抱きしめられながら、また頭をあの水川の言葉がよぎる。
“…あいつには傷がある”
何で自分でもこんなに気になるのか分からないけど、やっぱり気になる。
傷って、てっきり精神的なものなのかと思ってたけど、実はただ単にどこか怪我してる…とか?
抱き寄せられた姿勢のまま宙ぶらりんになっていた右手をあげて、恐る恐る天王子の背中に触れた。
驚いたのか、ピクッと奴の体が反応する。
そのままペタペタと触ってみたけど、特に怪我をしてる様子は…
「っなんだよ」
痺れをきらしたように、天王子が私の右手首を拘束した。
「人の体ベタベタ触りやがって」
そして少し体を離し、不機嫌そうに私を見下ろす。
「ご、ごめん。ちょっと…触診を!」
「…はぁ?」
不可解そうに眉間に皺を寄せる天王子。
って私…なんか触診って…物凄く変態チックじゃない!?
「あ、あの違くて!これはその…」
「…ふーん」
何かいい言い訳はないかと頭をフル回転させる私を、天王子が覗き込んだ。
ニ、と形の良い口角が上がる。
「もしかして俺としたいの?お前」
「……はい?」
俺と…したい…したい!?!?
いくらそういう経験がない私でも、それがいかがわしい意味を指していることは簡単に想像がついた。
“ぶっちゃけ玲とはどこまでヤッたの?”
昼休みにも水川にそんなこと聞かれたし。
ったく…これだから…これだから男ってやつぁあ!!
「そんなわけないでしょ!?バッッカじゃないの!?」
つかまれていた右手首を振り払って思い切り距離を取る。
睨みつける私に
「そんな必死になって否定されると余計怪しーな」
ニヤニヤとムカつく笑みを向けてくる天王子。
「したいならしたいって正直に言えば?お前とならできるかもだし、俺」
「なっ…何言ってんの!?違うって言ってんじゃん!」
「無理すんなよ~?」
「無理してないから!ほんとバカじゃないの!?
そ、そういうことは好きな人とするものであって…!!」
はぁ?と天王子の顔がバカにしたように歪む。
「お前…ほんとバカだよな」
「はい!?」
「キスもそれ以上も、はじめて好きになった人に全部捧げたいって?
ほんとバッカじゃねーの」
冷たい瞳でそう言って、近づいてくる。
逃げる前にクイッと顎をつかまれた。
「好きとかそんなの全部幻想。笑わせんじゃねーよ」
いつもの偉そうでムカつく瞳ともまた違う。
感情の読み取れない温度のない目。
ぞくり、と背中が泡立った。
…なに…?なんか、いつもと違う。
「……天王子?」
私の声に、天王子の瞳が揺れた。
乱暴に私から手を離す。
チッ、と忌々しげな舌打ちが落とされた。
「ほんとうぜーわお前」
「な」
「そうやって一人で少女マンガごっこしてろよ。マジうぜー」
そしてうぜぇを連呼しながら、ガシガシと頭をかいて
「じゃ帰るわ」
そう宣言したかと思ったら、あっという間に部屋を出ていった。
…は?なに今の。
ポツンと部屋に一人取り残される私。
勝手に俺としたいのかとか言ってきて、否定したらあんな冷たい目をされて、挙句の果てには少女マンガごっこ?うぜぇ?
私何一つ間違ったこと言ってないと思うんだけど??
納得できない。
握りしめた手がプルプルと震える。
お前の方がよっぽどうざいんじゃー!!!!
それから天王子はウチに来なくなった。
悲しみに暮れているお母さん。
ある朝偶然ゴミ捨て場で会ったときには、「しばらく行けない」とだけ伝えられたらしい。
「喧嘩でもしたの?」と聞かれた。
「喧嘩したなら早く謝っちゃいなさい!天王子くんあんなにイケメンなんだから、あっという間に他の女の子に取られちゃうわよ!!!」と熱く語られたりもしたけど。
天王子が最後にウチに来た日のことを思い出してみる。
やっぱり何度思い出しても、―――うん。私まっったく悪くないわ。
むしろアレを喧嘩というのだろうか?
アイツが勝手に“好きとかそんなの全部幻想。笑わせんじゃねーよ”とか怒り出して。
うぜぇを連呼して。
帰っただけだ。
たったそれだけ。
別にあいつと私の間には何もない。
「キャ~~~ッ!!プリンス~~~ッ!!」
そんな甲高い歓声に教室の外に視線をうつすと、グラウンドで、体育のサッカーをしている天王子の姿が見えた。
やっぱり天王子は目立つ。
ボールをドリブルして一気に敵のゴール前まで駆け上がった天王子は、そのままシュッと鮮やかにシュートを決めた。
ギャアアアアアア~ッ!!と女子の悲鳴がグランド中に響き渡る。
プリンスは運動しているとは思えない涼し気な笑顔で、そんなまわりの女子たちに手を振っている。
とても唐揚げ一つで私と言い争う小さい男には見えない。
あんな上品な笑顔しちゃって。
本当は口が悪くてわがままで、人によって態度を変えるそんな最低最悪なやつなのに。
あんな顔して笑わないくせに。
「……さん?村田さん!?」
「っえ?」
は、と自分を呼ぶ声に気付いて顔を上げれば、教壇から数学の鬼、こと白倉先生(36歳独身男性)が鋭い視線を私に向けていた。
メガネをゆっくりと持ち上げる。嫌味っぽい口調は彼の最大の特徴だ。
「村田さん?そんなよそ見をしているなんて、ここの単元はずいぶん余裕があるみたいですね?この問5の証明問題を解いていただけますか?」
ちょっと待て。まず問5が教科書の何ページなのかという所から教えてくれないか。
――――
数学の鬼に目をつけられてしまった。ただでさえ数学は苦手だというのに。
これもそれも天王子のせいだ!
5時間目は体育の授業。
みのりと私は体育館シューズを持って体育館に向かう。
サッカーとバスケの選択授業で、私たちはバスケを選択したので体育館。
「なーんかイライラしてる?一花」
体育館の床に座ってシューズに履き替えていると、みのりが突然そんなことを言ってきた。
「え?何で?」
「べっつにー。なんとなくそう思っただけ。最近なんかあったのかなぁって」
最近何かあったのか、と言われれば、特に何もない。
強いて言うなら天王子がウチに夕飯を食べに来なくなったという事くらいだけど、どっちかというと、その状況が異常だっただけだし。
少し前の、天王子に弱味を握られる前の生活に戻っただけ。平和で穏やかで、無駄にイライラしないそんな毎日に。
そう。精神衛生的にはずっといいはず。
あいつに“ほんとうぜーわお前”とか、“一人で少女マンガごっこしてろ”とか、
そんな暴言を吐かれたくらいで根に持つような、そんな心の狭い女ではない。
自分の余裕を再確認し、
「ぜんっっぜんイライラなんてしてな…「ってか一花体育ノートは?」
答えようとしたのに、みのりに遮られた。
自分から聞いてきたくせに、と思いつつも気付いてしまった。
「あっ…教室に忘れた!!」
(説明しよう!体育ノートとは体育の授業の度に反省と感想を書かなければいけないとても面倒臭いノートである。ちなみに持ってくるのを忘れるとザビエルがめっちゃキレる)
「あーあ。ザビ怒るぞ~」
ご愁傷さま、と私に手を合わせるみのり。
慌てて時計を確認すると、授業開始まであと4分ある。急げば間に合う…かも!
「私ちょっと取り行ってくる!」
「えっちょ、間に合うの!?」
みのりの声に答える時間も惜しんで体育館を飛び出した。
数学の鬼に目をつけられたばっかりなのに、ザビエルにお説教とかほんと勘弁―――ってうわっ!
体育館から出て数段の階段の途中、突如足元に人が現れた!
間一髪のところで避ける。危うく顔面踏んづけるところだった。
は、と安堵の息を吐き出して、こんなところに寝転ぶ非常識な輩に文句を言おうと振り向くと。
「……天王子?」
その非常識な輩は、学校では優等生なはずのプリンスだった。
な、何でこんな時間に、こんな所で?
しかもどうやら眠っているらしい。
かすかに寝息が聞こえてくる。
恐る恐る近づく。
目を閉じると長い睫毛が一層目立つ。
薄く開けられた唇が、なんとも居心地の悪い無駄な色気を溢れさせていて。
スッと通った鼻筋に形のいい輪郭。
…ほんと、イケメンなんだよね。
性格とは裏腹に、こいつは嫌味なくらい、いや嫌味を言うのもバカらしくなるくらい、完璧な容姿をしておられる。
………なんかムカつく。
気付けばそこに座り込んで、じっと奴の寝顔を観察していると
「っうわ!」
グイ、と突然私の後頭部にまわった手。そのまま力強く引き寄せられて。
気付いたときにはパッチリ目のあいた天王子の顔がすぐ目の前にあった。
フン、と奴の口角があがる。
「寝込みでも襲う気?変態」
おおお襲う!?私が!?
「バッカじゃないのっ!?」
奴の手を振り払って立ち上がった。
「照れんなよ」
天王子が欠伸混じりにそう言って体を起こす。
「照れる!?誰が!?」
「うっせー、寝起きのとこに喚くんじゃねーよ」
天王子が心底鬱陶しそうにそう言って、怠そうに頭を掻いた。
「て、ていうか何でこんな所で寝てんの!?もう授業始まるよ?」
「あー?眠かったから」
「そういうことじゃなくて」
「最近寝てねぇんだよ、色々忙しくて。
暇人のお前と違ってな」
「悪かったね暇人で」
いちいち一言余計な奴だ。
「で、お前は?何してんの」
天王子がまだどこか眠そうな瞳を私に向ける。
「あ、私はこれから体育で。体育ノートを教室に取りに行こうかと…」
「もう授業始まるけど」
「え」
天王子がそう言うのと同時に、無情にも5時間目開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
うっ…嘘でしょぉ!?
最悪だ。天王子の寝顔観察に夢中になって本来の目的を忘れるなんて!
体育館を覗くと、幸いにもまだザビエルは来ていないようだ。
「急いで行っ…わっ!」
クルリと方向転換して走り出そうとしたら、グン、と後ろに手を引っ張られた。
振り向くと、いつの間に立ち上がったのか天王子が私の右手をつかんでいる。
「もうアウトだろ」
「でもっ…」
「お前これからちょっと付き合え」
「は?」
「どうせ遅刻だし。いいよな」
そして機嫌良さそうに口角をあげると、私の手をつかんだまま校舎に入り、グングン廊下を進み始める。