は直感した。ホームの向こうの見慣れた景色がみえた。

 俺は透明人間という立場を忘れ、小学生をかき分け、降りまーす降りまーすと叫んで扉に向かった。

 キャーわーという小学生の悲鳴を背中に俺の上半身は電車の扉に挟まれた。一瞬、透明のお尻は小学生のいる車両に、上半身は車両の外へ出ていた。

 扉は一旦開き、また勢いをつけて閉まろうとした。

 俺はお尻側に反射的に戻り再度、扉に挟まれることから逃れた。
 
 先生何かぶつかりました。何か乗ってきましたと、小学生たちが口々に先生らしき女性に訴えたが、彼女の静かにしなさい!という一喝で車内は静けさを取り戻した。

 小学生にとって、透明人間に押されたことより、機嫌の悪い先生の方が恐いのだし、

引率の先生は、透明人間より世間様に生徒が迷惑をかけることの方が怖かったのだ。

 俺は次の停車駅で電車を降りた。乗車しようとした人にぶつかったが、気にしなかった。

 どうせ朝の出勤のサラリーマンは、透明人間にぶつかられるより、会社の遅刻の方が怖いのだ。
 次の駅で降りた。自動改札口の並びの柵を乗り越え、俺は改札を出た。  
 ひとつ駅を乗り越したのだが、電車では戻れなかった。上りの電車は超満員なのである。

 そんなところに透明人間が乗り込むと大変なことになる。満員の車両に変な空間ができる。

 空間があると、乗客は、その空間めがけて押し寄せてくる。砂漠で見つけたオアシスのように。

 俺が無遅刻無欠席なのには理由がある。俺は危機管理の固まりなのだ。

 通学途中でお腹が痛くなったら……。
 電車が遅延したら……。 

 だから俺は30分前に学校に着くように家を早くでる。

 電車が遅延しても、証明書をもらえば、記録上遅刻にはならない。でも俺はそれでは気がすまない。


 俺にとっての無遅刻無欠席は、理由を問わず、その時間にその場所にいるかどうかなのだ。 

 だから30分前に着くように家を出る。この電車がダメでも並行して走る私鉄や市バスがある。

 そして今日は、更に30分早く家を出ている。

 俺は歩いて一駅戻ることにした。

 足が痛かった。俺は裸足でいることを思い出した。

 駅前の放置自転車を探した。すぐ見つかった。放置自転車には貼り紙がしてある。何日間か警告の貼り紙を貼って、持ち主が移動していなければ、放置自転車置き場に移動される。

 歩道と車道は縁石で区切られており、高さ60センチメートルぐらいの柵が歩道に沿って設けられている。

 通勤通学のためと思われる200台ぐらいの自転車群がその柵にぶつけるように置かれている。

 20メートルごとに埋められている植樹には、自転車を置かないで下さいという看板が、むなしくぶら下げられていた。

 俺は放置自転車のうち、比較的動かし安い自転車を選んだ。

 動かしにくそうな自転車を選ぶと自転車が次々に横倒しになる可能性がある。

 通勤通学の自転車は、歩道の柵に絡めて施錠しているが、放置自転車……、おそらく盗難自転車は、乗り捨てなので鍵はかけられていない。

 線路と道路は東西に走り、南は海で海岸線に沿って公園が続き、北は、なだらかな上り坂が延々と続く。

 線路の南側は国道がはしり、俺のいる北側は、センターラインのない道路が線路に沿って走っている。

 透明人間の俺は意を決して自転車に乗り、ひとつ前の駅に向かって、走りだした。


 時間が分からなかった。

 立ちこぎをした。

 前傾姿勢をとり、お尻を高くあげ自転車をこいだ。

 俺は透明であるものの全裸なのだ。

 透明人間だからよいものの、あられもない格好なのだ。

 そう思うと笑えてきた。

 いろんな感情がわき起こり、大声で笑いながら自転車をこいだ。

 通行人は、立ち止まって口を開けて振り返った。

 彼らには、自転車が暴走しているとしか見えない。

 お構い無く大声で笑いながら自転車をこいだ。 
 
 少し肌寒かったが体が温まってきた。

 途中から商店街に入った。

 ほとんどの店のシャッターは閉まっていた。

 通勤通学で人通りが多かった。

 俺はチリンチリン鳴らしながら人たちの間をすり抜けた。

 怪しまれようが驚かれようがもうどうでもよくなっていた。

 空腹だった。

 思ったより透明人間は、運動量が多い。

 思ったより透明人間は、頭を使う。

 思ったより透明人間は、気を使う。

 思ったより……。

 商店街を抜けると俺の降りるべき駅が見えてきた。



俺は北出口からいつもの通学路に戻った。

 そしてなだらかな坂の途中にある高校に向かった。

 複数高校の生徒がそれぞれの学校へ向かっていた。

 雨がポツポツ降ってきた。嫌な予感がしてきた。

 俺は隣駅からの自転車の勢いを借りてなだらかな坂を上がった。

 足を見ると血がにじんだ足のうらが上から見えた。

 雨で濡れた腕を見ると、透明だったところが現れていた。



 ヤバいと感じた俺は、更に自転車を加速した。
 
 
 さすがに坂道の自転車は辛かった。

 俺は一旦駅に戻って自転車を駅の放置自転車群に置いてくることにした。

 放置自転車とはいえ、泥棒して無遅刻無欠席を達成しても意味がない。

 一駅移動したが、持ち主があらわれなければ、いずれ同じところへもっていかれる。

 かなり通学の学生が増えてきた。

 俺は下り坂を自転車で飛ばした。 

 その時衝撃が走り、俺はハンドルとサドルを結ぶフレームに裸の股間を強打し、ハンドルにこれまた裸の胸をしこたま強打した。

 「よしっ!捕まえた」
 
「この自転車、坂道を登って行ったかとおもうと今度は降りてきた」

 学生が自転車の荷台を捕まえていた。

 俺は激痛で自転車から転げ落ちて歩道の横の壁にもたれた。

 学生は、駅前の歩道に並べて駐輪しているスペースの方向へ自転車をおして行った。

 雨が降っている。壁にもたれている俺の雨に濡れている部分と血がにじんでいる部分がなんとなく形が見えてきた。

 半透明化している!?

 ヤバい。俺は痛みをこらえて立ち上がり、雨に濡れている体を両手でぬぐった。

 今一度俺は、緩やかな坂道をかけだした。


  
 足がガクガクする。
 
 太ももが重い。

 膝が痛い。

 足のうらがヒリヒリする。

 俺は走り出した。

 学校まで、緩やかな登り坂をいっきにかけあがろうと思った。

 時間が分からない。

 通学の学生の数からいって、俺が毎日通学する時間より遅いかもしれない。

 よーし、いくぞー!!

 俺は、なだらかな坂を走り出した。

 おはよー!!

 俺は次々通学の学生に声をかけた。

 彼らは目を丸くしてあたりを見回した。

 そうだ。

 身体が透明人間になったいじょう、性格まで透明人間では、本当の空気みたいになっちまう。せめて俺の方から挨拶していこう。

 俺は、なだらかな坂を更にスピードを上げて走り出した。

 
 今まで俺の方から挨拶はしなかった。

 下を向いて知らぬ不利をして通学していた。

 途中でクラスメイトに会っても教室までが気まずかった。

 シーンとしたまま教室まで歩いていた。

 彼らは、俺に話しかけてきた。だが、例えば昨夜のドラマの話。だから何だって思えて余計無口になっていく。

 ヤバい!腹が痛い!

 まだ駅の方が近い。

 ダメだ。足のうらがもたない。

 民家に入ろう。

 透明人間だから、垂れ流してもよさそうなものだが、お尻だけ、いや肛門だけ不透明になって、便だけ現れても気持ち悪い。

 門が閉まっている家は止め。

 庭がある家は止め。

 車庫のある家は止め。

 豪華な家は、鍵が開いていない上に、防犯カメラがある確率が高い。

 俺は同級生の筒美の家に向かった。

 筒美の家は、駅と坂道の中間あたりの私道奥にある。

 筒美の家に着くと、筒美が玄関で立っている。隣にいるお母さんに、行って来まーーす!!と言って家を出るところだった。

 筒美のお母さんは、そのまま家の前の植え木鉢に水をあげ始めた。

 透明だから、堂々と入れば良いのだが、俺は腰をかがめ、キョロキョロ周りを伺いながら家に入って行った。

 玄関を入り、土間から廊下に上がり、左は壁、右は和室二部屋を経て、突き当たりがトイレ、廊下はトイレの前から右に曲がり、お風呂とキッチンがならんでいる。
 
 俺は一直線にトイレに向かい用を足した。 

 次にシャワーを浴びた。

 身体が冷えきっていたので一息ついた。

 シャワーを浴びると温水で身体の輪郭が見えた。

 身体のあちこちがヒリヒリした。

 裸でいると、知らぬ間に、あちこちで傷がついているのだなと思った。

 服は、偉大だー!!と心の中で叫んだ。

 いや、心の中で喋るから、透明人間だといわれるのだ。

 俺は、声を出して、
「服は、偉大だー」と言った。

 蚊の鳴くような声だった。

 ダメだ。人に聞こえるように意思表示をしなくては。

 深呼吸をして、息を大きく吸い込んだ。


 「俺はーー!!透明人間なんかじゃないーー!!」

 「服はーー、い⋅だ⋅い⋅だぁーーーー!!」 


 叫ぶと、眠気がふきとんだ。
 
 風呂場から出ると廊下には俺の血の滲んだ足跡がてんてんと残されていた。

 俺は風呂場に戻り、雑巾を探した。

 そうだ。俺の完全出席を達成するために飛ぶ鳥跡を汚してはいけない。

 自転車も帰りに元の駅に戻しておこう。

 廊下の真ん中あたりに固定電話が置いてあり、電話台の上にメモ帳とボールペンが置いてあった。

 飛ぶ鳥は跡を汚してはいけない。飛ぶ鳥は……。

 俺は独り言をいいながら、ペンをとった。

 <<おばさんこんにちわ大西敦です。
筒美君とクラスメイトです。
 トイレと風呂を借りました。
 ありがとうございました。いつかまた恩返しします。>>

 電話台の向こうの軒下に洗濯物が干してあり、筒美君の物らしい靴下を一足とった。

 <<それから靴下も借りました。今度、新しいの買ってきます。>>

足のうらが切り傷でヒリヒリしていた。
 
 ひどく喉が渇いていたので風呂場の横にある洗面所で、水道水をたらふく飲んだ。


 喉を潤し、一息ついた俺は、ヨシッと気合いを入れて玄関を飛び出した。

 門の塀際にある鉢植えに水をやっている筒美君のお母さんに、ありがとう!!と大声で挨拶して、学校へ向かった。

 振り返らなかった。おそらく筒美君のお母さんは、キョロキョロしたに違いない。

 さっきクラスメートの筒美くんが、玄関を出た。逆算すると始業時間まで、あと10分ぐらいのはずだった。

 俺は、走るスピードをあげた。