「あれ? 女の子連れて来るなんて天変地異だな。冗談抜きでさ。おい、説明しろ」
彼女は俺を見上げニヤリとした。
「今日からこの子と同居することにしたから」
さして説明するでもなく、結論から先に言った。マスターならわかってくれるはずだ。案の定すんなり受け入れた表情だ。彼女を気に入った様子で、もう彼の得意なきつい冗談の餌食になっている。
「クロちゃんは大学時代から女泣かせでね。君で何人目だと思う? 両手両足の指でも足りないくらいさ」
森田秋子は笑っている。
「おい、今までの女の子と違うぞ」
とマスターは俺に耳打ちした。流石マスター、分かってらっしゃる。
「何が良い?」
和紙に手書きのメニューを彼女に渡した。だが彼女はそれを見ずに傍らに立つマスターを見上げて言った。
「マスター、お勧めは何でしょうか。ボリュームたっぷりですこぶる美味しいの」
「お言葉ですがお嬢様、当店のメニューは全てボリュームたっぷりですこぶるつきの美味でございます」
冗談ぽくかしこまってマスターが言う。高級レストランのウェイターが片手にナプキンを掛けているのを真似てエプロンの下に手を通しながら。
「イコール全てボリュームほどほどの味そこそこだろ?」
「いやあ、きついこと言うねえ、シェフが泣くよ、クロちゃん」
そう言うと両腕を左右に広げてワッハッハッハと笑い、俺の肩をバシッとぶった。
「外国人みたいな人ね」
彼女は後でマスターのことをそう評した。
「俺はいつもシュリンプサンドとオレンジジュースを頼んでるよ。それにする?」
「うん、それにする」
「マスター、シュリンプサンドとオレンジジュース、速攻で持って来て。2人とも空腹と疲れでフラフラなんだ」
「OK。高木君、聞こえたかい?」
キッチンに居るシェフにマスターが声をかけると、はいよと応える野太い声がした。マスターの奥さんの弟だ。速攻という程でもないが、まあまあ早目に来たサンドイッチを頬張り、2人は暫く無言で居た。
「俺たちさ」
2切れ目に手を伸ばした時俺は口を開いた。彼女はオレンジジュースのグラスを持ち上げたところだった。
「俺たち、不思議と家族の事話さないね」
彼女はグラスを持ったまま首を傾げて笑った。
「どうして突然そんなこと」
「だってさ、引っ越すとなったら連絡するもんだろ」
「するわよ、落ち着いたら」
「そうか」
「黒瀬さんこそ私を部屋に連れ込んで平気なのかしら?」
そう言って彼女は軽く俺を睨んだ。
「俺は平気さ。末っ子だし家は一番上の兄貴が継いで安泰だし、俺は俺で1人で稼いでるし、ここ2、3年電話も手紙も無いよ」
「結婚の話とかは?」
「末っ子だからね、関心無いみたいだ」
「そうなんだ」
「女ってさ、もっと家と接してるもんじゃないか? 何かある度に電話したり、手紙書いたりしてさ。夏休みは実家に帰ったりすんじゃないの? なのに君は家族の匂いが全くしない。どうしてだろう」
「うーん」
と言って彼女は口に手を当てた。悪い事を訊いたかなと思ったが、ここで話を逸らすと後々まで家族の事を口にするのがタブーになりそうなので、ためらわずに追及することにした。
「たまたま音沙汰無いだけだけど・・・どっちかって言うと複雑かなー」
「どんな風に?」
「私は気にしないのだけど、これを話すとみんな変に気を遣って家族のことに触れなくなるの」
そう前置きして話し慣れたことを話すように躊躇無く話し始めた。
「早い話が今の両親は私の本当の父と母ではないの。本当の両親が離婚して、父が再婚した。その父が事故で死んで継母が再婚した」
箇条書きの文章を読み上げるようだ。
「兄弟は?」
俺は部下の履歴を深く探らない。偏見を持ちたくないからだ。共通点を探すとしたら出身地と最終学歴くらいだが、それはいずれ分かることだ。
「兄が2人居るけど2人とも本当の兄ではないわ。30の方は継父の連れ子、25の方は継母の連れ子」
「君んちは他人だらけだ」
「そういうこと。本当の妹も居るのよ」
「どこに?」
「本当の母と一緒に横浜の母の実家に居るわ」
「森田ってのは本当の姓?」
「うん。森田の姓の中で人が出たり入ったりしてるの。面白いでしょう」
「ご実家は?」
「本当の父が内科医で、その病院をそのまま継ぐ形で継父が婿養子に入ったの。だから大変なの」
「何が?」
「財産争い」
「え?」
「上の兄は自立して家を出たから問題は無いの」
「下のお兄さんに何か問題あり?」
「そうなの。彼は私と結婚したがってるの」
「まさか。出来るんだっけ?」
「戸籍上は兄妹でも血は繋がってないから、可能にする方法があるんですって」
「今何やってんの?」
「医者よ」
「じゃ、病院を継いでるんだ」
「そのうちね。今は大学病院に居る。結構ハンサムだし性格良いんだけど、マザコンなんだな、これが。生理的に苦手なタイプ」
「君の同棲のことは知ってるのかな」
「どうでしょう…」
「俺と君の兄貴、どっちが勝つかな」
「比較にならないわよ」
「どうしてさ」
彼女は可笑しそうに笑った。俺も笑った。
「みんなこの話をすると、辛い事話させてごめんねって言うのよ」
「だって君自身が気にしないって言うから」
2人が笑っているところにオレンジジュースの入ったピッチャーを持ってマスターがやって来た。ここは飲み物がお代わり自由だ。但しサンドイッチを頼んだ場合。
「おニ人さん、熱心に何を話してるんだね」
サンドイッチは無くなった。俺は物足りなくて今度はハムサンドを頼もうかと思っていた。すると彼女が、もっと食べたいと言った。マスターは、痩せの大食いだと言って笑った。ハムサンドを一人前オーダーして足りなかったらまた追加することにした。彼女のグラスにオレンジジュースを満たしてから、オーダーを告げに行ったマスターは、戻って来ると今度は俺のグラスにオレンジジュースを満たした。
「共同生活のルールは決まったかな?」
とマスターは言い彼女を見た。彼女は何も言わず柔らかな笑みを返していた。マスターは彼女から何か答えがあるのを期待して尋ねたのではない。そうやってコミュニケーションを図ろうとしているのだ。それが証拠にマスターはすぐに言葉を続けた。
「なかなか難しいだろ。割り切れることの方が少ないからね。ま、喧嘩しつつ建設的にやっていくことだ」
マスターはこの手の話を決して茶化さない。平和で堅実な生活の基に積み重ねられた経験から出る彼の言葉は人の気持ちを惹きつける。
奇抜で過激な出会いの日から2ヶ月半、俺たち2人は同居を始めた。簡単で急激な同居。一緒に暮らしているからと言って、熱烈に愛し合っているわけではないし、そうでなければならないという義務はない。2人が男と女であるというだけで、生活のためのルールは同性同士のそれと何の違いも無い。肉体関係は有るが、夫婦や恋人たちのものとはやはり違う。お互いを求めはする。少なくとも俺は彼女が欲しい。
「ここで食べる食費は折半ということで良いかしら」
2人の間ではっきりとさせておかなければならない生活のルールの中に、一番細かくて出来れば触れずに通り過ぎたいことがある。金のことだ。だが彼女は部屋代に始まって新聞代に至るまで、実にはっきりルールづけした。男が働いて稼いだ金で女が家計を遣り繰りするのとは明らかに違うのだからと。
「部屋代と新聞代は毎月一定だから、前以ってお支払いするとして、光熱費は口座引き落としの領収証が届いた時点で半額お支払いします。食費は月末に使った分を合計して半分にすれば良いでしょう? 日用品なんかも忘れずにレシート貰ってね」
きっと今までもそうして来たんだろうな。彼女みたいなのを奥さんにしたら、しっかり者で遣り繰り上手で良いかもしれないが、浮気のためのへそくりも出来ないだろうな。或いは、
「あら、外食したり呑んだりするのはあなたのお財布なんだから、どうぞご勝手に」
と言うだろうか。
俺はレシートや領収証を保管していたことが無い。これからは貰わないといけないな。忘れることの方が多そうだ。
金の事はひとまずそれで良しとして、今迄の俺の生活がどれだけ彼女に影響を受け変わってしまうかが大きな懸念材料だ。彼女のペースに巻き込まれるのは不本意だが、予想に難くない。寝ている間に朝食がセットされ、お早うのキスでお目覚めというのは望んではいけない。
「お目覚めの音楽もトーストもコーヒーも今迄通りで良いと思う。でも私は違う曲で目覚めたい時もあるし、トーストとコーヒーだ けじゃなくハムエッグとヨーグルトを加えたい時もあるわ」
「ご相伴したいね」
「では、コーヒーとトースト以外は私が担当ね」
「大賛成」
マンデリンを2杯分、6枚切を2枚、俺は毎晩仕込む係だ。
「明日の朝はボブジェームスにしたいな」
「いいや、明日は日曜日だから目覚ましはいらないんだ」
「目が覚めた時に起きるってわけね?」
「そういうこと」
「掃除や洗濯、目が覚めたら適当に始めちゃって良いかしら」
「任せる」
その時ベッドルームで彼女の電話がキリキリとなった。電話のベルの2回分、俺の顔を凝視すると、彼女は一大決心したように「えい」とでも声に出しそうな勢いでソファから立ち上がった。5回目が鳴り終わった時彼女は受話器を取った。
「はい、森田です」
会社の電話を受ける時とまるで同じ調子だ。少ししょげたような、しかし、きっぱりとした意志を持った口調。相手の声は当然のことだが聞こえない。
「・・・クロゼットルームに居たの・・・友達のところ・・・そうね、悪かったわ・・・今そんなこと言ってもしょうがないでしょ。傍に人が居るんじゃないの?・・・わかってる・・・うん、残業はしない・・・じゃ」
いつものように短い会話だ。受話器を置いてゆっくりこっちに戻って来た。
「何故すぐ電話に出なかった、ですって。5回しか鳴らしてないわよね、全く」
「青森から?」
「うん。私が家に帰ってるか確かめるためだわね。彼は代々木上原にかけてると思ってる」
「予定通り帰って来るって?」
「そうみたい。火曜日に青山まで迎えに来るって」
「その時にはもう君が上原のマンションに居ないことがわかってしまうんだろ?」
「そうね」
「大丈夫か」
「多分」
俺が尚も何か言おうとするのを遮るように、彼女は買い物に行きましょうと言った。
「車で紀ノ国屋に連れてって」
夕方は道が混んでいるが急ぐわけではないし、駐車場がいっぱいでも待てないわけじゃない。のんびりと少しリッチになった気分でショッピングとシャレよう。
紀ノ国屋の一番大きな紙袋を3つ抱えてエスカレーターを下りた。タワーパーキングから車を出すと、ポーターがトランクに袋を積み込んでくれた。少し気取ってどうもありがとうと言うと、彼女は優雅に車に乗り込んだ。俺も気取ってポーターに向かって手を上げ、ゆっくり青山通りに出た。
「リッチな気分」
1個だけ取り出したミルキーウェイをかじりながら彼女は言った。
冷蔵庫がいっぱいになった。
「収納棚が必要ね」
ワゴンに入り切らない物は紙袋に入れたままにして、明日彼女のワードローブをしまい込むチェストとキッチンの収納家具を買いに行くことにしよう。
こんなに盛大に食糧を買い込んだのに、彼女は外で食べたいと言った。俺も同感だ。彼女が作りたくないなら俺だって同じさ。
次の日ぐずぐずと雨の降る中車で渋谷へ出た。ハンズの駐車場に車を入れ、ハンズと西武を見、丸井で決め、現金で払い、車を廻すからと搬入口まで下ろしてもらった。
「現金客にとって丸井は高いわね」
組み立て式の家具なので梱包された状態で後部座席に納まった。部屋に着くとプラスのドライバーを片手に彼女は自分のチェストを、俺はキッチン用のストッカーを組み立てた。30分ほどでチェストを組み立て終えた彼女は、段ボール箱に詰まった自分の服を畳み直しながらチェストに納めた。俺は紙袋の食糧をストッカーに適当に詰め込んだ。彼女が後でゆっくり整理整頓するだろう。
「私の荷物のせいでベッドルームが狭くなっちゃった」
「そんなこと、ベッドが狭くなったことに比べたら大したことじゃないさ」
彼女は笑った。
「私、ベッドが狭いのは慣れてるわ」
と言った。俺だってこのベッドが2人で寝るには狭いことぐらいとうの昔に分かっていたさ。
部屋はきっちりと片付いて、俺たち2人は完全にこの部屋での共同生活のスタートラインに立った。いつまで続くかわからない。彼女は俺の知らない間に新しい部屋を探すかもしれない。代々木上原に帰ってしまうかもしれない。新しい男の部屋へ去ってしまうかもしれない。俺だって彼女に出て行けと言わないとは限らない。何もかもが俺たち2人の間で不安定だ。そして2人ともそのままで良いと思っている。こんな中途半端な関係でいることによって起こる不安感を2人で共有することを楽しんでいる。
夜になるまでには俺も彼女もそれぞれの生活のペースを取り戻しつつあった。俺は毎日曜日そうするように洗濯をし、彼女はソファーでペイパーバックを読んだ。BGMには彼女が俺のライブラリーからピックアップしたハービーのピアノソロが流れている。今のところ彼女の存在が俺の流れを乱してはいない。それが意識的なものなのか無意識なのかは分からない。以前暮らしていた男のために同じようにしていたのだろう。「彼の思考の邪魔をしなければ存在しても良かった」と言っていたのを思い出した。心がチクリとした。
「目覚ましの音楽のリクエストは?」
「今のままで良いわ」
ペイパーバックから目を離さずに彼女は言った。俺のワイシャツを着ている。脚を組んでいる。乱れた髪がゾクゾクするほど艶っぽい。
「朝食は?」
「As usual」
「OK」
いつもするように朝食のタイマーをしかけ、俺はシャワーを浴びるためにバスルームへ向かった。すると彼女はペイパーバックをテーブルの上に置き、俺に向かって歩いて来た。歩きながらシャツのボタンを外し、俺に追い付くと、
「私も一緒に浴びる」
と言って背中に抱き付いた。彼女がそんな風にすると俺はノーとは言えない。計算されたような色香に負けてしまう。これは彼女の才能だ。
彼女は俺の首に腕を回し背伸びをした。俺は体を屈めて彼女にキスをした。髪に、顔に、肩に、シャワーの湯が流れ、2人は体を寄せ合ったまま暫くキスを楽しんでいた。
「あなたが好きよ、今は」
少し唇を離して彼女は言った。そうしてまた元に戻す。彼女の腰に回した俺の腕は少しずつずれて、彼女の尻や背中を撫でている。その手の一方を彼女は取って、今迄何人の男が迷い込んで行ったかしれない深い森の中へ導いた。彼女の中に入ると、悔しいが堰き止めようの無い絶頂感が急激に俺を襲う。もう抜け出せない。彼女を手放したくない。ああ、こうやって何人の男を惑わせたんだ、君は。
次の朝いつも通り目を覚ますと、隣りに彼女は居なかった。
「アキ」
と呼ぶと、なあにとキッチンから声がした。キッチンとベッドルームを仕切る引き戸が開いて彼女が顔を覗かせた。
「何してんの?」
「朝食の用意」
「それは済まないね」
「約束だもの」
ここまで来てキスしてくれたら最高なんだけどな。
トースト、コーヒー、茹で卵、キャベツとツナのサラダ、何ともヘルシーな朝食だ。機内食用のトレイに用意されたその朝食を2人してベッドに並んで座って食べた。ハッピーだな。
「一緒に電車で行けないわね」
なかなか冷めないコーヒーをアチアチ言いながら1口飲み彼女は言う。俺のワイシャツの袖が長いので幾重にも折り返している。俺はカリカリに焼いたトーストで口の中が少し痛くて辟易しながら食べている。
「若杉が詮索するだろうな」
彼女はふふふと笑った。
「私、自転車で行くわ」
「え?」
「駐車場に自転車が置いてあるでしょう?」
「あるけど、俺のはミニサイクルじゃないよ」
ドロップハンドルのスポーツ車だ。ブレーキレバーはギドネットだから良いとしても、サドルは細いしペダルにはトウクリップが付いている。何より彼女には大き過ぎる。ピラーを下げても足が地面に届くがどうか。
「危ないよ」
「平気よ。代々木上原に居た時だって自転車で青山まで行ったことあるのよ」
「それはミニサイクルだろ?」
「お願い。一度で良いから乗ってみたいの。無理だと分かったらもう乗らないから」
甘えん坊の猫のように顎を俺の肩に乗せる。裸の背中に彼女の髪がくすぐったい。こんな風にされると弱い。すぐそこにある彼女の唇にキスをする。仕方ないなあと言いながら、食後、地下の駐車場へ行った。車のトランクから工具箱を取り出し、5㎜の六角レンチを探し出す。スタンドが無いので壁に立て掛けてある自転車からカバーを外し、トランクに入れた。暫く手入れをしていないので、白いフレームがくすんでいる。サドルをいっぱいまで下げ、ブレーキの利きとギアチェンジをチェックした。ペダルのトウクリップを外そうか外すまいか迷った末、付いていた方が安全だという結論に至った。
部屋に戻ると彼女は着替えを済ませていた。ライトベージュのチノパンツに黒いタンクトップ、腰にパイルのパーカーを結んでいる。
「サコッシュ貸そうか?」
「なあにそれ?」
「ポシェットの大きい奴」
「んー、要らないわ。ウエストバッグがあるから」
食器を洗い終えると、髪をバンダナで無造作に束ね、彼女はスニーカーを箱から出した。
「テニスシューズ?」
「そう」
「もったいないよ」
「何故?」
「ペダルのトウクリップで靴先が傷むと思う」
「構わないわ。そんなに大事にしてないし、テニス用なら靴底に厚みがあって足が地面に着きやすいでしょう?」
なるほど、納得。
「俺は車で行くよ」
「どうして?」
「行きだけで君がバテてしまった場合、帰りに君と自転車を積んで帰らなきゃいけない」
「ひどいわ」
絶対大丈夫よ、私、体力あるんだからと豪語して、彼女は俺の背中をぶった。
ダイヤモンドに跨ってどうにかペダルは踏めるが体を傾けないと足が地面に着かない。
「信号でちゃんと止まれよ」
「もちろんよ。幼稚園児じゃあるまいし」
「歩道の縁石に足を掛けると良い」
「Yes, sir」
ウエストバッグを腰に回して彼女は出発した。ペダルを踏みながら体が左右に揺れないのが救いだ。結構脚が長いんだな。
彼女を送り出してからパンツの裾を止めるピンを渡せば良かった、と後悔した。右の裾はフロントギアに触れるためひどく汚れるのだ。あの汚れはなかなか落ちない。トウクリップにつま先を入れるために苦労しているだろう彼女の姿を思い浮かべ、悪いことをしたなと思った。ピンをトラウザーのポケットに入れた。
BVDのTシャツの上にJプレスのボタンダウン。袖を二折りする。相変わらず半袖は嫌いだ。夏物の白っぽいネクタイ、シルバーグレイの麻混トラウザー。そろそろ夏が終わりなのだ。9月、残暑の季節だ。下旬には涼しくなるだろうか。10月が近付くと雨だ。この雨が俺は好きだ。梅雨の雨ではいけない。やはり雨はじとじとではなくしとしとと涼しく降らなくてはいけない。雨冠に秋という漢字はあったっけ? シュウウという言葉はあるが意味が違う。さしづめ俺と彼女の出会いは驟雨の如くと言うところだな。
8時だ。もうそろそろ出よう。どんなに道が混んでいても30分はかかるまいが、用心に越したことは無い。246は10分前後しても交通状態が変わる。渋滞は避けたい。
トランクに載せた自転車カバーを裏返した。排気ガスで少し汚れている。次回洗車する時これも一緒に洗おう。ワイシャツの胸ポケットに免許証を入れたことを感触だけで確認し、いざ出発。車をどこに置こうか。青山ビルのパーキングは高い。路上駐車は持ってかれる危険が高い。やっぱり外苑だな。1日置いても500円。
月曜日にしてはスムーズに車は流れた。タイミングが良かったのだろう。いつもより15分早く着いたが誰も気にする様子は無かった。彼女は丁度ロッカールームから出て来たところだった。少し紅潮した顔をしているのは、自転車をせっせと漕いで来たせいだろう。
席に着くと俺たちは他人の顔をしている。俺は時々つい上司と部下の顔を忘れて話しかけてしまうのだが、彼女の部屋に居る時とは違う顔を見て、おっといけないと思うのだ。女は誰でもそうだと思うが彼女も演技が上手い。これが夕べ俺が抱いた女かと思わずみつめてしまったりする。そんな時彼女は例の挑戦的な視線を俺にぶつける。
家でも会社でも彼女の電話が鳴る度に俺はドキリとする。今日はまだ奴は青森に居る。明日、明日が勝負の日だ。勤務中の外線は容赦無く交換で弾かれるのだから気にすることは無いのだが、彼女は一呼吸置いてから受話器を取る。当然社内の連絡、或いはプログラムテストの結果報告だ。それしか掛からない。奴は昼休みを狙って掛けて来るはずだ。
そして昼休み、若杉を含む何人かが締切間近のプログラムをキーボードに叩き込んでいるのを残して、チームの半数が社員食堂へ向かおうとした時、彼女の電話が鳴り出した。ドアの手前で彼女は立ち止まり、振り返った。俺と目が合った。彼女が電話に辿り着く前に若杉が受けていた。プログラムテストの結果報告なら二言三言で終わるし、伝言で済むのだが、若杉は受話器を彼女に差し出した。
「オトコだよ」
妙にいやらしく「オトコ」という言葉を吐き捨てて若杉が言う。彼女はにこやかに受話器を受け取った。ずっと見ているわけには行かず、俺は一番最後に部屋を出た。
それほど長くかからず彼女は食堂に現れ、カレーライスを手に少し離れた席に座った。傍にセクションスリーの連中が居る。遅かったねどうしたの、うん電話が掛かって来たの、という会話が切れ切れに聞こえた。至極普通である。どういう類の電話だったのか彼女の表情からは読み取れない。まあ良い、夜に聞けば良いさ。
彼女の隣にはセクションスリーのチーフ、遠藤が居る。31歳、妻1人子1人、浮いた噂は聞かないが、精悍なマスクで女たちに人気がある。社内で1人や2人泣いた女が居ても不思議は無い。その遠藤が森田秋子に話しかけている。彼女の表情は柔らかい。色っぽくさえある。他の女どもの目が心なしか険しいが、それを跳ね返すように柔らかく微笑んでいる。妬ける。
悔しいことにこの2人、アフター5の約束をしたらしい。彼女は昼休みの後、自転車をトランクに積んで帰ってと耳打ちして来た。そおれ見たことか、自転車を使ったのは行きだけじゃないか。おい、飲みに行く格好じゃねぇだろうが。
俺は部屋でやきもきと彼女の帰りを待っていた。もう1時を過ぎている。電車は無い。2人してどこをうろついているんだ。一体2人の間に何の話題があると言うんだ。チェッつまらねぇ、寝てしまおうとベッドへ行きかけると俺の電話が鳴った。
「はい」
「あ、私、秋子です」
酔っている。呼吸が大きく声が上ずっている。ちっきしょー。
「どうした」
「寝てた?」
「うん」
嘘だ。
「今渋谷なの」
「それで?」
「意地悪ね、遠藤さんと飲んでたの」
「分かってるよ」
「お願い、迎えに来て。電車無くなっちゃった」
「俺、飲んじゃったよ」
これも嘘だ。こんなこともあろうかと飲まずに連絡を待っていた。さっきまで電話があったらすぐ行ってやろうと思っていたが、彼女のウキウキした声を聞いた途端、そんな優しい気持ちが吹っ飛んだ。
「歩いてもそんなに遠くないだろ」
彼女は無言だ。大人気ない話だが単純に妬いている。遠藤と2人でというのが兎に角気に入らない。大したことではないし腹を立てるなどもっての他なのだが、もうここまで彼女に冷たくしてしまって、俺は引っ込みが付かなくなってしまっていた。最初に、今どこだ迎えに行くぞと言ってしまえば良かったものを。
「タクシーを拾えば良い」
何も言わずに彼女は電話を切った。
自己嫌悪。何てこった。遠藤と2人でどこかに泊まるつもりか。参ったな。彼女の思い切りの良さに俺はいつも振り回される。クソ、遠藤の奴。嫉妬の虫が疼く。
次の朝彼女は始発で帰って来た。眠い目をこすっている。俺はベッドに居て目が覚めていたが気付かぬふりをした。何だかんだ言いながら独りで良く眠れた。彼女はソファの上に脱いだ服を置き裸になるとバスルームへ向かった。遠藤のブラバスの匂いを消すつもりかよ。
バスルームから出て来た彼女を俺は上半身を起こして見ていた。彼女はいつもと変わらぬ様子で俺を見ると、
「起こしちゃった? ごめんなさい」
と言った。言いたくない、言いたくないけど言わずにおけない、言ってしまおう。
「どこに泊まったんだ」
「ホテルよ」
「遠藤とか」
「まさか、彼は家に帰ったわ。当然でしょ。奥さんが居るんだから」
「妻子持ちは相手にしないんだ」
「そう、私のモラルよ」
「金は?」
彼女は余分な金を持ち歩かない。
「遠藤さんに借りました」
「寝たんだろう」
「だから、妻子持ちは相手にしないって言ってるでしょう」
ベッドサイドのチェストにバスローブを羽織った彼女がもたれている。
「ストップ、そこまでよ。これ以上は話す必要無し」
冷たくそう言うとバスローブに体の水気を吸わせ、それを脱いでハンガーに掛けた。
「昨日昼休みに掛かって来た電話は?」
「嘗ての同居人から」
「何だって?」
「今日の打ち合わせ」
「どこで会う?」
「ちょっと待って。これ以上の質問は詮索されてるようでとってもイヤな気分」
わかってるよ、もうやめるよ。そうやって臆面も無く俺の前に裸で立って、まるで娼婦のようだ。君の裸に対する免疫がまだできてないんだぜ。ああ、君を無理矢理ベッドに押し倒してしまいたい。
「少し早いけど朝食を作るわ」
鮮やかなブルーのショーツを履き、長目のTシャツに腕を通すとその上にイクシーズの黄色いエプロンをした。キッチンから引き戸越しに彼女の声がする。
「黒瀬さんて変な人ですね」
「なんだよ、それ」
「色んな女知ってるくせに」
「それがどうした」
「別に」
色んな女を知ってはいるが君みたいな女は居なかった、と素直に言えない。気楽な同居生活が始まったはずなのに、やっぱり彼女を俺の物にしたい。久しく抱くことのなかった独占欲が今俺の中にある。
朝食はいつもの通りベッドで摂った。彼女は何も言わない。俺ももう何も言わない。怒っているのでも拗ねているのでもない。彼女は静かな女だ。ただそれだけだ。意識的に俺を無視しているのではないと信じたい。彼女がここを出て行くことを俺は恐れている。だからこの沈黙は気になるがこのままにしておかなくてはいけない。彼女が静かでいてくれて助かるよ。
席に着くや否や彼女の電話が鳴った。10分遅ければ交換で弾かれる。この辺の周到なタイミングがあの人のイヤなところなのよと前に彼女が言っていた。それを思い出しているかどうかは知らないが、ちらりと俺を見、いいや、正確には俺の机の上に目をやり、静かに受話器を耳に当てた。
「はい、森田です」
交換が外線を告げ、電話が切り換わったらしく彼女の声の調子が変わった。
「そう・・・そうよ・・・金曜日に・・・言えない・・・今はダメ・・・わかった、約束通りに」
いつも思うが本当に彼らの電話は手短かだ。素っ気無いくらいだ。今の俺にはその素っ気無さが彼女の心が奴から離れている証に見えて救われる。
電話の後彼女は、自転車を車に積んで帰ってお願い、とジェスチュアで示した。そう彼女は凝りもせず今日も自転車で来たのだ。そして今日も俺は自転車を積んで帰る羽目になったわけだ。おい、今日も帰らないなんて言うなよな。
引き出しから業務用の茶封筒を出すと、彼女はそれに1万円を滑り込ませた。椅子を回して立ち上がり、ツカツカとファイリングキャビネットの向こうへと消えた。遠藤に金を返しに行ったのだ。10分20分と経っても戻って来ない。キャビネットの隙間から何気なく向こうを覗こうとしたが見えるはずなどない。セクションツーとセクションスリーの間にも同じようにキャビネットが立ち並んでいるのだから。セクションツーの誰も居ない机が見えただけだった。立ち上がってジャンプすれば見えるだろうが、それでは気にしているのがバレバレだ。
俺は不貞腐れたように大袈裟に椅子を回してキーボードに向かった。TSOのスイッチをオンするとテレビのテストパターンと同じカラフルな画面がふわっと現れた。カーソルは左下にある。自分のIDを入力しログオンする。現れた規定画面に今必要としているプログラムが収納されているデータベース名を打ち込む。まだ組み始めたばかりで1000ステップにも達していない。ワンパケージの中の1つで、他は森田秋子と若杉が担当している。彼女は与えられた期間の半ばでプログラミングを終了し、現在テスト中だ。若杉はのんびり構えているのか、テスト用データも作成していない。土壇場で秋子に任せてしまうつもりなのだ。奴はいつもそうだ。森田秋子がチームに加わってからというもの、若杉はまともにプログラムを完成させていない。告げ口をするわけではないが、業務報告をする義務がチーフにはある。ワンステップいくらで依頼者に売っていて、1人何ステップ組んだかが成績になる。キャップもボスもサブチーフである奴の成績が落ちていることを快く思っていない。そのうちクビだ。ボスは不要な人間はいとも簡単に解雇する。サブチーフにもなってクビとは情けない。早く目を覚ませよ、若杉。
「よお黒瀬、ボスがお呼びだぞ。森田さんと連れ立って来いとさ。お前たち最近親密なんで、ボスのお怒りに触れたんじゃないか?」
トイレへ行ったはずの若杉がどこでボスと接触したのか、そういうおフレを持って来た。まさか。一緒に暮らし始めてまだ4日目だ。その方面に関心が無いボスが真っ先に気付く訳が無い。腕時計を見ると9時30分。秋子はまだ席に戻って来ない。
「森田さんは?」
と若杉。
「遠藤のところに居る」
「遠藤? 何でまた。仕事の話なわけないよな」
ぶつぶつ言う若杉を尻目にセクションスリーへ向かった。呆れたことに彼女は遠藤の机の横に椅子を置いて脚を組んで座っている。もっと呆れたことに未だに封筒を手にしている。俺が来たのをチームの女たちは、チーフがサボっている部下を叱りに来たと思ったらしくほくそえんでいる。近付く俺に遠藤が気付き、秋子に微笑みかけていた顔をそのまま俺に向けた。
「やあ黒瀬、どうした。用があるんならわざわざ来なくても電話すれば良い」
と顎で電話を示した。邪魔するなと言わんばかりで視線が衝突した。
「いいや、君に用じゃないんだ」
真顔で言う俺にちらりと目をやると、彼女は立ち上がり椅子を隅に追いやった。
「ほんとにこれ良いんですかあ?」
封筒を顔の横でヒラヒラさせながら甘えた声で彼女は言う。何だ何だ、かの森田秋子も女を売り物にする輩であったか。見損なったぜ。シッシッというように右手を振りながら遠藤は笑った。クソッ、ナイスミドルを演じやがって。
「どうかしましたか」
俺に向き直り、真顔で彼女は言った。業務用の顔をしている。
「ボスがお呼びだ」
「私を?」
右手の親指で自分の胸を指し、首を傾げた。
「君と俺を」
口を尖らせ、ふうんと言うと遠藤に一礼し、行きましょうと俺を促した。廊下に出るとやにわに彼女が、バレたかしらと言った。2人が呼ばれたとなると彼女も俺も考えることは同じなのだ。
「いいや、それは無いな。ボスは部下の私生活をとやかく言わない」
「何故そう言えるの?」
「今迄言われたことがないから」
「それは信憑性あるわね」
DIRECTOR'S ROOMとシルバーの文字で書かれたプレートが俺の目の高さにある。森田秋子がドアをノックした。ボスはプレジデントっていう言葉がお嫌いなのよね、と彼女が言った。
ドアを押すと10畳あまりの広さの部屋がある。社長室には程遠いイメージの事務的な机が窓際に置いてある。全ての社長室がそうであるように窓に背を向けてではなく、手元に光が当たるように窓を左にして置いてある。何故ならボスもまたプログラミングをするからだ。社長然とした仕事のみでなく、我々同様の実務もする。だからここはプレジデントルームではないのだと彼は言う。絵も飾っていなければ置物も無い。オーストリア製のシンプルなコートハンガー兼傘立てがデスクの脇にすっくと立っている。応接セットなど元より置ける広さではないので、これもまたオーストリア製の実用性だけを追求したソファベッドが置いてある。壁際のサイドボードにはコーヒーカップとグラスがそれぞれ6客ずつと湯沸しポットが飾り気無く置いてあるだけ。彼は秘書を持たない。若干というには憚りあるが、45歳の塚田待男、我が社の社長だ。彼は未だ現役だ。頭が非常に柔軟だ。大学時代は陸上のオリンピック選手に成り損なったそうで。
「ボス、お待たせいたしました。お呼びでしょうか」
彼女の癖だ、右手で前髪を掻き上げる。ツカツカとボスの机に歩み寄る。俺はトボトボと彼女の後ろをついて行く。彼女の頭越しに事務椅子に腰掛けるボスが見える。
「済まないね、朝っぱらから呼び付けて。ミーティングで話しても良かったんだが、一応君たちの了解を得ておこうと思ったもんで」
まあ掛けたまえとソファを示し、机の引き出しからバインダーを取り出した。そこから1枚の紙をはずし俺に差し出した。立ち上がり手を伸ばして受け取り読み始めると、彼女が覗き込んだ。半分読み終わらぬうちに2人は同時に、えっ、と声を揚げた。そして驚きの余りポカンと口を開けたまま顔を見合わせた。ボスが低い声で、どう思う?と言った。
「どう思うと言われましても・・・」
ジキジキしたワープロの文字で社箋に書いてあることは、いついつからどこどこへ出張所を新設するため下記のことを決定する、と2行。その下に、記、の1文字。行を変えて、出張所メインキャップ、その右にカタカナで俺の名前。その下に平行してサブキャップ、その右に彼女の名前。森田秋子が一気に課長クラスに昇進・・・。
「あの、ボス、黒瀬さんがキャップと言うのは分かります。でも今年入社したばかりの私がサブというのは無謀ではありませんか」
彼女の言葉を受けてボスは俺を見、ニヤリとした。そして言った。
「無謀だと思うか、黒瀬」
「時期的には無謀のように思われますが、資質から言えば決して無謀だとは・・・」
ちらりと隣を見ると彼女が俺を軽く睨んでいた。ビジネスの枠を少し超えた表情のように思われた。こんな時に油断を見せるのが彼女の可愛いところでもある。
「君はどうだ、黒瀬。メインキャップは望まないか」
「いいえ、飛び付かせていただきます」
そう答えると、すかさずボスはポンと机を打って、そうだろうと言った。遠藤や若杉がどんな顔をするやら。若杉の、あの身分不相応なプライドを見事に挫かれた引きつった笑い。遠藤の、余裕をたたえた落ち着いた笑顔と温かいバリトンの声の裏で、ピシピシとひび割れて行く自信。だが何故年嵩の遠藤ではなく俺なんだろう。そういう素朴な疑問はボスにとっては愚問だ。年齢だの経験だのを無意味に優遇するようなくだらないことをボスはしない。彼が社員に要求し、社員を信用する基準となっているのは、実力があるかどうかということだけだ。
「何故イヤなのか聞かせてもらおうか」
ボスは座り直すように体を前後に動かし、両肘を机に付いた。両手をグリグリと揉みながら森田秋子を見据えている。彼は本気で彼女を説得しようと構えている。ボスは話が上手い。だから彼女はじきに納得させられるだろう。いいや彼女もしぶといし、流されないところがあるからな。五分五分だな。
森田秋子は入社時、コンピューターに関しては白紙の状態であった。それを採用したボスの選択眼が俺は凄いと思うのだが、3ヶ月の研修期間に少なくとも俺と互角に話せるまでに成長した。セクションに配属されてからも作業の効率の良さ、ミスの極小さ、プログラムの緻密さや斬新さ等どれをとっても他に抜きん出ていた。ボスがそれをただ見ているはずが無い。また緩みがちだった中堅社員が彼女の出現によって鼓舞され、営業成績に変化があったこともボスにしてみれば大物を手に入れた気分だろう。出張所新設の話が突然であったことは確かに驚きであるし、俺より年功から言えば上の遠藤たちを差し置いての人事もショッキングなことだ。だが、それより何よりたまたまこの会社に入社したことによって社史始まって以来のスピード出世をすることになるやもしれぬ女性が、こんなに身近にいるというのはドラマチックでセンセイショナルだ。彼女なら男の上に立ってもおかしくない。無能さに着飾った女たちのやっかみは避けられないだろうが、彼女ならスマートにかわしてバリバリのキャリアウーマンでいられるだろう。だが彼女の口から出た言葉はボスも俺も全く予想しなかったことだ。
「人の上に立って指示できるような器ではありませんし、上に立ちたいとも思いません。これだから女は困るとおっしゃられるかもしれませんが、私が働くのは自分の生活に経済的なゆとりを持たせるためであって、会社のためではありません。たまたま仕事の内容が自分に合っていて好きになれたから楽しく勤められているだけです。サブになって私自身の生活そのものが犠牲になり、会社にどっぷり浸かってしまうのは私の望むことではありません。私は仕事と自分を切り離して考えています。会社にいる私は私生活の私を養うために働いています。どうかこんな自分勝手な私を任命なさらずに、会社のためになる方にこの機会をお与え下さい。私に責務は無理です」
澱みなくそう語ると、彼女は静かに呼吸しボスをみつめた。とても堂々としていて艶っぽくて落ち着いていて、こんな女が上司だったら男どもは張り切るだろうなと思うのだが、うーむ残念だ。ボスは穏やかに彼女を見ている。
「確かにね・・・」
ボスは、ギィッと事務椅子の背にもたれ天井を仰いだ。
「会社の御為にがむしゃらに、或いは要領よく働いている奴はいるよ。そういう奴らには順当な地位を私は与えている。彼らには彼らの能力に合ったポストを与えている。だがね、はっきり言ってしまえばがむしゃらに働くというのは能の無い人間のすることだ。だからと言っていい加減な人間は信用できない。仕事なんてフットレストに過ぎないぐらいが丁度良い。君の言う通りだ。仕事のキャパシティがギリギリの奴ほど公私混同してしまう。切り離し結構、私生活重視、それも然り」
ボスの説得口調には頷かざるを得ない空気がある。うむ、と大きく頷きそうになって慌てて隣りを見た。彼女はほんの少し首を傾げボスを見ている。ボスは再び口を開いた。
「君が女であるのは非常に残念なことだが、一方では比類無いラッキーなことなんだよ。人材としての君が必要なんだ」
「何故ですか。半年しか働いていないのに、何故私が必要な人材だと評価されたのでしょうか。私は大学の成績もそれほど良くありませんし、寧ろ悪い方ですし、入社試験だって好成績だったとは思えません」
「そんなに反発するのはよせ。クビと言われたわけじゃないんだぜ。喜ぶべきことだろう」
「まぁ待て、黒瀬」
宥め口調でそう言うとボスは立ち上がり、俺たちの座っているソファまでガラガラと椅子を引きずって来ると、背もたれを前にして跨るように座った。それがイヤミでなくスマートに見えるのは彼が知的なスポーツマンだからだ。
「新支社のキックオフは来年の夏だ。それまでに君に何の進歩も見られなければ、俺はさっさと君を見限って、他の人間に乗り換えるよ。今年度末までには準備のためにこちらを引き上げてもらうことになる」
「見究め期間は年内ですね」
「そういうことだ」
彼女は無表情にボスをみつめたまま無言でいる。
「君のことだから、わざと仕事をしないで評価を下げるなどということはないと信じているよ。黒瀬だって君を望んでいるさ」
人の痛いところをチクリと刺して、ボスは、これで話は終わりだと秋子と俺の肩を叩いた。
Dルームに居たのはほんの30分程だが、俺はとても長い時間あそこに居たような気がしていた。それは彼女も同じだと思う。
「イヤだわ。迷惑だわ。地位も肩書も私には不要なのに。身動きが取れないような気がしてしまう。私は今のままで十分」
廊下を歩きながら彼女はつまらなそうに話した。自分らしい生き方をしたいのだと彼女は俺に訴える。
「今度の事、すっごく君らしいと思うよ」
「え?」
「君に相応しいポストだと思う。それに、ずっと今のままでいたら君は義理の兄さんと結婚させられちまうよ」
踊り場で立ち止まり、呆れたような表情で彼女は俺を見た。あと13段階段を下ると仕事場の扉だ。彼女を追い越して1段下に向かって足をぶらぶらしながら俺は言った。
「ずっと今のままだと後3年もすれば君が結婚しなければならない状況に周囲が持って行き易くなる。高いポストに就いていれば、仕事優先のキャリアウーマンでございって突っぱねることが出来るだろ?」
「欺瞞だわ」
ポツリとそう言うと、彼女は俺を無視するかのように傍らを通り過ぎ、鉄の重い扉に体重をかけ、えいっとばかりに押し開いた。そして俺のために開けたままになどしてもくれず、さっさと中へ消えた。一瞬ドットプリンターのジキジキいう音やディスプレイの発するビープ音が聞こえ、そして消えた。
席に着くと若杉が早速、どうした何があったと聞きに来た。新プロジェクトの打ち合わせだと俺はごまかしたが、秋子が困惑した表情を見せていたので嘘だとバレバレだ。若杉はそれ以上何も言わなかった。いつもはしつこい若杉が珍しいこともあるもんだ。
始業時刻を2時間近く過ぎて俺たちはようやく仕事を始めることが出来た。俺はさっきの続きをキーボードに叩いていたが、彼女はデータリストを机上に広げたまま紙上の一点をみつめている。斜め後ろに彼女の気配を感じながらなかなか進まないプログラミングに溜息をついた時、ようやく彼女は動いた。席を離れると備えつけのパーコレーターに向かい、自分のコーヒーカップにコーヒーを注いだ。クリームパウダーを山盛り1杯加えて掻き混ぜ、その場で窓外を眺めながら飲んでいる。隣のビルとの間には狭い通路がある。黒いアスファルトの道だ。今日は風が強い。木も草も無いので風は見えないが、人が通れば服も髪も乱れるほどのビル風がそこに吹き込んでいることがわかるだろう。彼女は半分ほど飲んでから戻って来た。俺と目が合うと少し眉を顰めた。俺の左隣のディスプレイに向かって座り、俺にも聞こえるか聞こえないかの声で、
「今日は一日が長そう」
と言った。スイッチを入れ、カタカタとキーボードを叩き始める彼女を抱きすくめたい衝動に駆られたが、できるはずもなく、仕事に集中しているフリをした。
そうだ、今日彼女は奴と会うのだ。決着をつけるために。彼女はしっかりとピリオドを打つだろう。彼女がしようとしていることを奴は止められない。
視線を感じて顔を上げると、若杉と目が合った。だが奴は何も言わなかった。不気味だ。ディスプレイ越しに見える若杉はハンサムの部類に入る。背はそれほど高くないが目鼻立ちがはっきりしているので、俳優にしたら身代潰しの若社長役が当てはまりそうな感じだ。だが口を開くと途端に男が下がる。卑しい考えを抱いていることがその目に現れている。
俺は昼食後自転車をトランクに積んだ。秋子は珍しく同僚OLたちと喫茶店へ行った。サブの話が気になってか、それとも奴と会うことに気が滅入ってか、いつもはしないことをした。彼女は財布に4、500円しか持ち歩かない。大きい金を持つと不安になるのだそうだ。それでも何かあった時のために2、3000円は持っていた方が良いのではと提案したら、何かあったらお巡りさんのお世話になりますと答えた。今日はたまたま遠藤に返すはずの金が手元に残ったので喫茶店に行く気になったのかもしれない。
昼休みが終わって席に着くと、彼女は呆れかえった様子で言った。
「驚いたわ、7人中4人が煙草を吸うのよ。女の煙草が悪いとは思わないけど、たかだか喫茶店に行ったくらいであそこまで自分をさらけ出すことないと思うわ。胸のボタンを1つ多く外したり、言葉が乱暴になったり。他の課の人たちも居るのに平気なの」
名前を聞いて俺も驚いた。お世辞にも煙草を吸う姿が似合うとは言えない連中だ。掃除もまともにしない癖にそういうところでは自分を主張したがる女なんてみっともない。俺は女を見る目があるぞ。そいつらをイイ女だと思ったことがない。誘ったこともない。
「君は吸わないのか」
「あれば吸うかも。自分では買わないですね。買わないから吸わないのか、吸わないから買わないのか…。煙草に敵意はないですから、吸いたい時には吸うでしょうけど、最近は吸いたいと思わないです。マナーの悪い喫煙者は嫌いですね。人間として軽蔑します。歩きながら吸ったり灰皿以外のところに吸殻を捨てたり、TPOを弁えずに吸ったり、相手のことを考えなかったり、吸殻の始末を他人に任せたり」
そう言って左手の人差し指と中指を口元へ持って行き、スパッと吸う真似をした。
「奴は吸わないのか」
大意は無い。純粋に吸うか吸わないか聞きたかっただけだ。彼女は少し眉を動かした。
「吸いません」
「じゃあ君にも吸うなと言うだろう」
「そうですね。男の俺が吸わないのに女のお前が吸うのはおかしいと言います」
「変な理屈だ」
「全く」
「俺はそんなことは言わないよ」
「関係無いわ」
最後は小声でプライベートな会話になった。彼女はやはり関係無いと言った。
その日の午後で彼女はテスト用データを作成し終わり、テスト結果を待つ間若杉のプログラムを手伝った。俺は不快さをあからさまに顔に出したが、若杉は気にする様子も無い。若杉、いい加減にしろよ、そのうちボスからお呼びがかかるぞ。こいつは自分の査定の低さをボスのせいにしている。自分がどれだけ仕事をしないか全然わかっちゃいない。
若杉が、残業するから付き合ってくれとみっともなくも懇願するのを、彼女はらしくもなく冷たくあしらうと、終業時刻を待ってさっさと帰り支度を始めた。若杉が今度は俺の所に来そうになるのをうまくかわして、俺は彼女より少し後れて外へ出た。246を神宮外苑方面に向かって足早に歩いて行く彼女を数10m離れて追った。ガソリンスタンドの前に来た所で彼女は手を振り道端へ寄った。そこには400ccのホンダのバイクに跨った男が居た。ヘルメットで顔は見えないが、夏物にしては暑苦しい印象のスーツが年より老けて見せていた。彼女に、ミラーにかけてあったヘルメットを手渡しながら何か言っているようだ。俺の立っているところまで声は聞こえない。
彼女をしがみつかせた男はアクセルを噴かすと後方を確認して走り出した。こっちまで来る前に左へ折れ、外苑東通りへ入った。どこへ向かったのだろう。全くミーハーな奴だ。キザな車の他にバイクまで持っていやがる。俺の胸中ではブンブンとうるさい蜂が嫉妬の巣を突っついている。みっともないことだがおとなしく部屋で待っていようにも気持ちが納まらない。この歳になって女に振り回されるなんて滑稽だ。そうさ、たまには部屋で独りでビールでも飲んでいれば良い。もうすぐ30、落ち着け黒瀬陽一。森田秋子と付き合い始めて俺は何度こんな風に自分に言い聞かせたことだろう。
しかし気を揉んだ割には彼女は2時間余りで帰って来た。彼女がドタバタ入って来た時、俺は空のバドワイザーの大缶を1本転がして、手にしたもう1本も半分程空けていた。
「話にならなかったわ」
と誰かに押されでもしたようにドスンとソファーに腰をおろすや否や言った。テーブルの皿には少し厚目に切ったレーズンバターとソフトサラミのマリネがあった。レーズンバターをつまんで一角をかじると、俺の飲みかけのビールを奪い取ってゴクゴクと勢いよく飲んだ。3分の1程になった。そして話し続けた。
「バイクに乗った時やばいと思ったんだけどね」
「上原に行ったんだ」
「乗るんじゃなかったわ」
「ヤッたわけ?」
「ヤッてません」
「だって話にならなかったんだろう?」
「ベッドに押し倒されはしたけど・・・」
「それで?」
「少し感情的になってた」
「それで?」
「戻って来いって言われた」
「それで?」
「私がノーと答えればそれで終わり」
「結論は?」
「私が一方的に別れを告げて帰って来ました」
「俺のことは話した?」
「話さない。どうせ新しい男と居るんだろうとは言われたけど、彼には関係無いもの」
「奴が君を求めて会社まで来たりしないか?」
「有り得るけどみっともない真似はしない人だから」
「最後に少しだけでも奴にこの体を拝ませてやれば良かったろうに」
大した意味も無くそう言ったのだが、彼女は真顔でそっぽを向いてパタパタと服を脱ぎだした。
「シャワーを浴びて来る」
そう言ってさっさと行ってしまった。チェッ、俺を放っとくのかよ。キスぐらいしてってくれたって良いじゃんか。
冷蔵庫から3本目のバドワイザーを引きずり出していつもより苦いような気がしながらほとんど飲み干そうという頃、彼女は裸のままバスタオルで髪をクシャクシャ拭きながら戻って来た。タオルを体に巻き付け、壁に立てかけたロングミラーの前に座ると、一言、
「せいせいした」
と言い、鏡の中の俺を見て笑った。俺は空になりかけた缶を顔の前で振って見せた。缶底に沈んだリングプルのこもった音と少量残った液体のピチピチいう音が静かな部屋に響いた。
彼女がまだ乾ききらない髪と潤んだ瞳で、今すぐ抱いてと言った時には、ボトルのウィスキーも半分になっていたし、つまみだけで空腹は癒えたし、夜も更けていた。上気した彼女の体からムスクの匂いがして、仰せの通りすぐに俺は彼女を抱いた。彼女は、痛いと言ったがその痛みはすぐに快感に変わったようだ。
「今日からは絶対に往復自転車でって決心したのにぃ」
ブラインドをバチバチと勢いよく撫で上げると、ブレードの向きが変わって外の光が入って来た。昨夜の天気予報では、夜半から天気が崩れると言っていたが果たしてその通りになった。朝の陽光は雨のフロスティグラスを通過して薄ぼんやりとこの部屋に届いている。そんな柔らかい日差しでも目覚めたばかりの俺には十分明るい。目をしばたいて彼女の裸の背中を見た。逆行のせいで影になっている。彼女は片手で髪を掻き上げた。
「どうする? 車で一緒に行くか?」
「そうする」
ベンチチェストから真っ青なショーツを取り出すと、彼女はそれを履いた。
「雨は嫌いだわ。髪が湿気を含んで膨れ上がるの。ただでさえ落ち着きの無い髪の毛が暴れまくる」
そう言うと細かくウェイブのかかった長い髪をバンダナで無造作に束ねた。いつも思うことだが、彼女が色っぽく艶っぽいのはその髪のせいだ。背が低いと長い髪は重く感じられるはずだが、体つきが華奢なせいでアンバランスなバランスがある。アンビバレンスな美。東洋的な顔立ちにソヴァージュが良く似合っている。すごく魅力的だ。
「今日は外で飲みましょうよ」
「車で行くのに?」
「絵画館前に置けば良いわ。一晩置けるでしょう?」
「イヤだよ。いたずらされる」
「んじゃ電車で行きましょう」
「何も雨の初日に飲みに行くこたないだろ」
「ううん、どーしても今日飲みたいの」
「良いよ、わかったよ。でも車で行こう。5時迄に君の気が変わらないとも限らない」
「変わらないもん」
例の、上から下まで小さなボタンだらけのダンガリーのノースリーブワンピースを着て、彼女はキッチンへ行った。
「ピザトーストにしよっか」
「うん、良いねえ」
冷蔵庫の扉を開ける音、ガサゴソとチーズやピーマンを取り出す音、扉を閉める音。コーヒーはもう出来上がっていて、さっきからサーモスタットが付いたり切れたりしている。キッチンからはピーマンを輪切りにする音やピザソースの瓶の蓋を開ける音などが休みなく聞こえる。その時、俺はハッとした。そうだ、俺も何かしなくてはいけないんじゃないか? 朝食が出来上がるのをこんな風にぐうたら亭主のように待っていてはいけないんじゃないか? 彼女は手伝えとは言わない。何故だろう。前の男とのこんな暮らしがイヤで逃げて来たはずだ。寝ていないで手伝ってと言われたら、俺はイヤとは言わない。遠慮しているのか? 待てよ、にこやかな笑顔の下で、こんなのイヤだと思っているのかもしれない。そうか、きっとこれがいけないのだ。この状態に俺が慣れてしまってはいけない。俺の生活の一部に俺自身が無関心になってしまってはいけない。彼女は好んでやっているわけではない。また、好んでする必要も義務も無い。俺はそうならないと思い込んでいたが、危うく前者の轍を踏むところだった。
キッチン迄行って彼女の隣に立った。
「俺、思うんだけどさ」
「何?」
彼女を見下ろして話し始めた。彼女はオーブントースターに4枚切のパンを2枚置いた。
「俺が手伝えることがあったら言ってくれないか」
ピザソースの付いた指をティッシュで拭うとタイマーをジジジと回し、「5」に合わせた。こちらを見もせずに今度は卵を割り始めた。
「手伝いたいなら言われなくてもやれば良いのに。動く気配を見せない人に手伝えなんて言えないわよ。そういう人って意外に役に立たないものなの」
案の定だ。彼女は内心不服だったわけだ。俺は自分が動かないことに何の疑問も抱かなかった。彼女が来るまでは俺だって一通りのことを自分でしていたのに、何故何もしないことを不自然に思わなかったのだろう。
「俺にも何かさせてくれよ。俺が手を出す隙を与えてくれても良いじゃないか」
フライパンに油を敷く彼女。
「まるであなたが何もしないのは私のせいみたいね」
「そうじゃないよ。何かさせてくれるのも優しさじゃないかって言ってるんだ」
溶き卵の入ったボウルを手渡した。これは手伝ってるうちには入らないな。ファンのスイッチを入れると、ゴウと音がしてフードに煙が吸い込まれた。ジャーッとフライパンに卵を流し込むと、彼女は左手でフライパンを回しながら言った。
「そんなことに優しさを求めるなんて分別のある大人のすること? 自分の意志で行動すれば? 食事を作るのは私の役目で食べるのはあなたの役目と決めるなら、それ自体に私は異議を唱えないわ」
フライ返しでコロコロと転がすと、少し平べったいプレーンオムレツが出来た。彼女の言うことはもっともだ。頭の中に彼女の持論として時間をかけて整理されたのだろう。ああ、俺ももう少しで前の男と同じ事をするところだった。気が付いて良かった。男女差の無い職場で働く俺たち、区別は必要だが差別はあってはいけない。彼女も俺も同じレベルで働いているのだ。
「家の中のことは君に任せるよ」
「何それ。やめてよ」
「その代わり部屋代は要らない」
「どういう意味?」
ガスを止め、ようやく彼女は俺の顔を見た。見上げる彼女の顔は明らかに怒っている。
「言葉は悪いけど君はハウスキーパーってこと」
「それで?」
「家の中の事はどう頑張っても俺は君には敵わない。かえって手間がかかる位だ。だから君に任せる」
「部屋代とどう関係あるの?」
「だから、俺が君をハウスキーパーとして雇うわけさ」
「あなたは何もしないってこと?」
「いいや、そういうわけではない」
「じゃあ、お金で解決することじゃないんじゃない? あなたはやりたいことをやる、私もそう。あなたが何もしないことに私が不満を抱くようになったら私は出て行く。だから気にしないで」
ああ、結局こうなるんだ。彼女はいとも簡単に別れを持ち出す。独りになることに何の不安も無いのだろうか。俺は彼女を失いたくなくて、彼女を納得させる手立てを必死に考えている。
「私はあなたに不満があっても多分言わない。言って解る人なら言わなくても自分で気が付く。解らない人には何度言っても解りっこないってのが私の持論」
「冷たいんだな。知ってて放っとくわけだろ」
「お互い様よ」
「俺は気を付けるよ」
彼女は議論を諦めたように溜息をつき、フライパンの上で冷めかけたオムレツを皿に移した。
「こんな風に話す余裕の無い夫婦も居るのよね」
「俺は建設的にやる」
彼女が「夫婦」という言葉を遣ったのでドキリとした。嬉しいと思えた。前の同居人との暮らしより進歩しただろうか。奴は彼女を守れなかった。俺は努力する。折に触れ彼女と討論し、2人で結論を出し、彼女が俺の傍に居続けられるようにする。
トレイに皿を2つ載せてキッチンから彼女が出て来る迄に、俺はマグにコーヒーを注いだ。彼女のマグにはミルクをたっぷり。俺はそのまま。
「あ、ケチャップ」
「持って来る」
「ありがとう」
6時にステレオのタイマーがオンになってからずっとバックにMJQが流れていた。今、A面が終わって自動的にB面に切り替わった。彼女のカセットライブラリーの中の1本だ。オリジナルテープの作成は彼女に任せてある。俺も彼女も200本以上テープを持つが、内容が殆どダブっているので俺のは処分しても良いと思っている。俺のは編集が粗末だし、テープは古いし、雑然とケースに放り込んであるだけだが、彼女のは違う。きちんとナンバリングし、インデックスブックまで作ってある。それも手書きではなくタイプだ。検索しやすいようにアルファベット順と番号順に分けている。図書館のようだ。自分のライブラリーから探すより、彼女のインデックスブックを見た方が早い。
「車で出勤だなんて優雅だわ」
「彼の車で送ってもらったことはないの?」
「あるわよ、何度か。代々木公園を抜けて走るの。あの道は好きだわ。あの自転車で走ったらかっこ良いでしょうね」
「自転車買えば? 女性用のフレームだったらスカートでも乗れるよ」
「趣味じゃない」
「あ、そ」
7時半。カチャカチャと食器を洗う彼女の隣で俺は濡れた皿やフォークを拭いた。
「2人でやると早いわね」
と彼女が笑った。
化粧をする彼女を俺はベッドに腰掛けて眺めていた。
「やあねぇ、そんなにジロジロ見ないで。手元が狂うじゃない」
ノウズシャドウを小さなスポンジチップで置き指で伸ばす。筋の通った鼻に影が出来た。眉を描きブルーのマスカラを着ける。
「それだけ?」
「あとはリップ」
透明なピンクのリップクリーム。ファンデーションの下から彼女の唇の色が現れる。まるで口紅を着けたようだ。
「簡単なんだなあ」
「私のような顔は派手な化粧は似合わないの」
ほんの少し化粧しただけで随分変わる。ということはケバケバに塗った女たちはどんな素顔を下に隠しているのか・・・。想像を絶するね。彼女は行きも帰りも全く変わらない顔をしているが、中にはアフター5用の化粧を昼休みに仕上げる奴が居る。朝は化粧をする時間が無いのか、一日中みっちり化粧をしているのは流石に疲れるのか、崩れるのか。
外苑前で彼女を降ろし、彼女はそこから電車に乗った。俺は車を置きに行ったため彼女より10分遅れた。彼女は既に席に着いていた。若杉が床を撫でるだけの掃除をしている。奴の次は森田秋子だ。彼女が大掃除に等しいくらいしっかりきれいにしてくれるので、若杉は手を抜いている。仕事の面でも彼女に頼り切っている。一日に何度俺は若杉の怠惰さに舌打ちすることか。だが彼女は何も文句を言わない。自分から崩れて行く男を彼女は決して救わない。だから奴の間違いさえ指摘しない。それで若杉が損をしたとしても奴が彼女を責められないということを彼女は知っている。そうして彼女はどんどんレベルの高い仕事を覚えていく。おい若杉、利用されているのはお前だぜ。もうじき28になる男がいつになったら目が覚めることやら。情けない奴だ。
「若杉さん、先週依頼されました算出データ、TSOで覗けます」
「悪いね」
「何だ若杉、また森田さんにおんぶに抱っこか。森田さんにも自分の仕事があるんだからあんまり頼るなよ。お前、仮にも上司だろ」
尚も何かを言おうとする俺に、いとも素っ気なく背中を見せ、キーボードを叩く。必要なデータを呼び出すと、ポンとページを最後に持って行き、オッケーと言いログオフした。おいおい1件1件チェックしておかないとトラブった時対処できないぞ。投槍も良いとこだ。
と、俺の机の電話が鳴った。
「はい、黒瀬です」
「あの・・・外線なんですけど」
交換手だ。勤務時間中は繋げない規則だ。
「はじいてくれ」
「それが・・・」
「どうした」
「何度も申し上げているんですけど10分おきにしつこく掛けてらして・・・」
「俺に?」
「いいえ、若杉さんになんです」
「誰なんだ」
「おっしゃらないんです。ただ若杉出しなと」
「わかった。繋いでくれ」
「はい。申し訳ありません」
すぐに電話は切り替わり、ざわめきが受話器の向こうに広がった。
「もしもし、お電話代わりました」
「若杉さんか」
ひどくざらついた声だ。
「いいえ、代理の者です」
若杉が後ろでキーボードを叩いているので名前を口に出来ない。奴のことだ、他人の電話に聞き耳を立てているだろう。
「どちら様でしょうか」
「あのね、お宅の会社の若杉さん、うちらに大枚借金があんの。3ヶ月滞納。わかる? 期限がとっくに切れてんだ。言っといてくんねえかな、3倍になってるってよ。早いうちから催促してやってたってのに、返せなくなるぜ。頼んだよ」
それだけ言うと不躾に電話は切れた。すぐに交換手が出た。
「すみません、聞いてました」
「盗聴か」
「いいえ・・・まあ、そうです」
「何かな」
「またかかって来ると思うんです。今日に始まったことではありませんから」
「いつからだ」
「半月の間毎日です」
「ふむ」
「いかがいたしましょうか」
「はじいてくれ」
「でも・・・」
「あまりしつこいようならボスに繋いでも良いよ」
「え!」
交換手の驚いた声と同時に若杉がこっちを向いた。まずいことを言ったかな。
「そんな事をしたら、大問題になります」
「構わない」
「はい」
電話を切った。若杉が目を逸らした。何てこった。親元でのほほんと暮らしている癖に何にそんなに金が要るんだ。女か? いいや違うな。女が居たら奴のことだ、俺の女が、と吹聴せずにはいられないはずだ。ギャンブルか、飲み代か、その辺りだな。親孝行のためとは到底思えない。俺は知らんぞ。ボスに話が行く前に自分でケリをつけろ。
「外線ですか」
端末を叩く森田秋子が振り返って言った。
「いいや交換だ」
「交換手とテレフォンデートですか」
「そんなとこだ」
彼女は笑っている。若杉は知らん顔だ。さては感付いたな。若杉、俺は寛大だぞ。今は何も言わないが、お前の出方を伺っているだけだということを忘れるな。
ところが冗談ではなく大変なことになった。次の日から若杉が出社しなくなったのだ。1日や2日なら事後連絡ということもあるので待ってはいたが、週が明けてからも連絡が無いので、放って置くわけに行かなくなった。第一仕事が溜まってしまっている。
若杉の家に電話をした。
「はい、若杉です」
母親らしき女の声だ。何か食べているようなクチャクチャという音が聞こえる。俺は少しムッとした。
「わたくし、ツカダソフトの黒瀬と申しますが、正さんはいらっしゃいますか」
「え?」
短い沈黙の後、口の中の物を飲み込んで母親は話す。
「正は居ないんですよ」
『居ないんですよ』の不自然な響きにすこしくイヤな予感がした。
「何時ごろお帰りになりますか」
「それが・・・1週間程家を空けてまして」
「は?」
「会社には行ってると思ってましたが」
何てこった。若杉は姿を消してしまった。サラ金に追いかけられてにっちもさっちも行かなくなったか。
「無断欠勤しています。連絡したいことがあるのですが、どちらにいらっしゃるかご存知ないでしょうか」
「はあ・・・サラ金から催促の電話があったりして・・・どこに居るかは・・・」
取り立ての電話が会社に来ていることは言わずにおこう。
「あの・・・正さんからご連絡がありましたら、こちらにご一報お願いいたします」
「はい、わかりました。申し訳ありませんね。仕事をほったらかしにするなんて。あの・・・クビになってしまうでしょうか」
「さあ、それはわたくしの決めることではありませんから」
話の内容の割には淡々としていてさほど心配しているようには聞こえない。
このことをボスに報告した。ボスは即座に解雇の書類を出すよう総務に指示した。退職願のサンプルだの退職届だのを含んだ書類が総務から若杉の自宅に送られることになる。手続きが進まない場合は一気に免職だ。退職金減額或いは無し。再就職もままならなくなる。
フロアでは若杉免職の噂が先行した。誰もが若杉のルーズな仕事が原因だと思っている。
「若杉さん、もう会社に来ないかしら」
シャワーの後のビールを旨そうに飲みながら森田秋子は言う。
「いくらあいつでも平気な顔で現れるってことは出来ないだろ」
これ以上の面倒は起こすなよと願っていた矢先、いとも簡単に面倒は起きた。会社にでなく俺にでもなく、森田秋子に。