「共感覚――文字や言葉に色を見たり、形に味を感じたりする、超常的な知覚現象のことを言います」

「色…」

「ええ。貴女が見たそれは、人の感情。拍手の裏に隠された、本当の気持ちと言えましょう」

「本当の――あの、その色って、何が何だか分かりますか?」

「種類ですか。教えない訳にはいきませんが……きっと、少なからず、それは貴女を傷つけます。それでも?」

「はい。教えてください」

 少し強く出ると、先生は引き出しを漁り始めた。
 そうして取り出したのは、一枚、二枚と、多くの色が分けて載せてある、表のようなものだ。

 安心、不安、喜び、悲しみ、怒り――

 様々な感情に関する、単語と色が隣接している。
 先生からそれを受け取ると、私は迷わず紫色を探した。

 あれだけ多く見えた色、あの場にいた、沢山の人々が感じていた色。
 時分なりの最高の演奏を聴いた人たちの、素直な感情。

「紫色、紫色――」

 あった。
 紫色――不満。

(え――?)

 これは一体、どういうことなのだろう。
 私は咄嗟に目を擦って、もう一度紙面に目を落とした。
 紫色――不満。

(不満……不満? 不満って――え…?)

 整理が追い付かない。
 多くの人が、その色をしていた。
 その一部は先生にも視えていた。

 そりゃあ、やっかみや恨み節の一つも、生徒ならばあろう。
 学年や年齢など関係なく、音楽を奏でる個人を見た時、人はそれに善し悪しどちらかの評価をつけるものだ。

 しかし――そうだとするならば。

 一割程度の人には、それが見て取らなかった。いや、そも色というものが浮かんでいない人もいた。

 無色とは――

「無色とは、対象に――貴女に、興味がないことのあらわれです」

 その一言を機に私は、また意識を手放した。
 正確には、気が付けば、自分のベッドにずぶ濡れで寝ていた、という感じだ。
 どうやってか病院を後にし、どうやってか夕食を食べるか遠慮するかして、どうやってか着替え、どうやってか風呂をすませ――どうやってか、自室にいる。

『この表、コピーするって言ったら、受け取りますか?』

 そういえば、先生がそんなことを言っていた気がする。
 力なく転がって、私はベッドのすぐ傍らにあったバッグから、件の紙を取り出した。
 仰向けになりながら、それを持ちあげてみる。

「赤、緊張や怒り……緑、リラックス……黄色、幸運……青、冷静…………」

 どれを眺めても、全く実感の湧かない、気味の悪い限りの文字の羅列。
 一つ、また一つと、色と感情を行ったり来たり。

「あ――」

 不意に見つけたのは、灰色。
 学校での去り際、友人に見た色だ。

「灰色は……」

 灰色――不安。

「不安……」

 数秒後、その二文字が認識できるようになると、目元に溢れた涙が、頬を伝って枕を濡らした。
 これが正直な気持ちだと言うのなら、あの子は、言葉や態度ばかりでなく、本当に私を心配してくれていたということになる。

 ありがとう。

 ごめんね。

 そんな言葉が浮かんだ。
 しかし、どうしたことだろう。嗚咽すら感じる間もなく、それらはすぐに消えてしまった。
 中学の頃の経験。

 そして、何より強い衝撃であった此度の件。
 それらが重なって、膨れて、ただただ強いだけの暴力となって、私の頭の中を埋め尽くしていたからだ。

 もう、何も信じられない。
 もう、誰も信用できない。

 そればかりが、頭の中をぐるぐる、ぐるぐる。ぐるぐる回って、溶け込んで、それ以外何も考えられなくなっていった。