古い貴族の館を改築して作られた精神病院には、全ての窓に格子がついている。閉じ込めらている患者たちはそこから漏れ出る僅かな光を求めて、粗末な窓に身を寄せる。あるいは、寝台に生気なく寄りかかったままだ。寝台の彼らは、この病院で行われる特殊な治療「ロボトミー手術」を受けて、既に光に対する感性すら奪われている。
 聖セシリア病院、別名「貴族のごみ箱」。生まれつきの病気・障害、あるいは嫡子問題等で邪魔者になった高い身分の者を入れておくためのうってつけの捨て場だ。
 106号室には、アリス・リデルという名の女性が古く錆び付いた手鏡を見ながら短く切り落とされてしまったかつては美しかったであろうブロンドの髪を少しでも凛として見えるようにひび割れた手で直していた。
 明日は、最大の晴れ舞台。手術が施行日だった。
 今夜は、アリスの担当医であるラースが病室を訪れる。
 アリス・リデルは少女の頃に事故で負った頭部の傷が原因で頻繁に不可解な幻想やフラッシュバックを起こしていた。とうとう、日常生活にまで支障をきたす域になったと考えた彼女の両親は、父親の伝手でアリスをこの精神病院に入れた。いや、捨てた。
 それでも、元来気が強いアリスはどんなにおかしな幻想に悩まされても気丈に振る舞い続けた。
 「貴族のごみ箱」は、精神病院と名を打ちながらも、正常な者も放り込まれることも多々あった。
 駆け落ちに失敗した令嬢、反教会主義を主張した学生、父親のわからない子供を出産した少女…。
 アリスは意識のある間、外の世界の情報を得るため、放り込まれてきた彼らを勇気づけようと懸命に話しかけた。初めは煙たがっていた者も、アリスの利発的な話し方やいつかここから出ていくという強い意志、そして何より人間としての暖かさに感化され、できる限りの情報を共有し、アリスの力になれる事はないかと探し続けた。
 しかし、貴族の産まれとはいえ、絶縁状態になりあとは死か魂の無い人形になるのを待つばかりの彼らには何も残されておらず、アリスは無情な箱の中で仲間だったものが、一人、また一人と消えていくのを無力感と絶望を感じるしかなかった。
 アリスの背後で金属のドアをノックする冷たい音が聞こえた。
「はい」
 重い扉が開いて入ってきたのは、最後の審判を告げにきたラースだった。
「やあ、アリス」
「こんにちは、フレッチャー先生」
 ラースは、アリスの硬質な表情に苦笑いを浮かべた。
「悲しいな、昔の様にラースと呼んでくれ」
 ラースは、大教授であるアリスの父親の生徒の一人で、幼い頃からのアリスを知る、優秀な精神研究者だった。
 学生時代にラグビーの選手であった彼は大柄な筋肉質体型で、びったりと整えられたこげ茶の髪はいかにも上流階級の医者だ。冷たいブルーの瞳は、いつもアリスを観察しているようで幼い頃から苦手だった。
「昔は、よく一緒に散歩をしたね。覚えているかな。良く晴れた日の夕方で金色の湖を僕とチャールズは幼い君をのせてボートを漕いだ」
「ええ…」
 アリスは、チャールズという名前に胸の痛みを憶えずには居られなかった。
「君や君の姉さんたちを退屈させないように、チャールズは君をモデルにしたおとぎ話を聞かせて、僕は必死にボートのオールを動かした。君たちは『もっと早く漕いで!』『お話の続きは!?』って、沢山の注文をつけてきた。本当に疲れたけど、今となっては楽しい思い出だよ」
「ええ、そうね…」
 アリスは直感的に気づいていた。彼が昔話をしに来たということの意味が。
「フレッチャー先生、私を安心させようと気を使って下さっているなら、とても嬉しい事です。でも、どうかはっきり仰ってください。私の両親はなんて?」
 思い出を語っていたラースの顔が途端に曇った。
「すまない、アリス。ご両親は最後の手術の同意書にサインをされた。予定通り、明日施術を行う」
「そうですか」
「随分と落ち着いているね」
「ええ。両親が決めた事です。もしかしたら、とも思いましたが覚悟は最初から決めていました」
「そうか。君は本当に強い女性だね。ここにいつもの薬を置いて置く。きちんと飲んでくれ。そうすれば、幸福な気持ちで眠りにつける」
 ラースは、粗末な机の上に薬包を一つ置いた。いつの間にか、周囲は暗闇に包まれはじめていた。
「おやすみ、アリス。また、来るよ」
「おやすみなさい」
 ラースが去る音を聞きながら、アリスは寝台に崩れ落ちた。
 ラースの前では毅然と振る舞ったものの、一人になると迫りくる暗闇が恐ろしかった。
(全て、無駄になってしまった。私を助けようとしてくれたみんなの願いも。両親の決定は何をしてももう覆ることはない。私はまだ自分でいたいだけなのに)
 絶望に暮れるアリスは、そっと枕の下に手を入れた。
 そこには、一つの新聞記事がかくしてある。題名は、「聖書の次のベストセラー 不思議の国のアリス」。
 記事には、作者であるルイス・キャロル、本名、チャールズ・ドジソンの写真が載っている。隣の病室の老紳士が、こっそり渡してくれた新聞を切り取ったものだった。
 ラースの語ってくれた、ボート上の思い出は今でもアリスの大切な記憶だ。
 線が細く、優しくて頭の良いチャールズはアリスの初恋の相手だった。
 ボートの上で語ってくれた、「地下の国のアリス」は、アリスをモデルにした物語だ。楽しい冒険物語の続きが気になって、何度もねだった。
 チャールズは困った顔をしながらも、魔法使いの様にするすると物語と紡いでいった。
 純粋に物語が楽しかったのもあるが、幼いアリスはチャールズが自分に構ってくれるのがうれしかった。姉のイーディスは嫉妬をしてチャールズが帰宅した後にアリスに意地悪をする事もあったが、平気だった。
「いつか、この物語を本にしよう。そして、世界中の子供たちに読んでもらうんだ。君の物語を」
 幼いアリスにそう約束をしたチャールズの輝く笑顔を今でも覚えている。
 いつまでも続くと思えた幸福の日々は、13歳の時の事故で全て崩れ去った。
 ショックが強かったせいか、アリスは事故の時の記憶がない。自分が幻想の中にいる時は、ラースは「まるで君が本当の不思議の国にいるみたいだ」と語った。
 意識が蝕まれていく中で、アリスは自分の知らない内に酷く暴力的で凶暴になった。
(でも、それは本当の私じゃない。私は、私。もう、人格が失われるのが分かっているのなら、最後まで私であり続けるわ)
 アリスは、チャールズの記事を枕の下に戻すとラースの置いていった薬包をみた。それは、定期的に渡される鎮痛剤と抗不安剤を調合したものだった。
(これを飲めば、きっと穏やかに眠りにつける。でも、そうしたらもう二度とチャールズの夢は見れない)
 アリスは、薬を飲むことを拒否した。しかし、飲まなかった事がばれたら苦しい麻酔を打たれるかもしれない、と勘づきそっと中身を洗面台に捨てた。
 施術は、翌日の早朝に開始される事になった。
 マスクをした数人の看護師とラースに付き添われてアリスは、手術台に縛りつけられた。
(暴れたりなんか、しないわよ。薬を飲まなかったから、きっと手術は痛いでしょうね。でも、最後の痛みの瞬間まで私のままで感じていたい…)
 まるで、獣の扱いにアリスは不快になった。
 アリスの表情を感じとったのか、看護師の一人が縛りつけた後に軽く手を握ってきた。
(今更、同情のつもりかしら)
「それじゃあ、アリス。始めるよ。目覚めたら君には穏やかな世界が待っている。昨日の薬でそろそろ眠くなってくるはずだ」
 薬を飲まなかったアリスは眠気を感じていなかったが、目を閉じた。
「眠ったかな。では、君たちは一旦下がって」
 手術を行うはずのラースが、看護師たちを払い、数人の足音がドアの外に出たのが聞こえた。
 目を閉じたアリスのそばにラースが立つ気配がした。
「嗚呼、愛しいアリスこれでようやく二人きりだ…」
 耳元で聞こえてきたラースの声はねっとりとしていて、彼の体温を感じない冷えた指が、アリスの輪郭をなぞった。感じたことのない、生々しい吐息がアリスの首筋にかかった。
「告白をしよう。7歳の時にチャールズが君と遊びで取った写真を見た時から私は君の虜になった。あの魅惑的な表情はとても幼い子供が醸し出せるものではなかった。それからずっと君だけを見つめてきた」
 意識が無いと思われているアリスをラースは舐めるように見つめた。
「どうすれば、君を独占できるかそれだけを考えてきた。そして今日、とうとうそれが叶うんだ。意識がある時の強いまなざしの君も素敵だけど、動かない君もなんて美しいんだ。一生僕の愛玩人形にしてあげるよ」
 ラースはおぞましい告白をしながら、アリスの病院服がはだけた胸元に顔を寄せた。
「君の心臓が動いているのが、見える。僕の心臓も興奮して強く脈打っているよ。いっそ、僕の胸を開いて君に触ってもらいたいな」
 ラースがアリスの胸に汚れた口づけをしようとした瞬間だった。
「あああああっ!」
 獣じみた声が手術室に響きわたり、ラースの左耳から大量の血液が噴出してきた。
 アリスの手には、一本のメスが握られていた。
 先程の看護師が彼女の手を握った際に手術台の隙間にいれておいたものだった。
 血まみれでかがみこんだラースをよそに、アリスは急いでメスで拘束を外そうとしたが、精神病患者を拘束するために作られたバンドはなかなか切れない。
「この女! 薬を飲まなかったな!」
 起き上がった血濡れのラースはこの世の者とは思えない形相でアリスをにらみつけてきた。そして、アリスの自由を奪おうとのしかかろうとした時、手術室のドアが開いて先程メスを渡してくれた看護師が入ってきた。
「何だ? 今は、取り込み中だ、出ていけ」
 しかし、看護師はラースの命令には従わずに手術室に入りこむと、ラースをアリスから引き剥がそうとした。
「何をする!」
 血まみれで暴れるラースは看護師のマスクをはぎ取った。
「な、貴様は!?」
 アリスは、目を疑った。
 記憶の中の暖かな赤毛が黒く染められており、少し年も取っているせいで気がつかなかったが、明るいグリーンの瞳にそばかすの浮いた頬は間違いなく、チャールズ・ドジソンであった。
「チャールズ!」
「アリス、僕がこいつを抑えている間に早く逃げるんだ!」
 アリスは、バンドを切ると手術台から立ち上がり、白いしなやかな足で手術道具の乗ったカートをラースに向かって蹴り飛ばした。
 カートは派手な音を立てて、ラースに衝突し壁とカートに挟まれたラースは失神した。
 アリスはチャールズに向かって得意げに微笑んでみせると、チャールズは驚いたように口笛をふいた。
「やるね、さすがは僕のおてんば姫様だ」
 アリスはチャールズと一緒に廊下に出ると、あちらこちらに看護師が倒れていた。
「殺したの?」
「いいや、睡眠薬の注射で眠らせてあるだけ。さ、早く。奴らが目覚める前にここを出るんだ」
 長い廊下を通り抜けると、患者室の扉が連なるホールへ二人はたどりついた。
「チャールズ、お願い。待って」 
 先に進もうとしたチャールズが振り返ると、アリスが患者たちの扉をこじ開けていた。
「アリス、何してるんだ! 早くしないと奴らが」
「このまま放っておけない!」
 尚も扉と奮闘するアリスにチャールズは、やれやれと首を振った。
「分かったよ」
 チャールズはアリスに手を貸すと、意外にもすんなりと扉は開いた。
「あれ?」
「アリス、これは押すんじゃない。ひくんだ」
 扉の中には以前、アリスにルイス・キャロルの新聞記事を渡してくれた老人が目をぱちくりさせていた。
 二人はホール全ての扉を開け放つと、再び長い廊下を走り渡った。
「逃亡者だ!」
「いけない、ばれた」
「もう少しで出口なのに!」
 廊下の曲がり角より、黒い服の警備員が警棒を振りかざしながら、アリス達に迫ってきた。
 そして、太い腕がアリスにつかみかかろうとしたがアリスはその手をのけぞって交わすと、バレリーナの様に高く上げたつま先を警備員の無骨なあごにヒットさせた。
「ぐあっ!」
 不意の攻撃に警備員はカエルが潰れたような不快な声を出して、倒れ込んだ。
「君のその身体能力はどこで手に入れたんだ?」
 チャールズはアリスの戦闘力に半ばあきれていた。
「私が閉じ込められている間中、単に呆然としているだけだと思った?」
「ああ、病室トレーニングが功を奏したようだね」
 チャールズはアリスを茶化しながら、更に現れた警備員を腰にしまっていた麻酔銃で、2人、3人と倒していった。
「それがあるなら、最初から使ってよ」
「麻酔弾は、一介の数学教授には高い代物なんでね。それに僕の射撃の腕は、自慢できた物じゃない。アリスを傷つけないためにもあんまり使いたくはないんだよ。さあ、ここを抜ければ中庭に車を停めている」
 チャールズに従って、アリスは石畳の階段を下った。
 久しぶりに長距離を走ったために、膝は軋み、足の裏は擦り切れて血が滲んでいたが、希望に包まれたアリスには平気だった。見えてきた光を逃すまいと懸命に走った。
 そしてとうとう、緑の草が茂る中庭に出ると日の光がアリスの目をさした。
「ああっ!」
「アリス!」
 強い光を浴びたアリスは、途端に脳裏に悪夢の様な映像が映し出されるのと足元が崩れ去っていく感覚にとらわれた。
(そんな、こんな時に…)
「そうだ、アリス苦しいだろう」
「ラース!」
 膝から崩れ落ちたアリスを芝生に横たえたチャールズの背後には、抜け道を通ってきた血まみれのラースが立っていた。
「幼い頃から、少しずつ与えてきた甘美な幻覚剤だ。そう簡単には消えやしないよ」
(そんな…この症状は事故の後遺症じゃなかったの!?)
 アリスは、薄れいく意識をわずかに残った気力だけで繋ぎとめている状態だった。
「ラース、君のやった事は全て僕が暴いた。アリスが事故にあった時から偽りの薬を使い続けてきたんだろう!」
 チャールズは麻酔銃をラースに向けて発砲した。が、打たれた衝撃で少しのけぞったものの、ラースは不敵な笑みを浮かべたままだ。
「残念だったな、チャールズ。専門家の私に麻酔は効かないんだよ! 人を殺せないその甘さが命とりだったな!」
 すると、ラースは白衣の下からメスを取り出してチャールズに襲い掛かろうとした。
 しかし、チャールズは麻酔銃をさげた。
 ラースの背後には無数の患者たちが忍び寄り、一斉にとびかかってきた。それは、アリスが見捨てずに自由にした者たちだった。あっという間にラースは取り囲まれ、メスは採り上げられ、壮絶なリンチのうちに最初はあげていた悲鳴もやがて聞こえなくなった。
「アリス! アリス聞こえているか!? もう少しだ、もう少しで君は自由になれるんだ!」
 アリスに向き直ったチャールズは、懸命に声をかけ続けたが悪夢に捕らわれたアリスの意識はそう簡単には戻ることができない。
 悪夢の中でアリスはもう一人の自分と戦っていた。ここで負ければ今度こそ完全に彼女の自我は失われてしまう。
「そうだ、これでアリスを救えるかもしれない」
 チャールズはポケットに入れていた麻酔弾用の稀釈剤のカプセルを口に入れるとそのままアリスに口づけた。舌で押し込むと、アリスの喉が動き、暫くして閉じかかっていた瞼が花が咲くように開いた。焦点はチャールズの顔で結ばれ、少し驚いているようだ。
「ああ、良かった!」
 チャールズは口を離すと、アリスを思いっきり抱きしめた。
 自体がまだ呑み込めていないアリスは、頬を桃色に染めながらチャールズの胸の暖かさを感じていた。
 チャールズの貸してくれたコートの温もりと丁寧な運転の車の振動が疲労したアリスの身体に心地よった。
「色々ありがとう、チャールズ。でも、ここを抜け出しても私には行くところがない」
「心配しないで。ご両親には、ラースのした事全てを話す。きっと、分かってくれるさ。それにもし、君が家に帰れなくても…」
 チャールズは、そこまで言うと口をつぐんだ。
「帰れなくても…?」
「落ち着くまで僕のところに居れば、いい。もちろん、君が嫌じゃなければだけど」
「気持ちは嬉しいわ。だけど、私はもうレディではないし…」
「いいや、アリス。君はどんな女性もかなわないほどの強くて気高いレディだよ。だけど、まずは、そのレディに素敵なドレスを仕立ててあげないとね。オックスフォード大学の教授が奮発してあげよう」
 アリスは、記憶の中よりも目尻に皺が寄るようになった、しかし夢見るような瞳は変わらないチャールズの横顔を見つめて微笑んだ。
 病室の枕の下の新聞記事はもう必要なかった。
 

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