「共感覚?」
ある病院の先生が口にした言葉を、私はそのまま聞き返した。
それと見て、まず間違いはないだろう。
先生は、そう付け足して頷いた。
事の発端は、学園祭での演奏だった。
大学に入って早三ヶ月。
秋にある学園祭のイベントの一つとして行われる、各学年から代表で一人選出してコンサートを行う"天上の舞踏会"で、特待生で入った私が選ばれた。
中学の頃、黒髪眼鏡という地味な見た目だけで虐めにあい、そのせいで性格が少し曲がっていた私は、一年生だし、初めは見せしめ、あるいはなんとなくで選ばれたのでは、なんて疑った。
しかし、後から先生に話を聞くと、代表は教師間の会議を経て選ばれるらしかった。
夏休みまでの間で一人一人を吟味し、選ばれると。
そんなことを聞いてしまっては、少し考えて、私は結局舞台に立つことを決めた。
選曲は個人の自由。
最大四曲で、バラバラでも、組曲でも良い。
夏休みの間で仕上げ、それを舞踏会で披露するのだ。
周りの同級生とあまり繋がりのなかった私からしたら、それは割と地獄だった。
私の事を知らない大半の人間に向けて、いきなり演奏を聴かせるなんて、それほど怖いことはない。
なんて愚痴を垂れながらも、決定してしまったからには、やり遂げる義務がある。
あれやこれやと迷った末、私はドビュッシーの"版画"三曲に決めた。
内二曲は高校生の頃に弾いたことがあったから、夏はそれらを復習しつつ、最後の一曲を仕上げるだけ。
不安は募るばかりだけれど、今はやれることを百パーセントやるだけだ。
そうして迎えた、舞踏会当日。
せっかく無理して着込んだ華やかなドレス姿の私を、唯一仲の良かった友人は「似合わないね」と笑った。
私自身でも思っていたことだから怒りはしないけれど、流石に、ちょっと凹んだ。
「酷いなぁ。地味で眼鏡な私でも、一応女の子なんだよ?」
「女の子にも種類はあるってね」
「それ、ますます悪く聞こえない?」
「ふふふ。まぁ気にしない気にしない」
友人は笑って誤魔化した。
「あと三十分くらいだよね」
「うん。今更だけど、すごく緊張してきた……胃薬持ってない?」
「人の字なら幾らでも。大丈夫、あんたならちゃんと弾けるって」
「その一言がプレッシャーなんだけどなぁ…まぁ、言ってても仕方ないか。席戻ってて、譜面見直しとくから」
「その意気その意気。頑張ってね、後で外の屋台奢ってあげるから」
「ありがと」
礼を言って手を振ると、友人は舞台袖を去っていった。
「さて」
宣言通り、ちゃんと最後まで仕上げておかないと。
せめて友人にだけは、背筋を伸ばせる演奏を。
そんなことがありながらの登壇。
思い返せば、ガチガチに固まっていた私を、ユーモアで解してくれたのかも――なんて、都合の良い解釈かな?
まぁいいか。
人は皆、相手の真理なんて分かりはしないのだから。
都合の良いように解釈して、飲み込んで、自分の力にするくらい、今は許してほしい。
そうでないと、重圧に負けてしまいそうだ。
「一年代表――」
アナウンスと同時に、舞台の幕が上がる。
代表、なんて肩書き付きで名前を呼ばれると、また緊張感が襲ってきた。
しかし、不意に視界奥に写った、最後尾でこちらを見つめる友人と目が合うと、自然に少し、それも緩んだ。
(大丈夫。出来る。弾ける)
暗示をかけるように言い聞かせる。
「選曲は、ドビュッシー作曲"版画"です」
曲名が読み上げられると、私は客席に向かって一礼。
椅子に座り、目を閉じて深呼吸をする。
少し呼吸も整うと、ようやくと鍵盤に指を置いて、
(よし…!)
一曲目”塔”弾き始めた。
掴みは完璧。音も、よく伸びている。
いける。
我ながら不思議な自信の元、私は次々と音を紡いでいく。
そうしてしばらく、私は自分の演奏に溺れた。
あらゆる感覚のフレーズにさしかかっても、笑顔で、楽しく弾けていた。
二曲目”グラナダの夕暮れ”も、同じく絶好調。
失敗なんて、考えられない程だった。
最終三曲目”雨の庭”は、速いトリルに対するアプローチがとにかくも難しい、上級の曲だ。
しかし、ひと月以上丸々費やした時間は無駄にはなっておらず、一度覚えた前曲二つより、集中してミスもなく、最後の音を響かせることが出来た。
最高の気分だった。
初めて登壇したこんな晴れやかな舞台で、自分の大好きな曲を、こんなにも気持ち良く弾き終えることが出来るとは、思いもしなかったから。
ただ、とりあえずのミスなく、最後まで辿り着ければ良い――くらいに思っていたのに。
どうしよう。
涙が出そうだ。
私をここに立たせてくれた教師陣に、感謝を。
普通演奏者は、舞台上から声を出して礼は言わない。
でも、だからこそ、それをしてしまうくらいに嬉しい出来事なのだと、先生たちには伝えたい。
席から眺める大勢の人からの喝采を受け、私は立ち上がった。
これまでにない程、清々しい気分で舞台上を歩き、少し前に出て頭を下げた。
そして顔を上げ、私を説得してくれた先生を見つけて、
「ありがとうござい――」
ました。
そうは続かなかった。
私の視界を埋め尽くしていたのは、その周りにいる数名の先生だけでなく、その隣、また少し離れた傍の人――多くの人を取り囲む、紫色の靄だった。
(なに、あれ……)
そう、心の中で問いかけ、何か答えを出そうと思考を巡らせている内、私はいつの間にか気を失っていた。
ある病院の先生が口にした言葉を、私はそのまま聞き返した。
それと見て、まず間違いはないだろう。
先生は、そう付け足して頷いた。
事の発端は、学園祭での演奏だった。
大学に入って早三ヶ月。
秋にある学園祭のイベントの一つとして行われる、各学年から代表で一人選出してコンサートを行う"天上の舞踏会"で、特待生で入った私が選ばれた。
中学の頃、黒髪眼鏡という地味な見た目だけで虐めにあい、そのせいで性格が少し曲がっていた私は、一年生だし、初めは見せしめ、あるいはなんとなくで選ばれたのでは、なんて疑った。
しかし、後から先生に話を聞くと、代表は教師間の会議を経て選ばれるらしかった。
夏休みまでの間で一人一人を吟味し、選ばれると。
そんなことを聞いてしまっては、少し考えて、私は結局舞台に立つことを決めた。
選曲は個人の自由。
最大四曲で、バラバラでも、組曲でも良い。
夏休みの間で仕上げ、それを舞踏会で披露するのだ。
周りの同級生とあまり繋がりのなかった私からしたら、それは割と地獄だった。
私の事を知らない大半の人間に向けて、いきなり演奏を聴かせるなんて、それほど怖いことはない。
なんて愚痴を垂れながらも、決定してしまったからには、やり遂げる義務がある。
あれやこれやと迷った末、私はドビュッシーの"版画"三曲に決めた。
内二曲は高校生の頃に弾いたことがあったから、夏はそれらを復習しつつ、最後の一曲を仕上げるだけ。
不安は募るばかりだけれど、今はやれることを百パーセントやるだけだ。
そうして迎えた、舞踏会当日。
せっかく無理して着込んだ華やかなドレス姿の私を、唯一仲の良かった友人は「似合わないね」と笑った。
私自身でも思っていたことだから怒りはしないけれど、流石に、ちょっと凹んだ。
「酷いなぁ。地味で眼鏡な私でも、一応女の子なんだよ?」
「女の子にも種類はあるってね」
「それ、ますます悪く聞こえない?」
「ふふふ。まぁ気にしない気にしない」
友人は笑って誤魔化した。
「あと三十分くらいだよね」
「うん。今更だけど、すごく緊張してきた……胃薬持ってない?」
「人の字なら幾らでも。大丈夫、あんたならちゃんと弾けるって」
「その一言がプレッシャーなんだけどなぁ…まぁ、言ってても仕方ないか。席戻ってて、譜面見直しとくから」
「その意気その意気。頑張ってね、後で外の屋台奢ってあげるから」
「ありがと」
礼を言って手を振ると、友人は舞台袖を去っていった。
「さて」
宣言通り、ちゃんと最後まで仕上げておかないと。
せめて友人にだけは、背筋を伸ばせる演奏を。
そんなことがありながらの登壇。
思い返せば、ガチガチに固まっていた私を、ユーモアで解してくれたのかも――なんて、都合の良い解釈かな?
まぁいいか。
人は皆、相手の真理なんて分かりはしないのだから。
都合の良いように解釈して、飲み込んで、自分の力にするくらい、今は許してほしい。
そうでないと、重圧に負けてしまいそうだ。
「一年代表――」
アナウンスと同時に、舞台の幕が上がる。
代表、なんて肩書き付きで名前を呼ばれると、また緊張感が襲ってきた。
しかし、不意に視界奥に写った、最後尾でこちらを見つめる友人と目が合うと、自然に少し、それも緩んだ。
(大丈夫。出来る。弾ける)
暗示をかけるように言い聞かせる。
「選曲は、ドビュッシー作曲"版画"です」
曲名が読み上げられると、私は客席に向かって一礼。
椅子に座り、目を閉じて深呼吸をする。
少し呼吸も整うと、ようやくと鍵盤に指を置いて、
(よし…!)
一曲目”塔”弾き始めた。
掴みは完璧。音も、よく伸びている。
いける。
我ながら不思議な自信の元、私は次々と音を紡いでいく。
そうしてしばらく、私は自分の演奏に溺れた。
あらゆる感覚のフレーズにさしかかっても、笑顔で、楽しく弾けていた。
二曲目”グラナダの夕暮れ”も、同じく絶好調。
失敗なんて、考えられない程だった。
最終三曲目”雨の庭”は、速いトリルに対するアプローチがとにかくも難しい、上級の曲だ。
しかし、ひと月以上丸々費やした時間は無駄にはなっておらず、一度覚えた前曲二つより、集中してミスもなく、最後の音を響かせることが出来た。
最高の気分だった。
初めて登壇したこんな晴れやかな舞台で、自分の大好きな曲を、こんなにも気持ち良く弾き終えることが出来るとは、思いもしなかったから。
ただ、とりあえずのミスなく、最後まで辿り着ければ良い――くらいに思っていたのに。
どうしよう。
涙が出そうだ。
私をここに立たせてくれた教師陣に、感謝を。
普通演奏者は、舞台上から声を出して礼は言わない。
でも、だからこそ、それをしてしまうくらいに嬉しい出来事なのだと、先生たちには伝えたい。
席から眺める大勢の人からの喝采を受け、私は立ち上がった。
これまでにない程、清々しい気分で舞台上を歩き、少し前に出て頭を下げた。
そして顔を上げ、私を説得してくれた先生を見つけて、
「ありがとうござい――」
ました。
そうは続かなかった。
私の視界を埋め尽くしていたのは、その周りにいる数名の先生だけでなく、その隣、また少し離れた傍の人――多くの人を取り囲む、紫色の靄だった。
(なに、あれ……)
そう、心の中で問いかけ、何か答えを出そうと思考を巡らせている内、私はいつの間にか気を失っていた。