今の私に足りないもの。

 それは、自分の演奏を「これが私の音だ」と言える勇気だ。
 あの一件で初めて、たまたま色が視えるようになってしまったから、私は怯えて閉じこもった。

 しかし、考えてみれば、本当ならそれ以前から、認める色も、認めない色も、どちらも混在していた筈なのだ。
 視えなくとも確かに存在するそれらに対し、自分を出して、出して、出し尽くして、初めてそれらに認めて貰えるのだ。

 今までずっと、そうしてきたじゃないか。

 ただ好きで、人前に出るのが恥ずかしくて苦手なのに発表会やコンクールに出場して、ただ自分勝手に、がむしゃらに頑張って来た結果が、天上への特待入学だったじゃないか。

 どうして忘れていたのだろう。

 いつから見失っていたのだろう。

 クラシックに対して抱く、純粋な楽しさ。
 忘れていたそれを思い出させてくれたのは、彼だ。
 初めて出会う音に興奮して、興奮したそれらに幸せを覚えていた、音楽を無邪気に楽しむことを知っている彼だ。

(あの子に会えば、きっと――)

 保障はない。
 けれど、その僅かに足りない距離を埋めてくれる可能性が、少しでもあるのなら。
 当たって、もし砕けたとしても、そこに悔いはないはずだ。





 軽くなった足は、まるで羽でも生えたかのように、迷わず私をバス停へと運んだ。
 強く打ち付けるような雨なんて、これっぽちも気にならなかった。
 そして、私が辿り着くと同時に、いつものバスが入って来た。

 一拍遅れて響くのは、わくわくの足音。

 開き切ったこのドアの先に、あの幸せな色が待っている。
 早く、早くと、せがむような早歩きで車内へ入ると、私は迷わず右側――後方に目をやった。
 いつもの席に、彼は座っている。
 それを眺めたくて、少しでもその幸せに触れたくて、私は彼の横を通って一つ後ろの席に座っていたんだ。

 でも、それは昨日まで。
 今日だけは――

 恐る恐る、一歩、また一歩と進んでいく。
 今日も変わらず“桃色”の彼なら、その答えをくれそうな気がする。
 不安はやっぱり拭えないけれど、それでも、明日の一歩を踏み出す力にはなるだろうから。
 勇気を得る為のほんの少しの勇気を、たまには自分から出してみよう。

 彼を観察するのは、これで最後だ。

 一つ、大きく深呼吸をして彼の隣に腰を降ろすと、私はそっと、その楽しげな肩を指先で叩いた。





「ねぇ。それ、何を聴いてるの?」