簡単な曲ばかり選ぶのは、彼女に技術が足りない所為なのだそうだ。
 自分で言っていたことだし、僕には音楽の才能もあまりないから分からないけれど、少なくとも僕はそれで元気を貰っていた。

 大丈夫。
 安心して。
 傍にいるわ。

 そんな言葉が聴こえてくるような夢心地が、毎日続いて幸せである。
 これから先もずっと、こんな日々が続いてくれるだろうと想像すると、頬が緩んで仕方がない。
 こんなことを言ったら、彼女は怒り出すだろうけれど。

「今日は、何を弾いているんだい?」

「クライスラー作曲”愛の悲しみ”という曲です」

「愛の……また随分とらしくない曲だね。君にしては、珍しくないかな?」

「そうでしょうか?」

 珍しい。
 昔は、月の光を含む”ベルガマスク組曲”や”ドリー組曲”といった、アップテンポであったり楽しくゆったりとした曲などを好んで弾いていたのに。

 どうして今になって、全く違う趣向に変えてきたのだろう。
 そう、尋ねたかったのだけれど。
 横目に見えた彼女の口元が、あまり笑っていないことに気が付いて、やめた。

 きっと、思うところがあるのだろう。
 そう落とし込んで、納得して、飲み込んで、それ以上は何も聞かないようにした。
 口にしてしまえば、彼女は演奏を止めてしまう。
 僕は、なるべく長く、彼女の演奏に酔いしれていたいのだ。

 だから、僕もたまには無口になろう。
 彼女のように、音を楽しむ為に。

 目を閉じてみると、それはとても幻想的な音色に聴こえた。
 すぐ隣から鳴っている筈の音が、彼女が鳴らしている筈の旋律が、どこか遠くの、こことは違う場所から響いてくるようだ。
 人によって全く違う旋律があって、けれどそれをどれも否定できないから、クラシックは素晴らしい。昔、彼女にそんなことを言われたっけ。
 僕の拙い演奏でさえも、彼女は拍手を送ってくれた。技術はちょっとあれだけど、心は籠っていると。
 今思えば、ちょっと失礼な言い分ではあるな。