「――最後まで、弾いてくれないかな?」

 僕がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
 演奏が途切れた辺りの場面へとその細い指を運び、音を連ねる。
 優しく重なる旋律は、僕の胸へとすっと溶けるようにして馴染んだ。

「あぁ、この音だ。この音だよ。僕は、君のこの音が大好きだったんだ」

「……似合わないって、言ったくせに」

「そうだね。確かに、似合わなかった。君はその小さな手で、無理なオクターブを必死になって弾いていたね。その姿が、あまりにおかしくて似合わなくて――たまらなく愛おしかった。ちょっとの背伸びをする小さな身体が目に焼き付いて、今でも離れないんだ」

 初めて会ったあの日のことは、どれだけの日を重ねても褪せることない記憶として、脳裏に刻まれている。

 元より、忘れる気なんてないんだけれど。
 この先、更に時間を重ねようとも、きっといつでも思い出せる。
 思い出して、笑っていられる。

 予感じゃない、確証だ。
 自分のことは、自分が一番分かっている。

「随分と、幸せな時間だった。楽しかったな」

「……そうですか」

 言わずもがな、なんだけどな。
 言葉にしてしまうくらい、幸せで溢れている。
 我ながら、恵まれ過ぎていた気もするけれど。

 愛し、同時に愛される人と結ばれて、ちゃんとした仕事に就いてその人と結婚をして、こうして幸せな時間を過ごせて。
 大好きな音色を聞きながら、日々を重ね、気が付けば歳を重ね――贅沢なことだ。

「さて。そろそろ……今日は休もうかな」

「ご存分に……いつになっても、私はあなたの傍を離れはしません。安心して、お眠りになってください」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

 僕は今日もまた、目を閉じる。
 彼女と過ごしたどの日をも思い出して、その温かさに浸って、深い深い眠りの海へ。

 それは、新しい明日への道標だ。
 この記憶がある限り――いや、たとえどこかに忘れてしまっても、きっと大丈夫。

 優しい音色が、正しい場所へと導いてくれる。

「おやすみなさい……先輩」

 最後に聞こえた、懐かしい呼び方。
 嫌なくらい耳に馴染んで、僕の目にも雫が浮かんでしまった。



 僕の意識を包むのは、彼女が奏でる別れの曲。
 そういえば、フランスでは”親密”というタイトルらしいな。
 全世界、それで統一してしまえばいいのに。

 せっかく彼女が泣いてくれているんだ。
 リクエスト通り、笑ってやろうじゃないか。
 ありったけの力を込めて、ひたすらに笑ってみようじゃないか。
 笑えない君に代わって、僕がしっかり二人分。

――今年で丁度、五十回目の結婚記念日――

 案外――いや、とても、満足のいく人生だった。
 最後にこの音で送られるのは、悪くない。 
 おやすみ。



 僕の、最愛の人。