「ねぇ。それ、何を聴いてるの?」

 不意に肩をつつかれ、控えめな横目で振り返った右隣。僕と変わらない年齢か一つ二つばかり上か、そのくらいの、眼鏡をかけた長い黒髪の女性。

 いつもこのバスに乗って、僕の後ろの席によく座っている。
 今日も私服ということは、やっぱり大学生なのかな。

 肩に感触のあった一度目。ただ触れてしまっただけなのだと思っていたが、二度目、規則的な”とんとんとん”という軽快なリズムで以って、それが故意に向けられたものなのだと理解した。

 右耳のイヤホンを外して聞き返すと、彼女は僕を指さして言った。

「とっても綺麗な音。何を聴いてるの?」

「え? っと――クラシック。フォーレの”無言歌”」

「オーパス一七―三?」

「お、音、漏れてました…!?」

「ちょびっとだけね。まぁでも、大丈夫だよ」

 音漏れに耳を傾けて、何を聴いているのか尋ねてきたのか。
 この人でなければ苦情ものだったな。

「そ、そうですか……それはお恥ずかしい」

「いいのいいの。左側には誰も座ってないわけだからさ」

 バスの二人掛け、それも窓側の席に僕が座っていれば、それは自然、誰も居ないだろうけど――そういう問題なのだろうか。

 真面目そうな見た目の割りに、さっぱりとしているなぁ。

「――って、クラシック分かるんですか?」

「うん。私、音大生。そういう君は高校生だね?」

 制服を着てれば、そりゃあ分かるか。

「はい、二年です。音大……もしかして天上音大ですか?」

「よく知ってるね。まぁ、このバスだったらそれくらいしかないか」

 そう言って、彼女は楽しそうに笑った。
 特にピアノに力を入れている音大である天上は、文字通り貴族学校のようなもの。下手をすれば、安い家が一件建つような学費がかかる。

 奨学金の制度もあり、それを利用して通う手もあるらしいのだが、生半な実力ではその資格も得られない厳しさ。

 その天上は、この一つ前の駅が最寄りである。

 窓の外は、これでもかというくらいの大雨。
 ふと、彼女が僕の横から手を伸ばして、その細い指先で窓をなぞった。
 丁度、彼女の目線の高さだ。

「弱くならないものだね」

「梅雨の時期ですから、仕方ないですよ。朝じゃないだけ、まだマシだと思わないと」

「前向きだねぇ。良いね。まぁ確かにバスも止まってるもんね。これが行きだったら――うん、考えたくはないかな」

 彼女は困り顔で言った。

「遅刻は確実ですね」

 お互いに、だけれど。

 どこまで乗っていくのか尋ねたところ、彼女はこのバスの終点駅である駅――僕も降りる所までらしい。
 今までは、乗って来た時は見ていても、どこで降りているかなんて見たことがなかったから、知らなかった。
 言い方はあれだけれど、特に気にも留めなかったのだ。

 しかし彼女は、僕がそこで降りることを知っていたらしく「一緒だね」と付け足した。
 そりゃあ、僕が特別興味を持たなかっただけで、毎夕見ていたら、いつの間にかどこで降りるかは知ってもいよう。

「しかし、天上を出たばかりですから、まだまだ先は長そうですね」

「バス停、あといくつあるっけ。五つ?」

「ですね。普段はあと十五分くらいなのに、これだと――」

「うん、結構な時間になっちゃいそうだね」

 信号が変わる度、一台、二台くらいしか進んでいない。
 これでは、あとどれだけの時間がかかるか、分かったものではないな。

 また、クラシックの海にでも溺れようか。
 そう思って、片耳のままではあるが、別の曲をかけ始めた。
 すると、スマホを操作する僕の手を目聡く見つけた彼女が、片方空いている僕のイヤホンを横から取り上げて、自身の耳へと装着した。
 表情を窺ってみると、早くかけて早くかけて、と言葉よりも饒舌に語り掛けていた。
 仕方がないと小さく溜息を吐いて、僕は画面をスクロールした先に見つけたある曲を選択し、再生し始めた。

 セヴラック作曲”古いオルゴールが聞こえる時”。

 すると彼女は、最初のワンフレーズでそれが何であるかを言い当て、得意げな表情を浮かべてみせた。
 目を閉じ、片耳に集中して、けれど楽しそうに口元を緩ませて。

「いい曲だよね。さらりと流れるメロディーライン、こんな日には逆にピッタリだよ」

 どうやら、お気に召して貰えたらしい。
 暗く淀んだこんな日には、せめて耳くらい明るくあるべきだ――なんて勝手に思ってかけた曲は、存外と外れではなかったみたいだ。

 しかし。この曲、割とマイナーなところだと思っていたのだが。
 流石は天上の学生だ。

 不思議と心地いい不協和音のワンフレーズを経て、ひと際高音の、明るく楽しいフレーズへと差し掛かった。
 それに合わせるように、呼応するように、彼女は小さく左右へ揺れ始めた。

 無邪気に、それでいて嫋やかに、音をその身に馴染ませる。

「楽しそうですね」

 耐え切れず、つい尋ねてしまった。
 これだけ楽しんで聴いているところに、無粋であると分かってはいるけれど。
 すると彼女は、目を閉じ、ゆっくりと揺れたままで、僕の質問に答えた。

「それはもう。私の専攻、ピアノだから」

「そうなんですか」

 道理で。
 詳しく、楽しそうなわけだ。
 清潔感のあるこの風貌なら、バイオリンやフルートでも似合いそうである。

 と、そんなことを思っている内に、二分足らずの曲は終わりを迎えた。