私の妻は物静かだ。
僕が話しかけるとそれに返して、自分からはあまりものを言わない。
効率的、と言えば聞こえは良いが、それは違う。
話すと疲れるから。そう言っていたことがある。
そんな彼女にも、趣味はあった。
ピアノを弾いている時だけは、どんな時よりも幸せそうな笑みを浮かべて、音と対話をする。
それが、彼女の《言葉》なのだ。
学生の頃、一つ年下である彼女からの告白に僕が答えた時。
二十五で、結婚をしようと申し出た時。
会社で昇格したんだと話した時。
いつでも彼女は笑って喜び、褒め、幸せそうな表情をしていたのは覚えている。しかし、それが薄れるくらい、ピアノを弾く度に彼女が浮かべる笑顔は、眩しい。
別にそれが、嫌な訳ではない。
彼女の奏でるピアノの音色は素晴らしいもので、聴いているこちらにも心が伝わって来る。
音に、命があるのだ。
そんな彼女だから、僕は――
何を思っているのか、本心を確かめたくなった。
「ねぇ小百合さん。君は、ピアノの何が好きなんだい?」
そんな僕の質問に、彼女は怪訝そうな表情。
かけていた眼鏡を外し、僕へと向かい合う。
「珍しい質問ですけれど……あなた、それはとても簡単で、けれどとっても意味合いの多い、難しい質問です」
「聞き方が悪かったね、ごめん。そうだな。小百合さんは、ピアノを弾いている時、どんなことを考えているの? 今、君のピアノを聴くのは僕しかいない。けれど、とっても幸せそうに見えるんだ」
「考えたこともありません――私、そんなに良い表情で弾いてますか?」
僕は直ぐに頷いた。
僕のどんな晴れやかな事よりも明るく、無邪気に、戯れるような音色を奏でる彼女が、その実無自覚だったとは驚きだ。
益々以って、今更ながら興味が湧いて来た。
「日に日に、その明るさが増していくように。君がピアノと向かい合っている時、少し嫉妬してしまいそうになったよ。ほら、僕が会社で昇格した日の夜も、君は確かピアノを弾いていたね。月の光だったかな」
「それは嬉しいことですよ、あなた。きっと、必要だったことなのです」
彼女は優しく微笑んで、僕の手を取った。
「君はたまに、不思議なことを言うね。自慢じゃないけれど、僕は君と同じ、そこそこ高い大学を出ているのに。分からないことが、たまにある」
「人生のスパイスだったと思いましょう。はっきりしなくとも、無駄にならないものはあります」
「そうかい。じゃあ、そうするよ」
「ええ」
そうして僕の手を離すと、彼女はまた、ピアノと睨めっこ。
笑顔一辺倒で、彼女は勝ちっぱなしだ。
僕が話しかけるとそれに返して、自分からはあまりものを言わない。
効率的、と言えば聞こえは良いが、それは違う。
話すと疲れるから。そう言っていたことがある。
そんな彼女にも、趣味はあった。
ピアノを弾いている時だけは、どんな時よりも幸せそうな笑みを浮かべて、音と対話をする。
それが、彼女の《言葉》なのだ。
学生の頃、一つ年下である彼女からの告白に僕が答えた時。
二十五で、結婚をしようと申し出た時。
会社で昇格したんだと話した時。
いつでも彼女は笑って喜び、褒め、幸せそうな表情をしていたのは覚えている。しかし、それが薄れるくらい、ピアノを弾く度に彼女が浮かべる笑顔は、眩しい。
別にそれが、嫌な訳ではない。
彼女の奏でるピアノの音色は素晴らしいもので、聴いているこちらにも心が伝わって来る。
音に、命があるのだ。
そんな彼女だから、僕は――
何を思っているのか、本心を確かめたくなった。
「ねぇ小百合さん。君は、ピアノの何が好きなんだい?」
そんな僕の質問に、彼女は怪訝そうな表情。
かけていた眼鏡を外し、僕へと向かい合う。
「珍しい質問ですけれど……あなた、それはとても簡単で、けれどとっても意味合いの多い、難しい質問です」
「聞き方が悪かったね、ごめん。そうだな。小百合さんは、ピアノを弾いている時、どんなことを考えているの? 今、君のピアノを聴くのは僕しかいない。けれど、とっても幸せそうに見えるんだ」
「考えたこともありません――私、そんなに良い表情で弾いてますか?」
僕は直ぐに頷いた。
僕のどんな晴れやかな事よりも明るく、無邪気に、戯れるような音色を奏でる彼女が、その実無自覚だったとは驚きだ。
益々以って、今更ながら興味が湧いて来た。
「日に日に、その明るさが増していくように。君がピアノと向かい合っている時、少し嫉妬してしまいそうになったよ。ほら、僕が会社で昇格した日の夜も、君は確かピアノを弾いていたね。月の光だったかな」
「それは嬉しいことですよ、あなた。きっと、必要だったことなのです」
彼女は優しく微笑んで、僕の手を取った。
「君はたまに、不思議なことを言うね。自慢じゃないけれど、僕は君と同じ、そこそこ高い大学を出ているのに。分からないことが、たまにある」
「人生のスパイスだったと思いましょう。はっきりしなくとも、無駄にならないものはあります」
「そうかい。じゃあ、そうするよ」
「ええ」
そうして僕の手を離すと、彼女はまた、ピアノと睨めっこ。
笑顔一辺倒で、彼女は勝ちっぱなしだ。