気が付けばバスは、一つ先のバス停へと辿りついていた。
「一駅一曲、か。急に進み始めちゃったね。勿体ない」
「ご自分のスマホには、音楽入ってないんですか?」
「プレイヤーの方に入れてるんだけど、こんな日に限って忘れちゃって。おまけに、スマホは制限かかっちゃってるのよ」
「それは災難。なら、言ってもあと四曲程でしょうから、今日はこのままで」
「ありがと。次、何でもいいからかけて」
分かりました。
そう応じてかけるのは、リスト作曲“エステ荘の噴水”。
超絶技巧の導入部分で、またも彼女はそれを言い当てた。
先のオルゴールには少し驚いたが、もう流石に驚きはしない。
当たり前なのだ。
そりゃあ、これだけの若さなら知らない曲は多くあるだろうが、引き出しは確実に僕より多い筈。
どちらかと言えば、「あ、知ってるんだ」と思う方が失礼だろうな。
そうしてしばらく聴き惚れていると、今度は、膝に置いたバッグの上に指を乗せ、指を滑らせ始めた。
流麗に、繊細に、独立して生きているように速く動く指先。
流石にバスの車内とあって大人しくはあるが、そこに鍵盤があるように、音を鳴らしているように、本格的な指の動きを見せる。
そこでもやはり、彼女は目を閉じて微笑んでいる。
聞こえない筈の自分の音と対話するような姿は、まるで、そこだけ世界を切り取ったようだ。
すぐ隣にいて、イヤホンを共有している僕でさえ置き去りにして、ただ一人だけの世界に浸って音を奏でている。
中盤に差し掛かって顔を出す、ハープを鳴らしたような高音は、外に振り続く雨粒のように、耳に一つずつはっきりと響く。
そして、激しくも優しい和音で、最後の音を奏で終わった。
「うーん。今のだと、二、三回はミスタッチしてるかな」
「分かってしまうんですね」
「何となくだけどね。指のもつれとか、強弱に対する指先のアプローチが、まだまだ甘いんだよ、私」
「そんな。まるで、鍵盤が見えているようでした。少なくとも、僕には真似できない」
溜息交じりにそう言うと、彼女は「僕には?」と、そのフレーズが引っかかったようだった。
タイミングよく次のバス停に辿り着いたところで、僕にその理由を問うた。
音大や、ましてプロなぞになれる腕がないことは自分で一番分かっているが、小一からピアノを習っていて、レッスン曲意外でも、好きな曲を弾くことがあるのだと話した。
すると彼女は、へぇ、と短く置いて、
「そのスマホ、君の演奏はないの?」
と尋ねてきた。
答えとしては、あるにはある。
丁度、半年前の冬にあった発表会で弾いた姿を、データで先生から貰っていたのだ。
が、それは絶対に見せたくはない。
特に、天上に通うような人には、ミスタッチも何度かしたあんな拙い演奏は見せられない。
だから、はぐらかして逃げるつもりだった。
ない、と一言だけ言って、次の曲をかけるつもりだった。
それなのに。
「聴きたいな。君の音」
彼女がそんなことを言ったものだから、僕はつい、動画のページをタップしていた。
君の演奏、と置かなかったことで、彼女は僕の演奏ではなく、僕の鳴らす音自体に興味があるのだろうと思えた。
勝手な解釈だと笑わば笑え。彼女のその言葉が、僕には「間違いなんて気にしないから、どんな音を鳴らすのか聞かせて欲しい」と言われているようで、自然と少し、心が落ち着いたのだ。
「半年前の、発表会です……動画ですが、せめて姿は――」
「見せてくれない?」
「――ひ、一人でどうぞ。スマホ貸しますから。僕は見ません」
「分かった。ありがと」
自然と出て来た彼女の言葉に、僕は少しどきりとしてしまった。
ありがとう、か。
断られることを承知で言っていたのかな。
だとすると――何だろう。
あまり、悪い気はしないかな。
僕が指定した画面をタップすると、すぐに演奏が始まった。
慌てて逸らした視線は、宛てなく天井や運転手、足元に向かった後、彼女のなぞった隙間から覗く窓の外へと落ち着いた。
今、彼女の耳元では、僕の演奏した“喜びの島”が流れている。
思いがけず深く零れた溜息は、唯一の逃げ場であるその隙間を埋めてしまった。
「一駅一曲、か。急に進み始めちゃったね。勿体ない」
「ご自分のスマホには、音楽入ってないんですか?」
「プレイヤーの方に入れてるんだけど、こんな日に限って忘れちゃって。おまけに、スマホは制限かかっちゃってるのよ」
「それは災難。なら、言ってもあと四曲程でしょうから、今日はこのままで」
「ありがと。次、何でもいいからかけて」
分かりました。
そう応じてかけるのは、リスト作曲“エステ荘の噴水”。
超絶技巧の導入部分で、またも彼女はそれを言い当てた。
先のオルゴールには少し驚いたが、もう流石に驚きはしない。
当たり前なのだ。
そりゃあ、これだけの若さなら知らない曲は多くあるだろうが、引き出しは確実に僕より多い筈。
どちらかと言えば、「あ、知ってるんだ」と思う方が失礼だろうな。
そうしてしばらく聴き惚れていると、今度は、膝に置いたバッグの上に指を乗せ、指を滑らせ始めた。
流麗に、繊細に、独立して生きているように速く動く指先。
流石にバスの車内とあって大人しくはあるが、そこに鍵盤があるように、音を鳴らしているように、本格的な指の動きを見せる。
そこでもやはり、彼女は目を閉じて微笑んでいる。
聞こえない筈の自分の音と対話するような姿は、まるで、そこだけ世界を切り取ったようだ。
すぐ隣にいて、イヤホンを共有している僕でさえ置き去りにして、ただ一人だけの世界に浸って音を奏でている。
中盤に差し掛かって顔を出す、ハープを鳴らしたような高音は、外に振り続く雨粒のように、耳に一つずつはっきりと響く。
そして、激しくも優しい和音で、最後の音を奏で終わった。
「うーん。今のだと、二、三回はミスタッチしてるかな」
「分かってしまうんですね」
「何となくだけどね。指のもつれとか、強弱に対する指先のアプローチが、まだまだ甘いんだよ、私」
「そんな。まるで、鍵盤が見えているようでした。少なくとも、僕には真似できない」
溜息交じりにそう言うと、彼女は「僕には?」と、そのフレーズが引っかかったようだった。
タイミングよく次のバス停に辿り着いたところで、僕にその理由を問うた。
音大や、ましてプロなぞになれる腕がないことは自分で一番分かっているが、小一からピアノを習っていて、レッスン曲意外でも、好きな曲を弾くことがあるのだと話した。
すると彼女は、へぇ、と短く置いて、
「そのスマホ、君の演奏はないの?」
と尋ねてきた。
答えとしては、あるにはある。
丁度、半年前の冬にあった発表会で弾いた姿を、データで先生から貰っていたのだ。
が、それは絶対に見せたくはない。
特に、天上に通うような人には、ミスタッチも何度かしたあんな拙い演奏は見せられない。
だから、はぐらかして逃げるつもりだった。
ない、と一言だけ言って、次の曲をかけるつもりだった。
それなのに。
「聴きたいな。君の音」
彼女がそんなことを言ったものだから、僕はつい、動画のページをタップしていた。
君の演奏、と置かなかったことで、彼女は僕の演奏ではなく、僕の鳴らす音自体に興味があるのだろうと思えた。
勝手な解釈だと笑わば笑え。彼女のその言葉が、僕には「間違いなんて気にしないから、どんな音を鳴らすのか聞かせて欲しい」と言われているようで、自然と少し、心が落ち着いたのだ。
「半年前の、発表会です……動画ですが、せめて姿は――」
「見せてくれない?」
「――ひ、一人でどうぞ。スマホ貸しますから。僕は見ません」
「分かった。ありがと」
自然と出て来た彼女の言葉に、僕は少しどきりとしてしまった。
ありがとう、か。
断られることを承知で言っていたのかな。
だとすると――何だろう。
あまり、悪い気はしないかな。
僕が指定した画面をタップすると、すぐに演奏が始まった。
慌てて逸らした視線は、宛てなく天井や運転手、足元に向かった後、彼女のなぞった隙間から覗く窓の外へと落ち着いた。
今、彼女の耳元では、僕の演奏した“喜びの島”が流れている。
思いがけず深く零れた溜息は、唯一の逃げ場であるその隙間を埋めてしまった。