きっかけなんてものは、単なる偶然で。

中2だった私は年子の妹の梨由が出ている大会をたまたま観に行って、次のレースをぼんやりと眺めていた、それだけ。


“続いてのレースは、男子100m走です”


よく通るアナウンスの人の声に導かれるようにふとスタート位置を見ると、何人もの選手がスタートの準備をしていて。

けれど、その中で私の目を引いたのは1人だけだった。


“On your mark”

トラックに一礼して、選手がクラウチングスタートの体勢をとる。

その動作でさえ緩みがなくて綺麗で。
私は彼の一挙手一投足に完全に惹き込まれていた。

“set”

パン! とピストルの音が鳴り、とんでもなく加速していく。

知らなかった。陸上がこんなにも感動する競技だったなんて。

彼らが、彼がゴールするとき、私の目からは音もなく涙がこぼれた。


心臓がばくばくする。
こんなの、変だ。

でも、もっと知りたいと思った。
梨由が、なんて理由じゃなくて、私自身が知りたいと思った。


この競技を。あわよくば、あの人を。


私も、もっと……。
あれから2年後、4月。


私はついに、待ち焦がれた高校生になった。

中学ではセーラー服だった制服も今日からはブレザーだ。

あの時。
完全に陸上に魅せられてしまった私は、梨由に聞いたり自分で調べたりしながら中学の陸上部のマネージャーになった。

単純明快でもバカでもなんだっていい。
ほんとに、宝物みたいにキラキラした日々。

今の私には、その思い出が多分いちばん大切だ。


けれど、あの時のあの人は今でも見つけられていない。

彼らが走るのを見るのが楽しかった私は、自分で走ることはしなかった。
今ではそれもよかったな、なんて思っている。


「おい、ゆーら。お前またトリップしてんの?」

「んな、トリップなんてしてない!湊こそ私たちはまた最下級生なんだから態度改めなよ!」

不意に後ろから現れてニヤニヤしながら声をかけてきたのは、紛れもなく腐れ縁の吉川 湊 (きっかわ みなと) だった。

奴も陸上をやっていて、中長距離のくせにとんでもなく速い。バカでどこか変だけど、やっぱりいい奴だ。

私たちは地元に近くて陸上が強いところを選んでここにきた。
つまり、そういうこと。


「また3年間よろしく、ゆら」

湊が手を差し出すから、私も同じように手を出した。

「仕方ないから支えてあげますよ、湊さん?」

調子乗るな、偉そうにすんなと空いている方の手で軽くチョップを食らってしまったけれど。

.

「菊名と吉川じゃ前後不回避だよなあ…。」

何気なくぽろっとこぼしたひと言は、がっつり湊に拾われた。
ぐるんと振り返って貼り付けたような笑顔。

間違いない、怒らせた。

なにかご不満ですか?とでも言いたげな笑顔に、わたしは急いで愛想笑いする。

「嬉しい!そう、嬉しいなーって!湊くんと一緒でたまらなく嬉しいです!うん!」

ガッチガチに固めた笑顔にばっちりデコピンをかましてくれた湊は、貼り付けの笑顔のままで。

「次はないからな?」

そう言って前に向き直った。

実は、湊は端的に言って顔が良い。
こんな語彙力のない言葉、聞かれたらまたデコピン確実だけど。

それでいて運動神経も良くて、男ウケも性格もよしと来れば1週間もすれば人気者になってしまうんだろうな。


…だからって言って、どうってことじゃないけど。

そう、自分に言い聞かせた。
湊が離れていくのを寂しく感じるのは、お兄ちゃんに彼女ができたような感覚そのものだと思う。

.

そんな中。


「ね、もしかして菊名ゆらさん?」

急に名前を呼ばれた私は条件反射で隣を向いた。
そこにはショートカットで小麦色の肌をした、快活そうな女の子が立っていて。

驚きですぐに喋れなくてこくりと頷くと、彼女は ぱぁっと顔を華やがせた。

もともと顔立ちが良い彼女は、笑ってもやっぱり可愛かった。

「あのっ、私、上月千歳 (かみづき ちとせ) って言います!菊名さん、南中でマネージャーやってたよね?
その頃からお友達になりたかったの…!うれしい…!」